第5話 搾取された時間

 ミチルと別れて帰宅したのは、夕刻6時。

 気怠い腰にゆううつをおぼえながら、僕は夕飯の支度に、いそいそといそしんでいた。

 ザッ、ザッと、軽快にコンクリート階段を踏むスニーカーの音が通り過ぎるたびに、先輩! と玄関に視線を奪われる。

 そんな自分を、バカみたいだと思い始めた頃だった。


 ガチャ!

「おかえりなさい」

 そう、僕が声を上げたのは、玄関が開いたのと同時だった。


「ただいまって言うのなんか久しぶりで照れるな」


 大きなスーツケースを引き摺りながら帰って来た先輩は、西日に照らされて少し赤い顔をしていた。


「どんな結婚生活送ってたんですか?」

 冗談混じりに訊ねてみる。本当はあまり聞きたくないのに。


「もう1年ぐらい口も訊いてなかったんだ」


「どうしてそうなったんですか?」


「俺の浮気」

 先輩はそう言って、不健全な笑みを湛えた。


「女っつーのはめんどくせーな」

 そう呟きながら、リモコンを操作してテレビの電源を入れた。


「もしかして男の方がいいんですか?」


「何言ってんだよ、ばか」


 完全にジョークで片付いた。


 だが、その直後


「お前ならいいかもな」と笑い混じりの声がした。


「え?」


 心臓が止まる。


 でも早まっちゃダメだ。これはジョークなのだから。笑う所だ。


「あはははは」


 僕はわざとらしく大きな声でお腹を抱えるように笑った。


「僕も先輩ならオッケーですよ」


 先輩は、キッチンで食事の準備をする僕の腰に背後から手を回し、ぎゅっと抱き付いてお腹辺りをくすぐる。学生時代、よくやっていたおふざけだ。

 僕はあの頃のように、「ちょっとやめてください」とくすぐったそうに、嬉しそうに身を捩る。

 その様子にまた先輩が笑う。

 あくまでも、男子校の体育会系のノリだ。

 決して先輩が僕の体を求めているわけではない。

 ちなみに僕はやらない。先輩を性的対象に見ているからこそできないのだと思う。

 聖域とまでは言わないけど、僕から先輩に触れる事は、心と言うか、脳が、本能が赤信号を出すのだ。


「何作ってるの?」


「アクアパッツァと、シーザーサラダ。肉の方がよかったですか?」


 そう言いながらフライパンの蓋を取ると、盛大な湯気と共に、ガーリックと魚の香りが立つ。


「すげぇ、本格的だな。その黒い豆みたいなの何?」


「オリーブです。和洋中、何でもできますよ。食べたい物あったら何でも言ってくださいね」


「マジか。やったー」


 高校の時の話は何故か始まらなかった。

 僕も話題にしたくなかったし、先輩もきっと同じ気持ちだったんだと思う。


「もうすぐ出来るんで、先に風呂に入るならどうぞ。ビールもあります」


「うん。ありがとう。先にビールもらうわ。今日めっちゃ熱かった。喉渇いた」


 そう言って、スーツケースをキッチンに置いてけぼりにして、冷蔵庫を開けた。

 ビールを二本取り出して、僕に一本渡す。

 それを受け取り、プルタブを開けて軽く乾杯した。


 先輩は、一口飲んでリビングに入って行く。

 僕は一気に喉に流し込んだ。息が止まって頭がキーンとなるぐらい、がぶがぶビールを体内に落とした。

 先輩との温度差を、冷えたビールで埋めようとしていたんだ。


 ◇


 食事を済ませて、僕は仕事に向かう準備していた。

 白シャツに黒のスラックスに履き替える。


「お前って読書家だったんだな」

 先輩は、食後のビールを飲みながら、僕のお粗末な本棚の前で、背表紙を眺めている。


「読書家ってわけでもないですけど、本は好きです」


 高校の時、孤立していた僕は、本ばかり読んでいた。本に逃げていたと言った方が正しい。サッカーと本で過ごした3年間だった。

 高校の頃は、サッカー関連の本が多かったが、卒業してからは恋愛小説を好んで読んだ。

 男女の普通の恋愛小説。その世界に憧れたりもした。ただ、どうしても主人公とヒロインが脳内で男同士に変換されてしまう。男同士の普通のラブストーリーとして楽しんだ。

 ちなみに、カラオケで情感たっぷりに歌い上げるラブソングを奉げたい相手は、もちろん男だ。


「すげぇな。俺自慢じゃないけど本一冊読み切った事ないよ。眠くなっちゃうんだ。本読める人尊敬するよ」


「そんな尊敬なんて。読書は完全に娯楽です。僕も途中でやめる本たくさんありますよ。いい作品って言うのは読まされるんですよ。好みもありますけどね」


「おすすめってある? お前が読まされた本。俺も読んでみたいな」


 僕は一冊思い当たったが、別の本にした。

 それは、ゲイの作者が綴ったエッセイだったから、まだその本を先輩に差し出す勇気はなかった。いつか、そんな時がくるのだろうか?

