【KACいいわけ】優しい男と深海の女王

葦空 翼

優しい男と深海の女王



  ぽこぽこ、ぽこ。

 宵闇のように暗く、永遠のように広大な空間。その中で、たくさんの泡が遊ぶように煌めきながら目の前を通り過ぎていく。

 そのひとつひとつに何か映っている……何だろう?

 目をこらすと、そこにはたくさんの人々の姿がある。




 

 薄桃色の髪をした小さな少女が笑顔で大きな男と手を繋いでいる。

 これは、どこなんだろう。灰色でやたらに背の高い建築物。流れていく人の群れ。知らない世界。

 その群衆の中で、二人が何かクリームの入った食べ物を美味しそうに食べている。時折、小さな四角い板を使って地図を覗き込んでいるので、観光旅行の最中かもしれない。



 

 また別の泡。



 

 濃茶の長髪をきりりとまとめたローブ姿の男が女王に跪いている。これは王宮だろうか。周りを偉そうな官僚やら騎士やらが取り囲んでいる。

 この厳かな雰囲気は、恐らく叙勲式だ。女王がとんとんと男の肩を剣で叩き、男が恭しく頭を下げる。

 そこに現れる金髪の女性。二人は夫婦だろうか?

 心から嬉しそうに抱き合って喜んでいる。


 


 また別の泡。



 

 炎に似た癖の強い髪を靡かせた少女が、カモメの飛び交う港で船に乗り込んでいる。傍らには屈強な狼男ワーウルフ。二人は守備力はそれぞれだが、勇ましく鎧を着込んでいるので、冒険者のたぐいのようだ。

 癖毛の少女の表情は底抜けに明るい。大海原に旅立つということは、昨今流行りの新大陸開拓にでも行くのだろうか?それとも故郷とは違う新天地へ向かうのか。

 どちらにせよ、喜ばしい旅立ちのように見える。




 金髪の男性が愛しそうに黒髪の子供を肩車している。


 白銀のロングヘアをなびかせた女性が、黒髪の美丈夫と笑顔で夜空を眺めている。


 小柄な少女を挟んだ男二人、恐らく三人組の冒険者が賑やかにご馳走を囲んでいる。




 皆笑顔。

 幸福そうな数多の“映像”が目の前を流れていく。

 これはきっと、誰かの記憶。誰かの物語だ。



 

「…………すごいな…………」


 思わず男がつぶやくと、背後に何者かの気配が現れた。


「お気に召したかしら」


 無数の泡に囲まれながら、静かに振り返る。そこには豪奢な黒いドレスを着た女性がいた。白藍みずいろの長い長い髪、冷たく吊り上がった銀の瞳。長く尖った耳。おおよそ「普通のヒト」ではない出で立ちだった。


「これは…………誰かの人生なんだろうか」

「そうよ。みんな実在の人たち。この世の数多の物語たち」


 ふいに疑問を口にすると、女性は丁寧に答えてくれた。ふわり。女性が愛おしそうに泡に手を伸ばすと、それらはたゆたい逃げる。


「初めまして、アレクサンダー・レイモンド。貴方に会えて嬉しいわ」

「…………初めましてなのに、なぜ僕の名前を知っているんだ」

「私は“地上の物語を収集する者”だからよ。貴方のことも、出会う前からよーくよーく知っているわ」


 ヒールが奏でる硬質な音を響かせ、女性が近づいてくる。一歩、一歩、暗闇に浮かび上がる歩廊ほろうを行く先にいる男は、真っ直ぐな黒髪に黒曜石の瞳。東洋の血が混じった彼を幼く見えると揶揄する者もいたが、涼し気な目元もすっと引き結んだ唇も、幼子のそれではない。

 

 アレクサンダーは魔法使いの家系に生まれた。ただし、華々しく魔法を使い戦うとか、守るとかそういうことが出来るわけではない。先祖から連綿と「貴重な魔法陣」を受け継ぎ、守る重要な任を負っている。それだけ。それでも、まぁ世間的には。彼は高貴とか金持ちとかの部類の身分だった。


 こちらへ近づいてくる女性に向き直ると、するりと衣擦れが微かな音を立てた。ドレスの裾を引きずる女性と、それなり以上に見栄えする良い服を着ている彼が相対すると、それはまるで舞踏会のワンシーンのよう。しかしそんな甘いときめきを初対面の女に抱くわけもなく、日常から切り離された異様な空間の迫力に喉が鳴る。


