3 そして少女は目を覚ます

 それから三十分程待った頃だろうか。


「……ッ」


 少女は声にならないような声を絞りだし、ゆっくりと目を開いた。


「良かった! 意識戻ってきた!」


 改めて安堵する八尋に対し、目覚めたばかりで状況が読めていないであろう少女は言う。


「此処は……いや、そもそも私はなんで倒れて……」


「此処は俺んち……って言っても意味分かんねえだろうけど、俺が帰ってきたらお前が血まみれで倒れていたんだ」


「私が……血塗れで。ってうわ、本当だ。床が血塗れじゃないか……」


 言いながら少女は体を起こそうとする。


「だ、大丈夫か? 起き上がって」


「ああ。どういう訳かこれだけ血を流していた筈なのに体が動く……ってちょっと待て。なんで動いているんだ? 普通死んでないとおかしいだろうこの状況は……え? んん?」


 少女は困惑するようにそう言って……そして最後に言う。


「というかそもそも……私は誰だ? 名前以外何も分からん!」


「……ッ!」


「な、なあ教えてくれ! 私は一体誰なんだ!」


「あ、いや、知らない。マジで知らねえ! お前が血塗れで倒れてるの見掛けたのが初対面……ってマジでか。お前……自分が誰かもわからないのか?」


「うむ。これは俗に言う記憶喪失という奴だな」


「……マジかぁ」


「マジのようだ。私に分かる事といえば何かに巻き込まれていたという事と、記憶を失う前の私がこの気温でこんな意味の分からない格好をしていた馬鹿野郎だったという事位だ」


 そう言って少女はゆっくりと立ち上がって……外へ出ていこうとする。


「ちょ、ちょっと待てちょっと待て! どこ行くんだよどこへ!」


「どこって……そりゃ記憶が無いんだから指針も何も無い訳だが、少なくとも此処にいる訳にはいかないだろう。私が何に巻き込まれているのかは知らないが、お前が私に巻き込まれている事は分かる。これ以上巻き込めん」


 それを聞いて、目の前の少女が自分よりも遥かに強い心を持っているのを察した。

 当時の自分はそんな事が言えなかった。だから色々な人を巻き込んだ。巻き込んでしまったから、それはより強く感じられる……だからだろうか。


「ああ、記憶が戻ったらクリーニング代……というか迷惑料は持ってくる。なんとか用意する。だからとにかく、巻き込んですまなかった。それじゃあ――」


「待ってくれ!」


 出ていこうとする少女の手を掴んだ。


「そんな血塗れで何かに巻き込まれていて記憶も無いなんて、役満みたいな問題抱えてる奴をそのまま行かせる事なんてできるか」


「……え?」


「俺に何がしてやれるのかは分からねえ。だけど……最低限の手助けはしてやる」


 目の前の少女の手助けをしようと思った。

 自分程度に何ができるのかは分からないけれど、このまま行かせてはいけないと思った。

 救われるべきだ。誰かが手を差しのべるべきだ。

 自分のようなろくでなしですら救って貰えたのだから、目の前の少女のような人間は救われなければ駄目だ。


「待て、分かるか。明らかに危険だぞ。こんな奴に関わっちゃ駄目だろう」


「普通は駄目だが俺ならいい。俺はお前みたいな奴助けるために今の仕事をしてるから」


「仕事?」


「便利屋。今のお前みたいなやべえ事に巻き込まれている奴にでも手ぇ差し伸べられるヒーローみてえな仕事だよ。見習いだけどな」


「……」


 八尋の言葉に少し困惑するような様子を少女は見せるが、それでもしばらく黙り混んだ後、やがて小さく笑みを作って言った。


「なら少し頼ってもいいか? 正直……心細かった」


「ああ」


 そう言って八尋も笑みを作る。

 見習いの。

 それも才能の無い自分にどうにかできるようなスケールの問題ではない事は明らかだから、笑えるような状況ではなかったのだけれど。

 それでも涼しい顔をして、どうしようもない邪な感情を誤魔化さなければならない。


 救われるべきだと思ったのは本当だ。

 だけど自分がそんな理由だけで動けるような人間ではない事は。

 そんな理由で誰かを助ける為に今の仕事にしがみついている訳ではないのはとっくの昔に理解しているから。

 今の自分が動けた理由なんてのは、酷く不純な理由なのだから。


 嘘で塗り固められた自分の言動で安堵してくれたような相手に、この胸の内を晒す訳にはいかない。

 そう考えて改めて自分は本当にどうしようもない人間だと、そう思った。

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