3-3

 ぼくの口がひとりでにOの字を描き、それに呼応するように遠くの方から若々しい笑い声が聞こえてきた。窓の外の光景と、今し方聞いた言葉との落差にぼくはくらくらしてしまう。

 大きく口を開いたまま、ぼくはお腹の底から何とか声を絞り出した。

「――なんだって?!」

 喘ぐようなぼくの言葉に、前を歩くカシムとクロエが何事かと振り返る。「なんでもない」と笑顔で首を横に振り、ぼくは視線を傍らの青年に戻した。

「え、今、命が狙われてるって言った? ぼくが孤高の暗殺者にでも見えるのか⁈」

 小声で叫ぶぼくに向かって、青年が肩をすくめた。

「はあ。とにかく、ぼくはこういったことには不慣れなので、的外れだったら謝りますが」

 そう前置きし、ヴィクトールが平然と目を細める。

「あなたは、あなたのことをアランの恋人だと思い込んでいた人間を探しているでしょう。なぜか? 何かがあなたの身に起こったんだ。まあ、おそらく愉快とは言いがたいできごとで、そしてあなたはそれをアランと関連があると――」

「待った待った待った、分かりにくい」

 ぼくの言葉にやや気を悪くした様子で口を閉ざし、ヴィクトールは自らの言葉を言い直した。

「何か嫌な目にあって、その犯人がアランの関係者だと思っている」

 頭の中でようやく、殺意に満ちた差出人不明の手紙と青年の質問が結びついた。

「命ってのはおおげさだけど……君、意外と鋭いね」

「慣れないなりに、考えを巡らせてみただけですがね。――そもそも、こういったことはクロエの得意分野なんだ。あいつだって、すぐに気がつきますよ。あなたの尋問はまるでなっちゃいない。ぼく達から得る情報より、ぼく達に与える情報の方が多すぎる」

「はいはい、ごめんね」

 不思議と怒る気になれず、ぼくはただわざとらしく口を曲げた。

 そのまま、すぐにまたぼく達の間に沈黙が訪れた。もう十数歩も歩けばエレベーターへと到着する距離になって、ヴィクトールが戸惑ったような声を上げる。

「あのさ、なんで何も話さないんです?」

「話すって、何を?」

「だから、あなたに起こった不愉快な出来事についてさ」

 本日何度目かの思いがけない青年の言葉に、ぼくはまたしてもめんくらう。

「意外だな。聞きたいの?」

「別に。正直あまり興味はありませんがね」ヴィクトールが間髪入れずに答える。「ただ、ここはあれだろう? ぼくの的確な指摘に感激したあなたが、ぺらぺらと自分の身に起こった出来事について情報を垂れ流す場面のはずだ」

「……君は推理小説ミステリの読み過ぎじゃないかな」

「そんなことはないけれど、強いて言うならひいきはポワロです」

「あっそ……」

「それで。とりあえず何があったか吐きませんか」

 彼の提案に、ぼくは少し考え込んだ。ぼくにとってはまあまあショッキングだったあの出来事を、軽々しく人に話すことがはばかられた。頭を悩ませているうちに、ぼく達四人は短い旅路を終えてエレベーターまでたどり着いた。あらゆる悩みのほとんどは、時が解決するとはよく言ったものだ。

