5章 約束

5-2

 夕方に寄ると言っていたブライアンが再びうちに顔を出したのは、ぼくが食べそびれていたランチを摂った後、しばらく経った頃のことだった。

「……戻るのは夕方って言っていなかったっけ。まだ三時過ぎだけど」

「一報入れるべきだったな。想定よりも早く引き継ぎが終わった」

「それはいいけど。ぼくまだ仕事が残ってるぞ」

「そうだろうな……お前が終わるまでテーブルを借りていいか」

「どーぞ」

 そう言って男を家に招き入れる。行儀よく手洗いを済ませたブライアンが、やつのためにお茶を淹れようとしたぼくをキッチンから追い出した。

「おれが淹れるから、お前は早いところ仕事を片付けろ」

「ぼくも飲むんだってば!」

「リクエストは?」

「じゃあ、健康に良さそうなやつ。――ええと、じゃあターメリックのお茶にしてくれる? リコリスとかカルダモンが入っている、黄色いパッケージの」

 お茶への造詣がそれほど深くない幼なじみのために具体的な要望を伝えると、ぴたりと動きを止めていた彼が何事もなかったかのようにその動きを再開した。その様子を確認して、ぼくは目を離したすきに居眠りしているデスクトップを叩き起こす。

 茶葉とティーセットの準備を終えた男が、ぼくのデスクの側を通り過ぎながら口を開いた。

「ところで、その仕事とやらはどのくらい時間がかかりそうなんだ?」

「やろうと思えば、何時間でも仕事を増やすことはできるね」

「明日以降のお前が困らない程度で頼む」

「四時間くらいかな」

 そう答えて、ぼくはデスクトップ越しにちらりとソファの様子を覗いた。生真面目な熊が、さっそく巣作りを開始したようだ。四人用のガラステーブルに、書類やラップタップをテキパキと配置している。

 キッチンの電子ケトルが水の沸騰を高らかに告げ、ブライアンが立ち上がった。その真剣な表情に、ぼくは目を覚ましたばかりのスクリーン上で意味もなくポインターをうろうろさせる。

「……ブライアン、お前の話にはどのくらい時間が必要?」

「三十分くらいだな」

「わかった。先にお前の話を聞くことにするよ」

 元刑事の探偵が、もの問いたげ――というより探るような視線でぼくを見た。どうやらすっかりお仕事モードにバーは振り切れているらしく、朝の甘ったるい挨拶の余韻は完全に霧散してしまっている。

 まあ、その方がぼくだって自分のペースを守りやすいというものさ。椅子の背もたれに体を押し付けて、探偵に向かってひらひらと手を振る。

「自分のことだから、もう少しきちんと主体性を持たなきゃと思ってね」

「いい心掛けだな」

 言葉の割にどこか腑に落ちなさそうな男の目から、ぼくは意識して目を逸らせた。

「まあ、仕事に集中するために早く話を終わらせてたいってのも本音」

 そう誤魔化して、ぼくは仕事用のデスクから立ち上がった。キッチンでブライアンからカップを受け取って、そのまま揃ってソファと斜め向かいのイスに座る。探偵とクライエントの正しい距離だ。

 ブライアンが、自分のデバイスから何やら情報を引き出しながら口を開いた。

「十一日の夜に、お前と時間を過ごした男のことについてだが」

「ああ、大柄で筋肉質っていう例のやつな」

「お前が挙げた、特徴に当てはまりそうなお前の知り合いに会ってきた。五人とも別人だな」

「もう調べがついたんだ……!」

「不要かとは思ったが各人の調査記録と、裏を取った当日の動きをまとめたものを送る」

 ブライアンがそう言った瞬間、ぼくの背後で情報を受け取ったデスクトップが澄んだ電子音を奏でた。

「朝の大学生二人は、特徴から外れていたな。一応調べておくか?」

「いや、いいよ。二人とも当時は顔見知りですらなかったし」

「まあそれが賢明だろうな」

「じゃあもう、調査は暗礁に乗り上げているってことかな」

「まさか」

 平然とした顔で、ブライアンが肩をすくめた。

「店頭に設置されてあったカメラのデータをもらった。帽子のつばが影になっているが顔の輪郭と体つきは確認できるから、この画像でも調査を進めるつもりだ」

「へえ、そういうデータってもらえるものなんだ」

「始めは断られたよ。だが、ドリンクスパイキングの可能性があると伝えたら、快くな」

 そう言って探偵が不穏な笑顔を閃かせた。ぼくは心の中で、お店の担当者にお詫びと祝福の言葉を唱えた。ブライアンが続ける。

「今日の目的はお前にその画像を確認してもらうことなんだが――念のために聞くが、大丈夫か?」

「ああ、うん。もちろんいいよ」

 気軽に返事をして、そして一拍置いてからぼくはブライアンの質問の意味に気がついた。なるほど。元刑事はこういったことにも気が回るものなのか。

「……ありがとう、ブライアン。でも正直なところ、実態のない悪意の方が、ぼくにとっては恐ろしい」

「わかった」

 短くそう言って、ブライアンがデバイスに画像を表示させる。想像していたよりも鮮明な画像だった。顔のパーツは確認することはできないけれど、彼の言う通り顔のラインと体つきははっきりと見てとれた。元刑事が心配するわけだ。たったそれだけの情報でも、自分の中のあの夜の出来事が急速に焦点を結び始めるのがわかる。

