第 9 幕 虚飾少女とショーウィンドウ


(__音が、聞こえる)


エラは暗闇の中、薄く目を開いた。

自分は確かに自らの意思で身体を動かし、目の前のモルスを処刑している。

なのにもかかわらず、一方では暗闇の中で気だるくそれを傍観しているのだ。

そして今、エラは後ろに佇む一人の少女の気配を感じ取っていた。


(やっぱり、この現象は憑依の副作用なのかも知れないな。実際、同じような体験をしたモンストルムは多いらしいし……)


どこか重い身体をのけ反らせ、エラは後ろの少女の姿をしっかりと目で捉える。


「…………懐かしいなぁ」


5歳ほどの背丈、薄紫の髪をリボンで緩く束ねた、そばかすが特徴的な少女がそこにいた。

少女はなにも言わず、ただぱっちりとした瞳を瞬かせている。

エラは、今度は身体の向きを変え、少女と向かい合う形にしてから再び口を開いた。


「体験談の中には、キミが鮮明に思い出を見せてくれるというものがあったのよ。ねぇ……あたしにもそれ、見せられるの?」


エラの問いかけに、僅かな間の後。


「…………うん」


小さく、高い声が少女の口から発せられ、ぴょこぴょこした足どりでエラに近づいていく。

当然、その小さな足にヒールはなく、ぴかぴかに磨かれたメリー・ジェーンが、存在しているのかも分からない地面を踏みしめていた。

やがて、子供の手がエラの額に添えられる。

少しずつ肉がついてきた頃の、脆そうな手。

あの人に手入れしてもらった整った爪。

エラのなかに、懐かしさがなだれ込んできた。


(……あぁ、この手を握ってくれた人がもう一人居たっけ)


瞼を閉じる寸前、最後に浮かんだのは少年の姿だった。




最初の記憶は、いつも濁りきった灰色だ。

その前に何をしていたのかも、何を考えていたのかも分からない。

ただ、目の前の灰色だけがあたしの存在を見つめ続けていたように感じた。


「もっといい寝床が見つかった。移動しよう」


そして、最初の声。

それから一拍遅れて視界に声の主が映り込む。

緑がかった黒の髪に、深い青の瞳。

あたしは本能的にその少年の後ろについて歩いていた。

汚れた手を引かれる。

沢山の大きな人のなか、ただ次にすることだけを頭に浮かべて身体を動かす。

それだけだった。


「……ほら、ここだよ。今日はここで眠ろう」


こくりとうなずいてみせれば、少年は安堵したように息をつく。

この動きの意味なんて知らなかったけれど、こうすれば彼が辛そうにしないことは分かっていた。

狭い路地に、汚い子供二人。

ぴたりと身を寄せ合って眠るこのときは、とても安心できる。

きっと”あったかい”からなのだろう。少年が前にそう言っていた。

目を閉じる。



そこからの生活は、起きて、少年に言われたように箱を持って座って、たまに入れられるお金や食べ物を眺めて、たまに子供にそれも取られて、少年が食べ物をもって帰ってくるまでそうしていた。

