第10話 交渉決裂

 次の日の夕方、僕たちはリオをサッカースクールの西成さんに預かってもらい、町田駅近くの喫茶店に藤本を呼び出した。

 

 スパイシーなカレーとコーヒーの香りが混ざり合う、洒落たジャズが流れる老舗らしい喫茶店は、僕たち以外客はいなかった。


 白髪交じりのマスターが、やたらと神経質にグラスを磨いている。その隣には奥さんらしき同じエプロンを付けた女性。


 四人掛けのテーブル席に僕と先輩は隣同士に並んで座った。


 カランカランと乾いたドアベルの音と共に、藤本がにへらと締まりの悪い顔で入って来た。

 極度のストレスで、キ――ンと耳鳴りをおぼえる。先輩は敵意剥き出しに藤本を睨みつけた。

 ポケットに手を突っ込み、肩をすくめ、どこまでも濃いタバコの匂いを纏いながら藤本は、僕たちの前の椅子に横向きに座った。

 こちらに顔を向け、鬱陶しそうに前髪をかき上げこう言った。


「金持って来たの?」


 先輩はふっと鼻で笑った。


「いや、それ以上のもん持って来た」


 そう言って、茶封筒から例の画像を取り出し、パンとテーブルに置いた。


「藤本彰さん、仕事もせずに、シングルマザー喰いもんにしてるんだって? いい身分だね」


 藤本の顔色が変わった。


「しかも、セーラー服好きなんだってね。イメクラってどうなの? 楽しいの? 俺行った事ないからさぁ。教えてよ」


 もう一枚の画像をスっと滑らせる。


 今度は顔つきまで変わった。


「もっとあるけど、どうする? 見たい? 聞きたい? チサトはこういうの大嫌いだからな。バレたら終わりだぞ。せっかくの金づるが一人パーになんじゃね? 他のシングルママさんたちにも教えてやろうか。あなたたち、金づるですよって」


 先輩は余裕の笑顔で藤本を挑発し続ける。

 藤本はワナワナと唇を震わせ、うめく。


「調べたのか。クッソ野郎」


「クソ野郎だと? どっちがだよ。知りたいなら教えてやるよ。俺たちは同性愛者だ。それがなんだよ。お前に迷惑かけたか? 誰かを傷つけたか? お前の親父だってそうだろうが!」


「てめぇ、なんでそれを……」

 藤本は更に青ざめて、唇を震わせる。


「お前の親父だって誰も傷つけてねぇし、誰にも迷惑もかけてねぇだろうが! お前の親父に助けられてる奴も、たくさんいるんだよ!」


「俺が迷惑なんだよ! 家族の恥なんだよ、あいつは」


 先輩は、テーブル越しに藤本の胸倉を掴んだ。


「何が恥なんだよ。同性愛が恥なのか? 女装は恥なのか? ゲイバーは恥なのか? その金で飯食わせてもらってたのは、どこのどいつだ?」


「てめぇに言われたくないんだよ!」

 藤本は先輩の手を振りほどこうとするが、先輩の力が強すぎて、簡単には振りほどけない。


「少しでも理解しようとした事あんのかよ。二丁目に一度でも足運んだ事あんのかよ。知ろうともしないで、反抗期拗らせてんじゃねぇぞ」


「うるせぇ! お前に何がわかるんだよ」


 明らかに顔色が変わった藤本は、ようやく先輩の手を振りほどき、立ち上がった。

 

「交渉決裂だな。覚えとけよ、クソ野郎ども」


 そう言って、両手をジーンズのポケットに突っ込み、背中を丸め、大股で店を出て行った。


「先輩……」


 僕は先輩を責めるような目で見つめていたと思う。

 交渉決裂。その言葉が何を意味するのか……

 僕たちは居場所を失う。職も住むところも……失くすかも知れない。

 明日になったら世界が変わっている。僕には解る。


「先輩、帰りましょう。リオ、迎えに行きましょう」


 ハァハァと荒い息を整えるように先輩は言った。


「ナツ。俺、リオをあんな人間に育てなくないよ」


「え?」


「偏見や差別に支配されて、勝手に不幸になって、人を不幸に巻き込んで、被害者面するような人間に、リオを育てたくない。保育園でも学校に入学しても、スーパーやデパートでも友達の前でも、お前の事をママって紹介できるような子に育てたい」


 人目もはばからず、大きな声でそう言った先輩の言葉で、僕は人目もはばからず大粒の涙を流して、泣いてしまった。


「お前は本当、泣き虫だな」

 先輩はテーブルのおしぼりで、僕の顔をゴシゴシ拭った。

 そして、こう言った。


「何も心配するな」

 僕は、その言葉に力強くうなづいて見せる。


 時刻は9時過ぎ。


「先輩、そろそろ帰りましょう。リオ、眠くなっちゃう時間です」


「そうだな」


 僕達は立ち上がりレジに向かった。


「ありがとうございます。850円です」


 会計を伝える奥さんに、僕は言った。


「大騒ぎしちゃってすいませんでした」


 奥さんはにっこり笑い、こう答えた。


「いいえー。どうせお客さんもいないんだし構わないよ。頑張んなよ。あんた達みたいな子は生きづらい世の中なんだろうけど、負けちゃだめ! おばちゃんは応援してっからね。お兄ちゃん、かっこよかったよ」と先輩の肩をポンと叩いた。


 先輩は照れ臭そうに口元にぎゅっと力を込め、浅く頭を下げた。


 この店、また絶対来よう。そう思った。


 店の外はまるで別世界のように冷たい。身を切るような風が、剥き出しの頬や耳を突き刺す。

 人通りはまばら。すっかり暗くなったコインパーキングまでの道のりを、僕は先輩と並んで歩いた。

 いつもなら一歩後ろを歩くのだけれど、隣に並んで歩きたかったのだ。


 手のひらをふわっと温もりが包んだ。

 僕の手と先輩の手が繋がっていた。

 僕はその手にぎゅっと力を込めた。


 明日になったら世界が変わっているかも知れない。

 仕事に行ったら、コーチスタッフも保護者も僕を見る目が変わっていて、保育園の送迎に行ったら、先生達や他の保護者が遠巻きに僕を白い目で見るのかも知れない。


 話した事もないご近所さん達も、僕等を見てひそひそ話を始めるのかも知れない。

 また、辛い思いをするのかも知れない。

 でも、僕はもう泣かないし負けない。

 一番大切な物は決して失わない。

 そう信じる事ができるから。

 どんなに冷たい視線を向けられても、僕は笑って挨拶をしよう。

 リオに親としての背中を見せるんだ。

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