バスに乗ってて、いきなりキスされたんですけど

でい

バスに乗っていたら……

 バスで隣の人にキスされた。


 自分でも何を言っているのかわからないし、何が起きたのかよくわかっていない。だけど事実なのだから仕方ない。その衝撃たるや。たぶん心臓が半分くらい飛び出ていた。


 そんなわけで。一晩経ってもモヤモヤした気持ちは収まらず、ついでにヤケ酒の酔いもめていない。目の下のクマを必死にメイクでごまかして、なんとか出社にぎつけた次第。


「ねむい……」

絵里エリ、朝から調子悪そーって見てたけど、ただの寝不足? カレシのうちにお泊まり?」


 部長が新人くんに説教してる隙を突いて、同僚の優衣ユイが小声で話しかけてくる。


「知ってて言ってるでしょ? こっちはしばらく無縁なのです」

「絵里もいい加減まってんね。息抜きしたら? クラブでひっかけてさ」

「それで上手くいった経験ある?」

「ないから試してほしー」


 他人事ひとごとでけしかけようとするな。そんなにアクティブな性格なら苦労はしない。


「ま、冗談はともかく。ホントたまには、ちゃんと恋愛っぽいことしなよ? 仕事ばかり追ってないで、ときには恋に生きないと。……あ、ほらっ、営業の柏木カシワギなんていいじゃん。けっこう絵里と気が合ってると思うんだけどなぁ」

「んー。じゃ、お言葉に甘えて。息抜きに、お手洗いガーデンでお花摘んでくるね」


 そっちー? 柏木いいじゃーん、と優衣がしつこいので、離席がてら脳天チョップをお見舞いする。頭をさすりながら、わざとらしいふくれ面で抗議するお節介にヒラヒラと手を振って、わたしはそそくさとオフィスから逃げ出した。


 同期の優衣とは入社したてから波長が合い、今となってはざっくばらんな関係。このような遠慮のない会話は日常茶飯事だった。いつものようにちゃかし合いの応酬……といきたいところだけど、思わぬ名前を出されたことで退散せざるを得なかった。

 去り際の態度も不自然じゃなかったと思うし、便意の近いフリしてなんとかけむに巻けたはず。ヘタに話すとぼろが出そう。

 女の勘、あなどりがたし。わたしの悩みをド直球で射抜くとは……。


 疲弊ひへいするわたしに追い打ちをかけたのは、トイレついでと休憩所に寄った直後だった。

 噂をすれば影が立つというやつだろうか。扉を開けると、自販機の前にが立っていた。急いできびすを返そうとするが、呼び止められる。


「おっ、新垣ニイガキ。いいところに来たな」


 その瞬間、音が止んだ。

 壁に亀裂がはしり、蛍光灯も激しく点滅した。おそらく空間がねじ曲がったのだ。


 わたしの怒りで――


「いいところに来たな、フッ。じゃないわよバカ! アホ! 柏木!」

「柏木は悪口じゃないだろ」

「立派な悪口! 食欲、睡眠欲、柏木!」

「人を三大欲求みたいに。あ、そうそう。新垣、この自販機でどれが一番美味しいと思う?」


 こ、こいつ、スルーしおった。

 わたしがすでに怒髪天どはつてんく勢いで、スーパーサイヤ絵里の一歩手前ということに愚かな柏木は気付いておらんのか。生と死の狭間にいるのだぞ。


 と、内面では怒っていても。優衣いわくけっこう単純なわたしは、


「えっ? んー、急に言われても全部飲んだことないしなぁ。でもわたしはこれ、好きだけどなー」


 ふつうに返事して、マスカット味の清涼飲料水を指差していた。……うん、きっとわたしの寛大な心は仏に域まで達したのだろう。阿弥陀系女子の誕生である。


「ふーん」


 柏木は小銭を自販機に投入しながら、気のない鼻息をもらすだけ。やっぱりシメておくべきかもしれない。社会のために、すさんだ世で純情を抱き続ける乙女のために。

 だって——


 昨日のキスは、なんだったの。


 目の前から離れていく、柏木の真剣な表情が脳裏に浮かぶ。

 仕事帰りの通勤バス。新商品のプロモーションプロジェクトがひと段落つき、わたしは連日の疲労からウトウトしていた。停車駅に着いて顔をあげると、隣に座っていたはずの柏木の顔がおおいかぶさるような至近距離にあったのだ。