そこからの、といっても、きっと覚えていないだけでずっと繰り返していたのだろう。

辛いのも楽しいのも分からなかった。

只々生きていた。

どうして少年が自分のそばにいるのか、なんで自分が道行く人たちにあんな目で見られているのか、なにも知らなかったし知ろうともしなかった。

そうして暫く生きた後。


「こんなところに居ては風邪をひいてしまうよ。お嬢さん」


今度は、優しくて大きな手に抱きしめられた。




どうやらあたしは幼い頃からのこの生活で、喋ることも簡単な作法も分かっていなかったらしい。

あたし自身、急に新しくなった世界に呆然としていて、拾われてすぐの記憶はほとんど残っていない。

その中で鮮明に残っているものは、名前の記憶だ。

あたしと少年に食事と服を与えたその人は、目線をあたしに合わせて優しい口調で問いかけてきた。


「キミの名前を教えてほしい。言えるかい?」


あたしはその意味が分からなくて、その場でパチパチと瞬きを繰り返す。

当然だ、自分の名前を持っていないどころか、”なまえ”すら知らなかったのだから。

暫くそうしていると、その人はそれを察したようにはっと目を見開いた。

少年も目線でそれを伝えてくれていたような気がする。

その人が、優しい手のひらであたしの頭を撫でてくれた。


「名前は、とっても大事なものだ。だから、キミにも必要なんだよ」


そう言われてもまだよく分からなかったけれど、必要ならなんであたしにはないんだろう、と少し不安に思った。

だからこそ、嬉しかったんだ。


「キミがこれから先、もっと素敵になれるよう、願いを込めて名前を贈らせてくれ。今日からキミの名前は......エラ。エラだ」

「……!」


不思議な感覚だった。

今ここにいる人たちの中で、唯一あたしに呼びかけられたと。

それを分からせてくれるものだと感じた。


「言えるかい?エ、ラ。言ってごらん」

「ぇ……ぁ」


舌がもつれて上手く発声出来ない。

けれどそれを口にした瞬間、身体がふわふわするようなそんな気分になった。

きっとそれは、その人があたしを想ってつけてくれたものだからなのだろう。


「上手だよ……それで、キミはなんていう名前なんだい?」


あたしに微笑みかけた後、その人の顔が少年に向けられる。


「キミのことも呼びたいんだ」


黙ったままだった少年の顔がわずかに前を向く。警戒心を孕んだ瞳だった。

そして、あたしは。


「……アロ」


その日、初めて少年の名前を知った。





子供の頃の順応性とは驚くべきもので、一年もすればもうすっかりあたしはその人……ベネヌムギロティナの責任者のお気に入りとしてお嬢様ぐらしをしていた。

生活もとてもいいものになって、あたしもかなり喋れるようになったし、少しずつ教養も

身につき始めていたころ。

いいことも沢山あるけれど、嫌なことも分かるようになってしまった。

例を挙げるとすれば、まず複数人のギロティナ員の視線だ。

この頃のベネヌムギロティナは大人数で、あたしを可愛がってくれる人も過半数いたけれど、拾われて飼われているどこの誰かも分からない小娘、と卑下した視線も感じ取ってしまう。

昔路地で向けられていたものもこれなのかと思うと、うずくまりたくなってしまう。

そういう時は、いいことであるアロのもとへ向かうのだ。

廊下をパタパタと走り抜けて、深い色をした木製のドアをノックする。


「アロ!いーれてっ?」


彼はこうして声をかけないと鍵を開けてくれない。

周りの話によるとアロがすんなり部屋に入れるのはあたしだけらしく、その点で優越感を感じることも出来た。

しばらくするとガチャリと錠を開ける音がして、扉が開かれる。


「……いいよ」


姿を見せた彼は、いつもどおり年齢不相応の落ち着いた表情だった。

いや、落ち着いていると言うよりも、無気力というほうが近いかも知れない。

兎に角、その点であたしはアロが心配でもあった。

事あるごとに彼のもとに行ってしまうのは、それもあるのかもしれない。


「わーいっ」


部屋の中に進めば、ふわりとアロの匂いがして安心できた。

アロの部屋は物が少なくて、あったとしても分厚い本の数冊しかない。

それもしっかりと収納されているので、同じ間取りのあたしの部屋より随分と広く、寂しく見えた。

アロのベッドにぽすんと座ると、彼も隣に来てくれる。

嬉しくなって、ピタリと身体をくっつけた。


「……あったかい」

「エラ?」


あたしが笑顔でそう言うと、アロが名前を呼んでくれる。

これもいいことの一つ。


「アロが名前呼んでくれると、嬉しい!」


喋れるようになってから、色々な気持ちを伝えられるようになった。

昔はアロが声をかけてくれたものに曖昧な動作を返すだけだったけれど、今ではあたしのほうがお喋りだ。


「あぁ、そう」


アロはあたしから視線を外しながらも、頭を撫でてくれる。

優しい。あったかい。嬉しい。

どんなに暖かいおふとんよりも、あったかいアロがいい。


「あたし、アロ大好き!」

「……あいつの次にか」


一瞬、アロの言うことが分からなかった。

やっとのことで”あいつ”とあの人を頭の中で結びつける。


「……?どっちも」

「ならオレのことは嫌いになれ」


あたしが返事をした瞬間、アロの鋭い視線が突き刺さった。

嫌いになれ。

その言葉はあまりにも突然で、今度こそ脳みそが停止したような感覚がした。


「なんで……?」


絞り出すようにそう返せば、アロはあたしの目を見て、ゆっくりと口を開く。

…………開いてしまう。


「きっと、オレは_____」

(聞きたくない)

(思い出したくない)

(……追い出してしまえ)


