第四章 死に損なった少女
昼は太陽、夜は月に照らされて輝く湖はいつ見ても綺麗で、葵依は
掬ってしまえば同じ水なのに、よく晴れた日の湖の水は井戸の水と違って青い色をしている。
「おねえちゃん。どうしてここの水は、こんなにきらきらしているの?」
赤い縦縞模様のちゃんちゃんこを着た六才の子供だった葵依は、隣をゆっくりと歩いてくれている姉の
すると葵依よりも五つ年上の瑞枝は、優しい横顔で頷いた。
「うん、そうだね」
一瞬目を伏せては立ち止まり、瑞枝は妹の葵依の肩にそっと手を置いて湖の方を向く。
「私もよく知らないのだけど、この湖には昔、光る女神様がいらしたそうだよ。女神様の光が今でも水の底に残っていて、湖が輝くのですって」
葵依と同じ貧しい百姓の父母のもとに生まれていても、瑞枝の言葉遣いは不思議となぜか丁寧である。
姉の説明は何の根拠もない非科学的なものだったけれども、幼い葵依はその曖昧な昔話をまるごと信じて納得した。
「じゃああの水をぜんぶのんでしまえたら、もっとずっときれいなひかりが見えるの?」
「さあ、どうかしらね。この湖は冷たいから、あまり飲みすぎるとお腹を壊すと思うけれども」
葵依が素朴な願望を口にすると、瑞枝は首を傾げて微笑み、やんわりと妹の無茶を止める。
色白で大人びた顔立ちをした瑞枝は、真っ黒に日焼けした葵依よりも美人で、百姓の子のわりに洒落ている名前にも負けていない。
(わたしのおねえちゃんは、いつもきれいだ)
葵依はうっとりとした気持ちで瑞枝を見上げ、陽光に照らされた前髪の下で淑やかな瞳がまばたきをするのを見ていた。
妹の自分と違って生まれつき美貌に恵まれている瑞枝に、葵依が嫉妬することはなかった。
むしろ葵依は美しいものに目がないので、きっと自分より女神に似ているはずの姉も、湖と同じように好きだった。
だから葵依は姉と湖を少しでも独り占めしようと、どんぐり眼を一生懸命に開いて見つめる。
太陽の光がまぶしい湖畔を歩く二人の影は、澄んだ青空の色が溶けたように広がる湖の水面に、ゆらゆらと揺れて映っていた。
湖の向こうの山よりもずっと遠くにある都会にはハイカラな洋服を着た人がたくさんいて、牛の肉を使った洋食や甘く溶けるような洋菓子を食べて生きていると、学校の先生から聞いたことがある。
田舎にいる葵依は野良着を着た大人と雑穀の混じった米の味しか知らず、洋服も洋菓子も見たことがないけれども、それしか知らないからこそ目の前にあるものを好きでいられた。
◆
そんなある平凡な、半日で学校が終わった昼前の帰り道を姉妹で歩いた日から五年後。
葵依の好きな湖の色は、澄んだ青色からくすんだ灰青に変わっている。
そして比喩ではなく本当に、夜には湖がうっすらと緑色に光り輝くようになっていた。
月のない夜にも光る神秘的な湖の光を見た葵依は、きっと女神の力に違いないと信じていた。
しかし翠古村の大人たちは水の色が変わった理由について、湖の向こうにある山の峠で軍隊のための特別な鉱石が掘られているからだと話した。
元々サワガニしかおらず、魚を放流してもまったく育たない湖だったため、鉱山からの排水が流れてきても気にする人は少なかった。
またそれどころか大人たちは、湖の水を使って布を染めて作る村の特産品の染物が、夜に青白く光る布になったことを喜び、珍品として高値で売るために新しい工場を作った。
数十人ほどが働く小さな工場だが、赤いレンガ造りのその建物は、他に何もない寒村にとっては立派なものだった。
十六歳になった姉の瑞枝も、大勢いる若い女工の一人として村の染色工場で働いたので、やせた土地で米を作って暮らしていた家族の暮らしも、ほんの少しだけ余裕が生まれた。
「あの湖と、瑞枝のおかげで、ちゃんとした飯が食べられるなあ」
鍋が吊り下げられた囲炉裏の近くであぐらをかき、老いて髪が薄くなった父が以前よりも具の量が味噌汁をすする。
葵依の家族が住んでいるのは、三間取りの狭い茅葺きの民家である。
母と瑞枝、そして葵依は下座にいて、父と同じように夕食をとっていた。
まるで余所の子のように一人だけ姿勢良く座る瑞枝は、手にした椀を箱膳に置いて父の言葉に受け答える。
「やっていることは前と変わらないのに、お給料が随分上がりましたから」
自分が働いて得た賃金が一家を支えることになっても、瑞枝の態度は謙虚である。
瑞枝は以前は別の染色工場で働いていて、地元に新しい工場ができたことをきっかけに戻ってきていた。
あと何人かいる他の姉は全員遠くに嫁に行ったきりなので、葵依はあまり会ったことがない。
(お姉ちゃんが、ずっとここにいてくれたらいいのに)
葵依は小学校に通いながら家の農事を手伝って過ごしていて、瑞枝がいないと子供は一人だけなので寂しかった。だから瑞枝に嫁に行ってほしくないと願いつつ、葵依は不器用に箸を握って毎日同じ味がする味噌汁を飲む。
しかし父よりは若いけれども疲れた顔をした母は、自分が生んで育てた子にしては美人な瑞枝をまじまじと見つめて、どんな家に嫁いでもらおうか考えているようだった。
「あんたにももっと良い生地の着物を、仕立ててやらなきゃいけないね」
「今なら少しは金も残っているし、いいんじゃないのか」
美しい娘をより美しくして価値を上げようと母が提案をすると、父も賛同する。
貧しいなりに工夫をしようとしてる両親に微笑みお礼を言うと、瑞枝は妹の葵依の方を見た。
「うれしい。それじゃ私は、葵依の分を縫おうかしら」
「え、わたしに?」
急に話を振られた葵依は、慌てて顔を上げて隣の姉に聞き返す。
すると瑞枝は、瑞枝の黒くなめらかな髪と違ってこわごわと短い葵依の髪に触れ、やわらかな声で言って聞かせた。
「葵依ももうすぐ大人になるのだから、きちんとした服を一つくらいは持たなければいけないでしょう」
そう言って葵依の頭を撫でる瑞枝の手は、光る湖から引いた水に工場で触れているからか、指の先がうっすらと青白く輝いていた。
まるで女神に祝福されているようだと、葵依は不思議な光の宿った姉の手を見て思う。
「うん。お姉ちゃんがそう言うなら」
葵依は綺麗なものを見るのが好きなのであって、自分が着飾ることに興味はなかった。
しかし指の先の美しい輝きも、その手の優しいぬくもりも、どれも好きなので素直に姉の言葉に頷いた。
◆
暗い雲が広がった空から雨が降り続けている、梅雨のある日。
葵依は姉のお下がりの浅葱色の着物に編笠を被り、湖のほとりの木陰の下に座っていた。
分厚い雲によって太陽の光はまったく見えないためあたりは暗く、雨が描く波紋が揺れる湖の水面だけが鈍い光を放っている。
その光は不気味だけれども見るものを惹きつける何かがあり、葵依は湿度がある冷たい雨の匂いの中で、湖を見つめ続けた。
(この湖の話をお姉ちゃんから聞いたあの日から、もう五年もたったんだ)
以前の清く澄んだ眺めとは違う光景に自分や周囲の変化を重ね、葵依は変わったことと変わらないことについて考えた。
特に祝ってもらえたわけではないけれども、葵依は誕生日を迎えかつての姉と同じ十一歳になっている。
そうやって自分の背丈も、見える景色そのものも変わる一方で、季節が移っていく自然の感触は昔と同じで、ひんやりとした雨の向こうには短い夏が待っているはずだった。
(今年の梅雨は、去年よりどんよりしているような気がするけど)
灰色の空と薄白く光る湖の境目を見つめ、葵依は半ば霧のように重い空気を吸った。
葵依が雨に濡れながらも木陰に佇み続けているのは、同僚の葬式に出かけた姉の帰りを、道の途中で特に理由もなく待っているからである。
だから暗い気持ちになるのは、新しい工場に隣村から勤めていた、姉の同僚の死の話を聞いたせいなのかもしれないと葵依は思う。
姉と同い年の女工だった彼女は、あるときから病で仕事を休むようになり、すぐに戻るという話だったのが結局一度も回復せずに死んだらしい。
(すごく元気な子だったって、お姉ちゃんも言ってたのに。なんで死んじゃったんだろう)
葵依は物事をよくわかっている方ではないが、姉の同僚の死の話には不気味なものを感じた。人が死ぬのはよくあることでも、何かが変な気がしたのだ。
しかしなぜおかしいと思うのか、考えてもわからないから、葵依は姉の帰りを待っていた。
しばらくそのまま木陰で木の幹にもたれて雨の音を聞いていると、そのうちに湖沿いの砂利道を誰かが歩く音がした。
「お姉ちゃん」
姉の瑞枝に違いないと思った葵依は、すぐに立ち上がって道に出た。
「葵依、待っててくれていたの?」
歩いてきたのはやはり葬式帰りの瑞枝で、葵依と同じ編笠を被り、黒染めの着物を着た姿でこちらに歩いてくる。
だが曇天の薄闇の中で、瑞枝の身体全体がまるで亡霊のように青白く光っているように見えたので、葵依は一瞬息を飲んだ。
(工場で染まった指先だけじゃなくて、体中が光ってる?)
