2−2

 大学生四人がやや名残惜しげにエレベーターの方へと姿を消し途端、どっと疲れがぼくを襲った。彼らと話ができて良かった。それは本心だ。けれど昨晩のブライアン、今朝の刑事に続いてこれだ。揃いも揃って、みんなちょっとぼくに情報を詰め込もうとしすぎだと思う。

 事務所に戻り、ぼくはすぐに掃除を開始した。ケーキは見事になくなっていたが、紅茶の減り具合はまちまちで面白い。完全に空のカップが一つ、中身が半分以下になっているカップが二つと、少しも口がつけられていないカップが一つ。

 それらを手早く片づけ、台所と事務所を拭き上げた。仕事に戻る前にざっと床も拭いておこうか、と道具を手に取ったところで、玄関のチャイムが鳴る。一階の受付からじゃない。扉の前のベル音だ。

 誰だろうか、と不思議に思った。

 このマンションでは、受付のコンシェルジュかぼくが操作をしなければ、エレベーターは使えない。だから玄関のベルが突然なるなんてことは、基本的にはあまりないんだけど。

 首を傾げつつ扉を開けると、そこには先ほど別れを告げたばかりの青年が一人で立っていた。身長百七十四センチのぼくが、やや見上げる位置にある、思い詰めたブルーアイズ。一緒に来ていた他の三人はいないようだった。

「へ、ヘーイ、カシム。何か忘れ物かい」

「……こんな風に押しかけて、失礼だとは承知しています。けれど、ポッターさん、あなたにどうしても聞いてみたいことがあって」

「えーと、何かな?」

 ぼくの問いに、透明感のある声で低く青年が言った。

「あなたの目から見て、アランは幸せだったと思いますか」

 思わずまじまじと青い目を見つめ返してしまう。しばらくその真剣な目を観察し、ぼくはついに諦めてため息をついた。

「……入ってよ。どうやら玄関先で済ませられる話じゃなさそうだ」

 ぼくが壁に体を寄せると、彼は驚くほど静かにぼくのそばを通り過ぎた。後ろから見ると、たてがみのように広がる焦茶色の巻毛がライオンのようだった。

 ソファへと腰を下ろすなり、カシムは答えを促すようにまっすぐな視線をぼくに向けてくる。

『アランは幸せだったと思うか』か。なんて難しい質問だろう。

「……あのさ。君とは高校卒業以降に付き合いはない、ってアランから聞いていたんだけど」

 仕方なく口を開いたぼくに、カシムは頷いた。

「そうですね。高校も大学も一緒ですが、話をしたことはほとんどありません」

「じゃあどうして、そんなにアランのことを気にするんだい」

 青年がかすかに視線を下げた。何をどう話すべきか、思い悩んでいるように見えた。やがて苦悩する若いライオン——間違えた、カシムがゆっくりと話し始める。

「彼は気付いていなかったようですが、わたしはアランのことを時々見かけていました。学部は違いましたが、お互い同じ大学に進学したし」

「つまり、君はけっこうアランを気にかけてたと?」

 青年はこくりと頷いた。そして、ぼくと目を合わせないままぽつぽつと続ける。

「ポッターさんは、わたしがアランに声をかけた時のことを聞いたんですよね?」

「アランの怪我に気がついて声をかけたんだろ。三、四回は聞いたよ」

「どんな怪我だったかは、聞きましたか?」

「いや……擦り傷程度かと思ってたんだけど」

 ぼくの答えに、カシムが首を横に振る。

「いいえ。あれは、素人目にも明らかな、ひどい暴行の跡でした」

 静まり返った事務所の中で、ぼくの喉が鳴った。『アランと初恋相手との淡い思い出』のワンシーンが、一瞬にして凄惨な情景へと書き変わる。

 吐き出す息と共に、ぼくは強く目を瞑った。

「なんてこった……」

「……アランは自分の怪我に無関心でした。わたしの言葉にただ、ぽかんとするばかりで」

 ——初めは、何を言われているのかわからなかったんだ。気づいたら視界いっぱいに、彼の顔と目があって。世界が、光でいっぱいになって……一拍おいて、やっと腕を掴む感触と、ぼくを問い詰める彼の声に気づいた。

