第 12 幕   治療と救済


その光景は、何度思い出しても何処か霞んでいて。


ぐしゃぐしゃになった紙を握る手から、力が抜けていく。

悲しいはずなのに、頭の中には諦念しか浮かんでこない。


ごめんね。さようなら。


虚ろに濁った緑が、曲がりくねったインクのシミを映していた。



バチンッ、と攻撃的な音を立てて、ロンドの手が弾かれる。

驚きと困惑が浮かぶ表情で、ロンドは自分をはらった相手に恐る恐るといった様子で声をかけた。


「……ルクス君、そろそろ起こしたほうが良いと思った……のですが」


ルクスはベッドの上で仰向けになったまま、こちらを覗き込むロンドを何処か怯えた顔で

見つめている。

暫くの気まずい沈黙の後、我に返ったようにルクスは上体を起こした。


「えっと………………」


本人にとっても予想外のことだったのか、ルクスは狼狽え視線をさまよわせている。


「驚かせてしまいましたね。別に怒ってはいないので、大丈夫ですよ」


ロンドはそう優しく微笑むと、下で待っていますので、しばらくしたら来てくださいね、と言い残して部屋を出ていった。

部屋のドアが静かに閉められると、ルクスは少し汗ばんだ髪をかきあげて、悪夢の原因で

あろう先日の光景を思い浮かべる。


「……遺書なんて、見たからだ」


低く、呻くようにそう呟き、憂鬱な息をついた。




「お、来たね」


身支度を済ませ、ルクスが下へ降りていくと、他の人に接するときよりも低く張ったエラの声が聞こえた。

いつもの王子様モードのようだ。

微笑をたたえてルクスが向かうと、既にそろったベネヌムメンバーが彼へと視線を向ける。

4人はいつものように立っていたが、唯一マウイだけはこぶりな椅子に腰をおろしていた。

マウイはルクスににこりと笑顔を向けたが、腕にも巻かれた包帯が痛々しい。

ルクスは少し視線を泳がせながらも、間隔が空いていたマウイとロンドの間へと入り、前に立っているエラに顔を向けた。


「さて……皆揃ったところで、伝えなければならないニュースがあります……」


そう真剣な表情で切りだされ、ルクスたちの背が緊張に強張る。

マウイはそれが傷に障ってしまったのか、いてっ、と小さな声を漏らしていた。


「昨日の事件はまだ調査中、上はこれからもっとごたつくだろうし、私達への当たりも強くなることが予想される……が!」


そこまで言ってエラはカッと目を開くと、顔の前で手をたたき一転して明るい声音で続ける。


「明るいニュースもある!修復中だったベネヌムギロティナ館が完全復活!戻れることに

なりましたー!」


ベネヌム館に帰れる。

その言葉にメンバーの表情が一斉に緩んだ。ルクスも例外ではなく、ほっと胸をなでおろす。


「明後日にはもうここを出ていなくてはいけないから、各自自分の荷物をまとめておくようにしておいてくださいね。あと……今日はチシャが来るから、ルクス君を紹介したい」


最後、エラが顔をルクスの方へ向けてそう言った。


「チシャ……さん?」

「モンストルムきっての治癒師の女の子よ。うちはよくお世話になってるの」


新しい名前に首をかしげたルクスに、マーシャが我先にと説明を入れる。

ベネヌムによく来る女性と聞き、ルクスはエラと初めて会ったときのことを思い浮かべた。

何かとクセも我も強い女性達が多い此処のことだ。

やっぱり凄い人なのだろうと、身を固くする。

そんなルクスを見てか分からないが、エラは笑いながら隣に移動し、そのままマウイの額に指を押し付けた。からかうようなそれにマウイがむっと口角を下げてもお構いなしに

ぐりぐりと指を回しながら、エラが口を開く。


「ホラ、マウイが無茶してボロボロになっちゃっただろう?この子が抜けると今はちょっと厳しいからね。できるだけ早く復帰させなきゃなんだ」

「ぼ……っ僕は即戦力やけんな!ぃっ……」

「大きい声出すから開くんですよ」


ややお怒りらしいエラに対抗するように、マウイが声を上げるが、またもや傷に障ったらしく、今度はロンドに言われてしまった。

両サイドの年上メンバーから視線で責められ、しゅんと肩を落とすマウイを見て、少しルクスの表情が緩む。


「そうですね。早く会って、マウイさんが元気になってくれたら……嬉しいですし」


優しい笑顔でルクスがそう言うと、マウイとロンドが感動したように顔をそちらへ向けた。


「ベネヌムの良心……っ!」


既に顔を抑えながら彼の方へ向かっているロンドに対して、椅子から動けば叱責されるで

あろうマウイは、その場で行き場のない両手を動かしている。


(撫でようとしてる……あ、ロンド……)


