4-3

「ルーク。あなた今日、ハンサムな元刑事さんと約束をしていたでしょう。もう到着してるわよ。あなたと連絡が取れないって心配してる」

 メーガンの言葉に、ぼくは掴んでいたコントローラーを取り落としてしまった。慌てて拾おうとしたけれど、頭がぐらりと揺れる感覚を覚えてその場でうずくまる。

「大丈夫? やっぱり体調は万全じゃないんじゃない?」

「……ごめん、自分で思ってたよりよくないかも」

 なんとかコントローラーを拾い上げて正直に答えると、いつもはきびきびしたメーガンがめずらしく柔らかさの混じった声で言った。

「彼にそう伝えて、今日は帰ってもらいましょうか?」

「ううん、もう来てくれているなら、上がってもらうよ。ぼくがすごく謝ってたって、伝えておいてくれる?」

「オーケイ」

 優しい声で短くそう言って、メーガンが通信を切った。黒くなったモニターに向かって、ぼくは深く息を吐き出す。そういえば、デバイス類は鞄に入れたままだったっけ。

 ブライアンに悪いことをしたと思いつつ確認しに行くのもなんだかおっくうで、ぼくは足を引きずるようにデスクに戻って荒れたノートや配線を片付けた。

 玄関の前のチャイムが、ブライアンの到着を告げた。疲れから来る倦怠感に顔をしかめながら、ぼくは幼なじみを迎え入れるべく玄関へと向かった。ドアを開くと同時に、見慣れた青灰色と目が合う。

 ぼくの頭に巻かれた包帯に目を止めたブライアンが顔色を変えた。

「お前、それは、一体……」

「ちょっと、仕事中に頭を打ったんだ。病院に行ったらちょっと大げさなことに――」

 なんとか安心させようとぼくが言葉を重ねるにつれて、ブライアンの顔がどんどん険しくなっていく。

 マリアにアランの家を見せてもらった直後、ぼくはうっかりバランスを崩しておも頭を打ってしまっていた。そのまま依頼の話をするわけにもいかず、ぼくは問答無用でマリアに病院に連れて行かれたのだった。

 ぐったりとドア枠に体をもたせかけるぼくに向かって手を伸ばし、ブライアンがいかにも心配そうな手つきでぼくに触れた。

 頬をそっと撫でる乾いて冷たい感触に、ぼくの体がびくりとすくむ。

「ルーク?」

「いやぁ、その……」

 慌てて視線を下にそらしながら、ぼくは声を上擦らせた。くそ、自分でもびっくりするほどメンタルがスポンジケーキだ。やっぱり今日はひとりで過ごすべきだったかもしれない。

「……ごめん、ちょっと思ってたより疲れてるみたい」

「ただ仕事で怪我をした、というだけではなさそうだな?」

「まあ、そうだね」

 仕事に行く途中に刑事の事情聴取に付き合わされて、アランの部屋を見ることになって頭を打ったよ。

「おれでよければ話を聞く」

「ん、ありがと。コーヒーにする?」

「いや、お前はソファに横になっていろ。何が飲みたい?」

 ぼくの事務所に上がり込みながら、ブライアンが抱えていたコットンリネンの袋を軽く抱え直した。

「すぐに食べられそうなものをいくつか買ってきた。腹は減っているか?」

「あー、そういえば最後に何か口にしたのって、昼前だったかも」

「そんなことじゃないかと思ったんだよ」

 ため息まじりにそうぼやいて、ブライアンが続ける。

「キッチンを借りるぞ。飲み物は何がいい。コーヒー以外ならリクエストを受け付ける」

「優しいなあ。頭を怪我したぼくの心配をしてくれているのかな」

「豆から挽くのが面倒なだけだ」

「ああそうかい。それじゃあ心配性の友人の優しさを汲み取って、カフェインは抜きにしておくよ。シナモン入りのルイボスティ、ティーバッグが左下の棚に入ってる」

「おれにも淹れられそうなチョイスで助かるよ」

 そう憎まれ口を叩いて、ブライアンがキッチンに消えた。すぐに、すでにぼくよりもうちの調理器具を使いこなしている幼なじみが、「すぐに食べられるもの」を作り始める音が聞こえて来る。ぼくの中では「すぐに食べられるもの」の定義はスナックや調理済みの料理のことなんだけど、ブライアンの中ではその定義が少しばかり違う。そんなことに気がついたのも、ここ数日のことだった。あいつのパートナーはそれを幸せに思うのか、それとも居心地悪く思うのか……。

