2-3

 レキサンドラこと、アレキサンドラ・ローズブレイド——またの名をマックス・アンダーソン——は、ぼくと共に店の扉をくぐった男に色めき立った後、すぐにそれが誰なのかに気がついたらしい。

 口を開けて硬直し、そのままぼくを射殺しそうな目で睨みつけた。

「なんで連れてきたんだよ!」

「なんでも何も、なんでだめなのさ」

「おれの心は繊細なの!」

「意味がわからな——あ、もしかしてまだセスのこと好きなの? その格好で、セスの息子と話すのは気まずいとか?」

「黙れこのクソガキ!」

 ぼくの言葉に、レキサンドラが小声で叫ぶ。まさかセスへの長年の片思いに気づかれていないとでも思ってるんだろうか。ブライアンは昔から、うんざりするほど状況を読むのに長けてるんだ。賭けてもいい、こいつはレキサンドラの気持ちに気付いた上で見て見ぬ振りをし、それとなくフォローするぐらいのことはしていたはずだ。

 彼の自分の反応を伺う視線に気がついたらしい。ブライアンが、やつにしては優しい声でレキサンドラに向かって声をかけた。

「久しぶりだな、マックス。いや、レキサンドラと呼んだ方がいいか?」

「いや、いいよ。マックスの方が呼びやすいだろ」

「あんたが呼ばれたい名前で呼ぶよ。元気そうで何よりだ。ブリズベンに出てきていたのは意外だが」

「いろいろ偶然が重なったんだ。飲み物は?」

「マッカランはあるか」

「もちろん」

「じゃあ、それのロックで」

 そうオーダーすると、ブライアンは長い足で器用に席の間をすり抜けながら奥の席へと行ってしまった。レキサンドラがぼくに何か言いたがっているのに気がついたのだろう。そっけない気遣いをしみじみ懐かしく思っていたぼくの腕を、レキサンドラが力任せに握りしめて、振り向かせる。

「痛いよ、レキサンドラ! 腕がもげる!」

「あの、あの、あの子、あの子ったら」

「なに」

「めちゃくちゃいい男に成長してるじゃない!」

「ブライアン?」

「他に誰がいるってんだよ」

 呆れたようにそう言って、レキサンドラが小声で続ける。

「さすがセスの遺伝子だね。彼の周りの空気を吸ってるだけで頭がぼうっとなっちゃう。それにあの子すごく優しくなってない? ちょっとびっくり」

「あっそ……」

 ぼくの熱のない相槌に、レキサンドラは気がそがれた様子で目を細めた。

「なあんだってんだよ。あんただってあの子に夢中だったくせに、手に入ったとたん余裕見せちゃって……」

「付き合ってない」

 レキサンドラの言葉に、ぼくは自分でもびっくりするくらい、ささくれ立った気分でそう吐き出した。

「三年前ぼくがあいつに振られたってこと、あんただって知ってるだろ」

「いや、でもあんたたちどう見ても」

 言いかけたレキサンドラだったが、ぼくのじっとりとした視線に気がついて言葉を止めた。

「まあいいさ。ほら、お酒。こっちがジントニック」

「……ぼくもあいつと同じの飲む」

「やめときなさい。マッカランの景観が損なわれる」

 そう言ってグラスをぼくに押し付けると、レキサンドラはぼくが噛みつく前にさっさとこちらに背を向けてしまった。

 ぼくは別の常連と挨拶を交わし始めた彼の背中に向かって顔をしかめると、店内の視線を一身に集める幼なじみの元へと足を向けた。

「ウィスキーのロックなんて、格好つけてる」

 グラスを置きながらぶつくさいうと、やつは平然と眉をあげた。

「格好つけなくても、おれは自分がクールだということを把握してる。——おい、まだ飲むなよ。おれの話が終わってからだ」

「このくらいじゃ酔わないよ」

「念のためな」

「すっかりその気になってたのに」

 ぼくはため息をついて、グラスの中の炭酸を悩ましく見つめた。そんなぼくをじっと見下ろしていたブライアンが、唸り声のようなため息をついて、その大きな背中をイスの背もたれに預ける。