「残念だけど、ヴィクトール。時間切れみたいだね。話の続きは、またいつか」

 いかにも残念そうに眉を下げたぼくを、目をまんまるにしたクロエが振り返る。

「驚いた。ヴィック相手の時間を楽しんでくれているんですね。……なかなかありえない事態だわ。やはり階段で降りましょうか」

「ありがとう。今の話をもう少し続けたいと思っていたんだ」

 朗らかに笑うカシムに、クロエもまた上機嫌に頷く。

「問題ないわ」

 そして二人は、ぼくが口を開く前に、とっととおしゃべりに戻ってしまった。

 ヴィクトールが、わざとらしく眉を上げてぼくを見る。

「まあ、なんと言うか、手紙をもらったんだ」

「ふむ、手紙。あなた、メールアドレスも電話番号もウェブ上で公開していましたもんね」

「あ、違う違う。手紙は文字通り、手紙なんだ。便箋で郵便受けに届けられた」

「はあ?!」

 ヴィクトールが仰天したような声を上げた。彼がこんなふうに声を張り上げるのを初めて見た。クロエにとっても珍しかったようで、戸惑った様子でちらりとこちらを振り返る。一緒に振り返ったカシムが、なぜだかぼくに視線を向けてにっこりと優しく笑った。わけがわからないままへらりと笑い返したぼくの隣で、ヴィクトールがぶつぶつ言う。

「相手は原始人か……?」

「君ね……」

「それほどのムダな労力をかけて、そいつは一体あなたに何を伝えてきたんです」

「内容といえるようなものはなかったけどね。ただまあ、ぼくのことが憎たらしくて仕方がないんだろう」

「届いたのはいつですか?」

「ちょうど君たちが来た、次の日の朝には投函されてた。差出人は不明だ」

「ぼくの記憶が正しければ、投函する手紙には消印スタンプで日付が記されている?」

「直接投函だったから、消印はなかったんだ」

「宛名は」

「ぼくの名前が書いてあったけど……」

「その、書かれた名前のアルファベットは正しかったんですかね」

 彼の質問に、ぼくは虚を突かれて口をつぐんだ。そういえばあの淡い水色の封筒には乱雑な字で、LUKE POTTERと書かれていたっけ。

「字は汚かったけど、正しい綴りだった。ただ、手紙には『ルーカス』と書かれることが多いから、『ルーク』と書かれているのを見て違和感はあったな」

 ぼくの言葉にヴィクトールが考え込むように緑色の視線を泳がせた。

「投函した人を、受付の人は見ていなかったんですか」

「ああ、手紙の投函は建物の外からできる構造になっているんだ」

 ヴィクトールはふむ、と興味深げに頷いた。

「なるほど、ぼくか?」

「なにが」

「手紙の差出人の第一候補者」

「はあ?!」

 青年の言葉に、今度はぼく仰天して声を上げた。

「問題は、それが事実ではないということだ」

「……なるほど、興味深いね」

「まあ、タイミングといいあなたの本名を知らなかったことといい、ぼくは候補に入れておいていいと思いますよ」

 さすがのぼくでも、そんな時間と労力をむだにすることはしない。

「こんなこと言いたくないけどさ。一緒に来た他の三人は候補にならないのかい」

「あの三人は、あなたの住所を調べた時に名前を見ていたはずですから」

「ふうん」

「それにしても、殺意ある手紙か……。そうなると、あなたがアランが自殺ではなかったと考えるのも、あながち妄想だというわけでもなさそうですね」

 青年の言葉に、ぼくは危うく階段を踏み外しそうになる。

「……ぼくは、彼が自殺でない可能性があると君に言ったかな?」

「いや。でもクロエが、あなたは他殺だと思っていたようだと言っていたから」

「まじか……」

「それを聞いて、セオリー通りならあなたが犯人だと思ったんですが。クロエがそれはないだろうというから、そうなんでしょう」

「まいったな……。彼女は本当に人を見る目が鋭いんだ」

「その特技も考えものですよ。彼女は人目を気にしすぎる」

 ぼくは少しの間、その言葉を吟味した。そして青年に合図を送り、歩くスピードを緩める。

「なんです?」

「いや、あのさ。それって彼女の服装や髪型の話と関係あったりする?」

 ぼくの言葉に眉を上げたヴィクトールが、前の二人との距離をとってぼくの隣に並んだ。

「まあね。あれは、外見で見くびられないようにだと。それと男よけ」

「見くびられない効果はともかく、男よけの方は逆効果じゃないかな」

「それ、本人にも言ってくれませんかね」

「あ、やっぱり裏目に出てるか」

 小声でぼそぼそとやりとりしながら、ぼくは初めてクロエに会った時のことを思い出した。全身真っ黒の、いかにも人を拒絶していると言いたげな雰囲気が、笑顔と共に鮮やかに一変する。ぼくの恋愛対象は男だけれど、あの瞬間、ぼくは心が浮き立つような気持ちになったのだった。