女性陣がそんなマウイと、そのままルクスを撫で始めたロンドを見て心中でそう呟く。


(ロンドには撫でられてるのに、私が触れようとすると避けるのよね……マウイとはよく

一緒にいるみたいだし、同性のほうが……?もっと距離を縮めないと……)


ロンドをじっとりと見つめながら、マンサナが一人そう考えを巡らせていると、ふと、

ルクスの顔が彼女の方へ向いた。


「!」


彼の目が、不思議そうにぱちぱちと瞬かれる。

その瞳に、鋭いアンバーの瞳が映り込んでいた。



時計の針が2つとも北を指すころ、来客を告げるベルが館へ響き渡った。


「ほら、チシャがきたわよ!」


エラのときのようにならぬよう、ドアから離れていたルクスを、マーシャが勢いよく引っ張っていく。

エラが大きな入り口を開けると、おどろいたようにピクリと揺れる頭が僅かにルクスの視界に入った。


「よく来てくれたね、チシャ……待っていたよ」

「はうっ…………!」


エラが彼女に声をかけると、やや裏返った、細い声が少女から発せられる。


(あれ……思ったほど激しそうじゃない……?)


そう、思い切ってルクスが覗き込んでみると。

そこには紅潮した肌で震える、テオよりも少し濃い褐色肌の少女が立っていた。

細い目を見開き、感激しているように口元を手で覆っている。


「エラ様の貴公子モード……っ、宝石のように華やかな煌めきとっ、男装の麗人を思わせる立ちふるまい……そんな存在に名前を呼ばれる…………はぁっ……プライス、レス……」

「ふふ、喜んでもらえたようで何よりだ。今日はこのままで行くかい?」

「おっっ、お願い、しますっ!」


少し音量調節を誤った声量でチシャはそう叫ぶと、後から恥ずかしそうに口元を覆った。

「ふふふふ」とやや不気味な笑い声が漏れているが、本人は気づいていないらしい。

それをぼーっと見ていたルクスの手が引かれ、段々とチシャの方へと向かわされる。

程なく、チシャとルクスの視線がかち合った。


(あ、俺よりちょっと大きい……あれっ……??)


そんなわりかしどうでもいい感想を真っ先に抱いたルクスの頭は、妙に近く見える彼女の姿に違和感を覚えるまで、暫くかかり……


「!?」


加減を知らないマーシャによる移動で、二人の距離はわずか20センチあるかないかというところまで迫っていた。

初対面にしては明らかに過ぎた失礼に、ルクスは飛び退いて頭を下げようとするが、何かが突っかかって後退することがかなわない。慌てるルクスと、顔を真っ赤にして震える彼女。

ルクスには後ろを振り返る余裕が無いようだが、その様子を横から見ているエラには、

彼の背中を全力で押さえつけているマーシャの姿が思いっきり見えていた。


「あ、わわ、わわわゎゎゎゎゎゎゎ……」

「ごっ……ごめんなさい!?」


やがて、声を聞きつけたロンド達も玄関付近へと向かってくる。

この光景を目にしたロンドは頭を抱え、マウイは理解が追いついていないらしく、その場で固まっていた。

ちなみにポプリはいつもどおり寝ている。

ルクスの背から少し顔をのぞかせ、期待に満ちた表情でチシャを見つめるマンサナが考えていること……


((ルクス君をベネヌムギロティナの一員として紹介したいんだろうなぁ……))


どうにもルクスを此処にしっかりと引き入れたがる彼女らしい奇行だ。

自信満々といった様子のその目を見る限り、彼女が自発的にルークスを離すことはなさそうである。

エラは暫く苦笑いとともにそれを眺めていたが、いよいよ倒れかけたチシャを受け止めて、口を開いた。


「それくらいにしてあげてね〜、マーシャ。チシャ、大丈夫かい?」

「…………エラ、様……あの、あの赤毛の新顔さんは……」


エラの腕の中で、チシャはまだ処理が追いつかないのかとぎれとぎれに、エラからの問い

かけには答えず、ゆっくりとその目をルクスへと向ける。

湯気が出ているようにすら見える彼女がふらつきながら体制を整え、食い入るように彼の

全身を見つめてくる。

謎の覇気を放っているチシャに怯んだルクスは、今度こそ数歩後ろへと下がり、視線でエラに助けを求めた。が、


(困り顔のルクス君……これはチシャ、余計にもえるぞ〜)

(ん?……エラさん!?)