変な空の暗さに見間違えたのかもしれないと、葵依は目をこすった。
改めて見てみると、姉の発光は気のせいと言えば気のせいだと言えるほどであったが、葵依にはやはり青白く光っているように見えた。
「こんなところにいたら、風邪をひくでしょうに」
「だって、お姉ちゃんが」
幼い妹が雨の中で自分を待っているのを見つけた瑞枝は葵依に駆け寄り、屈んで顔を覗き込んだ。
葵依は不安な気持ちのまま俯き、何を言えばいいのかわからなくなった。
それでも瑞枝は、葵依が言葉にできないことをそれとなく察して微笑んだ。
「心配してくれて、ありがとうね。早く家に、帰りましょう」
濡れた手をつなぎ、瑞枝は葵依を連れて歩き出す。
瑞枝は明るく振る舞っていたが、長いまつげに縁取られた瞳には、悲しげに何かを恐れていた。
一緒に働いていた同い年の少女が原因不明の病で死んだのだから、悲しむのは当然である。しかし瑞枝が何を恐れているのかは、葵依にはわからない。
(私が怖い気持ちでいるから、お姉ちゃんの顔も怖がっているように見えるんだろうか)
葵依は姉に手を引かれながら、その顔をおそるおそる見上げた。
三日月のようにほのかに光るように見える横顔は綺麗だけれども、綺麗すぎて不吉な気がした。
それから姉は家につくと、疲れたと言って早めに寝た。
その日を境に姉はよく寝込むようになり、葵依の漠然とした不安は、次第にはっきりと恐ろしい現実になった。
◆
まず最初に壊れ始めたのは、不思議な明かりが灯っていた瑞枝の指先だった。瑞枝の指先は腫れ上がったかと思うと出血して崩れ始め、爪は剥がれ落ち、骨が砕けて肉や膿と混じり露出するようになった。
そして光が体中に広がったのと同様に、身体全体が指先と同じように腐り落ちていく。
肉の赤色と膿の黄色が混じって腐り落ちながらも、青白い光を保ち続ける身体は毒の花が咲いたように痛々しく、実際にひどく痛むようで瑞枝は苦しんでいた。
両親が着物の生地を買うために使う予定だったお金で薬を買ってみても効果はまったくなく、治すことはおろか瑞枝の苦痛を取り除くこともできなかった。
「隣町で死んだ瑞枝の同僚の娘も、同じような病だったそうだよ」
「じゃあ瑞枝は、このまま死ぬのか」
父と母は何もできないまま、布団を血まみれにして横たわる娘のいる部屋の襖の前で、希望のない会話を交わす。
(私のお姉ちゃんなのに、お姉ちゃんと顔を合わせるのが怖い……)
病で変わり果てた姉の姿を見たくなかった葵依は、家の前の畑の雑草をほとんど抜いてしまっても、中には戻らずに土をいじった。
誰よりも美しかった姉の顔が腐り落ちていくのは、葵依にとっては世界が壊れたことに等しく、どう接すればいいのかもわからなかった。
葵依は綺麗な姉が好きなのであり、醜いものは好きではないのだ。
幸か不幸か、瑞枝はそのまま衰弱して二十日ほどで息を引き取ったので、病床の姉にどんな言葉をかけるべきか葵依が迷う必要はなくなった。
病に苦しむ姉がどんな思いでいたのかもう知ることができないことを、葵依は半分後悔して、半分安堵していた。
だから死んだと母から聞いて初めて、葵依は姉が臥せっていた部屋の襖を真夜中に開けた。蒸し暑い夏の夜なので、まだ生きているときから続いている腐臭は家中に広がっていた。
遺体は棺に入るまえの状態で、手ぬぐいを顔に被せられて薄布団の中にいた。
綺麗にいつも梳いて結んであった黒髪は抜け落ち、布の隙間からは赤黒い肉塊しか見えない瑞枝の身体は、命が失われても白い蛍のような光を帯びている。
しかし光ったところで、もう何も美しくはなかった。
◆
梅雨が開けたら夏が来て、夏が去ったら田んぼの水を抜いて、鎌で穂を刈り取る秋になる。
例年なら葵依の住む翠古村も、そうした季節の農事に勤しんでいるはずだった。
しかしその年は異様な数の村人が死に、いつもどおりの農事をこなすことが難しくなった。
まず瑞枝の死と他の村人の葬式の時期が重なったと思うと、また別の村人も原因不明の病になったと聞いた。
症状は皆身体が薄く光ることから始まり、やがてそこら中が腫れて血まみれになって、嘔吐と下痢を繰り返して死ぬ。
最初は工場で働いていた若い女性ばかりが倒れていたのが、そのうちに若くはない者や男も似た症状の病になるようになって、一ヶ月もしない間に翠古村は大きすぎる死の影に包まれた。
姉の四十九日が終わる頃には、葵依の父も母も死病を発症して、残暑の中で死んでいく。
「あの湖が、わしらを殺す」
「馬鹿な誰かが、女神を怒らせた」
村人たちは皆、自分たちがの身に降り掛かっている厄災の原因を白く光り輝くようになった湖に求め、口々にそうささやいた。
各々の家には井戸があり、湖の水を直接飲むことはあまりない。しかし死の病の光は異変が起きた湖と同じ色をしているので、村人たちは間違いないと確信していた。
◆
葵依がその死病にかかったのは燕が南に去って涼しくなった頃で、家族の中では一番最後だった。
他の家のことを気にする余裕がある人がいないから比べられないけれども、おそらく村全体でも遅いほうだと思われた。
(もしかすると、私が最後なのかもしれない)
身体に力が入らない葵依は、だらしなく台所の土間の上で身体を引きずり、米びつから冷たい生米を掴んで食んだ。
元々味覚が鈍い方である葵依は、美味しいとか不味いとかはあまり感じない。
噛むことも飲み込むことも難しかったが、さらさらとした米粒を口に含んで舐れば甘く、何かしらの栄養は取れている気がした。
何とか物を食べようとするのは多分惰性で、葵依は両親や姉と同じように自分にも終わりが訪れることを待っている。
寝室で死んだままになっている両親の死体を埋葬することができないのと同じように、今の葵依には米を炊いて食べる力も、何か意味のあることを考える力もなかった。
もっと言うならば葵依は、熟しすぎた果実のような姉の死体を見たそのときから、考えることをやめている。
それから葵依は生米を口に含んだまま、朝日が差し込む半開きの戸の隙間からゆっくりと這い出て、湖を目指した。
熱で朦朧とした頭では、なぜ自分が湖に行こうとしているのかわからなかったけれども、葵依は家を後にした。
体中の骨が砕けたように痛かったけれども、土まみれになりながら、腕の力で少しずつ前に進む。
空は秋晴れで気持ちよく晴れていたけれども、静まり返った村の家々に生きている人の気配はない。
田畑を耕す人が皆死んだから、今年の翠古村の収穫は厳しいものになるはずだけれども、食べる人が死んでしまった今はそんなことはどうでも良かった。
時折意識を失ったような休息を挟みながら、葵依は前進を続けた。
そのうちに目に映る光も身体に触れる物の感覚もなくなって、今が昼か夜かもわからなくなる。
いつかは自分がどこで何をしているのかもわからなくなるときが来て、きっとそれが死ぬということなのだと信じ、葵依はそのときを待っていた。
◆
長いのか短いのかもわからないほどに深い眠りの中にいた葵依は、誰かが耳元でささやいた気がして、目を覚ました。
しかしまぶたを開けて横を見てもそこに人影はなく、見えるのは真っ昼間のまぶしい太陽の光に満ちた窓ガラスの向こうに生えている木々と、暗く日陰になっている室内であった。
(全然知らない、見たこともない部屋だ)
真新しいがこじんまりとした洋室には、何かの瓶や分厚い本が並んだ棚が並んでいて、全体的に消毒の臭いが漂っている。
混乱したまま布団から身体を起こそうとして、葵依は自分が水色のやわらかい布地の単衣を着て、小学校の保健室でしかみたことがないような金属製のベッドに寝ていたことが気がついた。
(普通の民家ではなさそうだけど……)
村で死病が流行したことも半分忘れていた葵依は、記憶を遡って自分の置かれている状況の把握を試みた。
そうして湖を目指して家を這い出たところまで思い出したところで、ドアが開いて一人の男が入ってきた。
「お、普通に回復したようだな。目の様子が少し、おかしいが……」
くすんでくたくたになった白衣に身を包み、無造作に髪が伸びているわりに洗練された顔立ちをしているその男は、挨拶もせずに葵依のいるベッドに近づいてきた。
そして男は無遠慮に葵依を見下ろすと、やにわに葵依の頬を掴み、細い懐中電灯で目に光をあてた。
眩しさに葵依は目をつむったが、男は指で強引にまぶたを開かせる。
懐中電灯の光でよく見えなかったが、男は葵依の目を観察しているようだった。
右目が終わったと思うと、次は左目に同じことをされる。両目分きっちり観察してやっと、男は葵依を解放した。
「何で、こんなことするの」
男の手の冷たさも、懐中電灯の人工的な光も不快だった葵依は、寝台の上から男をにらみつけた。
男は村にいた人の誰よりも背が高くて健康に見え、育ちが良さそうで紳士的な雰囲気がするところもあるのに、やることは強引だった。
質問にどう答えるべきか一瞬迷った様子を見せた男は、すぐに思いついた顔をして後ろの棚の引き出しから大きくて重い手鏡を取った。
「だってほら、お前の目は赤くて、変に光っているだろ」
男は葵依に手鏡をのぞかせて、その目の異変を説明した。
その言葉の通り、葵依の実年齢以上に幼く見えるどんぐり眼は、元々はごく普通に黒かったのに、今は血のように赤い不気味な色をしていた。そのうえ薄暗い日陰の部屋にいる葵依の目は、あの湖と同じ青白い光をうっすらと発しているのがわかって、まるで悪いものに取り憑かれたように見えた。
「あの病気のせいで? でもどうして目だけ……」
生きている人間のものではないような自分の瞳の色を見て、葵依は怖くなって目を見開いたが、すぐにそれよりももっと恐ろしく変わり果てた姉の姿を思い出した。
葵依は改めて自分の身体をよく見て触ったが、目の色が違うこと以外は、日焼けした肌も爪の形が悪い手もどこも変化がなかった。
「翠古村ではみんな、お前以外は酷い死に方をしていた」
葵依の疑問に先回りするように、男が静かに無情な大量死を告げる。
他に生き残りがいないことは何となくわかっていたうえ、家族も幼馴染も知り合いも、みんな死んでしまったこととじっくり向き合うには不可解なことが多すぎると思った葵依は、死者を悼むよりも先に男に向き合った。
「私は瀬田葵依。瀬田益蔵の次女で十一歳の葵依。お兄さんは、一体何なの」
「俺は医者だ。