「……ひとくちだけだ」

「やった、そうこなくちゃ!」

 ぼくは素早くグラスを自分の方へと引き寄せると、満面の笑みで掲げる。

「ぼくたちの再会に」

 ぼくの乾杯の合図トーストに、ブライアンもまた、苦笑しながらグラスを掲げた。

「さて、早速だが」

「……もう本題かよ、せっかちなやつ」

 嘆息しながらグラスを置いたぼくを無視して、ブライアンがするりとポケットから手帳を取り出した。頭の片隅で青い目の大学生を思い出していたぼくは、続くブライアンの言葉に思わず身を乗り出した。

「お前が事件の時間に一緒にいた男について、店のスタッフに聞いてきた」

「もう動いてくれてたの?」

「ああ。ありがたいことに、お前のことを覚えているスタッフが何人かいたよ」

「あんな薄暗いダイニングバーで? 何か嬉しいな」

 ぼくの言葉にブライアンが一瞬だけ口元を緩め、続ける。

「店員の話によると、お前が一人で飲んでいたところを、その男が声をかけたんだと。キャップをかぶっていたから髪色はよく分からないが、おそらくはダークブロンドからダークブラウン、暗い色のTシャツを着たかなり体格のいい男で、愛想は良くなかったらしい」

「あれ、途中からお前の話になった?」

 混ぜっ返した瞬間、ブライアンがすかさずぼくの鼻を摘んだ。

「真面目に聞け。身長はおそらく百九十センチメートル前後で、年齢は二十代か三十代前半くらいだ。お前の知り合いに心当たりはないか」

「ぼくの幼なじみに、ブライアンっていう名前の男がいるんだけど……」

「ああ、そいつが一夜だけ髪を明るく染めて、横幅を十五センチばかり膨らませたのかもな。——真面目に考えろ、このばか」

「そう言われてもなあ。よくある特徴だし、それっぽいやつならいくらでもいるぞ。——例えば、あいつとか」

 たまたま目についた知り合いの知り合いを視線で指し示すと、その視線に気づいた男がぼくに向かって——というよりもほとんどブライアンに向かって笑った。

 ブライアンがその男に目を向けると、男の顔が店に入ってきたときのレキサンドラと同じように、さっと色めき立つ。

 うんざりした気分でグラスに口をつけていると、ぼくに視線を戻したブライアンが首を横に振って言った。

「……違うな。聞いた話よりも細い」

「え、あいつより筋肉質ってこと? それならかなり候補は絞られるよ」

「後でリストをくれ」

「わかった」

「でもまあ、お前の知り合いである可能性は低いだろうとは思う」

 そう言ってマッカランに手を伸ばしたブライアンは、思い直したようにその手でぎゅっとこぶしを握った。

「なあ、お前。本当にその夜のことを思い出せないのか?」

 思わず視線をやつの目へと移した。声色以上に真剣なその青灰色に、おそるおそる尋ねる。

「もしかして、ぼくの状況って、思っていたより深刻?」

「…………」

「わかったよ。でもあの夜の記憶って、自分でも不思議なくらい曖昧なんだよなあ」

「……続けろ」

 ブライアンの言葉に、ぼくは再びあの日の夜のことを振り返った。

 あの日、アランとのランチの後、ぼくはそれまで散々振り回されてきた仕事の最終確認のために、フェアフィールドへと向かった。そして、簡単な調整だけでようやく長期間にわたる仕事から解放されたぼくは、早々に例のダイニングバーへと飛び込んだのだった。

 時刻は、午後七時前くらい。

「規定内のアルコールで済ませるつもりなんてなかったから、フェアフィールドまでは配車サービスで来てたんだ。一杯目のジンフィズはすぐに空けて、軽食をつまみながら二杯目を頼んでさ。それから——あれ?」