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思考にノイズがかかる。

思わずギュッと目を瞑り、恐る恐る開いたころには、目線が少し高くなっていた。

隣にはあの人が立っている。

なにか人が通っていくところを一緒に見ていて、人々はあたしを見て微笑んでいるようだ。


「まぁ、可愛い」

「流石は__さんの見立てね」

「将来が楽しみだなぁ」


その声に、ここ一年ほどはこれが自分の役目だったことを思い出す。

あの人にもらった服を着て、可愛く髪を飾って、褒めてもらう。

そうすれば、皆笑顔になったからだ。

嬉しい、嬉しい、嬉しいな。

でも何かが違う。何かがずっと不安なんだ。足りない、きっと足りない。


次のときには、あの人に紅をさしてもらった。お

お人形みたいでキレイだと皆喜んでいた。

でも……ある日、あの人と町なかを歩いていたとき、一人の女の子が目に止まったんだ。


「……!!」


その娘はあたしなんかよりもずうっとキレイで、それでもって笑顔も華やかだった。

あの人の視線もその娘に向いている。

驚いたような顔で、目を輝かせて、宝石でも見るように。

それが、あたしを見るときの数倍、いい顔だったことに気づいてしまった。

そのとき、あたしは自分に足りないものがなにか、どうしてずっと不安なのかが分かったんだ。

ただ綺麗でいるだけじゃ足りない。

きっとすぐに限界が来てしまう。

お人形じゃ駄目だ、普通じゃ駄目だ。

どう頑張って努力をした所で、このままじゃずっとかえが効く存在。

いつかはきっと捨てられる。

だったら。このまま劣等感に踊らされるなら、あたしは。


異常なくらいの”あたし”になってやる。




それからは、ずっと自問自答の毎日だった。

鏡を見つめて、どうやったら普通じゃない自分になれるのか考え続ける。

勿論綺麗でいることは大前提で、色々なことに気を使った。

ずっと忙しくて、アロともあまり話さなくなったから、精神的にも余裕がなくなっていく。

当然、あたしと同じようにアロも大きくなっていった。

あの人はあたしほど彼に手をかけなかったけれど、アロもまた不思議な魅力を持つとして評判になっていたはずだ。

ピーズアニマが使えるようになってからは、あたしもギロティナの一員として戦闘訓練が

始まっていたのだが、アロが戦闘に出ているところはほとんど見ていない。

死名痣の有無すら分からなかったのだ。

とはいえ、処刑の仕事も最初は上手くいかなくても段々と上達していったこともあり、あたしは増々日々に追われることとなった…………。


(……つまりなにが言いたいかというと)


あたしは、アロを全く見れていなかったということだ。

異常に焦がれすぎたあたしは、大切なものを知らぬ間に捨ててしまっていた。

アロはあたしにとって、その象徴でもあったのかもしれない。

あたしが13歳。アロが14歳になった頃。

アロが突然姿を消した。



「……っ、違う!こうじゃない!!駄目、駄目なんだ……」

叩き割る勢いで、鏡に拳を打ち付ける。

手の痛みが嫌に広がって、あたしの身体を包み込んでいるように感じた。

もう既に時計の針は12時を指しているが、この状態で寝付けるようには思えない。

吐きそうなほどぐちゃぐちゃになった頭の中で、息苦しさを紛らわすように周りの皆がして

くれた反応を思い浮かべる。

優等生のように凛と振る舞ったとき。

多くの人は偉いと褒めてくれたり、綺麗だ、格好いいと口々に言った。

けれど数人は自信を持った態度が苛々すると言ってきたり、可愛がれるほうがいいといってきた。

思わず守りたくなるような愛らしい少女を演じたとき。

沢山の人が可愛がってくれたが、鬱陶しいという声も多かった。

そこから、様々な自分にしては変え、段々と分かってきたように感じる。


「”あたし”じゃ……駄目……こんなだから、こんなだから」


アロもいなくなったんだ。

今から独りになるには、あまりにも人に囲まれすぎた。

もう大人しく堕ちることなんて出来ない。

こんなあたしを人が取り囲んで、あの目で見ているみたいで怖い。

あるわけないのに、顔を上げたらそれが見えてしまいそうで、うなだれた姿勢から動くことが出来なかった。

今思えば、考えすぎだったのだろう。

でも、あたしはあまりにも幼かった。

……そして生まれたんだ。


「……ははっ」


捨てられないために、褒めてもらうために、楽しんでもらえるように、価値ができるように、愛されるために。

新しいあたしを創った。

元のあたしなんてマネキンにして、その時その時の相手が望むような自分にドレスアップする。

それでいい。それだけでいいんだ。

それだけが、ショーウィンドウで育てられた、無個性なあたしの選べる道だったから。

そう決めてからは比較的毎日が生きやすかった。

才能はあったらしく、最初は怪訝な顔をしていた周りも直ぐに楽しげに話してくれるようになってきたものだから、これで正しかったんだとあたしは思う。

悲しいかな、想像以上にしっくりきてしまった以上、このキャラを手放すことは出来ない。

あの人もまたあたしを見てくれるようになった。

「これまでにないほどユニークだ」って。

一人一人が望む姿を見極めるのは難しかったけれど、慣れれば自然と、まるであたしが受信機になったみたいに、それになれるようになった。

そう、それで……あの人を楽しませたくて、あたしはずっとあの人の傍にいて。

そして…………

どうなったんだっけ?