葵依が自分の名前を教えると、男は初対面であることをすっかり忘れていた様子で名乗った。
「守谷って確かあの、やぶ医者って評判の……」
隣村にある病院として名前を聞いたことがあった葵依は、思わず失礼なことを口走る。
だが倫之助は気分を害したそぶりはまったく見せずに、淡々と事実は事実として認めた。
「確かに俺は治療というものが苦手で、開院直後に患者を四人ほど死なせた。それからまったくほとんど、この診療所に来る患者はいない」
倫之助は妙に堂々とした態度で医者としての腕の悪さを語ると、今度は棚から薄い紙の雑誌を何冊か取り出して目次を葵依に見せた。
「だが研究方面では悪くはない立ち位置で、投稿論文が学術雑誌に何回か載っていて、しかもそれなりに評価も引用もされているんだ」
薄黄色の紙の束に印刷された細かい文字は、難しい漢字やカタカナが並んでいて葵依にはまったく何が書いてあるのかわからなかったが、鈴之介の長い指の先にある人名は確かに守谷倫之助と書いてあるように見えた。
「お前のいた翠古村を見に行ったのは、論文のためでもあり、一応人助けのためでもあった。残念ながら俺はあまり役に立たなかったが、お前を含めて興味深い情報は多く手に入った」
倫之助は大事そうに薄い紙の本を棚に戻すと、近くにあった木製の小椅子に腰掛けて、意外と若く賢そうな顔にかすかな微笑みを浮かべて葵依を見つめた。
その態度に感謝をすればよいのか、それとも怒りを覚えるべきなのか、わからなかった葵依は黙ってこちらからも男を観察した。
葵依が何も言わないでいると、倫之助は半ば独り言のように、饒舌に持論を話し続けた。
「あの死病の原因はおそらく、皇国軍の新型兵器のための
勝手に広がっていく倫之助の考察は、女神が湖にいると思っていた葵依にはちっとも理解できない内容で、質問したところでわかるものではないことは明らかだった。
だから葵依は、倫之助の言葉を遮って、他のことについて訊ねた。
「それならお兄さんのおかげで、私は助かったってことだよね」
きっとそうなら感謝の言葉を述べなければいけないと、葵依は思っていた。
しかし倫之助は開業医としてはやぶだと認めたときと同じように、正直に葵依の問いに首を横にふった。
「いや、違う。俺は三日前にお前をこの診療所に連れてきて寝かせただけで、特別なことはしていない」
早口だけど聞き取りやすい、すっきりとした倫之助の声が葵依の期待を突き放す。
倫之助は何でも知っていそうな表情をしているわりに、葵依が知りたいことの答えは何も持ってなかった。
「じゃあ、なんで私だけが生きているの?」
聞いても無駄だという確信を持ちながらも、葵依はだんだん苛立ってきて問いを重ねた。
家族も何もかもを失えば悲しい気持ちになると思っていたのに、実際の葵依はどちらかというと怒りを感じている。
ただ一人生き残ったうえに瞳の色をおかしく変えられて、不当な罰が当たったような気分だった。
「それは俺にもわからない。わからないことがあるから、学者は研究するんだ」
倫之助が腕を組み直し、本人としては実感こもっているのであろう言葉を述べる。
患者の葵依が肩を震わせていても、倫之助は対応はどこか無感情でずれたものだった。
そして博識だからこそわからないものはわからないと開き直る強さがあるらしい倫之助は、そのまま適当に思いついたことをまた話しだした。
「だが、あえて宗教がかった説明をするなら、お前は西洋の国々にいるという『聖女』のようなものなのかもしれないな」
「せいじょ……?」
生まれてこの方聞いたことがない単語に、葵依は言葉を学ぶ赤子のようにおうむ返しに繰り返した。
すると倫之助は意外とわかりやすく、その言葉の意味を説明した。
「火刑にされても、死病にかかっても、神に愛されているから死なないのが聖女だ。彼女たちは神に近い存在として敬われて大切にされていると、昔読んだ洋書に書いてあった」
洋服すら縁遠い葵依にとって、西洋の神への信仰はまったく接点がないもののはずなのに、意外なほどにすぐに理解できる。
それは葵依のいる皇国に生きている神々とは別のものであっても、同じように人に信じられている神の話だからかもしれないと、葵依は思った。
倫之助の方も皇国の民として、ごく普通に神々の力を信じているようで、何のてらいもなく神を語った。
「俺は信仰心がある方ではないが、この国の神々を支える仕組みの中にも、そういうものがいてもおかしくはないのかもしれないな」
それは適当で当てずっぽうな推論で、何か根拠があるものではなかった。
だがそれゆえに、倫之助と初めて会って何も信用できていない葵依も、多少は信じることができた。
(私が生きていることにも、悪くはない意味があるのなら……)
倫之助には何も言葉を返さず、葵依は窓の向こうに見える雑木林を見つめて心を落ち着けた。
だんだん秋が近づいて低くなっている太陽は、ほどよい強さの日差しで森の木々を照らしていた。
考えてみると葵依は、姉や両親と違って、身体が光ったことも、体中が腐り落ちて布団を血で染めたこともなかった。
死病が湖の女神の呪いではなく、倫之助の言う鉱山の砂のせいであるのなら、葵依は自分が死ななかったことこそが女神の祝福なのだと信じたかった。
◆
他に行くあてがない葵依は、そうと決めたわけではないものの、流れで診療所を兼ねた倫之助の自宅に居候することになった。
倫之助の自宅は、洋風の診療所部分は白塗りの清潔感のある木造建築だが、住居部分はごく普通の畳張りの民家になっている。
裕福な地主の家の三男である倫之助は、診療所で閑古鳥が鳴いていても食べていけるようなのだが、ささやかな世間体を守り近くために田畑を耕して自給自足の生活を装っていた。
だから葵依は家に置いてもらう代わりに、倫之助の農業の真似事を手伝った。
「鍬も鎌も苦手なんだが、一人で百姓をやっていれば、少なくとも人殺し扱いはされないからな」
きっと陽気な自虐で言っているのであろう笑顔で、患者を死なせた医者である倫之助は、三日月型の鎌を手に紺染の野良着を着て秋晴れの田んぼに立っていた。
葵依は倫之助から借りた同じぶかぶかの野良着を着て、冗談に対する反応に困りながら稲の刈り取りを手伝っている。
若干使い古されていても綺麗な紺色に染まっている野良着は、葵依が知っている野良着よりも随分立派で、育ちの違いというものを感じさせた。
(翠古村からほんの少し離れただけで、もうこんなに知らない世界があるんだ)
真剣に働いていないのに貧しさとは無縁で、他人を養えるほどの余裕を持って生きている倫之助は、葵依にとってまったく未知の存在だった。
危なっかしい手付きで稲穂を刈り取る倫之助を横目で見ながら、葵依は慣れた早さでさっさと刈る。
金色に色づき頭を垂れた稲は豊作で、狭い山間にきらきらと輝いていた。
葵依は背を屈めて稲の根元を握り、その清々しい匂いをかいで、今はもう誰もいない自分の家や村の田畑のことを思い出した。
葵依は鏡のように水が張られた田んぼも、まっ白な雪に覆われた田んぼも、どの季節のものも綺麗で好きだった。
(お米の味は全部一緒だとしても、あの田んぼのお米をもう誰も食べられないのは寂しいな)
結局倫之助に説明してもらっても死病が流行った理由はよくわからなかったが、あれだけの人が死んだ土地で育ったものを食べることが危険であることは何となく理解していた。
だから人の家の田んぼを手伝うのには思うところがあったが、仕方がないことだと割り切って鎌を手にする。
それから葵依は、一列、二列と刈り終わったところでまったく進んでいない倫之助の方を振り向き、手の速さに反した遅さで先程の冗談に反応を返した。
「稲穂の命なら、たくさん刈り取っても怒られない?」
葵依は赤くなった目で、鋭い鎌を手にしたまま倫之助を捉えた。
しかし倫之助はまったくその色を恐れることなく、葵依の冗談を受けて少々意地の悪い微笑みを浮かべる。
「そうだ。むしろ逆に働き者って言ってもらえる」
少し離れたところにいる倫之助は、近くにいるときとは違う調子で声を張って答えた。
謎の死病から生き残り、人と違う見た目になってしまった葵依はおそらく、蔦倉村の他の村民と会ったら恐れられて嫌われるはずだった。
しかしそもそもまず頼った先の倫之助が村民から除け者にされているので、葵依はある意味では心が傷つく機会から守られている。
ただだからこそ、ただ真面目に悲しむのが難しいほどの大量の死に触れた葵依は、現実を受け入れるために自分の生きている意味を考えることがあった。
欲しいのは、涙を流して悲しむ時間ではなく、生きていても良いのだと思える理由である。
倫之助が言ったように自分が特別な存在として生きているのなら、葵依は何かこれから意味のある役目を果たさなければならないような気がしていたのだ。
(でも死病のことを調べて後の世のためになるとかは、私には絶対無理だから)
近くにいる人間が一応は医者なので、医者になって人のためになるという発想をすることはあったが、葵依は勉強が得意ではないし自分の限界を知っていた。
葵依は苗を植えたり、雑草を抜いたり、脱穀したりする以外のことができない。
だから葵依は倫之助に背を向けまた作業に戻ると、稲を根から綺麗に刈り続けた。
居場所は変わっても、ほどよくかたい稲の感触は幼い頃から知っているものと変わらず、葵依は田畑ではとりあえず役に立つ人間でいられた。
◆
それから二年ほど倫之助の家に居続けて、葵依は十三歳になった。
裕福な実家から食べ物を送ってもらっている倫之助と同じ恵まれた食生活を送った結果、葵依は目の色はおかしいままであるものの、背が高く十字絣の着物が似合う健康的な少女に育った。
倫之助は時折注射というもので葵依の血を抜いたり、目やら爪やらを調べられたりして、それを何かの文章にしてどこかに送っているようだったけれども、どんなことが書かれているかは葵依の知るところではなかった。
だから診療所の赤い郵便受けに入っている封筒の中身が、倫之助が葵依を使って書いた論文に関わるものであったとしても、葵依は興味を持たないまま開封せずに倫之助に渡す。
しかしある蒸し暑い文月の下旬に届いた封筒はいつもと様子が違ったので、夏野菜の収穫から戻った葵依は郵便受けの中をじっと見つめた。
(これ……、倫之助宛てじゃなくて、私宛て?)
