第七章 神様の存在とシュレディンガー

私はよく散歩をするんですがね…

その通り道に神社があるんです。

そこで人間たちがなにやら真剣な顔で…

手を合わせて頭を下げているんですよ…

しかもこの硬貨というものを木箱に入れて…


何やら人間たちはその神様といわれるものからの「ご利益」といわれる

恩恵を得ようとして人間たちは誰もいなさそうな家にペコペコしている。


しかも悪さをすると「祟り」が来るとか「罰」が当たるとか

神様が怒ってその悪さをした人間に対して仕返しをするという言葉を聞いたんだが…

なんとも人間らしいというか、ほぼ人間と同じではないかと思えてくる。

神様という存在、人間が言うには

「この宇宙や次元を創り上げ(創世)した存在でありかつ絶対唯一無二で全能である」という凄い存在なんでしょう。


しかしながら疑問があります。

その神様の存在に…

もし、達也どのが神様になったとして考えてみてください。


あなたの家にいきなり客人が来ました。

その客人は何やら貝殻らしきものを入れて、必死にお尻を振っていました

そのあとに自分の希望を何個も叶うことをお願いしているんです。

達也どのは、その客人に何かをしてあげたいと思いますか?


達也どのはお優しい方だから、一回ゃ二回は何とかしてあげたいとお思いなるでしょうが、これが毎日、いや…何年、何十年と自分の我欲のためにお願いされてはいかがでしょう…さすがの達也どのも悩まれてしまいますよね。

それが一人ではなく、何千何万ものの人が押し寄せているのです


確かに達也どのの力で願いが叶った客人は、神様神様と拝んではくれますが

手に余り願いを叶えてあげることができなかった客人は貴方の存在すら否定します。

しかも彼らのその意識に対して怒りを覚え、報いを与えようととしたとしましょう…

彼らは何と達也どのをお呼びするでしょうか?


それは悪魔、魔王…と勝手に呼ばれてしまいます。

なんと身勝手な事でしょう…


しかも、長い歴史の中で神と呼ばれる存在の中に何柱もそのように

身勝手な人々の見解で悪魔や魔王と呼ばれた存在になった神々もいらっしゃいます。

悲しい話ですが、私どもの先祖「ケット・シー」もそのような扱いを人間に受けられたこともあります。

本来ならば「願い」というのは自分のためのみのことではなく

周りの人のために「願い」というものを祈ることを言うのではないのでしょうか。


わざわざ神様が住んでいるところに押しかけるのではなく

悪いことをしたときは神様はどこでも見ていてバチを与えるのであれば、

逆に良き事、愛すべきことも見てくださると思うのです。

ならば、神社という所ではなくても、大地やお天道様のような自然に

いつものように生きられることに感謝しお礼をすることが本来の姿なのではないかと思うのです。


生きとし生けるものの我欲のある願いは果たされたとしても

止めどもありません…

しかし、感謝することもまた考え方によっては無限大なのです…

同じ願いでも我欲ではなく、愛する人や貴方に喜びを与える人々のための願い

人類のための願いをお願いすることが

神様だって何か手助けしたいと思うんじゃないでしょうか?


お願いだけをするのではなく…

神社で「感謝」をしている人が多くなることを私は寧ろそれを願いたいものですな…

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