4-4
ブライアンが仕事中に脚に大怪我を負ったと聞いたのは、ぼくがちょうど仕事における人生の転機を迎えた頃のことだった。高校卒業後からずっとインテリアショップの店員として働いていたぼくは、ちょうどその頃にジェーンと出逢い、独立の話を持ちかけられたのだ。
彼の体のことを思うと心が陰ったけれど、それでもブライアンは元気でいるのだろうと思っていた。ぼくから見た幼なじみはどんな時でも人生上手くやってたからだ。
だからぼくがブライアンのお見舞いに行こうと考えたのは、彼のためというよりはむしろ、急な入院で負担がかかっているであろう彼の家族を手伝うためだった。もっといえば、自分が決断しなきゃいけいない色々な問題から、少しの間逃げたかったということもある。
高校卒業から五年が経ち、ぼく達はお互い二十四歳になっていた。
ブライアンは大学の法学部に進学してそのまま警官になり、ぼくは働きながら通った専門学校でインテリアデザイナーの資格を取得した。ブライアンがその間に何人かの男性と付き合ったという話も聞いたことがあったし、忙しくてほとんど先には進まなかったけれど、ぼくにも五年の間に二人のデート相手ができた。今の自分ならいたずらに自分の感情に振り回されずに、適切な距離で楽しく彼と接することができるだろう。
けれど、病室のドアを開けて当のブライアンを一目見た瞬間、ぼくは自分の間違いに気がついた。
ブライアンは完璧な超人なんかじゃない。
ベッドに横たわっていたのはぼくと同じ歳で手術が必要な大怪我を負い、今だ苦痛と不安の只中にある一人の若者だった。
ブライアンが、ぼくに目を向ける。
――久しぶりだな、ルーク。
胸が震えるほどに懐かしいのに初めて聞くような、この声を耳にした瞬間の衝撃を一体どう言葉を尽くせば表現できるだろう。
――一体、何をしにきたんだ? おれが元気な時には、メッセージの返信すらまともに返さなかったくせに。
その時、ぼくは思い知った。月を見上げるみたいに無責任に相手に憧れていられるうちは、恋愛なんて気楽なものだった。本当の恋愛の苦しみは、自分でもどうしようもない泥沼に、暴力的なまでに強く叩き落とされた瞬間からようやく始まる。
そしてぼくにとってはそれが、まさにこの瞬間だった。
自分で自分を見失うほどにブライアンに落ちていたあの頃のぼくが今の状況に立たされたなら、自分の全てを投げ出すようなばかな真似をしてしまっていたかもしれない。
やはり人は成長するものだ。ぼくは自分を押さえつけるブライアンを見上げ、理解あふれる微笑みを浮かべた。
「わかったよ、ブライアン。婚約者を連れてこないと遺産を相続させないって、ハンナから言われたんだろ?」
「なんだそれは」
わけがわからないと言いたげに、ブライアンが眉間にしわを刻む。
まあ考えてみればぼくの知る限り、ダーシー家やその親族に不幸があったという話は聞いたことがなかったから、遺産にまつわる偽装結婚というよくある話は却下だ。
「じゃあ、セスかハンナが連れてきた人との結婚を避けるために、急ごしらえの婚約者が必要になった?」
「お前……あの人たちが、息子の人生に口出すようなことをすると本気で思うか?」
「ということは、あれか。破天荒な行いが問題になって、世間に対してまともな自分をアピールするためにまじめで品行方正な恋人が必要になった!」
「誰が破天荒で、誰が品行方正だって? 説明してみろこのトラブルメーカー!」
「トラブルメーカーはお前だよ! デートもしてないのに結婚だって?」
「……少し焦りすぎただけだ。お前が逃げようとするから、ついうっかりな」
「ついうっかり百人と結婚することにならないよう気をつけろ、色男」
