第8話 振り上げた拳
「これ、ずっと揺すられるんだろな」
先輩は、力なくそう言った後、スマホをポケットに入れ、肩を落とし部屋に上がった。
振り上げた拳は更に大きな拳となって自分に返ってくる。
戦争を経験した田舎のじいちゃんが、いつかそんな事を言っていたのを思い出した。
僕たちが振り上げた拳は、抗いようのない悪意となって戻って来たというわけだ。
天衣無縫にはしゃぐリオは、僕たちに振り上げられた悪意の拳など知る由もなく、溶けかけた雪を空に向かって放り投げては頭から浴びている。
そろそろダウンのジャケットも、ズボンも、中に着込んだ裏起毛のトレーナーもびちょびちょになっている頃だろう。
僕は、拳を握る力さえも、リオの冷たくなった手を温めてやる優しささえも忘れ、頭を抱えその場に座り込んでしまった。
今月10万。来月20万。その次は30万と言う事だろうか。
お金で僕たちの幸せが守れるなら……
僕は何でもやる!
「ナツー。おしっこ」
切羽詰まった顔で股を抑えながらリオが僕の顔を覗き込んだ。
「うん。わかった。トイレ行こうね」
我に返った僕はサッシを開け、リオの靴を脱がせトイレに連れて行った。
先輩はソファに仰向けに寝転がり、腕で顔を覆っている。
すっかり冷たくなったリオを着替えさせ、ヒーターの前に連れて行った。
時計を見るとすっかりお昼の時間になっていた。
「お腹すいたね。うどん食べようか?」
ヒーターに手をかざすリオの、赤く冷え切った小さな手を擦りながら話かける。
「うん! たまご入れるー」
大きく頷いた顔を覗くと、透明な鼻水が口元まで垂れていた。
「おっとっと」
ティッシュで優しく拭ってやると、いひひひー! と何の曇りもない澄み切った笑顔で僕の顔を見た。
その正しく悪戯っ子のような表情に、わずかばかり癒される。
「わかった。卵入れようね。先輩もうどんでいいですか?」
「んー」
先輩は仰向けで顔を覆ったまま唸るように答えた。
大き目の鍋に湯を沸かし、たっぷりと鰹節を振り入れる。
部屋いっぱいに漂う芳醇な香りが、心の強張りを和らげた。
お腹が膨れ、ソファでウトウトしていたリオをひざ掛け毛布で包み込む。
「ナツ」
「はい?」
僕は先輩の方に振り向いた。
先輩はタバコの箱を手に、庭の方に腕を差し向けた。
タバコ吸いに行こうぜという合図だ。
僕は頷き、サッシを開ける先輩に続いて外に出た。
タバコに火を点け遠くを見ながら先輩が口を開く。
「俺の通帳に後いくらぐらいある?」
「先輩の貯金は丸まる残ってます。まとまったお金は残しておいて方がいいと思って手付けてないので」
「お前は?」
「僕はカツカツです。通帳には10万も残ってないですね」
「そうか」
「先輩、僕働きますよ。明日からでもすぐ仕事あるんで」
「何の仕事?」
「二丁目行きます。男でもまぁまぁ高収入のバイトあるので」
「なんだよそれ」
売り専。
ゲイの世界にも体を売ってお金を稼ぐと言う方法が存在する。
「肉体労働ですけど、バーよりは収入いいので」
僕はタバコをふかしながら、からりと答える。
「二丁目で肉体労働って、どんな肉体労働だよ」
「まぁそれは色々」
僕はフィルターを親指で弾き、灰を落とした。
「リオに胸張って言える仕事か?」
「……」
僕は、答える事ができなかった。
「俺はそれがどんな仕事かわからんけど、お前が決める事だ」
「でも、お金が……」
「必要ない。あいつにビタ一文払う気はない」
「え?」
「男同士でキスする事は悪い事か? 恥ずかしい事か?」
それを、大声で叫びたいのは僕も同じだ。そもそもそれが脅しのネタになってしまう世の中がおかしい。
「でも、ばら撒かれたら……実際困る……」
「俺の通帳から取り敢えず50万下ろしといて」
「何するんですか?」
「あいつを調べ上げる。探偵雇う」
そう言えば僕たちはあいつの名前すら知らなかった。
「調べてどうするんですか?」
「あいつ、相当悪い事してると思わないか? こっちもあいつの秘密握ってやるんだよ。そもそも不正受給、恐喝って言う汚くて恥ずかしい事やってるが、それだけじゃ足りない。弱い。もっとすごい秘密握ってやろうぜ」
「なかったら?」
「なかったら……作ればいい」
先輩はそう言って、ニヤっと笑った。
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