文章を読むことは苦手でもさすがに自分の名前くらいはわかる葵依は、瀬田葵依と書かれた長形の白封筒を裏返して見た。
送り主は神祇省という聞いたこともない名前が書いてあって、何のことかはさっぱりわからない。
葵依は蝉の声がよく聞こえる青々とした診療所の横の小路を横切って、勝手口から住居部分に入った。
そして三つ編みに編んだ髪が跳ねる勢いで障子を開けて、縁側にあぐらをかき水うちわをあおいでいる浴衣姿の倫之助に話しかける。
「これ、私宛てなんだけど。開けても良いってこと?」
これまで郵便物をもらう機会がなく、戸籍簿の住所もあやふやなままにしている葵依は、倫之助の近くに座っていつもと違う手紙を渡した。
「これは神祇省って書いてあるな。神祇省って言ったら、神々の面倒を見てる国の省庁だ」
倫之助は手紙を受け取ると、大人とは思えない汚さでびりびりと端を破った。
神祇省というのは、どうやら個人の名前ではなく、何やら偉い仕事をしているお国の人の集まりであるようだった。
「それで、なんて書いてあるの」
読めなくても書面の雰囲気が気になった葵依は、倫之助が広げる無機質な活版で印字された妙な手紙を覗き込む。
倫之助は普段の自分宛ての郵便物を読んでいるときよりも難しい顔をして、書面を読んでいた。
「どうも神祇省は、お前を神喰いの花嫁とかいうものにしたいそうだ」
「かみくいの、はなよめ?」
倫之助の「科学的な」話に出てくるものとは違った方向にわからない言葉を使われた葵依は、首を傾げて意味を訊ねる。
自分も半分以上は理解していなさそうなわりにやはり偉そうに、倫之助は国が葵依に求めているらしい役割について話した。
「たしか食べ物の神に嫁いで、その神を食べて死ぬ巫女みたいなものだな」
倫之助の説明は、間違ってはいないのだろうけど、大雑把に省略されすぎていて、葵依には現実感のある話に思えなかった。
「どうしてそのお嫁さんは、神様を食べなきゃいけないの。神様を食べると死んじゃうのは、神様の肉に毒あるってこと?」
自分で考えてもわからないことをわかっている葵依は、倫之助を質問攻めにする。
「いやそうじゃなくて、神が美味しすぎるからだって話だったはずだ」
倫之助は葵依に身を乗り出されても焦ることなく、たらいに入れた水にうちわを浸して、うっすら汗をかいた無愛想な顔であおいだ。
「美味しすぎると人は死ぬの?」
「そうやって食べられては蘇る神が西都の方にいるという話なのであって、どういう理屈なのかは俺は知らん」
いまいち納得できない葵依がさらに訊くと、倫之助はばっさりと自分の理解を超えた説明を断って強引に本題に入った。
「で、ここの紙に花嫁になるかどうかを書いて返書するものらしいが、お前はどうする」
倫之助は厚紙の記入用紙を葵依に見せて、奇妙で謎めいた縁談を引き受けるか否かの判断を迫る。
何も理解していないものの、不思議と答えには迷わない葵依は、すぐに明るい声で答えた。
「よくわかんないけどなれますって言うなら、なるよ。だって私が何かになれる機会ってあんまりないでしょ」
葵依は自分のような妙な死病に冒されたことがある人間と一緒になってくれる者はいないものだと思っていたので、どこかの神様が葵依を花嫁にしてくれるなら、断っては失礼だと感じていた。
また美しいものが好きな葵依は、きっと美しいに違いない神の姿も見たかった。
(嫁いだら死ぬっていうのが変だけど、見えるものは見たい)
きっと倫之助も同意すると思って、葵依は開かれた書面から顔を上げる。
しかし倫之助はいつもどおりの澄ました顔をしていたけれども、その反応は意外と殊勝なものだった。
「なるほど。あの日に死ななかったお前は今、死ぬんだな」
倫之助はほんの少しだけ寂しげな瞳で葵依を見つめて、水うちわを手放した手で葵依の頬に触れた。
研究のためにさわられることはあっても、思い遣りによって触れられることはなかったので、暑さに火照った頬に心地よい冷たく濡れた手の感触に葵依は言葉を失った。
(倫之助は、私にこういう優しいことをしてくれる人だったんだ)
人の命を軽んじる発言ばかりをしていても、一応は医者だったらしい倫之助は、数少ない生きて助かった患者である葵依が神に嫁いで死ぬことを悲しんでいるようだった。
結局は倫之助は他人なので、死んでほしくないとかそういう引き止める言葉はかけない。
だが人らしく命を慈しむ心で、葵依の選択を肯定しつつも残念に思ってくれている。
(意外と倫之助は、私のことを大切にしてくれたんだろうか)
葵依は驚きに身体を強張らせ、頬に触れる手に自分の手を重たりとか、いじらしい反応は一切返せないまま倫之助を凝視した。
自分は貴重な研究材料なのであって、科学的な興味しか持たれていない。
そう思って約二年間、ただの隣人か仮の保護者として流してきた倫之助の存在は、思っていたよりも特別な可能性を秘めていた。
もしかすると倫之助は、これからもっと真面目に二人の時間を重ねれば、葵依を深く愛してくれるのかもしれない。ひょっとすると葵依が頭を下げて頼み込めば、結婚だってしてくれるのかもしれない。
最初に出会った頃は十一歳だった葵依は、十三歳になった今、やっと本当の意味で倫之助と出会えた気がした。
(私は倫之助のことが嫌いじゃないし、大事に思ってもらえるなら嬉しいけど……)
熱くまぶしい太陽の光から守られた縁側の影の中で、とっさのことで身体が動かなかった葵依は、せめて微笑もうとして変な困り顔になる。
その結果、倫之助には戸惑いだけが伝わり、嬉しさは伝わらない。
自分の気持ちを完全にわかっているわけではないものの、おそらくその反応のすべてが葵依の出した答えだった。
そっと葵依の頬に触れていた倫之助も、同じように無意識の内に判断を下して、必要最低限の優しさと水滴を残して濡れた手を離す。
「まあ、お前はあのほとんどの人が死に絶えた村で生き残ったんだから、神様を食べても死ぬかどうかわからんけどな」
倫之助はすぐにこれまで通りの
こうして葵依の初恋は、始まる前に消え去った。
恋とも言えない短い交わりは結局、葵依が神を食べて死ぬという特殊な役割を与えられたことによる、一瞬のまぼろしなのである。
◆
神喰いの花嫁となった葵依が嫁ぐのは
神々に仕える国の機関として神に招かれた人間を管理する神祇省の書面は、なぜか花嫁に洋装を求めているので、葵依は急遽倫之助の姉にあたる人物に立て襟の白いワンピースを譲ってもらう。
「白無垢とか黒引き振袖とかじゃないと、お嫁さんって感じがしないのだけど」
出発の日の昼前に、葵依は自室代わりの和室でレース付きの襟の金ボタンをたどたどしく留めて、慣れない着心地の洋服を着た。
ビーズ刺繍で華やかに飾られた丈長のワンピースは重いものの、絹の生地の感触は心地よく、採寸して作った服ではないわりには大きさも合っていた。
「お前が嫁ぐ宇迦尊って神様も、洋装で暮らしてるらしいからな。神もその花嫁の姿も新時代というわけだ」
葵依に合わせて
「これでお前も、立派な一人の淑女になる」
「本当にそう見えるなら、嬉しいけど」
「少なくとも、ただの百姓はこんなを格好をしないだろう」
適当に褒める倫之助に葵依が疑いの目を向けると、倫之助は服装だけで終わらせて話で切り抜ける。
下ろした髪の一部を白いリボンでまとめただけの簡単な髪型であったが、手先が不器用な倫之助にしては可愛らしく結んでくれた方だと、葵依は姿見に映る自分を見て思った。
白粉も白すぎない肉色がものが日焼けした葵依の肌を美しく整え、落ち着いた色の口紅がささやかな彩りを添えている。
(でも確かにまあまあ、思ったよりはましな仕上がりだと思う)
葵依は赤い目が悪目立ちしなくなったような気がする白いワンピースを着た洋装を、それなりに成功した装いとして受け止めた。
着飾ることは好きではないけれども、神の花嫁として恥ずかしくない姿になる必要は感じていた葵依は、酷い結果を見ることにはならなかったことにほっとする。
着替えが終わると、汽車が出る時刻まで時間があるので昼食をとった。
居間のちゃぶ台の上には、倫之助の実家の女中が作って持ってきてくれた二人分の重箱が載っていて、中にはお祝いのご馳走がぎっしりと入っている。
緑が鮮やかなえんどう豆や冬瓜を透明な葛でよせた練り込みに、紅白のかまぼこ入りの茶碗蒸し。紅生姜を混ぜたご飯で作った
「稲荷鮨は香ばしい胡麻入りもいいが、俺は甘酸っぱい紅生姜派だ」
倫之助は早速箸でいなり寿司をとって、めずらしい笑顔で食べていた。
細かく刻んだ紅生姜を混ぜた飯の入ったいなり寿司は、お揚げの中が可愛らしい桃色で目で見ても楽しい。
「うん。甘くて美味しい」
ほどよく小さく作られた稲荷鮨を頬張り、葵依はその甘みを噛んで飲み込んで倫之助に同意する。
しかし実のところ、葵依は馬鹿舌なので、倫之助が喜んでいるほどには味に感動できなかった。