 カシムとの思い出を語るアランの声が、ぼくの脳裏によみがえった。あの時、アランの目には、ただ純粋な喜びだけが踊っていたのに。

 ——腕を掴まれた感触が、今でも肌に焼き付いている。あの感触を辿るだけで、どんな状況でも耐えられると思った。心が安らかになったんだ、本当に……

「あの時から、わたしはアランのことが心配で仕方がなかった」

「……高校でひどいいじめがあったとか?」

「いいえ。注意して見ていたんですが、特に彼に対する暴行や嫌がらせはなかったようです。うちの学校は、精神的に落ち着いた生徒が多かったし、それに彼は良くも悪くもそれほど周りを刺激しない人だったと思います。物静かだけど、協調性がないと言うわけでもなく、成績は良かったけど、注目の的と言うほどでもなく。最低限の人との関わりの中で、うまくやっているな、と思っていました」

 本当によく観ていたんだな、と感心するような言葉をすらすら並べたて、元同級生は小さく付け加えた。

「それに、小さなことですぐにお礼を言うから、彼を嫌っているやつなんていなかったんじゃないかな」

「ああ、それは分かる」

 ぼくの言葉に、カシムが微笑む。

「……卒業後に彼を見かける時はいつも、友人たちに囲まれていて楽しそうだったから——最近はもう、ほとんど安心していたんです」

 目の前の青年は、アランのことを本当に気にかけていたのか。

 ぼくの、やや安堵を含んだため息に、青年が改めて先程の質問を重ねた。

「ルーク。あなたは、アランが幸せだったと思いますか?」

「君が見かける時はいつも、アランは楽しそうだったんだろ。それが答えだよ。何か不満なのかい」

「…………」

 オーケイ。ご不満ってわけだ。

 歳の離れた弟に言い聞かせるように、ぼくは青年に語りかける。

「なあ、カシム。アランは、確かに自身の性的指向で悩んでいたけれど、少なくともぼくの目には毎日が楽しそうに見えた。でもさ。彼の日常も、その怪我のことさえも何も知らなかったぼくが、その問いに答えられるはずがないんだよ」

「……それでも、あなたが一番、彼の内面と深く関わっていたはずだ」

「買い被りすぎだよ。ぼくはたまたまアランの悩みを知る機会があっただけだ。そもそもぼくは、彼が大学生だってことすら知らなかったんだぞ」

「記号的な情報なんて、何の意味もないことです。わたしたちは四人とも、アランが声を上げて笑うところを見たことがなかった。それが答えだと思っています」

 ぼくがつい先ほど使った言葉で切り返された。全く、なんて可愛げのない。

 窓から見える風景は、すっかり夜のものとなっていた。暗い夜空を背景に、ビルや車が思い思いに光を撒き散らしている。時々思い出したように遠くの方から、車のクラクションらしき鈍い響きが、十五階に位置するこの事務所まで届いてきた。

「なあ、本当は君だって分かってるんだろ。幸せなんて、そもそも主観的な感覚じゃないか。君がいくらアランの親しい人にそれを聞いて回ったところで、本当のことなんてきっと分からない」

「それでも、わたしは生前の彼のことが知りたい」

「……なあ、カシム。気づいているかい? その望みは裏を返せば、彼が幸せじゃなかった可能性に怯えているから出てくるものだ」

 カシムの体が、びくりとこわばった。燃え上がるように輝きを増したブルーアイズは『そんなことは分かっている』とぼくに訴えているようだった。同級生の体に見てしまった傷跡が、彼の心にもまた大きな傷を残してしまったのだろう。