 そんなことを考えながらソファに横になった瞬間、ぼくはいつの間にか眠っていたようだった。スパイスとハーブを含んだ蒸気の香りと慎重にぼくの髪に触れる指先が、ひどく優しくぼくを現実世界へと導く。

「大丈夫か。うなされていたようだが」

「……自分でも信じられないんだけどさ、この一瞬で夢を見てたみたい」

「愉快なものではなかったみたいだな」

「いや、ぼくが今ほしいものを全部手に入れた夢だったよ」

「そうか。じゃあお前がほしがっているものは、お前が本当に望むものではないんだろうさ。食えそうか? 野菜入りオムレツと、スープとアボカドのディップを準備した。トーストは焼けばまだある。飲み物はお望み通り、シナモン入りのルイボスティだ」

「ブライアン! ありがとう!」

 夢の中の寂寥感をすっかり吹き飛ばして、ぼくはご機嫌で起き上がった。反動でふらついたぼくの体を、ブライアンがすかさず支えてくれる。

「急に勢いよく動くな」

「ごめんごめん。あのさあ、今気づいたんだけど、お前いつもと香水が違うね」

 ブライアンの腕の中に収まって初めて気づいた違和感に、ぼくはついもの珍しさで男の首元に自分の鼻を寄せた。

「ぼくは好きだけど、いつものやつよりちょっと若者向けな気がする」

 改めて彼の服を見下ろしてみると、服装もいつもに比べてカジュアルな印象だった。いや、正確に言えば「カジュアルな印象」どころではない。ブライアンの「いつもの印象」の方をごっそり変えるために選んだような、ダークグレーのTシャツにダメージジーンズ。ぴったりでもだぼついてもいない適正なサイズのそれらの服は、ついまじまじと見てしまうくらい彼に似合ってはいたけれど、明らかにブライアンの趣味ではなかった。今日はこういう服の方が違和感を持たれない場所で、探偵のお仕事をしていたのかもしれない。

「まあいいや、これ食べてもいいんだよな」

 固まったまま動かないブライアンの腕からすり抜けて、ぼくはテーブルの前に並んだ皿の前に座り直した。香ばしいスープの香りと、ぼく好みの少し粗めにマッシュされたアボカドとクリームチーズのディップ――ぼくの頬がひとりでにゆるんでいく。

「ローズマリーのコンソメスープ! ぼくもこれが一番好きだな」

 我ながら弾んだ声に、ブライアンは答えなかった。不思議に思って彼を見上げてみると、青灰色の目を細めてじっとりとした目でぼくを見ている。

「えっと、もしかしてこのスープはぼく用じゃなかったとか?」

 恨みがましい目にあたふたするぼくに向かって「別に」と珍しく拗ねた様子でブライアンが答え、そのままぼくの隣に腰を下ろす。いつもよりずっと近い距離だ。なんなんだよ、もう。

「言っとくけどな、相棒マイト。不機嫌をアピールしても、ぼくは原因を察したりできないからな! いくら親しい間柄だって、友好な関係の維持には意識してコミュニケーションを取ろうとする、お互いのフダンの努力が大事なんだから」

「正しいな。食べ終わったら、ひとつディスカッションでも始めてみるか」

「人は自らの行動を自分の力で省みることも必要だよな。とりあえずぼくが何をやらかしたのかヒントくれる?」

 ブライアンがにやりと笑った。すぐに憮然とした顔でぶつぶつ言う。

「全く、お前のそういうところがだな――まあいい、とりあえず食べよう。そっちのスープはお前のだ」

「やったね。サンキューブライアン!」

 言いながらスプーンを手に取って、すぐにスープに手をつけた。牛スネ肉のコンソメとコショウが舌を心地よく刺激して、爽やかなローズマリーの香りが鼻から抜けていく。高級な天ぷら定食をいただいたはずなのに、ぼくは今日初めてごちそうを口にした気分だった。

「……おいしい」

 しみじみと口にしたぼくの心からの感想に、ブライアンがため息をつく。

「まあ、お前が調子を取り戻したようで良かったよ」

「ブライアンのおかげだ。今日は来てくれて、まじでありがとな」

「いや。お前が三年前におれにしてくれたことに比べたら、こんなのはなんでもない」

「はは、いや、そんな……」

 反射的に笑って応え、ぼくはそのまま絶句してしまった。いきなり自分の脆弱な部分に踏み込まれた気がした。再開してからここまで、お互いにこの繊細な話題を細心の注意を払って避けてきたと言うのに。