(普通に美味しいとは思うけど、見た目以上の良さを感じる味かと言われると別に……)
葵依はより綺麗なものは、より綺麗だと思うことができる。だが味覚に関しては、何を食べてもそれなりに美味しいと感じてしまうため、より美味しいものをより美味しく味わうことはできない。
そのままの生米も、手の込んだ稲荷鮨も、食べやすさはともかく味という観点では葵依にとって同等のものなのだ。
だから手間のかけられた品々の味の良さがわからないまま食事を続けることを申し訳なく思ったが、葵依のために作られた祝い膳であるので特別美味しいと感じなくても味わうふりをした。
つやのある葛に覆われた冬瓜となめらかに蒸された茶碗蒸しは喉越しがよく、三五八漬けの肉はやわらかい。それくらいの味の違いだけは何とか理解しつつ、葵依は料理を平らげていく。
味わい方は違ってもどちらも健啖家の二人は、やがてそれぞれの重箱をきっちりと食べ終えて、卓上を片付けた。
それから空になった重箱を風呂敷で包んで後部座席に載せて、倫之助と葵依は他所から借りてきた型落ちの自動車に乗り込んだ。
神祇省の迎えが来ているはずの、遠い最寄り駅まで移動するのである。
「駅に行くのは久々で道が不安だから、ちょっと地図を確認してもらってもいいか」
「うん。いいよ」
白いエナメルの靴を履いて助手席に座った葵依は、倫之助の指示を受けて古すぎて留め具がゆるくなっているグローブボックスから地図を取り出した。
倫之助がアクセルを踏むと自動車は低いエンジン音を唸らせて発進し、葵依の手元の地図に描かれているとおりの青々とした山道を走っていく。
擦り傷だらけのフロントガラス越しに降り注ぐ、晩夏の午後の日光は熱かったので、葵依はドアの窓を開けて入ってくる風を火照った頬にあてた。
日の透けた葉が輝く
倫之助はそのうちの、特に古びて荒れて屋根にも雑草が生えた一軒を横目で見ると、ぽつりと呟いた。
「あれは、俺が長男を死なせた家だな」
淡々と事実を事実として語るその声から、負い目を聞き取ることは難しい。
だがわざわざ言わなくても良いことを葵依に教えるその発言そのものが、小さな贖罪なのだと葵依は解釈した。
だから葵依は、あえて今このときに倫之助に感謝を伝えた。
「私は倫之助に感謝してるよ」
葵依としては、それなりに真心を込めた一言だった。
倫之助はちょっと黙ってから、何かを言おうとして、やっぱりやめて頷いて一言だけ言った。
「そりゃ、どうも」
そっけない相槌のような返事だったけれども、葵依はそれで良しとした。
葵依は特別に生き残り、そして特別に去る人間として、倫之助の罪を許すことができる気がした。
田畑を耕し続ける、普通の人生に価値がないわけではない。
それでも特別でありたいと願うのは、卑しいことなのかもしれない。
だけど葵依は、きっと本当は普通でしかない葵依は、一人生き残ってしまったからには特別な存在でありたかった。
(だって特別でなければ、わりに合わない)
倫之助の運転する古びた自動車は、道の脇を歩く付近の村民を追い越して駅へと向かう。
車の積み荷に葵依の荷物はほとんどなく、帰り道に倫之助が実家に返す予定の空っぽの重箱だけが載っている。
車の振動で揺れるその重箱の音を聞きながら葵依は、しばらく車が駅に着いてほしくないような、むしろ一足飛びに嫁ぐ相手である神に会いたいような、どっちつかずの気持ちでいた。
◆
神祇省からの迎えとして寂れた山奥の駅にいたのは、葵依が都会にいる人々として何となく頭の中に思い描いていた通りの、洒落た洋服を着た青年だった。
知識のない葵依にもわかるほどに上質な仕立てのスーツだけではなく、形の良い山高帽にぴかぴかに輝く腕時計、つやのある革靴に落ち着いた色合いのネクタイのすべてが調和していて、同じ男性でも倫之助の田舎の風景に溶け込んでしまう洋装とは違った。
「はじめまして、瀬田葵依様。そして守谷倫之助様。駅までのご送迎、ありがとうございました」
農事で日焼けした人とは雰囲気が違う綺麗な褐色の肌の青年は、精悍な顔に上品な微笑みを浮かべて挨拶をした。
礼儀正しく自分の名前も言ってくれたはずなのだが、顔や服ばかりを見ていた葵依はよく聞き取れなかった。
神祇省の役人に花嫁を託しほとんど部外者になった倫之助は、若干対外的な態度をとりつつも、葵依と最初に会ったときと変わらない淡白さで別れを告げた。
「ああ。じゃあ俺はこれで」
「うん。今日までお世話をかけました」
これが最後なので、葵依は改めて倫之助にお礼を言った。しかし居候させてもらったと言っても、それなりに働いた記憶はあったので、必要以上には恩を感じない。
それから倫之助が一人戻った自動車は、鈍いエンジン音とともに山道へ消えていく。
「神喰いの花嫁になることは、今からでも断れますよ」
二人の間にあるささやかなお互いの思い遣りを感じ取った神祇省の役人の青年が、念を押して葵依に訊ねる。
「いいんだよ。倫之助は多分、ちゃんと納得してくれるから」
葵依は倫之助が結んでくれた、髪につけた白いリボンに触れながら答えた。
倫之助のことは嫌いではなかったし、むしろ好意を持っていたと思うけれども、葵依はその別れに奇妙な高揚感を覚えている。
好きだからこそ、好きなまま別れることができるのが葵依は嬉しかった。
「……では葵依様は、こちらの車両に」
神祇省の役人の青年は小さく頷いて、薄青い銅板葺きの屋根の擬洋風建築の駅舎に停まっている列車を指さした。
深い紫色の車体に金色の縁飾りが施された列車は、青年が言うには特別車両というもので、本来はやんごとのない身分の方々が乗るものであるらしい。
その車両に乗り込んだ瞬間、葵依は元いた北州の田舎から隔絶された。
(こんなに綺麗なものが、乗り物なんだ)
床には唐草模様の絨毯が敷かれ、天井には花鳥が描かれた車内の席に座り、葵依は深い息をついた。
座席は椅子と言うには重厚すぎる真紅の布張りの長椅子で、葵依が座ると身体を包むようなやわらかさで沈み込む。
調度品の細工の一つ一つの細やかさに目を見張り、葵依はかしこまって姿勢を正した。
「少々長い移動になりますが、ごゆるりとおくつろぎください。この列車には寝台車も食堂車もありますから、御用があればなんなりと」
制服を着た車掌や乗務員に何かの指示を出しつつ、青年は緊張する葵依に声をかけた。
「うん。ご親切に、ありがとう」
何をすればくつろいだことになるのかわからなかったが、葵依は何とか頷いた。
まだ白煙を上げる先頭車両は動き出していないけれども、窓から見える
◆
最初に自動車に乗ったときはその速さに感動したものだが、機関車は自動車以上に速く景色を飛ばして北から西へと走り抜け、葵依はたったの一晩で西都に到着した。
西都の玄関口となる駅は、広々とした広場のついた煉瓦造りの建物で、辺境では一生見ることのないほどの人や自動車が集まっていた。
そこから立派な黒塗りの高級車に乗って、数多くの神々が住んでいるという
役人の青年が運転する車は古い町家や新しい洋風建築が入り交じる華やかな街を抜け、郊外になると意外と北州と変わらない田園風景が広がる道を進むと、やがて深い森に入った。
神在森の
自動車が通る道は舗装されていたが、車道から一歩外れれば太古から続く自然だけの世界が広がっている。
その静かな森の一角に、神聖な雰囲気にそぐわない一つの洋館が建っていた。
「こちらが御饌都之宇迦尊様の現在のお住まいである、
独りでに開く柵状の門をくぐり、館の車寄せに駐車して、役人の青年は葵依を車から降ろした。
「本当にこんな、外国みたいなところに神様がいるの?」
幾何学模様を描くようにタイルが並べられた地面に立った葵依は、直線的な濃紺の屋根をぐるりと囲む棘状の綺羅びやかな棟飾りが、太陽の光を反射するのを見上げた。
三階建ての高さがあって、白い化粧漆喰で真新しく塗られた館は、庇付きの大きな窓にはめ込められたガラスが鏡のように輝き、森の緑や空の青色に映えて華麗である。
青年は重厚な木製の玄関扉を開けて、宇迦尊の住まいについての説明を続けた。
「もう少し奥に入った場所には、甘醒殿という名前の伝統的な様式の神殿があるんですが、宇迦様が飽きたと仰るので新しいお屋敷を建てました」
家に飽きるとはどういう感覚なのだろうと思いつつ、葵依は青年の後ろをついて屋敷の中に入った。
見たことがない形の花の柄が美しい壁紙の張られた館中は、あまり人の気配がなく廃墟のような雰囲気があった。だが本物の廃墟と違って埃や蜘蛛の巣などもなく隅々まで真新しく綺麗で、薄汚れた民家に慣れている葵依はその美しさに感動すると同時に居心地の悪さを覚える。
「では、葵依様はまずは花嫁衣装に着替えていただいて……」
青年は丁寧に磨かれた板張りの廊下を進み、いくつもあるうちの一つのドアを開けた。
薄い紗のカーテンから淡い光が差し込むその部屋には、まっ白なレースを重ねて真珠を散りばめた豪奢で繊細なドレスが準備してあった。