 さらに注意深くその人物を観察する。

 初めに聞いていた通り、髪の毛はダークブラウンよりかは明るい色のようだった。それに、本当に筋肉質で体格がいい。自分の魅力をよく理解しているのか、体のラインが出る伸縮性のあるシャツと、サイズがぴったりなジーンズを身につけている。五秒にも満たない動画だけれど、その堂々とした立ち振る舞いからは人目に晒されることに慣れていそうなやつだという印象を受けた。

 時計は、たぶんけっこういいところのブランドもの。胸元に光ったのはドッグタグだ。そういえばぼくも、もっと若い頃には少し憧れたっけ。あまりにも似合わなくて、そのうち身につけるのをやめたのだった。

 自分の記憶とその画像を詳細に照らし合わせ、ぼくは首を横に振る。

「……知り合いにはいないな。初めて見るやつだと思う」

「ありがとう。この人物について、もし何か心当たりを思いつくようなら教えてくれ」

「イエス・サー」

「おれからは以上だ。何かおれに聞きたいことはあるか?」

「お前って、おはようのグッドモーニングキスよりもいってらっしゃいのグッドバイキス派なのか?」

「いや。おかえりのウェルカムキスもおやすみのグッドナイトキスも歓迎する」

 ぼくの無茶苦茶な話の転換にしれっと答え、男がデバイスをテーブルに放り出した。

「まあ、朝のあれは大人げなかったと反省しているよ。我ながら少々浮かれすぎていたな」

「浮かれるって、お前が?」

「そうだ。まだ分かっていなかったのか?」

 にこりと口角を上げて、ブライアンが腰を浮かせた。その意味に気がついてぼくも彼の目をじっと見つめ返す。

 互いに目を瞑らないまま距離が近づき、そのままぼく達は三度目のキスをした。

 昨日のキスは、なんだか現実感がなくてよく思い出せなかった。朝の二回目のキスは、驚きすぎて味わうどころではなかった。

 だからぼくは今初めて、ただ体の一部が接触しているというだけのこの行為に、自分の中からあらゆる感情が生まれてくるのを感じていた。

 ブライアンと彼の香水の香りが彼の肌から立ち上ってくる。触れているのは唇だけのはずなのに、うなじの産毛をそっと撫でられているような感覚が波のように繰り返しぼくに襲いかかった。ブライアンの唇は少し乾燥していて、想像していた通り温かくて、そして想像していたよりずっと優しかった。

 お互いから目を逸らせないまま、ぼく達はゆっくりと唇を離した。

「……仕事が残っているんだったな」

「うん」

 うわずった声で答えて、ぼくはのろのろとカップを持ち上げた。心地よさに関するあらゆる脳内物質が縦横無尽に放出され、頭蓋骨の中で暴れ回っていた。ふわふわとした足取りでデスクに戻りかけていたぼくは、夢見心地のままふとブライアンを振り返る。

「あのさ。ぼく達、小さい頃からなんでもかんでも一緒にやってきただろ」

「ああ。サマースクールにも一緒に参加したな」

「それなのに今まで、キスをしたことなかったなんて不思議な気分なんだ。お前とはずっと一緒にいたのに、キスでこんなに幸せになれるなんて知らなかった」

 ブライアンの手から、デバイスと書類が音を立ててこぼれ落ちた。

「つまり、だからぼくも、悔しいけどお前のことちゃんと特別だって思ってるから! ――それをちゃんと伝えておかないと、フェアじゃないと思っただけ」

「……嬉しいよダーリン」

 柔らかな声に顔を上げると、ブライアンが片手で額を抑えたまま目を瞑っている。

「とりあえずお前をソファに引き戻してもいいか?」

「それはまだちょっと、ぼく達には早いと思う!」

 慌てるぼくに、ブライアンはただ楽しげな笑い声を上げた。

 浮ついた気分のままデスクに戻ったぼくは、ディスプレイに表示された二つの通知を見て思わず眉をひそめた。

 一通はブライアンが話しながら送ってくれた報告書だろう。もう一通の見慣れないアドレスからのメッセージには、『クロエ・マイヤーです』というタイトルがつけられていた。


ルーカス・ポッターさん


こんにちは、クロエです。今日は、不躾なお願いがあってこのメッセージを送っています。

手紙のことをヴィクトールから聞きました。その手紙を、わたしにも見せてもらうことはできないでしょうか? 確認してみたいことがあります。

お返事をお待ちしています。


敬意を込めて

クロエ・マイヤー

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