「別に、プロポーズが趣味というわけじゃない。お前が受け入れてくれるならおれの方はいつでもサインをする準備はできている」
男の言葉に、さすがのぼくも心底震え上がった。
「お前、まじでどうしちゃったんだよ……!」
「おれは昔からこんな風だったさ」
ここ二週間くらいの遠慮がちな態度をかなぐり捨てたらしい。ブライアンのやけくそ気味の笑顔に、けれど逆にぼくは少し冷静になった。
そういやこいつ、幼いときはやたら頑固でよく癇癪を起こして泣いてたっけ。
小学校高学年の頃にはそのがんこさも長所になり、分別よく振る舞っていたようだけど。
ぼくの右手は相変わらずブライアンの左手に押さえ込まれ、彼の強靭な体を支える右手はぼくの顔のすぐ隣に置かれていた。縦に長いから遠目にはすっきりしたシルエットだけれど、近くで見ると厚みのある体だ。ブライアンが重力に抵抗しているからこの体勢を保っていられているけれど、彼が重力に従ったらきっとその瞬間、ぼく達の間にある全ては一気に崩れ去ってしまうだろう。
ぼくは自分をじっと見つめる獰猛な目からなんとか目を逸らし、自分が考えていたよりもずっと大きな労力を使ってブライアンの胸を空いた左手で押し返した。
「……お前が本当にぼくとのこの先に興味があるって言うのなら、一旦、起きて話そうぜ」
「ルーク」
「……早くしろって。お前だってそろそろ腕も腰も辛いだろ」
「あと十時間は耐えられるが」
「それならソファの前で腕立て伏せでもやってろよ! この体勢だと冷静に話ができないんだってば。分かってるくせに!」
「さあな」
そう嘯くと、ブライアンはソファーを軋ませながら体を起こした。体をすくませたままじっとそれを見守っていたぼくは、彼が離れた瞬間自分の心臓がどれほど激しく暴れ回っていたのか思い知り、思わず強く目をつぶった。
「ほら、手を貸せ」
「なあ、お前ぼくが好きだっての、本気なのか」
「……さっきの体勢に戻りたいんだな?」
「いいから答えてくれ」
ブライアンがその長い手を伸ばし、寝転んだままそっぽ向いていたぼくの顎を掴んだ。自分を見るよう、その指先でぼくを促す。
「おれは、お前が好きだ」
嘘偽りのない言葉に、ぼくの胸に再び煮えたぎるような強烈な反発心が沸き上がる。ばね仕掛けの人形のようにソファから飛び起きて、ぼくはブライアンを至近距離から
「……ここ二週間で、ぼくに興味を持ったとでも言うつもりか?」
「いや。おれはもうずっと、お前のことが忘れられずにいた」
「じゃあ、三年前のあの言葉は、一体なんだったんだよ……!」
ブライアンが口を閉ざしたまま、ただ静かな目で受け止める。
「振ったつもりはないって言うけど、お前、ぼくのお前への気持ちが不快だって言ったじゃないか」
「言ったな。まさかおれのことが好きだなんて言わないだろうな。そんなことはありえない。気分が悪い――あの時おれは、確かにそう言った」
「なんだって?! お前、さすがにもうちょっと言葉を選べよな……! めちゃくちゃかわいそうじゃないか! ぼくが!」
「忘れていたくせに」
「ものすごく傷ついたことは覚えてたよ! いや、お前も大変な時期だって分かってたけどさ。お前にとってぼくは、男としての魅力はなかったかもしれないけれど、少なくとも友達ではあったよな?」
「お前は魅力的だったさ。腹が立つほどな」
その真意を疑いたくなるほど淡々と、ブライアンが言う。
「おれが大学を卒業してから二、三年会わない間に、お前は目が覚めるほど魅力的になっていたよ。おれが守らなければと思っていたお前はもういなかった」
続く言葉をたぐるように視線を彷徨わせ、続ける。
「……とにかく、あの時はお前の気遣いが死ぬほどありがたくて辛かったんだよ。お前なしでは明日のことすら考えられないほどに、おれはお前に依存していたからな」
