第14話 崩壊

 ――Sunday


 次の日、ミチルは学校休み。誕生日の穴埋めで、六本木のレストランに連れて行く予定だったはずの日だ。


 この時既に、僕の目は鮮度をなくしていて、死んだ魚の目ぐらいにはなっていただろう。それが、完全に腐ったのはこの日の26時ぐらいの事だ。


 仕事から帰って、玄関のドアを開けた。

 いつも、寝ずに僕の帰りを待ってくれていた先輩は、必ず玄関に出迎えてくれていたのに、この日、そこに先輩の姿はなかった。

 もう寝たのかな? と思った。


 灯りは点いていて、テレビの音声は聞こえる。

 リビングに入ると、先輩は弾かれたように立ち上がり「お帰り」と気まずそうにこちらを見た。


「どうしたんですか?」


 明らかに様子がおかしかった。


「ナツ……」


「はい?」


「あー、俺、明日出てくわ」


「え? そうなんですか? 住むとこ見つかったんですか?」


「う、うん。まぁ」


「仕事は?」


「うん、仕事もぼちぼち決まりそう。サロンの同僚がしばらく泊めてくれるっていうからさ……。その……」


 なんだか歯切れの悪い、言い訳じみた言葉の奥にある本音を、僕は理解した。


「嘘ですよね。何があったんですか?」


「いや、なんかお前に悪かったなと思って。俺、そういうのよくわかんなくて」


 頭頂部から背筋にかけて段々と冷たくなっていく。逆に頬は熱を帯びる。


「なんですか? はっきり言ってください」


「お前、ゲイバーで働いてるのか? なんていうか、ガチな感じのゲイのお店……」


 ナミちゃんだ! と思った。ナミちゃん伝手で先輩の耳に入ってしまったのだ、と。

 僕はまともに先輩の顔を見る事ができなくなり、自分のつま先ばかりを眺めていた。

 そんな僕の視界に、先輩はスマホの画面を差し入れた。


「ツイッター見てたら、これが流れて来た」


 それを見た瞬間、僕は人生の終わりを悟った。これまで守って来たものが、ガラガラと音を立てて崩れて行く。


『いつからオケ専になったんだよ?』


『もうナツ君には関係ないよ。放っといって』


 僕とミチルの生々しいやり取りが、スクリーンに映し出されていたのだから。

 昨日、店でミチルと僕が怒鳴り合っていた。一連のやり取りが鮮明に動画としてアップされていた。


「最悪……」


 動画を撮られていたなんて、ちっとも気付かなかった。

 動画をアップしているアカウントは、どうやらナミちゃんではなさそうで、アカウント名は【satori1010】

 ナミちゃんの連れに、確か、そんな名前の子がいたな。どこか他人事のように、そう思ったのは、現実逃避したかったからだと思う。

 もう、どこにも逃げ場はないのに。


 僕は思わず両手で顔を覆い、何を言うべきか考える。


「そのアカウント、ナミちゃんの知り合いなんで、ナミちゃん伝手で、削除のお願いしてもらえませんか? そこに映ってる彼、カミングアウトしていない人で、迷惑がかかってしまうので」


「ナミちゃん? 事情がよくわかんないけど、わかった。ナミちゃんに連絡するよ」


 幸い、鮮明に顔が映っていたのは僕だけで、ミチルは殆ど後ろ姿だった。

 でも、もし知り合いが目にしたら、ミチルだと気付く人もいるだろう。

 先輩はすぐに携帯を操作した。


「黙っていてすいませんでした。先輩にだけは知られたくなかったです」


 スマホを操作する背中に向かって、僕はぐずぐずと泣いていた。


「俺、明日にでも出て行くから。悪かったな。お前の事情、なんも知らなくて」


 先輩は気軽に『じゃあな』とでも言うように、うっすらと笑いながら言った。

 結局そうなるんだ。

 何も悪い事していないし、嫌な思いだってさせてないはずなのに……


 ただ、ゲイだと言うだけなのに。


「僕がゲイだからですか?」


先輩は弾かれたように、こちらに体を向けた。


「違う! なんで言わなかったんだよ。俺が信用できなかったか?」

そう声を荒げた。


「言ったら……何か変わってたんですか? 僕に抱かれてくれるんですか? 女の子みたいに僕に抱かれてくれるっていうんですか? 先輩知らないと思うけど、タチって言って、ゲイの世界では僕男役なんですよ。突っ込む方です。好みの男のケツに……」


「やめろ!」


 先輩が嫌悪の目を僕に向ける。どうせ失うなら殺す。僕が、僕自身を。

 先輩の中にいる僕を……殺す。


 顎から滴る涙を拭い、僕は続ける。


「安心してください。先輩にそんな事しませんから。高校の時、先輩が卒業してから僕ずっと一人でした。でも今思うと、そんなのどうって事なかった。一番辛かったのは……、先輩から避けられた事でした。傍にいられるだけで幸せだったのに、それ以上何も望まないのに。また僕から離れていくんですか。また僕を一人にするんですか?」


「お前だけが辛い思いしたと思うなよ! 俺だって……」


「そうですよね。先輩は同性愛者じゃないのに、そういう目で見られて、僕はそうだったから何も言えないですよね。バレたのと勘違いされたのじゃ違いますよね。僕には先輩の気持ちは解らない。先輩にも僕の気持ちなんて……。そういう壁のこっち側とそっち側……。……でもね、先輩。僕は先輩が好きでした。初恋でした。恋ぐらい自由にしたかった。ゲイでもホモでも夢ぐらい見たっていいいでしょう!」


 自分でも、もう何を言っているのか、何を言いたいのかわからなくなって、脳はジンジン痺れ出し、早くなる呼吸で意識が遠のきそうだった。


 大切にしていた物を失う瞬間って、こんなにも苦しいのか。


 僕は両手を口に当て、吐いた息をゆっくり吸い込んだ。


「ナツ……」勢いを失くした先輩の声が耳に届いた瞬間、僕は答えが出た。


 呼吸を整え、袖口で涙を拭いた。


 100メートル走ダッシュした後のような荒い呼吸でゆっくりと先輩に告げる。


「わかりました。僕……今日は……ネカフェにでも泊まるので、明日中に……出て行ってくださいね…………。さようなら。先輩、元気で!」



 僕はそのまま部屋を出て、歌舞伎町のネカフェで一夜を過ごした。



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