何故か曖昧な笑みを返すのみで何もしてくれない。

見かねたロンドがようやくルクス達のもとまでやってくると、ルクスを少し後ろに下がらせ自分が代わりに前に立ってくれる。


「お久しぶりです、チシャさん。彼は一ヶ月ほど前にベネヌムギロティナに入った……」

「ルークスです……はじめまして」


突然のロンドの介入にチシャは我に返ったのか、数回の瞬きの後、ハッと目を見開いて頭を下げてきた。


「もっっっ……申し訳ありませんっ!つい……わたしは、その……チシャ・フォスター……という者、ですっ」


すっかり縮こまってしまった彼女に、ルクスもいつかのようにペコペコと頭を下げ合う。

その後黙りこくってしまったチシャに、エラは場をとりなすように二人(3人?)の間に

入り、本題へと切り出した。


「それで、今日はマウイの傷をみて、処方を貰いたいんだ。座ってろって言ったのに何故

か立ち上がってるあの馬鹿の、ね」


エラの視線がギロリ、と少し遠くからこちらを伺っていたマウイに向けられる。

遠目からでもマウイの表情が引き攣るのが分かった。


「マウイさん……!でっ、では、向こうの部屋で傷を見させてイタダキマス……!!ところで……傷の場所は?」

「脇腹と腕だね」

「お腹ですか!?お腹ですね!」


そしてそれを聞くなり興奮気味に飛び上がり、早口に言い放つと、チシャは小走りで部屋へと向かっていく。

妙に嬉しそうにしている彼女は、怪我人の報告を得たにしては少々異様な反応で、ルクスは少し心配になった。


(あの人大丈夫なのかな…………)


やはりギロティナに来る女性、少なからず変人であることは間違いないようだった。




事務仕事として書類の整理をしているメイソンに、聞き馴染みのある可愛らしい声がかけられる。


「メイソン、一つ聞いてもらいたいことがあるんだ」

「どうしました?フィー」


声の方へと目を向ければ、何処かしゅんとした様子の彼女が彼を見上げていた。

彼女は朝からどうも元気がない。

それを知っていたメイソンは、手にしていた書類を手短にまとめ、彼女の目線に合わせて中腰になった。

そうすれば、気が重そうにしていた彼女もぽつぽつと話し始める。


「あの、さ。昨日……」


仮眠室でルクスが眠りに落ちたあと、フィーはゆっくりと瞼をあけ、暫くぼんやりとルクスの寝顔を眺めていたが、その表情が時折つらそうに歪むのを見て……

ピーズアニマを使った。


「そのときはルクス君も楽そうになってたし、私も嬉しかった。けどね」


そこまで言って、フィーが口を噤む。


「…………何か、夢に見たのですか?」


うつむきがちなまま沈黙した彼女をみかねて、メイソンが探りを入れるようにそう言って見せた。

フィーがこくりとうなずく。


「うん……あのね、言っていいか分からないんだけど……ルークス君、怯えてる……って

いうのかな。ビクビクして、息が苦しくなるような、そんな夢が入ってきた」


随分と言葉を選んで話しているであろう彼女の報告に、メイソンは顎に手を当て、しばし

思案しているようだった。

フィーも黙り込み、無言の時間が流れる。

やがてメイソンは片手を彼女の頭へ移動させると、あやすようにポンポンと触れた。


「そう、ですね。私も、今まで時折ルクス君を見かけていましたが……ギロティナは異様な組織と言っても過言ではありません。その中にいることが、やはりストレスになってしまっているのかもしれませんね」


