第13話 破綻
――Saturday
夜8時。開店と同時にドアが開いた。
土曜日とはいえ、そんな日は珍しい事だ。しかも、開いた入口の先には、三人の女性客。その中の一人に、僕は吃驚した。
「あーーーー!!!!」
つい声を上げ、彼女を指さし、一歩二歩と後ずさる。彼女も僕に気付いた様子で、「へ?」と不思議そうに顔を歪めた。
「ナ、ナミちゃん……」
「ナ、ナツ……さん?」
「あら、いらっしゃい。どうぞー」
僕を押しのけるようにして、ママが女性客を店内に招き入れる。
「いやいや、ちょっと待って。どうして?」
ミラノはゲイオンリーの店だ。女性客なんてNGだろう。レズビアンならまだしも、そんな感じには見受けられない。ナミちゃんだって異性愛者だ。どう見ても冷やかしだし、これまでこんな事は一度もなかった。
ママが僕の耳に顔を寄せた。
「どうせ常連さんが来るのは10時過ぎよ。それまでの間、相手してあげればいいわよ」
「はぁ?」
僕はイヤだ。ゲイオンリーだったから、給料安くてもここでずっと働いて来たのに。それに、ナミちゃんは先輩と共通の知り合いだ。先輩と共通の知り合いにゲイバレしてしまったのだ。
ママはそそくさといつも通りの雰囲気で、彼女たちを店内奥のボックス席に案内した。
「早く注文取ってらっしゃい」
ママは抗議の目を向ける僕の背中を強く押した。
「いらっしゃいませ。ご注文をお伺いします」
僕はできるだけナミちゃんの顔を見ないようにして、渋々、三人の女性客の前にひざまづいた。
「みんなビールでいいよね」
一人の子がそういうと、後二人がうなづく。
「あ、あの、ナツ……さん?」
恐々といった感じで、ナミちゃんが右肩の後ろ辺りから声をかけてきた。
「ここでは、響なんで」
僕はそちらを見ずに、つっけんどんに返事をして、立ち上がり、ビールを取りに、カウンタ―に戻った。大きく息を吐き、言い訳とか作り話とかを考えてはみたが、何も思いつかなかった。
栓を抜いた瓶ビールと、グラスを三つトレーに乗せて、ナミちゃんたちのテーブルに運ぶ。
テーブルに無言でセットして、そそくさとカウンタ―の方へ向かおうとした僕の背中に、ナミちゃんが話しかけた。
「ごめんなさい。全然知らなくて」
なんて返したらいいのか分からなかった僕は、彼女に深く会釈をして、逃げるようにテーブルを後にするつもりだった。
「ナミさん、知り合いだったんですかー? すごい偶然!!」
ナミちゃんの隣の女の子が嬉しそうに声をあげる。
「えっと、高校の時の後輩で、サヤちゃんっていうの」
ナミちゃんがお客を僕に紹介する。
「こっちがサトリ」
地の果てまでテンションが落ちた僕は、ただただその言葉に「どうも」と相槌を打っていた。
引きつりながらも、どうにか笑顔は保っていたはずだ。
カランカランとドアベルが鳴り、「あら、いらっしゃーい。カウンタ―にどうぞ」とママの声が聞こえた。
その声が助け舟となり、僕はカウンタ―に逃げ込んだ。ナミちゃんたちのテーブルから、カウンタ―席の客は後ろ姿しか見えない。
幸い、お客のプライバシーはギリギリ守れる。
「鏡月ロック」と言ったその客の顔を、僕は二度見した。
「ミチル!」
隣の男は知らない顔だ。僕よりも遥かに年上で、はっきり言ってハゲ上がったただのみすぼらしいおじさん。
「久しぶり」そう言ってミチルは、ヒラヒラと手を振った。
「いや、久しぶりって……」 昨日会ってたし。そのネックレス、買ってあげたの昨日だし。
僕の頭は混乱しまくって、息も絶え絶えだった。今日はなんて日だ。頭の中でそんな嘆きが渦を巻く。
3分の1ほど残っているミチルのキープボトルを、カウンタ―に置いた。
目の前でミチルとそのおじさんは、何やら耳元でこそこそ楽し気に話しちゃって。
どこで知り合ったんだろう? マッチングアプリか。
僕の戸惑いが、いら立ちに変わるのに、さほど時間はかからなかった。
「トイレはどこかな?」
連れのおじさんが立ち上がった。
「あちらです」
おじさんがトイレへと消えた瞬間、僕は思わず、ミチルの肩を掴んでいた。
「いつからオケ専になったんだよ?」
「酷いなー、桶専って」
ミチルは僕をバカにするように笑っている。
オケ専と言うのは、棺桶に片足突っ込んでるおじいちゃんが好きなゲイを指す言葉だ。確かに酷い呼称だ。
「どう見ても、ミチルのタイプじゃないでしょ? あんなひょろっとしたただのおじさん。血迷った? それとも当てつけ? デートなら他行けばいいじゃん。なんでここに来たの?」
「キープあったから」
「絶対うそ! 僕への当てつけだろ?」
「だったら何? 僕、お客なんだけど」
――何がしたいんだよ、一体!
イライラする僕に、ミチルは余裕の笑顔でこう言った。
「僕の事なら心配しなくていいから。僕はそれなりに楽しく生きていくよ。安心してナツ君は思い通りに恋してよ。僕はナツ君に幸せになって欲しいよ。先輩、もしかしたら男ともやれるノンケかもよ。希望は捨てちゃダメだよ」
そう言って、僕が注いだ鏡月ロックを一気に喉に流し込んだ。
そして、ミチルは更に面白そうに笑う。
「僕は別に当てつけに来たわけじゃないよ。ナツ君、昨日思ったでしょ。僕が幸せになれるのかなって。思ったよね? そういうの偽善っていうんだよ。それとも自己保身かな」
「別になんだっていいよ。なんでそんなに人の気持ち読むんだよ」
ミチルはキっと僕を睨んだ。
「読むんじゃないよ、読まされるんだよ。その目で、その言葉で、声で、顔で、態度で、体全部で。だから僕は従う。ナツ君がして欲しいと思っている事をする。離れたいと思われれば離れる。幸せになって欲しいと思えば幸せなフリをする」
「そういう事して楽しいの?」
「じゃあ、どうしたらよかったの。教えてよ」
ミチルは僕の胸倉を掴み、声を張り上げた。珍しく相当酔ってるようだった。もしかしたら、昨日からずっと飲んでいたのかもしれない。
「自分で考えろよ」
感情的なその声は、自分でも驚くほど大きかった。
僕はその手を握り、胸元から振り解いた。
こんな風にミチルに怒鳴ったり、冷たくしたりしたのは初めてだ。
「僕は、もうナツ君には戻らない。あのおじさんの事、僕はナツ君以上に愛せると思うんだ。それでいいんでしょ。いいんだよね?」
僕は力いっぱい拳を握った。
そして、意を決して、「うん」とうなづいた。
それを見届けて、ミチルは鏡月のボトルを持ち上げ、瓶底を真上に上げた。
瓶の口とミチルの口が合わさり、小さな喉仏が上下し、やがて瓶は空になった。
ドンっと瓶をカウンターに置き、手の甲で口元を拭う。
「あーーーー、ごちそう様。もしかしたらナツ君、気が変わってたりして、なんて思ってたけど、やっぱりそんな都合いい事にはならないか。これでもう思い残す事ないや。さようなら」
その光景を、トイレから戻って来たおじさんは突っ立ったまま、口をぽかんと開けて眺めていた。
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