第12話 強がり

 止まっていた涙は再び溢れ出し、戻って来た先輩の姿が滲む。


「心配するな。リオは無事だ。保育園での事情もチサトに聞いた。辛かったな」


 先輩はそう言って、僕を抱き締めてくれた。

 スーツに染み付いた夜風の匂いが鼻腔をくすぐった。


 先輩が言うには、保育園の先生からチサトさんに電話があり、僕の事を根掘り葉掘り聞かれたらしい。

 チサトさんは、僕の事をサッカーのコーチで、リオの父親の恋人らしいが、危険な人ではないと先生に訴えたが、一応今回は迎えに来て欲しいと言われ、迎えに行った次第だそうだ。


 チサトさんは、僕の事を信頼してくれていて、僕が小児性愛者だなんてとんでもないと、保育園の先生に言ってくれたらしい。


 それなのに……どうして?


「あいつの嫌がらせですかね?」


 RRRR……


 ソファの下に転げ落ちている僕のスマホが着信を知らせた。

 拾いあげスクリーンを確認すると、知らない番号からだった。

 僕は通話ボタンをタッチした。


「はい」


 ゴーゴーと風の音が聞こえる。外からかけているようだ。


「藤本だけど」


 トーンもテンションも低い声が鼓膜に響いた。

 カチっとタバコに火を点けるライターの音がした。


「あんた!」


「さっき、チサトから聞いたけど、俺じゃないからな。こっちだって弱み握られてんだ。俺もそんなにバカじゃねぇ。早とちりしてチサトにバラすんじゃねぇぞ。それよりさっさとガキ迎えに来いや。色々めんどくせぇんだよ、ガキがいると。部屋でタバコも吸えねぇだろうが」


 それだけ言って藤本は電話を切った。


 ◇


 ぎゅるるるるるーーーー、すぴーーーーー、ぐるるるるるる。

 車の中はお腹の鳴る音だけが騒がしく響いている。


 時刻は8時。僕も先輩も、晩御飯を食べていない。僕が過呼吸で意識がなくなっていたから、作れなかったのだ。

 町田駅近くにそびえる赤茶色のレンガ作りの分譲マンション。


 自動ドアの横に備えられている銀色のナンバーボタンで、先輩が部屋番号を押した。

 呼び出し音の後、カチャッと部屋に繋がり、リオがキャッキャと楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。


「今降ります」


 応答したのはチサトさんで、明るい声だった。


「リオ、元気そうですね」


 リオのはしゃぐ声に安心したのは僕だけではなかった。


「そうだな」


 ずっと顔を強張らせていた先輩も、ようやく頬を緩ませた。

 程なくしてリオと手をつないだチサトさんの姿が、ガラス張りの自動ドアの向こうに見えた。


 ざっくりとした毛糸で編みこまれたベビーピンクのセーターに白い長めのスカートをユラユラと揺らしながら寒そうに肩を竦すくめている。

 自動ドアが開き、僕達の前ですぐにチサトさんは口を開いた。


「ごめんなさい。実は年末にスーパーでお買い物してたら、ママ友に会って、その時に私がつい軽い気持ちで口を滑らせてしまったの。元ダンナの新しい恋人は男性だったって。こんな事になるなんて本当にごめんなさい」


 チサトさんは僕に丁寧に頭を下げた。


「いえ、全然問題ないです。僕達、胸張って暮らして行こうって決めたんです。偏見もたくさんあるけど、もう慣れっこです」

 嘘だ! 慣れっこだなんて、そんなのは強がりだ。

 偏見や差別になんて、いつまで経っても慣れるわけなんかないじゃないか。

 でも、バレちゃったら仕方ない。開き直るしかないんだ。

 リオはすぐに僕の足にしがみついて来た。


「この子、全然彼に懐かなくて、クリスマスも本当は一緒に食事に連れて行く予定だったんだけど、嫌がってどうしようもなかったの」


 チサトさんは言い訳でもするかのように、僕たちにそう言った。


「でも、時々会わせてもらえない? 私はリオに会いたい」


「わかった」


 先輩は優しく頷いた。


「うちに遊びに来てくださいよ」

 もちろん一人で。藤本がいない時に。


「練習も見てあげてください。リオも喜びます」


 RRRRR……


 チサトさんのスマホが着信を知らせる。

 画面を確認して、はぁっとため息を吐いた。


「彼、ヤキモチ妬きで、私がハルトと接するの嫌がるの。ごめんなさい。機嫌悪くなる前に行くね。リオの事お願いします」


「わかりました。リオの事は任せてください」


 先輩にやたら突っかかっていたのは、どうやらアイツのヤキモチだったらしい。

 そんなにチサトさんの事が好きなら、他の女の人の所へ行ったり、風俗行ったりしなきゃいいのに。


「ナツー。ごはーん!」


「ん? リオもご飯まだだったか。よーし帰ろう」


「ラーメン食べて帰ろうぜ」


「そうですね」


 マンション前に路駐した車に乗り込み、アンパンマンのマーチを歌いながら僕達はいつも気になりながらも通り過ぎて来た、九州豚骨ラーメンの店を目指した。


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