「まあ、本人も失敗だったかもしれないと気付き始めてはいるようですよ」

「彼女に対する周りの人の態度って、そんなにひどい?」

「ぼくからすれば、たいしたことない。始めはクロエにのぼせていた人間も、話さえすればすぐに、有望な学生として彼女に接するようになる」

「それはすごい」

「ただ一部の大学関係者がね。あんな有象無象に気を取られて研究に集中できないなんて、自分自身の才能に対する冒涜だ」

「……そっかあ」

 そう呟いて、ぼくは耳の後ろの髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。

「まあ、ぼくにもひどい理由で作品が評価されなかった経験があるから、なんとなく彼女の気持ちは想像ができるよ」

 ぼくの言葉に、ヴィクトールが目を細める。ぼくの言葉を否定したがっているような、いかにも強情そうな目だ。

「ただ、君は友人なんだから、今の言葉は言ってあげたら?」

「ぼくの言うことなんて、聞くもんか」つんと口を尖らせてそっぽ向いた赤髪の青年が、すぐにふてくされた様子でぶつぶつと続ける。「……今までだって何度も、ぼくは言ったんだ。けれどクロエは、いつだってぼくの言葉よりも有象無象の言葉に耳を傾ける」

「今なら聞いてくれるさ」

「なんで」

「――アランだって、突然死んでしまっただろう」

 ぼくを刺し貫く緑色の視線が初めて揺れた。あと一歩で憎しみに転化しそうな、ひりつくほどの激しい悲しみが目の奥で見え隠れする。

「これは、ぼくのばあちゃんがよく言っていたんだけど。ぼく達の人生は意味のないことに意識を囚われて生きるには、あまりにも短すぎるんだ」

 途端に湧き上がった居心地の悪さに、ぼくは視線をうつむけた。頭の中で、以前カシムに言われた言葉が鳴り響いていた。

『誰かに何かをアドバイスする時、そのアドバイスを一番必要としているのは、自分自身なんですよ』

 ああ、全く。これからぼくは誰かに助言の一つでもするたびに、この言葉に左頬を殴り返されることになるのだろう。

 話に夢中になっているうちに、ぼく達はいつの間にか建物の外へ出て、明るい日差しに照らされた小道を歩いていた。鮮やかな緑色の芝生の上で、アランもロボットについての本でも読んでいたのだろうか。そのそばにはきっと、彼の友人たちが張り付いていたのだろう。今ならその光景を、ありありと想像することができるのに。

 物思いに沈んでいたぼくに向かって、どうやら普段の調子を取り戻したヴィクトールが口を開いた。

「全く、人のアドバイスをありがたがるなんて、ぼくの信条に反するんですがね」

 少しもありがたがって見えない、うんざりした様子で青年がため息をつく。

「仕方がないから、ぼくもあなたに少しだけ協力しますよ」

「……ええと、そのお気持ちだけで十分さ」

 ぼくを無視して、ヴィクトールがえらそうに続ける。

「あなたの存在を疎ましく思う人間が近くにいたら、様子を探ることにします」

 思いもよらない青年の提案に、ぼくは慌てた。

「ありがとう、でも本当に気持ちだけでいいよ。そもそも、アランと親しい人が犯人だと決まったわけでもないし」

 仕事で恨みを買ったのかもしれない――と言いかけたぼくの言葉を遮るように、ヴィクトールが「は?」と馬鹿にしたように鼻を鳴らした。だんだんぼくに対する遠慮がなくなってきたな。これはいい傾向なのだと、ぼくは自分に言い聞かせる。

「アランと親しい人? あなたは何を言っているんだ。あなたに嫌がらせを仕掛けた犯人はアランと親しくない人間ですよ。少なくとも表面上はね。これは明白だ」

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