ルクスの姿を思い浮かべながらそう言う。

ベネヌムの者達とこんなに長期に渡って接触することは今までになかったこと。

他の処刑人達ともほぼ初対面のようなものだったが、その中でもルクスが新入りであろうことはラメティシィ側から見ても明らかだったのだ。


「何かしてあげたいのなら、彼とときどき話をするくらいがいいと思いますよ。向こうの

都合はありますが、私達ラメティシイが重んじるべきは……」

「赦しと、慈善」

「よく言えました」


今までどおりにその言葉を口にしたフェリシテに、メイソンはにっこりと微笑みかける。

これからはベネヌムとの交流も必要かも知れないと、心の奥で呟きながら。




「そ、それほど深くはないので、ちゃんと処方を摂っていただければ直ぐに完治しますね」

「ありがとうさん。ほんに、わがかっていつも迷惑かけてすまなか……」 


小部屋でマウイの傷を診おわったチシャがそう言うと、マウイが感謝と謝罪を口にする。

一旦解いていた包帯を巻き直し、たくし上げていた服をそっと下ろしてから、チシャは小さな手記を取り出し、ペンですらすらと文字を書き連ねていった。


「……正常、このくらいなら縫わなくても処方で……相変わらずしなやかで丁度いい筋肉量……ばっちぐ……」


最後に感想のようなものを呟きながら記入を終えると、手記を閉じチシャはマウイに向き

直る。


「その……すみません、マウイさん。この傷も、少し跡が残ってしまうかと」

「ん?あぁ、そうやな……」


突然しゅんと肩を落とした彼女に、マウイは少し不思議そうにしながらも優しく返した。

ぎゅっと服の裾を掴み、チシャは先程よりも更にか細い声で続ける。


「わたしの力では、傷の治りを早められても傷跡までは消せません……もし、もっと治癒魔法のようなピーズアニマだったのなら、皆さんの体に沢山の傷跡が残ることは…………」

「チシャ」


今にも泣き出しそうなチシャの声を、マウイの声が遮った。

びくりと肩を震わせた彼女が俯いた顔を上げると、微笑んだマウイの顔が目の前にあった。


「そげんことゆわんでくれ。無鉄砲な僕が今もこん仕事ば続けられよんな、紛れものうチシャんおかげっちゃ」

「で、も」

「それに、言うほど残っとらんぞ?今残りよーとは殆どここしゃぃ来る前ん傷や。チシャがこうやって想うてくれるってだけでん、ちかっぱ安心する……」


心から嬉しそうにそう言い、目を細めるマウイを見てチシャはようやく表情を緩ませると、最後にボソッと小さな声で呟く。


「そして天然たらしも相変わらず……」


それがマウイの耳に入ったかは分からないが、そんな彼女を彼は只々不思議そうに眺めていた。




診察も終わり、部屋から出てきたチシャがエラに数枚の葉を見せながら手渡す。

ウォルテクスに来てからはあまり見なくなってしまった青々とした野菜に、ルクスはつい

また近づいて覗き込んだ。


「これが今回の処方ですっ、その、今まで通り2日は安静にして、夕食とともに摂ってください。傷が治ったように見えても、お渡ししたぶんが終わるまでは気を抜かないようにお願いします」

「了解。チシャはこれからなにか用事があるのかい?」


なにか手に持っていないと落ちつかないのか、エラに葉っぱを渡してすぐ手帳を取り出そうとしていた彼女の動きがピタリと止まる。


「いいえ、特には……」


首を傾げてみているが、エラの言いたいことがほんのり彼女は分かっているようで、口角が僅かに上がり、目には期待がちらついていた。

それに答えるかのようにエラは明るく指先をピンと立て、笑顔で提案を持ちかけた。


「なら、せっかくだしお茶でも飲んでいかないかい?僕も君とお話ししたいからね」

「は……はいっ!」


喜びを全力で表現したかったのだろうか。半ば飛び跳ねるかのように首を縦に振ったチシャの手から、ポトリ、と何かが滑り落ちた。


「……あ」


手帳。

ルクスのほど近くに落ちたそれは、衝撃でページが数枚折れ、開いてしまっている。

拾い渡そうとかがんだルクスが、そっと手帳を持ち上げると。


(ん??)

「あっ……!?だ、駄目ーー!!」


手帳を落としたことにチシャが気づき、声を上げたがもう遅く、ルクスの目はしっかりと記された内容に釘付けになっていた。


『エラ様・・・貴公子モード、乙女モード、男勝りモード、秘書モードを拝見。どれも捨てがたいが個人的には貴公子モードが素晴らしい!一つ一つの所作がなだらかで美しく〜……

マウイさん・・・THE好青年最高!笑顔が可愛い!やっぱり天然たらしだしなんなんだこの子は(失礼)(でもしんどい好き)どうか後ろから刺されませんように……あっ、でももしそうなったらわたしがまた診察を……