隅には洋式の三面鏡も用意してあり、異国の化粧品なのであろう金銀の優雅な小瓶や箱が置かれている。
しかし葵依がそのドレスを着るのは自分なのだと実感する前に、衣装部屋のドアが再び開いた。
廊下から顔を出したのは、役人の青年によく似た顔の男だった。精悍な顔立ちはほとんど同じなのだが、白い調理服を着て無愛想な表情を浮かべているので、与える印象はまったく違う。
服装からすると料理人らしいその男は、葵依を無視して役人の青年を呼びつけた。
「少々、お待ち下さい」
青年は葵依に置かれていた椅子に座るよう指示して、やって来た男の方に駆け寄った。
そして二人は、深刻そうな顔で小声で話し出す。
葵依は言われた通り優美な金箔仕上げの椅子に座ってしばらく待っていたのだが、二人の話が終わる気配がないので立ち上がった。
「何か、問題があったの」
もしかすると自分にも何か間違いがあったのかもしれないと、葵依は不安な気持ちで二人に訊ねる。
双子のように見える役人と料理人は目配せしてどこまでを話すかを決め、まず料理人の男のほうが口を開いた。
「宇迦様が、行方をくらましたんだ。そこら中を探したんだが、屋敷のどこにも見当たらない」
料理人が明かした問題は、葵依に直接原因があることではなかった。しかし葵依の今後には大きく関わることであったので、思わず大きな声で聞き返した。
「私が嫁ぐ神様が、どっかに行っちゃったってこと?」
「はい。だからこれから僕と彼で神在森に行き、宇迦様をお探ししようと話していました」
葵依を心配させまいと、役人の青年が穏やかな口調で対応について語る。
だが青年の目は例外的な事態に対する消極的な姿勢が隠しきれておらず、その場しのぎの言葉でごまかしているように見えた。
葵依はもう片方はせめてやる気があってほしいと料理人の方を見たが、そちらも面倒くさそうに腕を組んでいるだけである。
(私の結婚のために、誰も真剣になってくれないのなら……)
自分の置かれた状況を理解した葵依は、ある一つの覚悟を決めた。
「じゃあ私も、探す」
頼りにならない役人たちのお役所仕事に任せていられないと、葵依はドアの方へ歩き出す。
御饌都之宇迦尊という神が姿をくらました理由はまったく想像もできなかったが、葵依は遠い北の果てから招かれてきたからには、神に絶対に娶ってもらわなくては困ると考えていた。
他に選択肢が少なかったとしても、あったのかもしれない別の未来に背を向けて葵依はここにいるのだから、葵依を花嫁として選んだ神にはこの結婚を成功させる義務がある。
だから土地勘はまったくなかったが、葵依は何としてでも神を探し出し、自分の伴侶として隣に座らせる気持ちでいた。
「お待ち下さい、葵依様」
深く入り組んだ森で花嫁まで行方不明になっては困ると、役人の青年が葵依を引き止めようと手を伸ばす。
だが葵依は、ただ気乗りしない様子で突っ立っているだけの料理人の男の側に回ることで、青年の手を逃れてドアを抜けた。
そして追いつかれないように廊下を走って玄関を抜け、脇目も振らずに門を開けて外へ行く。
◆
本来は白く優雅なはずのワンピースの裾を翻し、洋館から走り出た葵依は
(だって会ったこともない神様が、どこに行くかなんて知らないし)
葵依は半ばやけくそなって、妙に昂ぶった気持ちで古い葉が折り重なってできたやわらかい土を踏みしめる。
靴は幸い、踵の低い歩きやすいものを選んで買ってもらっていたので、歩くことは苦にならなかった。
地面は苔むした木の根や草に覆われ、頭上の空は天高く伸びた
だからまだほんの数歩しか歩いていないつもりであっても、自分がどこからどこへ歩いてきたのかわからなくなる。
「どこにいるの、神様」
葵依は人生で一番の大きさで、声を張り上げた。しかし森は広く深いので、どれだけ大きい声を出しても永遠に並ぶ木と木との間に吸い込まれていく。
葵依は次第に髪が邪魔になり、飾りとして結んだリボンを解いて髪をまとめて結び直した。
木漏れ日が射し、太陽の光がきらめくところに誰かがいる気がして近づき、何もないからまた別の方向へと進む。
そんなことを繰り返しているうちに、だんだんと日は傾きあたりは薄暗くなってきた。
木々の隙間から見える太陽の光が、緑に覆われた世界をやわらかな茜色で包む。
歩き疲れてはいなかったが、さすがに埒が明かない気がしてきた葵依は、一際太く大きな
その木の手前には、ちょうど小さな水の流れがあって、かすかな夕暮れの光が反射して、葵依の顔が水面に映っているのが見えた。
水面に映る顔の赤く変色した瞳は不気味な光を宿し、適当に結んだ髪は荒れて化粧は台無しになっている。ふと視線を落としてみれば、真っ白で綺麗だった洋服も枝や木肌に擦れて汚れていた。
意図せず自分の姿を改めて見てしまった葵依は唐突に不安を覚え、神が姿を消したのは自分が原因ではないとは言い切れない気持ちになった。
(もしも私がお姉ちゃんみたいにちゃんと綺麗な人だったら、神様もどこにも行かないでいてくれたんだろうか)
葵依は木の根元のくぼみに腰を下ろし、適度に堅い幹にもたれてため息をついた。
夕露に濡れた草が冷たく足に触れ、肌寒さを感じても羽織るものは何もない。
それならいっそすべてを地面に預けてしまおうと、葵依は大の字になって寝転んだ。
(でも綺麗だったお姉ちゃんは死んじゃって、生きているのは私だけだから……)
ひんやりと湿った土の上に横になれば、まるで自分も木の根の一部になったような気がして、不安に揺らいだ心も落ち着いていった。
下から見上げた夕暮れの森は、昼間に歩いていたときとは表情を変えて、暗い木々の影を葵依に落とす。
そのどこか懐かしさを感じる土の匂いの中で目を閉じて、葵依は虫の声の一つも聞こえない薄暗く神秘的な静寂に耳を澄ました。
そのまま一瞬、葵依は眠っていた。
しかし葵依がいよいよ本当に深い眠りに落ちてしまうところで、すぐ近くから話しかける声がした。
「君も気の毒だね。僕なんかを探して、こんなところで寝ることになって」
一瞬聞いただけで、葵依は理由もなくその声に心惹かれる。
絶対に幻聴ではない、はっきりと耳に響いた澄んだ声に目を覚まして、葵依は慌てて髪を手で撫でつけながら身体を起こした。
「神様?」
やっと自分を娶ってくれるはずの神を見つけたと思って、葵依は知らぬ間に霧が立ち込めていた周りを見回した。
しかし葵依は神を見つけたのではなく、神に見つけられたのであって、その姿を目で見ることはできなかった。
大人びているけれども、少年らしさを残した低くなりきらない声は、ずっと昔から知っている相手のような親しさで葵依に話しかけてくる。
「君も僕を神様って呼ぶんだね。神様でも宇迦尊でも、君の好きに呼んでくれれば良いけど、それは本当の僕じゃない」
「神様ではないなら、あなたは何なの」
赤い瞳で誰もいない森の夕闇を見つめて、葵依は何も考えないまま、宇迦尊であるはずの声を相手に不可解な問答を始めた。
葵依の問いかけに姿の見えない対話者は、自嘲した笑い声を上げた。
「さあ、何だろうね。僕が知っているのは、僕が覚えていることだけだから」
すべてがでまかせの話であるかのように、宇迦尊は葵依の耳にささやく。ほんの小さな声でも聞き取ることができるのは、目には見えない宇迦尊がすぐそばまで距離を詰めているからで、葵依は肌が触れるか触れないかの近さに誰かがいる気配を感じていた。
宇迦尊は明らかに他者に対して拒絶の態度をとっているのに、彼の声はなぜか聞く人の心を惹き付けて、彼を受け入れても良い気持ちにさせる。
だけど彼に心を開いたところで、彼は人に心を開くのだろうか、と葵依は疑問に思った。
(別にちゃんと私を娶ってくれれば、神様じゃなくても構わないけど)
身も蓋もなく真実に興味を持たない自分もいたけれども、宇迦尊が訊ねてほしそうにしている気がしたので、葵依は彼のささやき声にあわせて、そっと小さな声でつぶやいた。
「じゃあ、教えて。本当のあなたを」
葵依は宇迦尊の声がする方向に土に汚れた手を伸ばして、触れられないものに触れようとした。
すると暗く影の濃くなった森を赤々と包む夕霧の、何もないはずのどこかから水のような何かが葵依の中に流れ込んできた。
それは葵依の手のひらを通り抜けて、腕から身体の奥を冷たく浸す。
「嘘でも望んだなら、最後まで付き合ってくれきゃ駄目だよ」
宇迦尊は葵依の関心も無関心も見抜いて、話しかける。
その時にはもう、宇迦尊の声は葵依の身体の中から聞こえていた。どうやら宇迦尊は、葵依の身体の中に侵入してきたようだった。
(普通に姿を見せて、普通に話してくれないのは神様だからなんだろうか)
わざわざ身体に入り込む必然性はわからなかったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
無意識の内に葵依は、自分の心も身体もすべてを宇迦尊に明け渡していた。