 そんな事を思いながら、無難に名作を取り出す。


「これ、面白いですよ。ファンタジーですけどリアリティもあって読みやすいと思います」


適当に2,3冊を先輩に渡した。


「へぇ。ありがとう。これから暇になるし、読んでみるよ」


「え? 暇って?」


「うちの店、閉める事になって、今日社長から連絡あってさぁ。暇出された」


「本当に? 大変ですね」


「あ、でもお前に迷惑はかけないから。俺、貯金もあるし、退職金も失業保険もすぐ出るからさ。会社都合だから」


「なるほど。じゃあ、落ち着くまでここにいてください。次の仕事見つかるまでとか」


「ありがと」と先輩は、ポンと僕の肩を叩いた。


 着替え終わり、今度は僕が行ってきますを言う番だ。

 僕はキーケースから部屋の合鍵を外し、テーブルに置いた。


「一応、スペアキーです。置いときますね」

「おお、ありがとう」


「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 先輩は軽く手を上げて、送り出してくれた。


 ◇


 深夜3時。

 仕事から帰って来たら、先輩は起きていて、ソファの上から眠そうな目で「おかえり」と言ってくれた。


 シャワーを済ませ、ドラム式洗濯機の中で乾燥済みの衣類を籠に移す。次に、洗濯する物をそこへ入れる。

 仕事から帰って来たら、必ずこれをやる体になっている。

 裏返しの先輩の靴下を表向きにひっくり返すのも忘れない。一気脱ぎしたと思われるジーンズの中からパンツを取り出し、これもきちんとひっくり返して洗濯機へ投入してスイッチオン。


 乾いた洗濯物を畳んでいると「手伝おうか?」とソファで寝転がっていた先輩が上体を起こした。


「いや、いいですよ。畳み方拘りがあるんで」


 先輩のスーツケースは開けっ放しになっていて、まとまりなく服や下着が溢れている。何か出す時、奥の方に目当ての物があったのだろう。こういうのが平気な人なんだ。寮の机もいつも散らかっていた。


「なんか悪いな。洗濯くらい俺やるから言って」


「いいですよ。洗濯機に放り投げるだけなんで」


 どう考えても裏返しのまま洗濯しそうなので断った。


「これだけ仕舞ってください」と、きちっと正方形に畳んだ先輩の服を差し出す。


「うん、ありがとう」と言いながら、スーツケースに雑に押し込み、眠そうにあくびをした。

 明日、きれいにしておいてあげよう。


「先輩、ベッドに寝ていいですよ。僕ソファで寝るんで」


「俺がソファで寝るよ。お前ベッドで寝ろよ。仕事で疲れてるだろ」と、ソファに腰かけた。


「いいですよ。まだ若いんで」と冗談を言うと「俺が年よりみたいな言い方すんじゃねぇよ。俺だってまだ26だぞ」と、また僕にヘッドロックをかけに来た。


 しばし、じゃれた後「じゃあ、ベッドで一緒に寝ようぜ」と先輩は無邪気に笑う。


 僕の大好きな顔だ。


「わかりました」と一緒にベッドに入った。


「懐かしいですね。よく一緒に寝てましたよね」


 うつ伏せで二人、窓の外を眺めながらそんな事を言った。


「ああ。なんかお前の隣って居心地よかったんだよな。話してて面白かったし、いつも……。ただそれだけだったのにな」


 先輩の声のトーンが変わった。やっぱり先輩も苦しんでいたんだ。

 そして先輩にとっては「ただそれだけの事」だった。僕は違った。

 先輩と過ごす時間が一つ一つかけがえのない宝物だった。

 嬉しくて、切なくて、痛くて、苦しくて……。どんな名作よりも僕の感情を揺さぶった。


 だから僕は先輩の言葉に同意する事ができなかった。

 ただ、笑みを絶やさないよう努めた。この時間が永遠に続きますように。と神様とか仏様とかご本尊様とかご先祖様とかにお願いしてみるが、逆に怒られそうだ。なんて身も蓋もない思考に辿り着く。


「なんだか今日の月、神秘的に見えますね」


 嘘だ。無機質なビルの隙間を侘しく飾る、何の変哲もない、いつものただの月だったんだ。


「そうだな」


 僕のリュックの中ではずっと携帯が震えていた。


 ――ミチル、ごめん。


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