 そこまで言って、ぼくは言葉を止めた。

「二杯……」

 つぶやいて、さすがのぼくも何かがおかしいと気がついた。硬直するぼくを、ブライアンが低く促す。

「どうした?」

「何か、ちょっと酔ったタイミングがおかしいかも」

「つまり?」

「二杯目の途中から、急に記憶があやふやになってるんだ」

 ブライアンの顔が、目に見えて険しくなる。ちらりと辺りを見渡し、自分に送られている視線を青灰色の視線で静かに薙ぎ払った。

「その時、何を飲んでいた」

「モヒート」

「……アルコール度数が低すぎるというわけでもないな」

「それでも記憶をなくすほどじゃないよ。ぎりぎり規定内だ」

 ブライアンが何か言いたそうにぼくを見やった後、首を振って質問を続ける。

「いつもなら、アルコールが回り始めるのはどのくらいだ?」

「モヒートなら、四杯くらい」

「二杯目のグラスから離れたか?」

「んん、どういう意味?」

 質問の意味を測りかねてぽかんとするぼくに、やつはゆっくりと言葉を重ねた。

「二杯目のカップを置いたまま、お前は席を離れたか?」

「いや……あ、イエスだ! どうしてわかったんだよ。やっぱり相手はお前だったの?」

「真面目に聞け、ルーク」

 男の声が、ぼくを諌めるように少し鋭くなる。

「飲み物に、何か混入された可能性を聞いているんだ」

「混入って」

 ようやく質問の意図に気がついて、ぼくは愕然と顎を落とした。

「スパイキング……?! そんなこと本当にあるの?」

「あるな。財布は大丈夫か」

「ぼくのカード!」

 慌てて財布を覗き込んだぼくは、そこにきちんとあるべきカードが収まっているのを見て胸をなでおろす。そして同時に、なんだか自分がひどい被害者妄想を抱いていたように思えきて恥ずかしくなった。

「なあ、ブライアン。スパイキングってよくあることなのかな」

「お前が思っているよりかは、多いだろうな」

「これがそうとは限らないかも」

 自分が犯罪に巻き込まれた可能性に驚いて、ぼくはボソボソとそう主張した。

「単にぼくが早々に酔っ払って、その人が介抱してくれただけかもしれないよ」

 口に出したらますますそんな気がしてくる。酒に何かを入れられたなんて非日常的な考えより、二杯で潰れたという方がまだありそうに思えた。

 けれどそんなぼくの意見に、どうやらブライアンは賛成しかねるようだった。

「お前はどう思う、ルーク。何か身に覚えはないか?」

「ないよ! そもそも飲み物に何かを混ぜる目的っていったら……」

「窃盗かレイプだな」

 不穏な言葉にぐっと一瞬詰まってから、ぼくは続けた。

「あんな早い時間に? ぼくが犯人なら、あの時間や店は選ばない」

「同感だ。お前にしてはなかなか鋭いじゃないか」

 感心したように失礼なことを言って、男が目を細める。

「つまりだ、もし本当に何かを混入されたのだとしたら、そいつの狙いは初めからお前だったのかもしれない」

「ますます見当違いな気がしてきたよ」

 顔を引き攣らせるぼくを見て、ブライアンがその強靭な肩から力を抜いた。

「まあどちらにせよ、そいつを見つけて問いただせば分かる話だ」

「そうだね。まいったな。アリバイ証明のはずが、とんでもないことになってきた」

「まあな。——ほら、飲めよ。怖がらせて悪かった」

「誰が何に、怖がってるって?」

 口を尖らせて反論したものの、手元のジントニックがカラになる頃にはこいつの言う通り、少なくともショックは受けたみたいだと認めざるを得なかった。

 それ隠そうとして、ぼくは慌てて残りのアルコールをぐいっと喉に流し込む。

 犯罪なんてものは、思いがけず自分のすぐそばに息を潜めているものなのかもしれない。その思いつきは、自分でも不思議なほどぼく自身を深く動揺させた。

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