「長くなってもちゃんと、僕の話を聞いていてね」
自分ではないものが内側にいる感覚にこそばゆさを覚える葵依に、宇迦尊は念を押して言う。
葵依が立ち上がれないまままばたきをすると、夕暮れの橅の森とは別の、凍てついた大地が現実の景色に重なって見えた。
どこまででも白く暴風雪が吹き続けるその世界は、おそらく宇迦尊の記憶の中にある風景である。
こうして、宇迦尊の昔語りと追憶が始まった。
「何万年も昔の、春も夏もなくて一年中が寒かった頃。僕は飢えていて死にそうだった。誰からも置いてかれて、見捨てられて、何も持っていなくて、汚くてみすぼらしくて。人間だったのか、他の獣だったのかもわからない」
宇迦尊は淡々と、自らの最も古い記憶を葵依に聞かせて見せる。
太古の昔の世界は今よりもずっと寒く、ただ目に映るだけで肌が痛くなるような寒さを感じるような、激しい吹雪に支配されていたようだった。
伝わってくる記憶によれば、その真っ白な大地できた雪溜まりの中にかつての宇迦尊はいた。
小さくて弱かった宇迦尊の身体は分厚い雪に埋もれているので、彼が何の生き物であったかは愚か、本当に汚くてみすぼらしい存在だったのかどうかもわからない。
ただ宇迦尊が孤独に雪の中に残され、冷たく息もできずに死にかけていたことは確かだった。
「僕は寒くて、何も見えなかった。身体も冷たくて動かなくて、もうすぐ自分が死ぬってわかっていたけど、死にたくはなかった。だから唯一聞こえた吹雪の音にお願いしたんだ。僕を殺さないで、どうか生かしてくださいって」
死にかけていた宇迦尊は、神ではなかった。そのとき神として力を持っていたのは、宇迦尊を凍えさせていた吹雪である。
だから幼い宇迦尊は、圧倒的な力で逆巻く吹雪の音に願った。
「僕の祈りが聞こえたのか、それとも何も聞いていなくて、すべては気まぐれだったのか。理由はわからないけど、吹雪は僕を空に運んだ。それから僕はいろんなものを見た。空の果ての星を。星の果ての暗闇を……」
白く閉ざされた大地を映していた葵依の視界は反転して、分厚い雲の向こうにあるまぶしいほどに青い空や、息が詰まるような漆黒の闇が現実の森を塗りつぶすように目の前に広がる。
暗闇の果てにある無数の星の明かりと終わりなどの、宇迦尊が見たものを葵依は見せられていた。
簡単に命を奪うことができる吹雪は、宇迦尊の命は奪わずに弄んだ。
命を生かすときと殺すときの差がどこにあるものなのか、神ではないものにはわからない。
訳も分からないまま、ただ一人だけ死病から生き残ったことがある葵依は、宇迦尊が生かされたことをおかしいとは思わなかった。
理由もなく死ぬこともあれば、理由もなく生かされることもある。葵依は人を一生を、そういうものだと考えている。
だから葵依は黙って、宇迦尊の声を聞き、その記憶を眺めていた。
「気づいたときには、僕は地上に帰ってきていた。僕はありがたいことに、時が経っても年をとらず、何があっても決して死なない存在になっていた。だから死にたくないという願いを叶えてくれた吹雪に、僕は何度もお礼を言った」
宇迦尊の見せる景色が、遠い空の向こうの世界から、徐々に雪が溶けて生まれたばかりの木々が芽吹き始めた大地に変わる。
自分に与えられた結果の残酷さに気づいている宇迦尊の感謝は、今はもう皮肉が混じっていた。
雪解けの水が川となって海に流れ、森が広がり大地を覆って変化し続けても、宇迦尊は何の変化もなく、限りのない時を生き続けた。
葵依はやがて、かつての宇迦尊の目を通して、太古の人間の姿を見た。
獣を食べて獣の毛皮をまとう彼らは、畏怖の念を抱いて宇迦尊を見つめ返した。
「永遠を生きる僕を見た人間は、僕を神様だと思って生贄を捧げた。僕は死ななくなったけれども、弱くて死にそうだったときと変わらずずっと飢えていたから、人間が捧げたものは何でも食べた。鶏でも、魚でも、人間でも。自分で狩って食べるよりも、人間がくれるものの方がより美味しい気がしたから」
羽を毟って食べる鶏に、小骨ごと噛み砕いて食べる魚。手間のわりに食べられるところは少ないけれどもやわらかい人間。
太古の人間に神として扱われた宇迦尊は、捧げられる生贄の味に幸せを覚えていた。
いくら食べても飢えが満たされることのない日も、人間に崇められ続けることに退屈さを感じる日もあったが、決して死ぬことのない宇迦尊は生き続けた。
宇迦尊は死の恐怖に怯えることなく、神として人間に生贄を捧げられる存在でいることが幸福なのだと信じていた。
「だけどある日、生贄として連れて来られた女の子が、僕に言ったんだ」
宇迦尊はそこで、声色をこれまで聞かせなかった愛情のこもったものに変えて、ある一人の少女について語った。
いつの間にか遠い昔の風景は見えなくなっていて、葵依と宇迦尊のいる現実の森は、夕日が完全に沈んで木々の隙間から見える空の端からも赤みが消えた夜になっていた。
(月が……)
葵依は深い群青の夜空に浮かぶ満月を見上げて、それから橅の木々の影を霞ませる夜霧が白く照らされているのを、同じように光る二つの瞳で見る。
その霧に霞んだ木陰の中に、一人の少女の姿があった。
真っ白な死んだ動物の毛皮を被った、色白で小柄な少女は、粛々と奥ゆかしく宇迦尊のそばに寄ってかしずく。そして神である宇迦尊を敬いつつも憐れみ、まるで勝ち誇ったように微笑みかけて、そっと唇を動かした。
上目遣いで甘える生贄の少女の瞳が勝ち気で可愛らしく見えるので、宇迦尊が少女に心惹かれていたことは葵依にもすぐにわかった。
その声のない幻の声を補い、宇迦尊はその少女が語った言葉を繰り返した。
「死んで終わることができない神様は可哀想だから。いつか神様にも終わりが来たらいいねって……。そう言って、女の子は幸せそうに笑って僕に食べられた」
少女が何を言っているのか、宇迦尊にはわからなかった。
満足気に目を閉じる少女を抱き寄せ、宇迦尊がそっと口づけをすると、少女の形の良い顎は赤く血に塗れて崩れた。
胸に口づけをすれば胸の肉が千切れて割れ、首に口づけをすれば頭が落ちる。
そうして少女のやわらかな肉は順番に宇迦尊の胃の腑に収まって、後には血まみれの骨と毛皮しか残らなかった。
食べることでしか好意を表せない宇迦尊の手によって、少女は生贄としての一生を全うし、完全な終わりを手に入れた。
その残骸を地面から拾い上げたとき、宇迦尊は少女が最後に残した言葉の意味を理解し、死ぬこともできず食べ続けるしかない自分は「可哀想」なのだと知った。
食べて食べられる、連鎖の中にいることの美しさを理解すると、そこから外れた自分がひどく歪に思える。
白い骨になって終わりを迎えた少女が、宇迦尊は羨ましくなった。
「だからその日から、僕は人間を食べるんじゃなくて、人間に食べられる存在になることにした」
新しい願いを持った宇迦尊は、今度は自分の力で望みを叶ようとして、人に食べられるために生まれた食物神のふりをした。
彼が御饌都之宇迦尊と呼ばれる存在になったのは、そのときのことである。
宇迦尊は生贄の代わりに自分を食す人間を花嫁として差し出させ、自らの肉を食べさせた。
「僕は食べられても蘇り、代わりに僕を食べた人間が死ぬ。だけどいつかは僕を本当に食べ尽くして、この再醒を終わらせてくれる女の子に出会えると信じていた」
今はもう半ば諦めた様子で、かすれた声が望みを明かす。
信仰心のある人間が救いを求めて敬虔に祈るように、たった一つの希望にすがって、宇迦尊は終わりを探していた。
しかし決して死ぬことのできない存在となった宇迦尊は、人間に食べられても終わることはできなかった。
それから葵依は、無数の花嫁が宇迦尊の肉を食べては死んで土に還り、幾度もその大地から宇迦尊が蘇るのを見た。
神を畏れる花嫁に、神を支配したがった花嫁。神に恋した花嫁に、神を嫌悪した花嫁。
次第に神喰いの花嫁と呼ばれるようになったその少女たちは、それぞれの立場で神を食し、ときには少女ではなく男であることもあった。
(私は、こんなにもたくさんいるうちの一人でしかなかったんだ)
あまりにも大勢の花嫁がいるので、葵依は神に嫁げることが特別なことだとは思えなくなった。
そして花嫁の数だけ宇迦尊も様々な形に料理されて、捕食者としての飢えは薄れ生贄の人間を喰らっていたのもずっと昔のことになった。
切り刻まれて、煮込まれて、焼かれて、蒸されて。
しかし何度花嫁たちに食べられても、宇迦尊に終わりは来なかった。
すべての追憶が終わると、強い風が吹いて森の葉がこすれて一斉にさざめいた。
木々が立てる音とともに、宇迦尊は葵依の身体から離れた。入ってきたときとは反対に、水に似た何かが流れるように葵依の手のひらを抜けていく。
そうやって流れ出たものが人の姿を作り、喪服と同じ黒い色をしたスーツを着た青年の形を作る。
そこでやっと、宇迦尊は葵依の目の前に現れた。
(これが、神様の姿)
