3章 学生達の午後

3-1

 ――お前……ルーカスかい?

 悲しみと恐怖に棒立ちになっていたぼくに、目の前の小柄な女性が話しかけてきた。真っ白な髪の毛に、やや曲がった背中。そして、ぼくと同じオリーブ色の目。

 固まって返事もできないぼくから、どうやって答えを見つけたのだろう。皺の刻まれた女性の目元が緩み、厳しそうに見えた表情が途端に優しくなった。

 ――なんてこった。もうこんなにも大きくなっていたなんてねえ……。

 ぼくは十五歳だった。あの日、例によって母さんと大喧嘩したぼくは、母さんに見知らぬ家に連れてこられ、その玄関前に置き去りにされたのだった。

 ――わたしはアメリア。……あんたのおばあちゃんだよ。

 そう言って、彼女はなかなか玄関先から動けずにいたぼくを根気強く説得し、家の中に招き入れてくれた。

 その夜、生まれて初めて洗い立てのシーツに包まれて横になった時には、少し涙が出た。ぼくがずっと欲しいと思っていたのはきっと、このぼくのために洗ってくれた清潔なシーツだったんだと、そう思って――



「こんにちは、ルーク!」

 自分を呼ぶ声に、ぼくは慌てて顔を上げた。整備された芝生と太陽の光を従えた青年が、レンガ道の向こうから優雅に微笑んでいた。きちんとアイロンがかけられた涼しげな白いリネンのシャツが、ちょっと嫌味なくらい彼の若々しさと爽やかさを引き立てていて、手の中の本さえ計算されたアイテムかと疑うくらい背景と馴染んでいる。

「……やあ、カシム。お元気そうでなりより。大学のキャンパスが、世界の誰より似合っているよ」

「何を言って……まさか待ち合わせ場所を大学内にしたことを、まだ根に持ってるんですか?」

 爽やかな笑顔を呆れ顔へと変えた青年に向かって、ぼくはじっとりと目を細める。

「未知の世界にぼくを一人で来させるなんて、ひどいやつだ」

「一体大学構内の何が問題なんです。魔物の巣窟に呼び出しわたけでもないのに」

 馴染みのない場所に身を置く怖さを知らない青年が、不思議そうに肩を竦める。全く、なんてにくたらしい。

 ぼく達のそばを、二人組の学生が通り過ぎた。木々の平和なざわめきを遮るように、あちらこちらから若者達の笑い声が聞こえてくる。その楽しげな声に、ぼくは暗たんとしたため息をついた。

「今まさに、魔王城のエントランスで受付させられている気分だ」

「なるほど、記名順に名前を呼ばれるシステムの魔王城だと――というか、いったいあなたの目に大学はどう写っているんです?!」

 両手を広げてカシムが言う。少しも荒々しいところがない、不穏で優雅な身のこなし。青年の褐色の腕を軽く小突き、ぼくは肩を竦めた。

「さあ、とっととぼくを先導してくれ、勇者どの。早いとこ魔王に謁見して、はじまりの村に帰りたい」

「言ってることが、むちゃくちゃですよ……」

 ぶつぶつ言いつつも、カシムは素直にぼくを先導して歩き始めた。

 うっかり了承してしまったアランの調査のために、ぼくは彼が通っていたクイーンズランド大学を訪れていた。記念すべきぼくと大学生との初対面から、約一週間が経とうとしていた。ばあちゃんの葬儀や日々の業務でカシムとの約束を忘れていた頃に、青年から呼び出しがかかったのだった。

 まだまだ日差しが痛い昼下がりのキャンパスは、目に映るすべてのものが光をはらんでいるようだった。掃き清められた石畳の小道も古びたれんが造りの建物も、特に目新しいものではないはずなのに、一体どうしてだか自分がこの空間になじめている気がしなかった。