また、ノイズがかかる。

鮮血と、叫ぶあの人の声が聞こえた気がした。



弾かれるように目を覚ます。

段々とピントがあってきた視界に、心配そうにこちらを覗き込む少女が見えた。

思い出に浸る前は手を額に添えていたような気がするが、今それは離されている。

どうやら気遣って引き戻してくれたようだ。

優しいなと頭を撫でてやれば、昔のあたしと同じ反応で喜ぶ。


「……ねぇ、キミってやっぱり……あたしなの?」


あたしの問いかけに、少女が顔を上げる。

思わず息を呑んだ。

先程の表情はすっかり抜け落ち、虚無がその顔に張り付いている。


「ちがうよ」


唇の動きを、つい注視してしまった。

こうしてみてみると、何かが違う、おかしい。

まるであたしそっくりに創られた人形のようだ。

少女が、ゆっくりとあたしの背中に手を回す。

そして、少女と大人の声が重なったような、奇妙な声音で囁いた。


「これからも、どんどん生きて、探求して。そうすればあたしは強くなる。できることが

増えていく。あたしは貴女の思い出。貴女のマホウ。貴女の__」



「物語」




少女の言葉とともに、意識が現実に引き戻される。

足元を見れば、まもなく活動を停止するであろうモルスが横たわっていた。


「……はぁ、疲れた」


もぞもぞと苦しむように蠢いているモルスを見ていたくなくて、手元のナイフで力いっぱいその心臓を突き刺してやる。

モルスはビクリと身体を跳ねさせると、糸が切れた人形のようにぐにゃりと脱力した。

既に生命活動を停止したモンストルムからなるモルスは、失血などで活動を停止することが

少ない。

処刑の際には心臓を突き刺す、四肢を切断する、頭部を首から分離させるなど様々な手が使われるが、最終的な目的は一つ。

死んだ、とモルスに感じさせることだけ。

黒が手首まで付着したことで、完全に汚れきってしまったナイフをゆっくりと引き抜く。

もう片方の手で拭うものを手に取ろうとするが、既に両手がモルスの体液で染まっていることに気がついた。

その流れで、視線をモルスの遺体に向ける。


(モルスの処刑は、モルスをショック死させればいいだけ……なのに)


__この遺体の、なんと凄惨なことか。

間違いなく自分自身で弄ったそれに、思わず顔を顰める。

モルスの内蔵であろう黒い物体で飾り付けた遺体は、黒に覆われていなければ更に吐き気をもよおしたであろう。


(やっぱり、ピーズアニマには謎が多い……もっと調べて……)


『どんどん生きて、探求して』


少女の言葉を思い出し、エラははっとなる。

もし知ることでピーズアニマの力が強くなって、より深い憑依が可能になってしまったら、いつかは。


「狂う……?」


もう一度、モルスの遺体を見つめる。


(…せめてもの、お詫びだよ)


近くのカーペットを剥ぎ取り、そっとモルスに被せた。




ルークスは、キョロキョロと辺りを見渡しながら『薬剤倉庫』と書かれた部屋に入っていった。


(薬剤がある……けど、実験道具みたいなものも沢山あるな。研究室代わりみたいな……)


そういったものに馴染みのないルクスは、机に置かれた顕微鏡などを興味深そうに見つめ、使えるものがないか探していく。

ピンセットやビーカーを手にとっては戻し、指を滑らせていくと、一つの瓶に目を止めた。


「……青酸カリ?」


そのまま、瓶を手に取る。

中に入っている量を確認して、ルクスはその瓶を服にしまった。

他にも幾つか毒物の瓶は置いてあったが、ルクスは少し迷った素振りを見せた後、手には取らずに通り過ぎる。


(でも、これだけじゃあなぁ……なにかもっと武器になるもの……あっ!)


部屋の奥まで進んで行くと、今や少し見慣れてしまった光りが見えた。

少し注意しながら近づくが、やはりそれは拳銃だ。

コレで少しは護身になると、ルクスが胸をなでおろしかけたとき。

赤黒いシミが拳銃の近くに飛び散っていることに気が付き、反射的に足を止めた。


「これは……?」


ぞくりとした悪寒が、ルクスの背筋を走る。

憑依すれば突然の事態にも対応できるかと思い、ピーズアニマを使ってみようとするが、上手くいかない。


(〜っ、もっと憑依を練習しておくべきだったかな……)


気を落としながらも、もうここまで来て止まるわけにはいかないだろうと、ルクスは足を進める。

しかし、拳銃の細部まで見えるところまで近づいてから、ルクスは今自分が憑依していないことに感謝した。

血の匂い。

鼻孔を突き刺すようなその刺激臭は、モルスからはしなくなった生の匂いだった。

憑依時の鋭くなった嗅覚__ロンドの僅かな怪我の血の匂いすら感じ取ってしまう状態でこれを嗅いだら、きっとルクスは倒れてしまっていただろう。

まずは匂いの元を見ないようにして、近くの机にある筆ペンと紙に視線を向ける。

最後の方の文字を指でなぞれば、僅かにインクが伸びてにじんだ。


「まだ、乾ききってない。これは…………遺書?」


最後の文には、やや読み取りづらくはあるが、確かに『悔いる』『責任』『耐えられない』という単語が書き殴られていた。

自殺と、拳銃。

後少し視線を動かした先になにがあるのか、ルクスには容易に想像できてしまう。

しかし、それを確認するまでこの銃を手にするわけにはいかないように感じ、ゆっくりと首を動かした。


「……っ、ぁっ……!」


漏れそうになる声をすんでのところで抑え、詰まりそうになる息を整える。

落ちていた銃は、撃った反動で飛び、跳ね返って死体の真横に位置していたらしい。

だらんと外れた顎と、銃を入れて狙ったのであろう口から覗く、おびただしい赤を正面から

見ることとなってしまったルクスは、口を押さえてしゃがみこんだ。


(やっぱり、これは……!でも、なんで?なんでこんなところで……自分で)