「……まあ、なんと言うか。どうしてもそれを知りたいのなら、君が調べて回ることを止めはしないよ」

 ぼくの言葉に、ふと何かを思いついたように青年が顔を上げた。その目を見た瞬間、嫌な予感が稲妻のようにぼくの中を走り抜ける。

「……ポッターさん」

 嫌な予感がさらに濃度を増し、ぼくは思わず身を引いた。

「な、何、かな?」

「わたしが彼について調べて回るのを、手伝ってくれませんか」

「——おおっとごめん、何を言っているのか聞こえなかった」

 逃げを打つぼくに、頑固なライオンが追い討ちをかける。

「わたしは、あの時の怪我の意味がどうしても知りたい」

「そうそう。実は君ってちょっとぼくの幼なじみと似てるんだ」

「けれどアランのことを何も知らないわたしでは、力不足です」

「クソ真面目で頑固でリーダータイプで」

「だからあなたの手を借りたい」

「むり!」

 間髪入れずに返事をしたぼくに、カシムが言い募る。

「どうしてですか?」

「どうしてだって? むしろ自分が何を提案したのか、ちゃんと考えてみなよ!」

「わたしは、このまま何も知らなかったふりをして、後悔したくないんです」

 後悔、という言葉に、ぼくは深くため息をつく。

「カシム、これは元刑事からの受け売りなんだけどね。身近な人が亡くなると、人は『自分に何かできたことがあったんじゃないか』と後悔しがちなんだって。でも、アランの死は君のせいじゃない」

 ぼくの言葉に、カシムの顔が憂いを帯びたものになる。

「そうやって、自分に言い聞かせているんですか?」

「何だって?」

 自分の声が不穏な響きに揺れた。怯むことなく、カシムが淡々と告げる。

「これは、わたしがオーストラリアン・フットボールを通して学んだ一つの教訓なんですが。誰かに何かアドバイスするとき、そのアドバイスを一番必要としている人間は、本当は自分自身だと思うんです」

 その時、ほおがピクリと痙攣を起こすほどの強い苛立ちがぼくを襲った。ぼくのこわばった表情に何を思ったのか、カシムが魔法のようにどこからともなくメモ帳を取り出し、サラサラとペンを走らせる。

「これは、ぼくの連絡先です。気が変わっても変わらなくても、連絡ください」

「気が向いたら、連絡する」

 まるでやる気の感じられないぼくの返答に、カシムが眉を上げた。改めてその圧力の強い視線で、ぼくを串刺しにする。

「……一つだけ、あなたに言い忘れていたことがあります。これは彼の葬式で耳に挟んだものなんですが——アランは死の間際、筋肉の緩みでは説明ができないほど口角が引き上がった、満面の笑顔だったそうです」

 今度は脳裏にアランの笑顔がよぎり、ぼくはまたもや絶句した。頭がそれ以上の情報処理を拒絶し、ぼくはほとんど上の空の状態で相槌を打つ。

「……それが、一体どうしたっていうんだよ」

「わたしは、あいつが死ぬ間際に笑顔を浮かべていた意味を、あなたなら分かるのではないかと思ったんです」

 どこまでも真剣なカシムの言葉に、ぼくははっと唾を飲み込む。

「——つまり、君はぼくが犯人だと」

「今なら間に合いますから、自首してください。——って、違いますよ。何を言っているんですか」

 呆れたようにそう言って、青年が続ける。

「彼の笑顔が、幸せを感じていたからなのか、辛い人生からの開放を喜んだものだったのか、わたしは知りたいんですよ」

「さっき断った!」

 ぼくの目をじっと見つめていた青年が、にこりと微笑んだ。

「……わたし達の話を聞いてくださってありがとうございました。数々の無礼をお詫びします」

 礼儀正しい引き際の挨拶に、ぼくはほんの少しだけ自分の態度を反省する。

 そんなぼくの反省を嘲笑うかのように、カシムが悪びれなく続けた。

「——また来ます」

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