ポプリちゃん・・・小さい!儚げ!キャワイイ!!でもかなり前からいるし、年齢も不詳……

いつも寝ているなどミステリアス!膝に乗られたい、枕にされたい。欲を言うならば一回

くらいわたしのほう向いて(切実)……』


おびただしいほどにズラズラと書かれたその文は、ルクスが読み解くのも難しいほど。

そんな多くの文字の中、ルクスの目が自分の名前らしきものの上で止まる。


「お、俺……」

『ルークスくん・・・いつの間にかギロティナ入りしていた新入り君。ぴょこぴょこ赤毛

かんわいい!スッキリしてるけど端正なお顔……可愛い系?なのかな……?体細いのも萌

ポイントだけど流石に細すぎない?心配であります。あと、口開けたときに鋭い犬歯が見えた!お顔とも相まって、逆に可愛い〜……』


いつの間に書いたのか、しっかりとルクスの特徴等を記したその手帳が、するりと隣から

伸びた手に奪われた。

ひらひらと手帳を振りながら、面白そうにエラが笑う。


「ふふ、今日も絶好調だね、チシャ」

「あああああぁぁっ!新人さんにまでバレたっ……!!」

「えぇ……?」 


いまいち状況についていけていないルクスの前で、チシャが大袈裟に崩れ落ちた。

新人さんにまで、ということは、あの手帳の内容を他のギロティナ員は知っている、ということなのだろう。

マーシャも隣でくすくすと笑っている。


「うふふっ、チシャはね、私達を観察するのが好きみたいなのよ。ルクスのこともよく見てたみたいね」


マーシャの説明を聞きながら、ルクスはガラスが張られた棚の前へと移動して、自分の姿を映してみた。

口を開き、ちらりと覗いた白を剥き出すように指で唇を引っ張る。そこには確かに手記に

書いてあったとおり、鋭い犬歯がやや攻撃的に突き出ていた。


「…………よく見てるなぁ」


感心を込めてルクスはそう呟くと、照れを見せながらチシャの方に笑いかけてみせる。


「えっ……と、俺は別に嫌じゃありませんよ?これくらいなら……」

「あっっっっっ、でも!別に執拗なストーカー行為をしているわけじゃありませんし!本人に不利益が生じない限りは個人で楽しむならアリだと思うんです!うん、アリ!全然アリ!!」


聞いてない。

ルクスの小さな声は、何かを懸命に弁解しようとしているらしいチシャの声にかき消され、彼女も全くルクスのフォローが聞こえていないようだった。

エラがお茶の用意を済ませて戻って来るまで、チシャは一人で話し続けていた。




「何か、耳寄りな情報がないか、ですか?」


トポトポと注がれる紅茶を前にしながら、エラからの問いにチシャは首を傾げた。

柔らかな湯気とともに、フラワリーな香りが二人の間に立ち昇る。

その出来上がりにエラは上品な笑みを浮かべると、椅子に座りチシャと向かい合った。


「あぁ。まだ詳しくは話せないが、最近気がかりな出来事があってね。曖昧で悪いが、治癒師としてウォルテクス内を飛び回る君なら何か知らないかと思って」

「う〜ん……」


期待に沿った回答をしたいのだろう。

チシャはカップに口をつけながら左上に目線を向けて思い出そうとしていたが、そう上手く行かないらしい。


「……ごめんなさい、最近はあまり。でも、今まで聞いた話にも何かあるかもしれません。それでもいいですか?」

「構わないよ、お願いするね」


エラが承諾すると、チシャは一口紅茶を口に含むと、ゆっくりティーカップを机に下ろす。


「では……サルナールさんの腰痛が突然完治した話……銀行前のお花屋さんの売るお花がいつも満開という噂……学び舎で良家のお坊ちゃんが階段から突き落とされて大怪我を……」


