3-2

 物理学性が準備してくれていたのは、研究棟の一角にある会議室だった。白い壁、移動も容易な折りたたみ式の長机、至る所に備え付けられたコンセント。燦々と太陽が照りつけるこの国にあってどこか薄暗さを感じさせる空間だったけれど、ホワイトボードの端に残る複雑そうな数式が無個性な空間にいろどりを添えている。

 数式モチーフもおもしろそう――と突っ立っていたぼくの二の腕を、カシムがとんとんと叩いた。

「どうしたんですか、ルーク。ぼうっとして」

 彼の親しげで圧力の強い視線に、ぼくは慌ててカシムがエレベーターの中で指示した席へと移動した。椅子を引き、ぼく達二人はそろってぎこちなく腰を下ろす。

 物理学生たちもまた、ぼく達に向かい合う形で席についた。顔を見せにきただけだから、と立ち去ろうとするクロエを「一緒に話をした方が効率的だ」と引き留めたのはヴィクトールだった。ぼくの真正面に座った赤髪の物理学生が、ぼくの視線に気づいて肩をすくめる。

「あなたも来るとは思わなかったな」

 どこか無機質な響きに、ぼくは彼とそっくり同じ動きで肩をすくめた。

「まあ、ぼくはついでというか。お目付役のようなものだから」

 ぼくの隣で爽やかな笑顔を振りまいていたカシムが、途端に椅子を鳴らした。

「……ルーク」

「まあ、それは冗談として」

 地をはうカシムの声に、ぼくは一矢報いた心地よさでにこりと笑う。

「ぼくももう少し、アランについて知りたくなったんだ」

 肩をすくめる仕草に合わせて、ヴィクトールが身につけたリッチブラウンのTシャツが上下する。細身で骨張った彼の体に、少し大きめのそのシャツはよく似合っていた。この物理学生は意外とファッションセンスに優れているのだろうか。

 青年が続ける。

「お目付役ってのが本心では? この人、教会の前でぼくたちに話しかけてきた時も大変な勢いだったし」

「ヴィック」

 嗜めるクロエに、ヴィクトールが口を尖らせる。

「なんだよ、君だって固まってたくせに」

「知らない人に話しかけられて、ほんの少し驚いただけ」

「よく言う。まあ、あの場にイーサンがいなければ、ぼくとクロエは二人とも逃げ出していたかもね」

 意外な思いでぼくはカシムに視線を向けた。寡黙だと評判のイーサンが、この頑固なライオンの相手をしたのか。

「まあ、確かにずいぶんと思い詰めた顔をしてたよね。だからわたしはてっきりあなたが『ルーク』なのかと思ったんだけど」

「あ、そうだ。それについて聞いてみたいんだけど」

 クロエの言葉に、ぼくは急いで口を挟んだ。

「ぼくの名前はどうやって知ったの。もしかして、アランがぼくの話をしてた?」

 アランが友人にぼくの話をしていたとは考えづらかった。そしてどうやらぼくの予想は正しかったようで、アランの友人二人はそろってぼくの質問に「いや、全然」と首を横に振る。

「あなたの名前は、彼の口から一瞬出てきたんです。たった一度だけ名前を聞いただけの人をいきなり訪ねるなんて、今考えたらかなり不躾だったなって思うんですけど」

 おおっと。そこに気がついてくれてなによりだ。欲を言えば、ぼくを訪ねる前までに気がついてほしかった。

「ただ、あなたの名前を口にした時のアランの様子が、なんだか嬉しそうだったから」

「そうそう。珍しいこともあるもんだと思ったね。それで、クロエがきっと恋人の名前だろうから、絶対にからかったりするなって」

「その忠告は正解だったと思うよ。ところで、君たちの他にもぼくの名前を聞いてた人っているのかな?」

 ぼくの質問に、二人は面食らった顔をしつつも素直に考え込む。

「トニーもいたよね」

「いたな」

「同じ学部の留学生なんですけど。あの時は一緒にいたと思う」

「そのトニーは、アランと仲がよかった?」

 ぼくの言葉に、クロエとヴィクトールはまたしても驚いたように動きを止めた。

「どちらかというと、淡々とした付き合いだったな」

「軋轢なく上手くやってたと思います。人見知りするタイプの二人だから、気が合ったのかも」

「なるほど……」

 相槌を打ち、ぼくはさらに質問を重ねる。

「ちなみに、その彼もぼくがアランの恋人だと勘違いしていたと思う?」

「さてね。クロエが『ルークはアランの恋人に違いない!』って言ってた場にはいたけど」

 淡々と答え、赤髪の青年が眉を上げた。

「――それにしても、ルーク。あなたはなんでそんな質問を?」

「ああ、別に特に意味はない――」

 適当に言葉を濁したぼくの足を、そのときカシムが横からぽかりと蹴りつけた。非難を込めて振り返ると、青年が物言いたげにぼくを見つめている。

 わけがわからないまま顔を正面に戻したぼくは、斜め向かいに座るクロエの隠しきれない不審気な様子に気がついて大いに慌てた。彼女の隣で、ヴィクトールもまた油断なくぼくを観察している。

 カシムの言わんとしていることを理解したぼくは、すんでのところで言葉を切り変える。

「あーほら、アランの友人の話をいろいろ聞けて、つい嬉しくて……」

 ぼくのいいわけに、クロエが腑に落ちないと言いたげに首を傾げた。そのクロエの表情に釣られるように、ヴィクトールもまたさらに目を細めてみせる。わかるよ、今のはトニーの聞き込みをする言い訳になっていない。