ショックでふらつく足でなんとか立ち上がると、ルクスはもう一度遺書に目を通す。

彼には難しい文字も多かったが、ざっとした流れは理解することが出来た。


(今回の……事件、研究、ウォルテクス……外の、指示。ピーズアニマ……利用、無力

……危険、最悪の事態)


未だ整いきっていない息が、不意に止まる。

暴れるような文字の中、特に震えた、その名前らしきものに、ルクスの目が止まった。


(我ら縛る獣……ノース・ルキウスに破滅アレ、って?)


なにか要人の名前だろうかと、ルクスは一度思い出そうとするが、上手くいかない。


「何かひっかかるんだけどな……」


ともかく、遺書があれば自分が疑われる確率は低いだろうと、ルクスは少し血に濡れた銃を

手に取った。

マーシャが使っているところを思い出しながら、一度構える。

想像していたよりも重みがあるそれに、ルクスの片腕が不安定に揺れた。


(重い……弾はまだ3発入ってる。マーシャちゃんは両手でこう構えてたっけ?)


弾数を確認して握り直せば、少し安定したように思う。

あまりフェリシテを一人にさせると不安なため、何者かの遺体に手早く黙祷をしてから部屋のドアを開けた。

すぐ近くで響き渡った不協和音とともに。



大体の避難が終わったことを確認し、一息ついたウィルのもとに、彼にとってやや鬱陶しい

女性の声が聞こえてきた。


「ウィル君、やほやほ〜」

「なんだよこんなときに……って、うわっ……」


足は素足、体中モルスの体液に塗れたエラの姿は、当人のテンションに対してあまりにも凄絶な印象を与えるもので、思わずウィリアムは顔を顰める。


「勿体ねぇ……もっと服をいたわれ!」

「うっ……エラさ〜ん、その状態でアーニーに近づかないでねぇ?」

「気分が……」

「えっ、皆ひど〜い!ウィル君だって黒いじゃ〜ん!」


そうワイワイぎゃあぎゃあと4人は騒いでいたが、不意にエラの声が焦ったものに変わる。


「……ねぇ、ウィル君」

「あ?」


急に真剣な様子になった彼女に、アーニーとフレディも緊張した表情でエラの顔を覗き込んだ。

訝しげにするウィリアムの目を見て、エラは問いかける。


「キミさ、ピーズアニマ使ったの?」

「……見りゃあ分かるだろ?一体それが何……」

「フレディ君!アーニー君!……どちらかでいい、ピーズアニマを使ってみてくれ!」


突然のエラの声量か、急に変わったキャラか、はたまた言われた内容か。

アーニーはビクリと表情を引き攣らせ、フレディは珍しく眉を寄せた。


「えぇ……?い、いきなりなんなの?流石にいきなりそんなこと言うのはしつれ……」


フレディがアーニーを庇うようにして前に立ち、文句を言い切ろうとするが、エラに「いいから速く!」と遮られ口を閉じる。

やがて小さな声でフレディは、分かった、と言うと、数歩先に倒されていた観葉植物の植木鉢を手に取り、エラの前まで移動させた。


「僕のピーズアニマは発動条件があるからねぇ」


その行動を不思議そうに見ていたエラに、にこりと笑ってそう教えると、フレディは自分の手を土の上に押し付ける。

押し付ける、が。


「……え?」

「フレディ?」


驚きに目を丸くし、フレディは何度も手を土に押し付けたが、何も起こらない。

それを見て、エラは再びウィリアムと向き合った。


「これで分かったよ。今、殆どのモンストルムがピーズアニマを使えなくなってるんだ」


その言葉に、3人がエラに注目し、そこからウィルに視線を移す。

ウィリアム自身は少し戸惑ったような表情で、皆の顔を見返している。


「でも、ウィル君はっ」

「あぁ。現に僕もピーズアニマを使った。僕の場合、通常の具現化が出来なくて、深めの

憑依のみ出来た。ウィル君、キミは?」

「出来るも出来ないも……普段通りやっただけ」


結局、ウィルが言えたことはそれだけだった。




「きゃーーーーっ!!」

「わーーーーーっ!!」


どこか幼気な声を上げながら、二人の少年少女が会場をぐるぐると走り回る。

勿論、ただ闇雲に運動している訳ではなく、小型モルスとの鬼ごっこ中であった。

切れてきた息で、アリアは心底嫌そうに叫ぶ。


「テオ〜っ!これ、いつまでっ、続ける気〜!?」

「う〜ん……なんか思いつくまで!」

「えぇ〜〜っ!?」


まだまだ元気そうなテオに、勘弁してよとアリアがこぼすが、当然モルスをなんとかするまで止まるわけにはいかない。

ただ、このままではアリアが先に追いつかれてしまうため、テオも走りながら辺りを見渡して、何かを探していた。

すると突然、軽めの発砲音が二人の耳に入る。

何事かとふりかえったテオの目に入ったのは、今までずっと見落としていたのであろう、大きめのボトルだった。


「これだ!」

「どれがー!?」


前を向いたまま走るアリアには何も返さず、テオは素早く自身の向きを切り返すと、足を大きく振りかぶり、ボトルを勢いよく蹴り飛ばす。

猛スピードで向かってくるボトルにモルスも身の危険を感じたのか動きを止めるが、時すでに遅し。


『ギャアッ!?』


モルスの顔面に、ボトルが深く食い込む。

ようやく自分の方を向いたアリアに、テオはにっと笑ってみせた。


(さっすがテオ!……でもこれからどうする気なの!?)


アリアの頭に不安が浮かび上がった、その時。


「モルスから離れて!」


凛とした少女の声と、数発の銃声が響き渡る。

そのうち2発は外れ壁に穴を開けたが、3発程はモルスに直撃し、着弾の度に身体を痙攣させていたモルスはゆっくりとその場に倒れ、脱力した。

完全に活動を停止したモルスを見て二人はホッと息をつく。

すると、声の主ともうひとりの男性が二人の方へ歩み寄ってきた。


「アリアさん、テオ君。どこも怪我はありませんでしたか?」


模範的な姿勢で立ち、紳士的な微笑みを浮かべるロンド。

その手には拳銃が握られており、先程の銃撃はロンドのものでもあったのだと分かる。

隣に立つマーシャはロンドの拳銃を見つめて少しむくれているため、マーシャの弾は外れたのだろう。


「一応、状況を説明するわ。催し物の最中、突然切り替えられた照明と同時に複数のモルスが出現したの。催し物をしていた者は全員、その他にも、離れた場所でもう一体がモルスになったことが確認されているわ」