思い出さないようにしていた病院での日々が、急速にぼくの胸に迫ってくる。ブライアンは苦しみも恐れも、自分の感情を何ひとつぼくに打ち明けようとはしなかった。そんなブライアンがぼくに、自分の正直な思いを語ろうとしている。
「……そういえば、ぼくと家族以外の人たちの面会を断ってたみたいだね」
「あの頃は、常に神経がむき出しの状態だったからな。家族にも面会を控えてもらったくらいだ。お前以外の面会はただ、耐え難くてな。遅れてきた反抗期だのなんだの散々言われたが、わがままを通させてもらった」
「そっか」
ため息混じりにそう呟いて、ぼくはブライアンから視線を外した。
彼が本心を打ち明けてくれたことで、ぼくの中で何かが変容し始めていた。
今この瞬間までぼくは、自分はブライアンにひどい言葉で振られたから傷ついたのだと思っていた。ずっとそう言い聞かせてきた。……でも、本当にそうだっただろうか。
湧き上がる問いに気を取られていたぼくは、続くブライアンの言葉に凍りついた。
「おれはあの頃とは違う。そのことをお前に証明したい」
やめてくれ――と言いかけて、ぼくはすんでのところで言葉を変えた。
「そんな必要はないよ、本当に。考えてみれば、お前が大変だった時期に人に気を配れっていうのは、我ながらずいぶんと自分勝手だ。できれば忘れてほしい」
「そんなふうに言わないでくれ。おれが――」
「分かった、じゃあさ、お互い水に流して忘れようぜ! あの頃はお互い若かったよな」
早口でまくし立てるぼくをじっと見つめていたブライアンが、ぼくの手を握りしめたままゆっくりとその青灰色の視線を外し、そのままソファに深くその広い背中を預けた。
「あのな、ルーク。お前がどれだけ前向きに振る舞おうと、おれはお前がおれから逃げ出したくなっているのは分かっているし、おれの言葉にまだ傷ついているのも分かっている」
……全く、いやなことを突きつけてくるものだ。これだから幼なじみってやつは。
「お前がおれの前から消えた後、しばらくは働かずに世界のいろいろな所を回ったんだ。世界中の美しいものを見るたびに、お前のことが思い出されたよ。おれはきっと、お前を手に入れるために行動を起こさなければ永遠に後悔し続けるだろうと観念した。だからお前が何と言おうと、おれはお前といるためならなんでもするつもりだ」
不覚にも心が揺れた。けれど、彼の言葉を嬉しく思う反面、どうしてだかぼくの心は重くかげっていくばかりだった。煩わしさとも罪悪感とも違う黒い霧のようなものがまとわりついて、ブライアンが言葉を重ねるごとに濃く重く濃縮されていく。
「……ぼくがほしいから、自分を証明したいっていうことであってるか?」
ブライアンが一瞬だけ言葉を詰まらせて、すぐに「そうだ」と頷いた。
「分かった。ぼくと付き合おう、ブライアン」
はっとこちらに顔を向けた男に向かって、ぼくは続ける。
「だからぼくに、今のお前を証明しようなんて考えはやめてほしい。ぼくはそんなこと望んでない」
それまでただ呆然とぼくの言葉を聞いていたブライアンが、最後に提示された条件にやや不満そうな顔をした。
「だがルーク。あの頃のおれは」
「あのさ、ブライアン。お前がぼくと付き合いたいのは、ぼくと一緒にいるのが嬉しいからじゃないのか? 罪悪感や執着でぼくを恋人にしたいだけか?」
「違う」
間髪入れずに否定したブライアンに、ぼくは畳み掛けた。
「だったら、お前はぼくに何も証明なんてする必要なんてない」
本当にぼくは、逃げることにかけては超一流だ。
ブライアンはしばらくの間、納得いかなさそうに唸っていたけれど、最終的にはため息混じりに頷いた。
「……わかったよ。お前がそう言うのなら」
「うん。――ありがと」
「いや」