「ええと、クロエ。トニーってもしかして、黒い短髪を逆立ててセットしている?」

 それまで黙って様子を伺っていたカシムが、さらりと横から口を挟んだ。

「わたしはたぶん、君たち二人とアラン、そしてトニーが一緒にいるところを見たことがあると思う」

「あら、そうだったんだ」

「わたしの知っているアランは、ひとりでいることが多かったから……友人に囲まれているあいつを見られたことが、なんだかとても嬉しくて印象に残っているんだ」

 クロエの表情がやや和らいだ。有能な相棒に感謝したのも束の間、カシムがぼくとそっくり同じ轍を踏み抜いた。

「ところで二人は、アランと旅行に行ったことはある?」

 途端にクロエの顔に再び不審げな陰りが走り、ぼくは天井を仰いだ。のっぺりとした白い塗装に、縦長の蛍光灯が二本ずつ並んでいた。なるほど、第三者から見ると脈略のない質問の、なんとはらはらさせられることだろう。

「――このメンバーでそんな話は、出たこともないわね」

「そうか……。じゃあ、彼が着替えるところを見たことは――」

 青年の足を今度はぼくが蹴り付け、カシムが驚きに見開いた青い目をぼくに向けた。そんなぼく達二人に、クロエの低い声をかぶせる。

「ちょっと待って。一体なんなの、さっきから」

 クロエは文字通り、怒っていた――そしてそれ以上に深く傷ついていて、ぼくとカシムは音を立てて椅子から立ち上がる。

「違うんだよ、クロエ!」

「誤解だ、わたし達はそんなつもりでは――」

「違うって何? アランの大学生活を知りたいって聞いたけど、本当は一体何が知りたいの」

 彼女の言葉に、ぼく達は分かりやすく言葉に詰まってしまった。助けを求めてヴィクトールに視線を向けると、それに気づいたヴィクトールが皮肉げに笑う。

「まあ、ぼく達がルークにしたことが返ってきたわけだ。調査の対象になるというのはなるほど、あまり愉快なことではないようですね」

 冷ややかな笑顔で、ヴィクトールが続けた。

「研究対象の気持ちを理解する機会をくれて、どうも」

「……そうね、わたし達もあなたに同じことしましたもんね。アランの恋人が、彼を自殺に追い込んだのかもって勝手に思い込んで、それを探るためにあなたを訪ねたんだもの……あなたを責めるのはフェアじゃないです」

 長いまつ毛を伏せて落ち込む姿に、ぼくはさらにうろたえてしまった。

「ごめん。わたしが悪かった」

 ぼくよりほんの少しばかり早く冷静になったカシムが、クロエの手に自分の手を重ねてお詫びの言葉を囁いた。クロエはその手を振り払うことなく、ただかたくなな視線でカシムを見つめ返す。ぼくとヴィクトールが見守る中、青年が口を開いた。

「これを口にするか迷っていたんだけれど……ぼくは高校の時、アランの体にちょっとした傷があるのを見たことがあって」

 クロエの表情に戸惑いがにじみ、ヴィクトールがふっと真顔になる。

「その傷は明らかに意図的なものだったから、ずっと気になっていたんだ」

「……なるほど、そういうこと」

 クロエがため息混じりにつぶやく。

「改めて二人に聞くけれど、アランが誰かに傷つけられているようなことは、もうなかっただろうか」

 カシムの質問に、クロエとヴィクトールが視線を交わし合った。先に口を開いたのはヴィクトールだった。

「君のその話を聞いて、思い出したことがある」

 青年が真剣な表情で言った。

「出会ったばかりの頃、ぼくは一度アランの背中を軽く叩いたことがあった」

 説明しながら、ヴィクトールがぽんっと空中を叩いた。ほとんど指しか動いていない、ごくライトな動き。

「たかだかこの程度で、アランはひどく痛がったんだ。体を強張らせて、真っ青になって。さすがのぼくも、これはまずかったのだろうと思ったな」

「それは、いつ頃の話なんだ」

 うめくようにカシムが尋ねる。

「二年前。それ以来極力触れないようにしていたから、今もそうかは分からない」

「服が……」

 ヴィクトールの言葉を引き継ぐように、今度はクロエがためらいがちに口を開く。

「服が、変わったの。一年前くらいから――アランって以前はいつでも、袖がここらへんまであるシャツばかり着てたんだ」

 言いながら、クロエが肘より少し先のあたりを指差した。その長さなら七分丈だ。

「細いから寒がりなのかな、と思ってたんだけど、だんだん袖が短いものを着る日が多くなってて。最近はいつもTシャツを着てる」

「うん。ぼくが知っているアランも、いつも半袖一枚だ」

 ぼくの言葉にクロエが頷いて、その視線をカシムに向けた。

「これであなたの懸念が全て晴れるとは思わないけど」

「いや、聞けてよかった」

「大した話はできなかったわ」

「そんなことはない。二人のおかげで、彼への暴力はなくなったのかもしれないと思えた」

 その言葉が合図となって、事情徴収もどきは幕引きとなった。ぼく達四人はばらばらと席を立ち、エレベーターへと歩き始める。

 あの殺意に満ちた手紙とアランを結びつけるのは短絡的すぎたかもしれない。

 まあ、そう思えたこと自体が収穫かもしれない。アランの体の傷がもう癒えかけていたという可能性も、ぼくを大いに安堵させていた。

 その時、クロエとカシムの後ろを歩いていたぼくの隣に、ヴィクトールが大股で追いついてきた。思わずちらりと視線を彼の方へ向ける。横幅はぼくの方がたくましいけど、身長はおそらくほぼ同じくらい。

「さっき聞きそびれたんですがね、ルーク」

 鮮やかな緑色の目を前方に向けたまま、ヴィクトールが話を切り出した。あまり社交的でなさそうな彼に話しかけられて驚くぼくに、赤髪の青年がさらりと続ける。

「あなた、最近誰かに命でも狙われ始めました?」

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