マーシャの説明に、アリアとテオは不安気に顔を見合わせる。

そんな様子を見て、マーシャは力強く二人の手を包み込んだ。

顔を上げた二人の目に、マーシャの堂々とした表情が映る。


「心配しなくても大丈夫!ベネヌム家の主催である以上、私はあなた達を守る義務があるわ。うちのギロティナの皆もそうよ!だから安心して守られなさい!」

「それは……すっげー頼もしいな!ありがとう!」


その言葉とテンションに、アリアはどう反応すればよいのか迷っているようだったが、テオは目を輝かせながら礼を述べた。

その反応に満足したようにうなずくと、マーシャはそのまま二人の手をぐいと引いて走り出す。

「え!?」

「お嬢様!」

驚く二人や静止するロンドの声も気にせず、マーシャは走る。

「さぁ、行くわよ!ギロティナの使命を全うしにね!」

少しばかり獰猛な笑みを口元に浮かべながら。



時は遡り、芸の講演がいよいよクライマックスに入ろうとしていた頃。

マウイとポプリは踊りを中断し、ポプリはソファに座って休んでいた。


「ポプリ、眠かか?」

「……うん」


ポプリの瞳がとろんとたれ、うつらうつらとしてくる。

それを見たマウイは優しく微笑み、彼女にかける毛布がないか辺りを散策し始めた。

その様子をポプリは薄目を開けてぼんやりと眺める。

あぁ、なんて幸福だろう。ずっとこのときが続けばいいのに、と。

続くわけがなかったのに。


「!!」

「なんや!?」


突然瞬いた照明が、とろとろとした頭を覚醒させる。ポプリが驚いて顔をあげると同時に、多数の悲鳴が中央の会場から聞こえてきた。

尋常でないその物音に、ポプリの表情にも焦りが浮かぶ。

自分の名を呼ぶ声に振り向けば、外の様子を見に行っていたらしいマウイが出入り口から顔をのぞかせていた。


「大変や!モルスが急に何体も……!」

「もるすが……!?」

「とにかく移動ばい、ほかんお客さんに被害がでんうちん早く……」


そう言ってマウイが視線をポプリから外した瞬間。

ドサリと重量のあるものが落ちる音が響き渡った。


「…………ポプリ!」


ソファから転がり落ちた形で倒れているポプリを見て、マウイから血の気が一気に引く。

マウイは彼女に慌てて駆け寄るが、意識を失っているわけではないようで、本人も混乱したように目を見開いていた。


「どう、して」


ポプリの目線が、彼女の脚へと向かう。地面に這いつくばった状態から起き上がろうとするが、どうも力が入っていない。


「…………マウイ、ごめんね。直ぐには行けないと思う」

「なっ………!?」


顔を伏せ、淡々とした、けれど普段と比べると震えた声でそう告げるポプリに、マウイは少し怒ったかのように声を上げる。


「こげん時に置いていくるわけなかやろ!いつモルスがここしゃぃ入って来るかもわからんのに……!」


マウイの口から発せられた、動けないポプリがここに残ることの危険。当人もそれには怯えを感じているのか、何も言い返さずうつむくばかりだった。

逃げ惑う人々の喧騒が、無言の二人を包む。


「……動けんなら」


長く長く重苦しい空気は、マウイのつぶやくような一声で破られ、ポプリの身体がふわりと

浮き上がった。

ポプリをいわゆるお姫様抱っこにしたマウイは、気を引き締めるように息を吸い込むと、一気に走り出す。


「マウイ!?これじゃあ手を使えないでしょ!」


このままではモルスに出くわした時、太刀打ちができなくなってしまう。

それでは共倒れの可能性だってあるのだ。

ポプリは腕だけで抵抗するが、それではマウイの力には到底及ばない。


「……って!?」