「……まぁ、そんなに緊張なさらないで」


 銀の瞳を煌めかせて女性が微笑む。こちらはあちらを知らないのに、あちらはこちらをよく知っているという状況が気持ち悪い。アレクサンダーは我慢出来ずに口を開いた。


「…………貴女は何者なんだ」

「私? 私は──」


 そこですう、と闇一辺倒の世界に色が差した。

 蒼。一面のあお。揺らめくそれは、そう。


 海に見えた。


「私の名前はリヴァイアサン。人間たちが私をどう認知しているかはわからないけど、……そうね。よく言われているのは、世界の海を統べる悪魔。あとは最強の悪魔とか、四大上位悪魔とか、そういう肩書きかしら」


 紅を差した唇が優雅に孤を描く。

 海の悪魔。真っ青に揺らめく空間に、無数の物語の泡を抱えて、ただ一人佇む存在。

 道理でやたらに美人なわけだ、とアレクサンダーは明後日の方向に納得した。最早目の前と言える距離まで近づいた彼女は静謐で、硬質で、見事な曲線を描くプロポーションは非常に魅力的に見えたが、生きていると言われなければ動く人形のように思えた。


 けれどわからない。そんな大それた身分の悪魔が自分をこんな空間に呼ぶ理由が。

 ……出自が関係している?

 いや、そんな世界規模の悪魔に呼ばれるほどの物は持ってない、と思う。友好にしても敵意にしても、関わるべき強くて凄い存在はもっと居る。


「……その悪魔が、僕に何の用だ。ここは一体」

「何の用? そうね、強いて言えば」


 悪魔の目の虹彩が。

 こちらを射抜くように細く引き絞られている。


「運命の出逢いに感謝してるのよ。

 もしかしたらもう会えないかもしれないと思っていたのに、貴方の運命が私を求めてくれたから」

「……え?」

「貴方の運命は今、酷く捻じ曲げられている。


 勇敢な若者は鬼の娘と結ばれたのに。

 天の姫は従者と婚姻したのに。

 立身出世を望む者は名誉でなく友を得たのに。


 貴方はこうして私に会いに来てくれた」


「…………?」


「だから私、貴方にとても興味があるの。ねぇ、


 私の可愛い配下を助けてくれた、優しい人」


 するりと冷えた手がアレクサンダーの頬を撫でた。……そうだ、思い出した。ここに来る前のことを。


「そういえば、ここに来る前に亀を助けた。

 港にひっくり返っていたんだ。なんて間抜けなんだと思って」

「そう。あの子、私の眷属の一人なのよ。本当なら貴方とはもっと違う形で会うはずだった。でも、どんなに巡りが変わっても貴方が助けてくれる。そのお礼と称して、貴方に会うことが出来る。これって、運命じゃない?」


 リヴァイアサンが心から嬉しそうに微笑んでいる。それは少しだけ、少女のような印象を抱かせた。運命。運命の出会い。そんなもの、本当にあるんだろうか。


「運命運命ってさっきから言うけど、貴女は人間の過去や未来を見通せるのか?」

「ええ。元はつまらない思いつきだけど。ここで王として暮らすのにも飽きたから、眷属たちに地上の生き物たちの“物語”を集めてくるよう頼んだの」


 それが、このたくさんの「泡」。


「素敵でしょ? みんなきらきらして、笑顔で、夢や希望を抱いている。私にはない世界。幸せそうでとってもいいわ。だからここでこの泡たちを眺めるの、とっても好きなの。まぁ他にも目的があるのだけど……

 うふふ。」


 妙な調子だった。何気ない話だったはずなのに、リヴァイアサンが心から面白い話をしているかのように吹き出すものだから、アレクサンダーは一瞬ぎょっとした。


「何が可笑しい?」

「いいえ。

 突然だけど、貴方悪魔が何を食べて生きているか知ってる?」

「いや……知らない」


 海の悪魔なら、あるいは……うん? 亀が眷属なら、仲間の海の生き物は食べないか?