 TPOを考え抜いて選んだスニーカーで青年に追いつき、ぼくはにこりと彼に笑いかけた。

「……いいか、こんなところに呼び出したからには、絶対にぼくを一人にするなよ」

「わかりましたよ。手でもつなぎましょうか」

「ホントにやるぞ、このやろう」

 そう威嚇して、ぼくはうやうやしく差し出されたカシムの手のひらを叩いた。

「それで、今日はあの三人にアランの話を聞くんだよね。ええと、クロエと――」

「ヴィクトールとイーサンです」

「あ、そうそう。その三人だ」

 名前と共に脳裏に浮かんだ三人の姿に、ぼくは頷いた。

「その三人とはどこで話するの。五人が落ち着いて話せる場所って難しくない?」

「ああ、そのことなんですが」

 青年がそう言って、目についた建物内のカフェにぼくを誘った。鉄筋とガラスでデザインされた建造物の一階に位置するカフェは、ごくありふれた簡易的なもので、スタイリッシュとは真逆の印象だった。モニター越しに何かを議論する学生たちも、テーブルいっぱいに広げた資料を読み込んでいる教授らしき人も、コーヒーとマフィンを流し込むスペースにデザイン性は求めていないのだろう。

 硬くて座り心地の悪い椅子に腰を落ち着けて、赤いカップを手に取った。手頃な値段の紅茶、味も相応だ。

 居心地悪くお尻をもぞもぞさせるぼくに向かって、ブレンドとサンドイッチをテーブルに配置した青年が口を開く。

「今回は三人に、ひとりずつ話を聞く予定です」

「ひとりずつ? いったいなんだってそんな面倒なことを」

 呆れた響きに鼻白むことなく、カシムがサンドイッチにかぶりつく。

「それぞれに話を聞くメリットの方が大きいと思ったので」

「はあ、メリット」

「まず、他の友人たちがいたらできない話が聞けるかもしれない」

 こいつ、まさか事情聴取でも始めるつもりか?

「次に、大人数だと話が逸れがちなので、それを避ける意図もあります。わたし達は急ごしらえのチームですから。場の状況を管理できなくなるリスクを避けたくて」

「チームね……いやそれよりも、カシム。ぼくはアランの生前の様子を、彼らの雑談を通して知るくらいのつもりでいたんだけど」

 カシムがブルーアイズを泳がせた。青年の反応に、ぼくは眉を寄せる。

「ちょっと待った。君、まさか犯人探しをするつもりじゃないだろうな」

「まさか!」青年が慌てたように首を横に振る。「それがわたしたちの仕事だとは思っていません」

「アランを殺した犯人が、彼らの中にいるとも思っていないよね?」

 ぼくの言葉に、とんでもないと言いたげにカシムが更にぶんぶんと首を振る。青年の青い目を覗き込みながら、ぼくは続けた。

「――ってことはさ。君はアランの傷について聞くつもりだな」

 青年が首を後ろに倒しながら目をつむる。ぼくは今度こそ呆れをたっぷり声に含ませて、口を開いた。

「暴行傷害だって、警察の仕事だよ! そもそも、君がアランの傷に気がついたのは、高校の時だろ? 彼らは大学からの友人だから、彼の傷には無関係じゃないか」

「分かっています。本当に、犯人を探すつもりはないんです。彼を殺した人間も、彼を痛めつけた人間も――ラザーの業火に焼かれてしまえとは思うけど」

 青年から漏れ出た激しい言葉に、ぼくは反射的に口を閉ざしてしまう。びっくりと目を見開くぼくに向かって、カシムが続ける。

「暴行がまだ続いていたのか、それとなく探るだけです」

 その低い声はいつもの十分に抑制がきいた響きで、ぼくは遅ればせながらここが公共の場だということを思い出した。手をキーボードの上でうろうろさせながらこちらを気にする、東アジア系の青年と目が合いそうになった。その好奇心に満ち溢れた表情に、ぼくは慌てて肩を寄せる。どうやらぼく達は、ぼくが思っていたよりも人目を惹いてしまったようだった。