チシャの口から出る情報はのほほんとしたものから立派な事件まで様々だったが、どれも

それ程珍しくはない。エラも頭を巡らせるが特に何も引っかからず……


「貧困街から出る死体の大幅減少……」


ところが、チシャからでたその言葉に、エラがピクリと反応する。近くのマンサナとルクスはその反応に首を傾げた。


「減った……のかい?」

「は、はい。ここ数年くらいですね……今まではしょっちゅう出てきてたんです、その、傷が化膿してしまっているものや、病死体、飢えたものや狂死体まであったのに……」


立て続けに出てくるおぞましい単語に、マンサナはサッと顔を青くする。

エラは死体が減ったことが信じられないらしく、マーシャ達とは別の意味で眉をひそめていた。


「貧困層の所得が上がった……という事実はない。そうだね?」


チシャは頷くと、残り少なくなった紅茶をくいと飲み干す。


「そっち側で仕事をする医師は稀にいても、お金が足りない方が殆どなのでいつも死人が

絶えないはずだったのですが……この状況は嬉しいのですが、やはり闇医者さんでもいない限りはありえないかと」

「闇、医者……か」


ミシェレとの決定的な繋がりは見えてこないが、これは覚えておいていいかもしれない。

チシャに礼を言って、エラはまだカップに残る淡いキャラメル色を揺らした。



パク、と小さな子供が開けた口のなかを、青の瞳がじっと見つめる。

真剣そのものなその視線に子供の後ろに座っている母親は少しビクつくが、もう何度もこの診療所の世話になっているのもあり、子供を引き離したりなどはしなかった。


「……はい、もう口を閉じて」


細いヘラのような器具を男児の口内から引き抜くと、アロは平坦な声でそう言ってカルテに何かを書き足し始める。

やがて母親の方を向くと、引き出しから出した小袋を手渡した。


「扁桃腺が少し腫れているので、この薬を一日一回、白湯で飲んでください。湯が手に入らない場合はここに来てくださればお渡しします」

「あっ……ありがとうございます!本当に、いつも……!」


包みを受け取った母親は感極まったように笑顔を浮かべると、ぺこぺことアロに頭を下げる。

表情をこわばらせている子供に気がついたアロが、その頭にぽんぽんと優しく触れると男児もふんわり顔をほころばせた。

何度も礼を言ってその親子が出ていくのを眺めながら、奥の部屋からフィンが顔を覗かせる。

普段よりも少し物が良い服を上から羽織り、僅かにひびが入った鏡で頭髪を整えていた。その様子をじっと見ていたノアが、不服そうに頬を膨らませる。


「おにいさま、また他のおんなと遊びに行くの……?」

「女って言うんじゃない、友達だ……って、どこでそんな言い方覚えた!?フェレスの影響か!?」


ノアのほっぺを勢いよく触りながら問い詰めるも、彼女はツンとすましたままで全く口を

割らない。

そんなことをしていた二人の耳に、子供の大きな泣き声が聞こえてきた。


「えっ……また!?」


大号泣のその声に、ノアを離したフィンが診療室へ駆け込むと、案の定泣いている子供と

慌てる母親、そして無表情で……いや、フィンにしかわからない程の些細な表情の変化だが、困り果てているのであろうアロがいた。


「アロ……」

「フィン、来たか……見ての通りだ、助けてくれ」


彼にそう言われてしまえば、フィンは手を差し伸べるしかない。

子供の頭をそっと撫でながら、優しい口調であやし続ける。

初見の人間、特に子供にしょっちゅう怯えられてしまうアロの近くに長くいて、ノアの面倒も見ているフィンにとって、子供の相手をするのは慣れたものだ。

やっと落ち着き、アロのことも怯えを見せながらも目を合わせられるようになった子供の

様子をみると、ひと仕事終えたというようにフィンは大きく伸びをする。

アロもほっとしたのか、深めに椅子に腰掛け直していた。


「……フィン?」

「ん、何?」

「友達と会うんじゃなかったのか」

「!!」


いつもと全く変わらない調子でアロが言ったその言葉に、フィンは暫しフリーズした後飛び上がった。

そうだ、約束があったのだ。

引き止める原因を作ったにも関わらず『何故まだここにいるんだ』とでもいうようにこちらを見ているアロにため息をつきながら、フィンは部屋を飛び出し、玄関のドアを開け放った。


「あっ」


本来、このタイミングで目に入るはずのない少女の姿に、フィンの顔が驚きに染まる。


「良かった、ここであってた……」

「ちょ、いやいやいや!駄目じゃんこんな危ないところ来たら!」


この貧困街に似つかわしくない、清潔でものの良さそうなワンピースを着た彼女に、フィンがキツめに注意をすると、彼女は素直に頭を下げた。


「ごめんなさい。フィン君に会える時間、ちょっとでも欲しくて……」


しゅんと肩を落とす少女にこれ以上言うのも気が進まず、フィンは彼女の手を取ると、比較的治安の良い地域へとあるき出す。


「元はと言えば、俺が遅刻したのが悪いし……強く言ってごめん。でも、気をつけてよ?何かあったら、もうこうして遊びにだっていけなくなっちゃうし……」


艶やかな黒髪が揺れ、薄い蒼がほんのり熱を帯びる。


「これからも会いたいからさ……エイダ」


乙女の顔で微笑む、美しい少女がそこにいた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー12幕 終

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