微笑みまじりの優しい声でそう言って、ブライアンは再び視線を目の前の壁に戻した。キスのひとつでもするのかと思っていたぼくはちょっと拍子抜けして、ブライアンにならってソファの背もたれに体を預ける。
「なあ、ルーク。お前、あの青い鳥を最後まで仕上げなかっただろう」
「青い鳥って、さっき話に出た小学校の工作のこと? 確かに色を塗り終わったあたりで飽きてやめたけど……」
「お前が最後まで仕上げずに放り出して、家にも持って帰らなかったあの鳥が、あの後どうなったか知っているか?」
「……考えてもみなかったな。たぶん捨てられたんじゃないかな」
「鳥の課題の見本として使われているぞ、小学校で。おれの弟妹たちが言っていた」
「うそだろ!」
「美術のミスター・ゴトウが毎年生徒の前で絶賛しているんだと。まあ、鳥を立たせてた木の幹の接着については、『明らかに手を抜いている』とぶつぶつ言っていたらしいが」
「ぼくは小学生だったんだぞ。あの人、本当に手厳しいんだから!」
「とにかくあの鳥を――ミリアムは認めなかったが――評価していた人はいたんだ」
ブライアンの言葉に、ぼくはほんの少しの間黙り込んだ。
恋人同士の話としては、ちょっと色気に欠けるんじゃないかな。でもまあ、ぼくの心の琴線に触れたのは確かだ。
「……そっか。教えてくれてありがとな、ブライアン」
ようやくそう言って、ぼくはやや乱暴に自分のひたいを彼の胸に押し付けた。ごく自然な動きで、長い両腕が再びぼくを受け止める。
あの鳥を持って帰らなかったのは、母さんに認められなかったからじゃない。母さんに褒められることが、何よりも堪えがたかったからだ。もしぼくがあの鳥を持ち帰っていたら、きっと母さんは褒めてくれただろう。ぼくを叩いたことをきれいに忘れ去った、誇らしげな笑顔で。
この気持ちを言葉で説明しても、たぶんブライアンは理解できない。
ぼくにとって、あの時のことを覚えてくれている人がいたことは救いだった。それがほからなぬブライアンだったことが悲しかった。
……きっとこの恋は、またぼくの方が泥沼に囚われて終わる。
頭をよぎった後ろ向きな考えを振り払うように、ぼくはぐりぐりと額をブライアンの肩口にさらに押しつけた。その何がおかしかったのか、ブライアンが小さく笑い声を上げてぼくをさらに強く抱きしめる。それがなぜかぼくの不安をより一層かき立てて、ぼくは彼の腕の中で顔をこわばらせた。おそるおそるブライアンの背中に手を回して、そのまま彼の胴体を締め上げる。
ブライアンはぼくの抱擁にしっかりと応えた後で、ぼくの頬を両手で包み、ぼくにちょっと長めのキスをした。
その夜、ぼくはなかなか寝付けなかった。
広いベッドでひとり何度も寝返りを打ち、ただため息を量産する。
それでも、どうやら浅い眠りは訪れたようだった。白夜のように、完全には闇へと逆転しない薄明かりのまどろみ。その狭間で、ぼくは夢のかけらに頬を撫でられて、そのまますぐに現実の世界へと引き戻された。
実質三十分から一時間程度の睡眠か。明日――今日は昼寝の時間を作らなくちゃな、とぼんやり考えていたぼくは、その時あることに気がついてキングサイズのベッドで跳ね起きた。
「うそだろ……思い出せない」
ひとり呆然と呟いて、ぼくはベッドの真ん中に座り込んだまま、必死に頭をぐるぐるを動かし始める。
頭の中には、確かに保存されているはずだった。怯えた顔、怒った顔、思い詰めた顔、数少ない貴重な笑顔――彼のことを話すときはいつも、その姿が鮮やかに頭の片隅に再生されていた。
それなのに、どうしてだかぼくは今、アランの顔を全く思い出せなくなっていた。
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