第6話 大切な話

 僕は二階に上がり、ダブルのベッドでリオと眠る先輩を揺すった。


「先輩、先輩。チサトさんとアイツ来てます」


 先輩は弾かれたように飛び起き、僕を一瞥した後、寝ぐせをなでつけながら階段を駆け下りた。僕は眠っているリオを抱き、先輩に続いた。

 渡すつもりはない。二階で一人にしておくのが心配だったのだ。


 僕はリビングのソファにリオを寝かせ、ひざ掛けの毛布で小さな体を包んだ。

 ほどなくして、『ピンポーン』と、玄関のインターフォンが、決戦の時を伝えた。

 立ち上がろうとした僕を先輩が制止する。


「俺が出る」


 僕は無言で頷く。

 やがて玄関を開ける音がして、先輩は外に出て行ったようだ。

 起き抜けのスウェットのまま、寒くないだろうか? 風邪を引いてしまわないだろうか? そんな事が気になったが、心配するべき事は、そんな事ではなかった。


「きゃーー。やめてーー」とチサトさんの悲鳴が聞こえ、ドンっと玄関に何かがぶつかる音が聞こえた。

 僕はリオが心配だったが、ぐっすり眠る顔を見届け、そっと玄関に向かった。


「うるせぇんだよ、クソがぁ」と言う怒号の後、再びドンっと玄関が震えた。


 まずい。先輩がやられている。加勢しなくては。


 僕は慌てて玄関を開けた。

 ちょうど、先輩の胸倉を掴んでいる男が、拳を振り上げている所だった。

 チサトさんは震えながら、口元を覆っている。

 僕はその男の拳の前に体を入れ、先輩を掴んでいる左手首に渾身の握力を込めた。


 そのまま捻り、「警察呼びますよ」と脅しをかける。


 少し顔を歪めた男は、僕の手を振り払い「呼べよ。お前らに息子誘拐されて取返しにきただけだって言ってやるよ」

 そう言った後、ペッと僕の足元に痰を吐いた。


「あんた、まだ親じゃないでしょう。ちゃんと入籍して、親になる覚悟決めてから迎えに来てあげてください」


「入籍なんかするかよ。もらえるモンもらえなくなるだろうが」


 もらえるモン? 何言ってるんだこいつ?


 そう思った瞬間、僕の体はふわっと横に圧された。しゅっと空を切る音がしたかと思ったら、先輩の拳が男の左頬を打ち抜いた。

 バキッ!と大量の小枝を踏んだような音の後、先輩より一回りほど大きな体は、左に大きく振られた。


 よろけた足元を蹴り上げ、地面に倒れ込んだ男の胸倉を、先輩が掴む。

 痛みに歪む顔に、息がかかるほど近づき、こう言った。


「そういう事かよ。リオはお前らの金づるじゃねぇんだよ。俺の大事な息子なんだよ」


 そう叫び、もう一度男の横っ面に向かって拳を振り上げた。


 だが、振り下ろさなかった。


 先輩は、震わせた拳を下し、胸倉を掴んでいた左手を荒々しく放した。そして今度はチサトさんに向かってこう言った。


「親権はいらない。お前がもらえるモンはもらっとけ。リオの面倒は俺たちが見る。養育費は来月からやめる。二度と俺たちの前にツラ見せんな」


 箇条書きのように淡々と伝えた後、僕の腕を引き玄関を開けた。先に僕を押し込み、後に続くように入って来て、鍵を回した。

 僕たちは無言でリビングに戻り、ソファで眠るリオの元にへたり込むようにペタンと座った。


 先輩はふーーっと盛大なため息を吐き、リオの胸元に顔を埋めた。

 僕はそんな先輩の背中を摩った。


 顔を上げた先輩の頬骨は、赤紫色に腫れていて、僕は慌てて保冷剤を取りに行こうと腰を浮かしたその時、先輩は僕の腕を引き寄せ、頭をぎゅっと首元に押し付けた。


 先輩は僕なんかよりずっと張り詰めていたんだ。父親として、一世一代の大勝負だったのだから。


 僕は先輩の冷え切った体を温めるように抱きしめ摩った。


「先輩……かっこよかったですよ」

 おでことおでこがくっついて、自然と唇が重なった。

 先輩との、初めてのキスだった。寝起きとか、タバコとか、濃厚な先輩の味がした。


 その時――。


 ガサッ。


 庭の雪を踏む音で、僕たちは弾かれたように体を離し、音の方へ顔を向けた。

 まずい。チサトさんの車はまだ庭に止まったまま。

 カーテンは僅かに隙間があいていた。

 ザクッザクッという雪を踏む音の後に、車のドアが閉まる音。

 キュルルルっとエンジンがかかる音。

 そして車輪が雪を踏みつける音と共に、エンジン音はフェイドアウトした。


 見られた。

 間違いなく、あの男に見られていた。先輩とのキス……


「せ、先輩……」


 ようやく絞り出した声は、自分でも情けなくなる程の涙声だった。


「見られたな」


 先輩は力なく、ふふっと笑い、僕の頭をわちゃわちゃとかき混ぜた。


「腹減ったな。飯は?」

 いつも通り、平気そうな声で先輩が言った。


「すぐ作ります」


 先輩はうんと頷き、リオを揺する。


「リオ、起きろ。雪積もってるぞー」


 僕もキッチンで冷蔵庫を開けながら、平気なふりをする。


「ご飯食べたらリオと雪合戦しましょう」


「お前がしろよ。俺見とくから」


「はい! 今日、有給取っておいてよかったですね」


「そうだな」


 先輩は優しそうに笑い、ソファの上でむくっと起き上がったリオに視線を向けた。


「おはよう、リオ」


「おはよう、パパ」


 リオは嬉しそうに先輩の首元に手を伸ばし、しがみついた。

 先輩はリオをぎゅっと抱きしめた後、リオの両肩を掴み、まっすぐに目を見つめ、大切な話をする。


「リオは、今日からパパと、ナツと三人で暮らすんだ。ママの所には帰らない、オーケー?」


 ゆっくりと、そしてはっきりとした口調でリオに告げた。


「オーケー!」


 リオは意外にも元気よく手を挙げ答えた。


「ナツがママの代わりな。オーケー?」


 少し不思議そうに間を置いた後、こう言った。


「オーケー!」


 リオはトコトコとキッチンでカツオだしを取る僕の足元に来て、「ナツがママ」と僕の足にぎゅっと抱き付いた。

 ツンと鼻の奥の刺激に耐え切れず、涙が滲む。

 僕はリオの目線に屈み、ぎゅっと抱きしめ、柔らかい後ろ髪を撫でた。


「ありがとう、リオ。よろしくね」


 震える声で、僕が泣ているのが分かったのか、リオは僕の頭を優しく撫でてくれた。

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