 カシムの方へと頭を近づけながら、ぼくもぼそぼそと言葉を返す。

「分かったよ。話を聞くのはひとりずつ、議題はアランの日常、君の狙いは彼への暴行が続いていたかどうか。ノー犯人探し。オーケー?」

 ぼくの言葉に真剣な顔でうなずいて、カシムがクリスチャン・ポールのシンプルな腕時計に目を落とした。

「そろそろ時間です。出られますか?」

 促されて、ぼくは慌てて手元のカップを空にした。

 芝生に挟まれた小道をさらに奥へと進み、カシムの先導に従ってぼく達は物理学の研究棟にたどり着いた。

「クロエとヴィクトールは、同じ物理学専攻でも分野が違うそうです」

 広々としたエントランスを横切りながら、カシムが言う。

「クロエが天体物理学、ヴィクトールが素粒子物理学――マクロとミクロの世界ですね」

「あー、うん。なんかノーベル物理学賞の発表とかで聞いたことあるような」

 適当な答えで話を濁した。彼らの研究内容なんて一ミリたりとも想像できなかったけれど、クロエがアランに宇宙の話をしていた理由だけは分かった気がした。

「そういえば、アランは何学部だったんだろう」

「ロボットですよ。ロボット工学専攻です」

「ロボット?!」

 いかにも厭世的な雰囲気を纏った青年の思いも寄らない研究対象に、ぼくは思わず声を上げた。意外なようでいて、いかにもありそうだとも思えるから不思議だ。

 目の前にはゆったりとした弧をえがく螺旋階段があった。この階段を登っていくアランと白い風船みたいなロボットを想像してにやりと笑い、ぼくはすぐにその笑顔をしゅんとしぼませる。

「階段を使いましょうか?」

「なんで」

「登りたそうに見えたので。螺旋階段がめずらしいのかな、と」

「ぼくはインテリアデザイナーだっての!」

 失礼極まりない発言に噛みつくぼくに笑い、青年はすぐにその笑いを収めた。

「――アランも、この階段を上ったかもしれませんね」

「…………」

「まあ彼の学部は違う棟ですから、この階段は使ったことがないと思いますけれど」

「……そう」

 短く返して、ぼくはずんずんとエントランスの奥へと進んだ。そして、ぎりぎり丁寧だと言える程度の力でエレベーターのボタンを押す。

「そうそう、会議室の間取り図が手に入ったので、席順も考えてきたんです」

 ぼく達を迎えにきた無機質な箱に乗り込みながら、カシムがポケットからデバイスを取り出した。

「質的研究での取材方法として習ったんですが、取材を受ける側が集中しやすい座り方と言うのがありまして」

「君さ、実のところ彼らと雑談するつもりないだろ」

 ぼくの言葉をかき消すように、エスカレーターの扉が静かに閉まった。それをいいことに、カシムがぼくの言葉を聞き流す。

質問を受ける側インタビュイーには、壁に向かって座ってもらって」

「……まあ、いいけどね。最初はヴィクトールだっけ」

「そうです。彼とはホールの前で――」

 言葉の途中で扉が開いた。その瞬間、ぼく達の前をオレンジがかった赤髪が通り過ぎていく。自分に向けられた視線に気がついたその赤髪の青年――ヴィクトールが振り返り、「おや」と言いたげにかすかに眉を上げた。

「君の言った通りだったな、クロエ。ぼくは絶対に遅刻すると思ってたんだけど」

「自分の基準で人をはかるなって、言ってるでしょ」

 そう言って、隙のない黒のファッションにすらりとした身を包んだ女性がぼく達に笑いかけた。

「ハイ、カシム、ルーク。ヴィックもあなた達と約束してるって聞いたから、様子を見にきちゃった」

 彼女の言葉に、ぼくの隣でカシムが硬直する。その足を踏みつけながら、ぼくはヴィクトールとクロエに向かって満面の笑顔を振りまいた。

「やあ、二人とも。また会えて嬉しいよ!」

 固まりかけた空気を勢いで叩き割りつつ、ぼくはこれから始まるおしゃべりの時間に暗雲が立ち込めるのを感じていた。

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