「正解は、他者の感情よ」


 ひたりとアレクサンダーの両頬にリヴァイアサンの両手が添えられる。……まさか、


「ねぇ、知ってる? 私達悪魔にとって、夢や希望や愛もご飯になるけれど。

 絶望や憎しみ、苦しみはもっと美味しいご馳走なのよ」

「……!!」


「ねぇ。ここに映っている数多あまたの人間たち。この人たちの笑顔を汚したら、どれだけ美味しいご飯になると思う?」


「!!!」


 慌てて女の手を振り払った。一気に鼓動が早くなる。海の悪魔。最強と呼ばれる凶悪な存在。そういうおぞましい存在が目の前にいる恐怖が、突然実感出来た。


「………………お前は、あの人たちに苦しみを与えに行くのか」

「………………」


 悪魔は返答を返さない。ただ、感情のない瞳で唇だけを笑みの形にして、こちらを見返している。


「あの人たちの幸福を眺めて、羨んで、あげく自分の欲のために壊すのか……!」


 それはただの妄想だった。悪魔なら、恐らくそれくらいのことをする。押し付けに似た感情だった。けれど、



 

「だって、仕方ないじゃない!!!」


 


 リヴァイアサンが空間を震わせた。目の前で大声を出されたせいで耳がキンとする。


「貴方にはわからないのよ! 私の孤独が! 長い生の虚しさが! いつまでもいつまでもこの海に一人で生きる、私の本当の気持ちが!!」

 

「一人? 眷属とやらはどうした?」

「眷属は部下よ、友達でも恋人でもないでしょう?!」


 ふいに顔を上げたリヴァイアサンは、ぼろぼろと大粒の涙を零した。その表情。熱量。大人の女性に見えていた悪魔の、幼子のようなふるまいに気圧される。


「貴方には家族がいるでしょう! 友人も、もしかしたら好きな人も! この泡の中の人間たちも、みんなたくさんの人に囲まれてる……家族が、友人が、仲間が、愛しい人がいる……! なのに、私には、媚びへつらってくる配下しかいない……私を対等に扱い愛してくれる存在がいない……!

 寂しい……!!」


「……………………」


 ぎゅうとこちらの二の腕を掴んでくる。振り払ってもなお、縋ってくる、冷たくて細い腕。そういえばこんなに着飾った美しい姿を見るのは、「媚びへつらってくる配下」だけなのか。


「……だからって、ないものねだりで他人のものを奪うのは良くないぞ。さっきこちらの質問に返答しなかっただろう。お前、海の向こうに行くつもりだな?」

「……今は、準備中なの。いつか、人間の世界に行くの」

「行くのはいい。人間を見るのもいい。ただ、壊すな。奪うな。愛や希望も食事になるんだろう? それだけ食べればいいじゃないか」

「…………泡越しに食べる他人の感情は、酷く薄味だわ。生きてはいける。けど、直に食べたらどれだけ美味しいのかしらって」

「………………」


 きゅ、と唇を噛み締めた。ふと思いついたことがある。けれど、それを言ったら……。ふいに迷ったはずなのに、ぽろりと言ってしまった。


「じゃあ、僕と暮らしたらどうだ」

「えっ?」

「………………自分で言うのも烏滸おこがましいけど。僕と友達になって、色んな感情を育んで、それを食べて暮らしたら……寂しくないし、食事も充実するんじゃないか」

「!!!!」


 あっ、と思った時にはもう遅かった。当たり前だがアレクサンダーにも家族がいる。友人がいる。やらねばならない事がある。それらと別れるわけにはいけないのに、つい。

 寂しいと泣いた女性を置いて帰れない、と思ってしまった。


「本当?! 嬉しい!!」

「えっあっ」

「じゃあ宮殿に貴方の部屋を用意するわね、ベッドは大きくしましょう、食べ物は何が好き?! 海老もホタテもウニもイクラも飽きるほど出してあげられるわよ!」

「あのその、」


「これからよろしくね、アレクサンダー!」


「…………!」


 どきゅん。

 言いたいことは山程あったのに。あんまり嬉しそうにきらきらと笑うから、不本意ながら心底可愛くてときめいてしまった。

 胸がッ、苦しい!


「わぁ嬉しい、たまには人間を呼んでみるものだわ。こんなに素敵なプレゼントをくれるヒトが居るなんて」

「……うん……」

「これからはずっと一緒なのね、寂しくないのね、本当にありがとう!」

「……うん……」

「よぉし、じゃあ腕によりをかけて貴方の食事を用意するわ。丁度そろそろ昼だし、何が食べたい?!」


 うきうきと言葉をかけてくるリヴァイアサン。アレクサンダーはときめきと後悔と狼狽の感情で頭がぐちゃぐちゃになりそうだったが。


「…………白米とマグロ、サーモン、海老ほたてイクラウニで海鮮丼が食べたい」


 とりあえず、ちゃっかりご馳走を注文した。



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