何も言わず、ポプリを抱えて走り続けるマウイに一撃重めの打撃をくらえると、突然彼の足がピタリと静止した。

急に止まった彼の顔を訝しげに見上げたポプリの目が、僅かに見開かれる。

睨むようにしながらも揺れる瞳には、恐怖や怯えにもにた感情がしっかりと映っていた。

しかし、その感情が何から来るものなのかまで、ポプリは自信を持つことができない。


「……動けんのに勝手に指示しぇんでくれ。ポプリば安全なところまで運ぶ。モルスん処刑はそれからや」


少しざらついた、絞り出すような声だった。

震えてもいる。

けれど、消えないよう、必死にとどまろうとしているようでもあった。


「でも……マウイはギロティナの一員でしょ?モルスを優先するべきだよ」


ギロティナ員はあくまで職業だ。

戦闘員として生きている以上、どんなときでもモルスの処刑を優先しなくてはならない。

それで大きな被害が出れば、処罰もされるだろう。

しかしマウイはポプリを離そうとはしなかった。

それどころかより強い力を込めると、先程とは違う、芯の通った声をあげる。


「そうだ、僕はギロティナん一員や。やったら、動けん奴ばモルスから守ることは何もおかしゅうなか!」

「……マウイ、意地はってる場合じゃないよ」


何が何でも行動を変えようとしないマウイに、ポプリは今度は静かにたしなめようとする。

そんなことで変わる彼ではないことはポプリもわかっているが、良い動機とはいえないが、ここで食い下がればまた少しマウイのことを知れるように感じたからだった。

けれども、マウイは少ししゅんと眉を下げると、黙りこくってしまう。


(あれ……?)


てっきり強く言い返してくると思っていたポプリは、彼の腕から抜け出すことも忘れて目を

丸くする。

もしかして、失敗だったのだろうか。

一気に不安そうになったマウイを見て、ポプリは考え込んだ。


(そうだ……わたしは、そんなにマウイのことを知らない。もしなにか、傷を広げてしまったのなら……)

「……たしかに」


マウイの声が、ポプリの考えを遮る。

それは気弱なものだったが、ポプリが心配していたような悲しい声ではなかった。


「たしかに、こりゃくだらん意地や。さっき言うたことも、きっとこれば正当化したかだけん言い訳なんやろう」


そう言い切った途端、マウイの瞳が、強い意志を灯す。


「ばってん、僕にとってこりゃ譲れんもんや。何て言われようと、こん手でポプリも、他んお客さんも皆守っちゃる。もう……」


再び彼は走り出した。

今言ったことを違えるものか、と招待客の避難補助を行える場所へ。


「大事なもん同士ば天秤にかけて、自分のせいでどっちも失うわけにはいかんのや!」

マウイが走る。視界がどんどん移動していく。

(あぁ……やっぱり、マウイは凄いな)


後ろ暗さというものは、そう簡単には消えてくれない。

それでも前に進むマウイは、止まったままの自分をも引っ張ってくれるようだとポプリは思った。

そして。


(自分のせいで、失う……)


やはり、似た傷をもったものは惹かれ合う。

その集まりがベネヌムギロティナなのだと、ポプリはそう、確信した。




「エラさ〜ん、何かわかった〜?」


もうだいぶ人気もなくなった広間に、のんびりとした……ように聞こえるフレディの声が響く。

大体の客を避難させ終わった4人は、まだ残っているであろうモルスを外に出さないことを重要視して今は扉の監視をしている。

とはいえ、ウィリアムは既にやる気をなくして壊れかけた椅子にもたれかかり、アーニーはまだ怖いのかフレディの傍から離れず、エラはずっと何か考え込んでいる始末のため、傍から見たら仕事中には見えないかもしれない。