 自分の顔がどうしようもなくこわばっているのが分かった。さっさとこの話題を流してしまおうと口を開きかけたぼくに被せるように、ブライアン続ける

「おれが人生で一番自分に絶望していたときに、手を差し伸べてくれてありがとう。ずっと礼が言いたいと思っていた」

「ぼくはぼくにできることしかしていないし、それは誰にでもできることばかりだっただろ」

「……あの時お前がおれにくれたものが、どれほどおれにとって意味のあるものだったか、きっとお前にはわからない」

「なんだよそれ。もしかしてばかにしてるのか?」

 ぼくの神経質で刺々しい物言いに、ブライアンはただ肩をすくめて組んでいた脚を解いた。

「そうけんか腰になるな。オムレツでも食べろ」

 そう言って、テーブルの奥にあったオムレツをぼくの方へと引き寄せる。うやうやしく献上された黄金色のオムレツを前に、ぼくはとりあえず気を取り直した。眉間にわざとシワをよせたまま、オムレツを口にする。

「おいしいっ」

「お褒めに預かり光栄だ、ご主人様マイロード

 つい口元が緩みそうになって、ぼくは慌てて顔をしかめた。

 ブライアンの「軽食」を二人で食べ終え、今日はとことんぼくを甘やかすつもりらしい彼が、二人分の食器をすべてひとりで片付けた。新しく淹れ直してくれたカモミールティをぼくに手渡し、ソファに腰掛ける。

「それで、おれに悩みを話すつもりはあるか」

 幼なじみの言葉に、ぼくはお茶を口にしながら少し考え込んだ。今日あった出来事のほとんどはまだひどくとっちらかっていて、まともに相談できる気がしなかった。

 ただ、今日考え込んでいた話題の中でひとつだけ、幼い頃のぼくを知る彼に話してみたいものがあった。

「……今日ちょっと色々あって、それでぼくも色々思い出したり、色々考えたりしていたんだけど」

「なるほど。具体的で分かりやすい親切な説明をありがとう」

 ブライアンのいやみを無視して続ける。

「自分の昔の部屋と、そっくりな部屋を見る機会があってさ。それで、自分が家を出る前の生活を少し思い出していたんだ。ぼくの家はもしかして、自分で思っていたよりも特殊だったのかなって」

 ぼくの言葉に、ブライアンがそのブルーアイズを翳らせた。ひどく暗い顔をして、ためらいがちに口を開く。

「……おれ達が小学生の時、鳥の木彫りの課題が出ただろう」

「出たね。あの頃は青が好きだったから、図鑑から青い鳥を選んだ」

「その下絵をお前の家で二人で描いてた時、ミリアム――お前の母親が、いきなりお前を殴ったのを覚えているか?」

 幼ななじみの思わぬ言葉に、ぼくは息を飲んだ。

「お前……それ、覚えてたのか」

「なぜ忘れていると思った? 今でもよく覚えているよ。おれが、ルークはもう下絵を描き上げていると言っても、彼女は聞いてくれなかった」

 彼のあまりに詳細な記憶に、ぼくはショックを受けていた。ぼくはもちろん、その時のことをよく覚えていた。けれど自分以外の人間が、ぼくが人から殴られる姿を覚えているとは思ってもみなかった。

 ブライアンが続ける。

「お前の下絵はいい出来だったんだ。精密で立体的な図を五、六枚、あっという間に仕上げていて――おれの方はお前の出来の良さがただ悔しくて、むきになって細かく描き込みを重ねていただけだったのに」

「お前の、傷になっていたんだな?」

 我ながら暗澹とした声だった。初めて、母さんのしたことが――たとえ彼女自身にとってもどうしようもなかったのだとしても――ひどいことだったのだと確信した。ブライアンはまだ十歳だったんだ。理不尽な暴力を見せられていい歳じゃない。ぼく達に巻き込まれて傷を負う必要なんてなかったのに。

 ぼくが怒りで呼吸を忘れかけている間に、ブライアンが続ける。

「あの瞬間、お前はあきらめたように自分の体を差し出したように見えた。慣れているのだろうと――」

「ストップ、ブライアン。もういい。いいか、お前が見たものは、子供が目にしていいようなものじゃない。ぼくはこうして幸せに生きているし、育ててくれた母さんに感謝もしてる。だからもう大丈夫だよ」