 残っていたくちびるの違和感に状況を察したわたしは、そのままバスを飛び降りていた。


 たしかに柏木とは、優衣ほど近くはないものの、同期の腐れ縁から気の置けない仲になっていた。飲み会の馬鹿騒ぎや、居酒屋での愚痴グチり合い、困難な仕事のフォローを通じて、でもそれは、いわば戦友のような付き合いで。


「あのね、昨日の……」


「そういえば新垣、昨日バスで、すげーよだれ垂らしながら寝てたな」

「え?」

「拭いてやったんだから感謝しろよ」


 え?

 え―――――――――っ!?


 ……キスじゃ、なかったの?

 あれって、わたしの思い違い!?

 よだれまで垂らして、しかも拭いてもらったとは。きっとアホ面で寝ていたんだろうなぁ。……うん、死にたい。天に召されたいよ。そして阿弥陀系女子らしく輪廻転生りんねてんせいで来世に期待したい。


 恥ずかしくて泣きそうになるのを我慢していると、柏木が申し訳なさそうに言った。


「でもなんか勘違いさせたみたいだから、ちょっと悪いなって。だからこれ」


 自販機から取り出したペットボトルを手渡す。さっきわたしが指差したものだった。




 気がつくと、わたしは涙を流していた。

 ほっとしたのだろうか。

 いや、違う。

 得体のしれない、このモヤモヤとした不安定な気持ちは、おそらく悲しいのだ。


 今回の件であらためて思い返してみると、わたしは、

 柏木に対して好意のようなものを、たぶん抱いていたのだと思う。

 だから、柏木の言った「勘違いさせた」の意味が、心を強く握りしめたのかもしれない。


 ぼろぼろと涙をこぼしながらはばからず泣くわたしを見て、柏木は困ったように頬をかく。


 柏木にしてみたら、こんな気まずい空気はなかなかないだろう。せっかくの彼なりの気遣いを勘違いされた上に、誤解をとくために弁明しなければならず。結果として、目の前で女に泣かれているのだ。そう考えると、罪悪感がふつふつと沸き上がって、なおさら涙が止まらなかった。


 そっと、何かが触れた気がした。


 目を開けると、わたしの頬に柏木の手のひらがあった。伸ばした親指で、わたしの目元をなぞり、優しく涙を拭った。

 そのまま、柏木が口を開く。


「……そっちは、勘違いじゃないかも」



 ——

 ————

 ——————



「あっははっ、何度聞いても笑える! あんたたちの馴れ初めはマジでネタすぎるよ」


 優衣の馬鹿笑いが居酒屋の一室にとどろいた。柏木も同じように笑っている。他の同期たちもこらえられないようだ。わたしはわざとらしく、フンッと顔をそむけてやった。


 事あるごとに、優衣は面白がってこの話題をふってくる。恥ずかしがるわたしを見るのが楽しくてたまらない様子。相変わらずのわたしと優衣の関係だった。


 柏木と付き合った報告をしたとき、優衣は自分のことのように泣いて喜んでくれた。しかしその経緯を説明すると、とたんに笑い泣きに変わった。笑いすぎて過呼吸を起こしたくらいだ。あまりに笑いすぎだったので、ノロケ話で地道に復讐しているところである。


 でも。

 同期たち、優衣にも言ってないヒミツを、わたしは持っている。

 わたしたちの馴れ初め。わたしの勘違い。

 実はバスでキスした、柏木のだってこと。

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バスに乗ってて、いきなりキスされたんですけど でい @simpson841

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