「いや……流石にデータが足りなさそうだ。色々終わり次第、ピーズアニマについての研究を進めたほうがいいかもしれない」


そう言って顔を上げたエラだが、やはりその表情には陰りが見えた。

エラはあの、自分のようでどこか違う、あの少女のことを思い出す。


(もしかしたら、もう少し、もう少し沈んでみれば……)

「おい」


冷たく、しかししっかりとした人間味を持った声が、エラの思考を遮った。

聞き覚えのあるそれに、エラは彼のほうに目を向ける。すると顔だけをこちらに向けたウィリアムが、エラのことを睨みつけていた。


「面倒起こすなら後にしろ」


面倒、というのはエラがしようとしていたことを指すのだろう。

だらけているだけのように見えたが、彼はエラに注意していたらしい。

然程特別な動作をしたつもりはないにもかかわらず、見抜かれていたようだ。

エラは軽くうなずくと、視線を少し離れた場所にある鏡に移す。

ヒビの入ったそれに、いつもどおりのエラの顔が映り込んだ。


(……つまらない、普通の顔だ。もし、あの子に身を委ねたなら……そうすれば)


いくらでも換えの効く普通ではなく、自身が恋い焦がれる異常になれるのだろうか。

乱れた髪を指で直しながら、エラは性懲りもなくそう考えてしまう。

もし自分があの人に選ばれていなければ、数多に埋もれるような人間だったのなら。

今ここに居たのは別の誰かだったのだろう。

自分の道を拓けるのは自身の特異性のみ、そう理解していた。

だからこそ注視してしまうのだろう、選ばれるという運命的で曖昧な行為を高確率で掴み取る方法を。


「……ねぇ、ウィル君。私はまだ、”綺麗な変わり者”でいられてるよね……?」

「あ?なんで俺にそんなこと……」


そこで、ウィリアムは以前エラとした会話を思い出した。

初めての会話だというのに馴れ馴れしく、去り際には自分と似ているなどと言ってきたときのことだ。

正直な所、エラと自分が似ているなどと思いたくないウィリアムは、それについて深く考えることはなかったが、今、彼女が背を向けたせいでエラの表情を伺えないことが妙に落ち着かない。

しばらくしかめっ面で思案した後、苛々した様子でようやく口を開いた。


「俺の見立てからすると、まだまだ綺麗さは足りないな。無理にとは言わないが、たまには違うメイクもしろ。変わり者?変人のほうが正しいだろ。あんたが何を目指しているのかは知らねえけど、早いとこはっきりさせたほうがいいんじゃねえの」


そこまで言い切ると、大きなため息をついて彼もまた背を向ける。エラの反応を待つが……


「……?」


何も聞こえてこない。珍妙な質問をしてきたとはいえ、彼女ならすぐに何かしらうるさく返してくると思ったのにと、ウィリアムはバカバカしいと思いながらも少し不安になる。


(わりかし真っ当なこと答えたはずだよな……でもまぁ、憑依のあとだったみてえだし、

念の為……)


冷や汗をたらしながらエラの方を向くと。


「…………おい」

「ん?」

「なんだその顔は」


キラキラとした目でウィリアムの方を見るエラと目があった。

先程までのどこか不安定そうな彼女を思い浮かべていたウィルは、それを見ると心配げな表情から一転いつもの仏頂面へと顔を戻す。

ウィリアムがこちらを向いたことでどこかほぐれたのか、エラはまたいつものように明るい調子で話し始めた。


「あのさーあのさー!ウィル君の言ってたことのなかで、まだまだ綺麗さが足りないって言ってたじゃない?それってさ……ウィル君なら私をもっと綺麗にできるってこと?」

「はぇ……!?」


自分が言いたかったこととはどうも違う方向に解釈されたその言葉に、ウィルの口から間抜けな声が漏れる。


「今は色々大変だけどさ、一段落ついたら色々話してみたいな。似た者同士でしょ?」


そう言って、エラは柔らかく笑ってみせた。そんなエラにウィリアムは。


「うっざ……まぁ、俺にあんたが先導されんなら話してもいい」


大きなため息をついてから、気だるそうにそう返したのであった。





呼吸が乱れる。動機が静まらない。

大きく抉れた壁には、少量の血飛沫が付着している。

投げ飛ばされた痛みなどなんてことない。

”あの時”に比べたら、そして、目の前で傷を抑えながらも、自分のことを守るように立ち続けている彼の痛みに比べたら。

どうすれば、どうすればいい。

今の自分は無力だ、ピーズアニマでの援護もできない。

そもそもピーズアニマが使えていたらこんな事態になっていないのだ。

彼の傷口から赤が伝う。

駄目だ、こんな状態ではモルスと戦えない。

お願いだから、自分を置いていってくれ。

しかしそんな願いも虚しく、先程広範囲を切り裂いたモルスの爪が大きく振りかぶられる。


「マウイ、逃げて__!」


自力で歩くこともできない自分の声が、この場に響き渡った。




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