 笑顔でそう言って、ぼくは堪えきれずに目を閉じた。

「――小さいお前を傷つけてごめんな、ブライアン」

 ぼくの頭上で、ブライアンが深くため息をつく気配がした。続いて、うなだれるぼくを優しく包み込む長い腕の感触。

「……お前のそう言うところは相変わらずだ。あの時も、お前はおれに謝ってたよな。幼い頃は、お前のそう言うところが大嫌いだったよ。人間関係に周辺を作らないお前が、自分のこととなるとおれを締め出すんだ。いつか、お前を守れるくらい強くなってやると思っていたものだが」

 ブライアンがぼくをその長い腕から解放した。そして、上から押さえつけるようにぼくの右手に自分の左手を重ねる。

 冷たく乾いた手のひら。ぼくの身体が反射的に後ろにのけぞった。

 ぼくがのけぞった分だけ体を乗り出しながら、ブライアンが続けた。

「おれは、闇雲に自分の思い描く『強さ』を追い求めるのではなく、ただお前に好きだと伝えて、お前の人生に関わらせてほしいと請えばよかったんだ」

「何を言って――」

 言いかけた言葉は、遠慮なくぼくの目に深く押し入ってくる一対のブルーグレイに飲み込まれた。少年の頃の面影は残っているのに少年らしさはきれいに払拭された、いかにも涼しげな顔立ち。肌のみずみずしさは失われつつあるというのに、だからこそ一層魅力的な風貌。

 なんだか無性に腹が立って、ぼくは自分の全てを暴き立てようとするような彼の視線を、無理やり断ち切った。

「ぼくだって、お前のことは大切に思ってるよ。だいたい、ぼくが今さら許可なんてしなくったって、お前は十分にぼくの人生の一部だよ。幼なじみなんだから」

 ぼくの返答に、ブライアンが低く唸り声を上げる。

「……おまえは」

 一音ずつ言葉を区切りながらブライアンが両手をぼくの頬へと伸ばし、ぐいっと摘みあげた。

「なにひゅるんだよ!」

「おれがここまで言っても、お前はまだ逃げるのか……! 今までだって、よくもまあ散々逃げ回ってくれたな。おれが気持ちを伝えたがっていることに気がついていたくせに!」

「ふるさい、三年前にぼふを振ったのはお前じゃないか!」

 ブライアンがやや怯んだようにぼくの頬から手を離した。

「……お前のことを振ったつもりはない。お前のことを、傷つけたとは思うが」

「振ったつもりはないって……お前自分が言ったセリフ覚えてるか?」

「覚えているよ。自分の言った、一言一句全てな」

 うっそ。言っとくけど、ぼくはもちろん覚えてない。

「とにかく、おれはお前のことが好きだ、お前も知っての通りな。お前もまだ、おれのことを好きだと言ってくれるのなら――」

 じりじりとぼくとの距離を詰めてくるブライアンに、ぼくの心臓はパニックを起こしたように荒れ狂っていた。目の前の男とキスやそれ以上のことをする可能性を突然突きつけられて、触れられているわけでもないのに肌がざわめく。

 やめろ、やっとぼくは自分のことが好きだと思えるようになったんだ。ぼくはもう、こいつの一挙一動に振り回されていた頃の自分に戻りたくなんてない。今さら、恋人になろうだなんて!

 心の中で悲鳴をあげるぼくに向かって、ブライアンが続けた。

「――大人しく、おれと結婚してくれ」

「そんなこといきなり言――」

 言いかけた言葉を、ぼくはごくりと飲み込んだ。自分が直前に耳にした言葉が脳に届き、脳がその意味を理解する。その次の瞬間、脳が「処理不能」のエラーメッセージを表示させた。

「――へ?」

 おそろしく気まずい沈黙が二人の間に訪れた。――絶対に違う言葉を選ぶべきだとわかっていたけれどどうしても我慢できなくて、ぼくは『プロポーズをされた時に絶対に口にしてはいけないセリフ十選』の五位くらいにはランクインしていそうな言葉をぽろりとこぼす。

「……なんだって?」

 それまでぼく以上の間抜け面を晒していたブライアンが顔をしかめた。崩れかけた黒髪がいく筋か、少し日焼けした白い肌に落ちる。苦悩するブライアンの姿は控えめに言って、非常にセクシーではあった。

 男の口から苦し気な声が漏れる。

「一体、おれは何を言っているんだ?」

「いや、お前……さすがにそれはぼくのセリフだと思わないか」

 至極まっとうなぼくの言葉に、ぼくに覆い被さったままブライアンが黙り込んだ。

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