葵依は長い幻覚にぼんやりとしていた意識を取り戻し、慌てて座り直して、自分を見下ろして立つ宇迦尊を見上げた。
銀色の長い髪を結んでまとめ、黒絹で仕立てた洋装を着こなした宇迦尊の姿は、声から想像していたものよりもずっと大人っぽくて、葵依は思わず本当に先程まで自分の中にいた存在なのかどうか確かめようとじろじろと見た。
すると髪と同じように色の薄いまつげに縁取られた金色の瞳が葵依を捉え、目をすがめて見定めた。
自分の価値が測られていることを感じながらも、葵依もまた宇迦尊を姿を審美する。
深い森の闇が際立たせる白い肌も、美しい線を描く眉も鼻すじも輪郭も、形の良い目も口も、均整のとれた細身の立ち姿も、宇迦尊のすべてには美が宿っていた。
(やっぱり神様は、綺麗だ)
宇迦尊は神ではないという説明を散々聞かされた葵依であったが、宇迦尊の月に似てまばゆい姿を見ればごく自然に神だと思った。
元が何であれ、人間は宇迦尊を神だと信じ、接し続けてきた。宇迦尊もまた人間の死に様に憧れ、人間に好かれるために人間を真似た。
その結果、宇迦尊はその信仰と想いに見合った美しい姿になっている。
葵依が何も言えずに見惚れていると、宇迦尊はゆっくりと膝をついて屈んだ。
そしてわざわざ葵依に目線を合わせてから、そっと突き放した。
「僕はずっと待っていた。でももう僕は、食べることにも、食べられることにも飽きたんだ」
外見よりも少年らしさを残した宇迦尊の声が、静かな絶望を語る。
かつては食べられることにむなしさを覚えた瞬間が宇迦尊にはあった。
しかし今では食べられることにも飽きてしまったので、宇迦尊は姿を消してみたようだった。
無数の花嫁と結ばれ、食されながら、宇迦尊は永遠の孤独の中にいる。
他の場所にいる神と呼ばれる存在がどういうものなのかわからないが、今葵依の目の前にいる神は、そういう存在だった。
(相手は神様だけど、でも気持ちはわかる気がする)
葵依は人とは違う、限りのない時を生きる宇迦尊を自分とは遠い存在とは思わず、むしろ親しみを感じて座っていた。
なぜなら葵依も、かつての宇迦尊と同じように死ぬはずの瞬間に死なず、自分が生きている意味を求めているからである。
本当はまったく別の似ていない気持ちなのかもしれないが、葵依は宇迦尊に自分を重ねた。
だからそれまで黙っていた葵依は、考えがまとまると急に饒舌になって、深い笑みを浮かべた。
「じゃあ私がその、あなたを終わらせる最後の女の子になるよ」
葵依は水面に映る自分の姿に触れるときと同じ気持ちで、暗闇に浮かぶ宇迦尊の顔に手を伸ばし頬に触れた。
人に食べられるために生まれ変わり続けた宇迦尊の白い頬はなめらかでやわらかく、しかし食べるのがもったいなく感じるほどに美しかった。
「君が?」
突然頬を頬を掴まれた宇迦尊は、疑いのまなざしを向けつつも、葵依の手に自分の手を重ねて首を傾げた。
求めても手に入らないことを繰り返し、宇迦尊は簡単な希望には騙されてくれない絶望を抱えていた。
だからこそ自分が終わらせてあげたいと願い、葵依はもう片方の宇迦尊の腕を掴んで身体を引き寄せた。
そしてそのまま地面に倒れ込み、葵依は意図して宇迦尊に押し倒された形を作る。
落ち葉が重なってできた土はやわらかく、二人の身体を優しく受け止めた。
葵依のエナメルの靴は脱げて、ワンピースの裾は少々乱れた。
様々な花嫁を見てきている宇迦尊は動揺はせず、しかし意外そうな顔はして、地面に手をついた自分の下に収まるあまり小柄ではない葵依を見つめた。
森を歩き回っていた葵依は白い服ごとあちこちが汚くなっていたが、埃ひとつついていないスーツを着た宇迦尊は、葵依に触れてもまったく汚れることはない。
葵依は夕露に濡れた冷たい土と、程よい宇迦尊の温もりに挟まれて、夜風に冷えた自分の身体の奥にある自分の熱を感じていた。
だから葵依は、宇迦尊の首筋に手を回して、強引に口づけをした。経験のない葵依にはキスの良し悪しはわからず、ただお互いの肌の色やくちびるのやわらかさの違いだけが印象に残る。
それから間が持たなくなったところでくちびるを離した葵依は、宇迦尊の銀色の前髪に触れ、真っ直ぐにその瞳を覗き込んで断言する。
「きっと私は、あなたを食べても死なずに生きるから。だから私が生きる代わりに、あなたは死んで終わることができる」
さらさらとした宇迦尊の髪の感触を楽しみながら葵依は、「死ぬはずの病で死ななかったお前は、神を食べても死ぬかどうかわからない」と倫之助に思いつきで言われたときのことを思い出していた。
言葉は時に無責任で、適当で何も考えていないからこそ想いを動かす。
だから葵依も、何の根拠もなく自分は宇迦尊を救うことができるのだと口にした。
必然性が説明できなくても、生きるときには生きるし、死ぬときには死ぬ。
だから葵依は、ただ言いたいことを言ってしまえば良かった。
宇迦尊は髪を弄ぶ葵依の腕を掴み、試すように微笑んだ。
「本当に、そんなことが言えるんだ」
「言えるよ。だって私は、特別だから。あなたの代わりに神様にだってなれる」
宇迦尊の細い手が、意外と弱い力で葵依の手首を握る。
勝ち目があるのかどうか知らない挑戦に受けて立ち、葵依は謎めいた自信と万能感で言い返した。
神喰いの花嫁としての葵依は、大勢いる中の一人でしかないのかもしれない。
だがそれでもやはり、死病にかかって死んだ人々と同じ土地に生き、同じ米を食べて生きていたのに死ななかった自分は、絶対に特別なのだと信じている。
死ぬはずだったときに生き残った意味を探す人間として、終わりを求める神の気持ちがわかったのだから、神にだってなれるとも葵依は考えていた。
その飛躍した発想を面白がって、掴んだ葵依の手首を地面に押し付けると、もう片方の手でそっと葵依のくちびるに触れた。
「そこまで言うなら、これで最後だと思って君に食べられてみようか」
葵依は白い月光と橅の木々の影ごと宇迦尊を眺めていて、その姿をじっくり見るのに夢中で、細いけれども確かに肉のついた指を味わう余裕はなかった。
(私は犠牲者にはならないし、この可哀想な神様だって救える)
葵依は目を閉じずに、味がわからない代わりに宇迦尊の美しさをなるべく堪能した。
土の匂いも、風の音も、すべてが目に映る光景と結びつき、葵依の中の永遠の記憶になる。
願った通りであるならもうすぐ失われるはずの、宇迦尊の諦めと期待が入り混じったまなざしを、葵依は忘れないでいたかった。
◆
その後、十分に二人っきりの時間を過ごした葵依と宇迦尊は、神在森を歩いて新醒館と名付けられている洋館に戻った。
洋館では役人と料理人が何事もなかったかのように待っていて、婚礼の準備を進める。
土ぼこりまみれになっていた葵依は、見慣れない陶製の浴槽で清められ、衣装室で最初に見た白い真珠とレースのドレスを着せられた。
それから髪を梳いて結い上げられ、見たこともない小瓶をいくつも使った化粧を施された葵依は、役人の案内で食堂に連れて行かれる。
薄手の白いカーテンが夜風に揺れる広々とした食堂は、透明なガラスの小さな飾りがいくつもついた豪奢な電燈の明かりにまぶしく照らされていた。
そのきらめきの中には、一寸の乱れもなく白布が掛かった円卓がある。
ガラスの花瓶に挿した
「早くおいで。君と僕のための晩餐だよ」
森で身につけていたものとは違う、白い蝶ネクタイ付きの燕尾服を着た宇迦尊は、葵依の方を見て急かす。
(この服と靴じゃ、すぐには行けないんだけど)
慣れないハイヒールとドレスに苦労して、葵依は何とか自分の席に辿り着いた。
「これは、あの料理人が作ったものなの?」
宇迦尊の向かいの椅子に着席した葵依は、ちょうど自分の席の前に載っている皿を覗き込んだ。
丸い白磁の皿の上には、皮をむかれて櫛切りされたいちじくと、赤く澄んだ色をした塩漬け肉の薄切りが、緑が鮮やかな葉物の生野菜と一緒に盛り付けられている。
木の実や白い鰹節のようなものなど、葵依の知らない食材も使われたその料理は、卓上に飾られた花よりも華やかだった。
「そう。明日、僕を料理するのも彼なんだ」
宇迦尊は食卓に置かれた籠からいくつかの丸くて小さなパンを小皿に載せて、葵依の手元の近くに置いた。艷やかに焼かれたパンからは触れずともかすかなぬくもりが感じられ、綺麗な薄茶の表面からは香ばしい匂いがした。
食卓に並んだ料理の美しさに感心して、葵依は目を輝かせて頷いた。
「じゃあきっと、あなたも素敵な料理になるね」
葵依は顔を上げて、葵依と違って格式の高い婚礼衣装を完璧に着こなしている宇迦尊を見つめた。
館に雇われている料理人の腕は素晴らしく、彼が宇迦尊を料理するのであればそれはとても美しい品々になると思われた。
(こんなに綺麗なものを食べてしまうのはもったいないけど、私に食べられるためにあるんだから仕方がないね)
美に対してはそれなりの感受性があるものの、繊細な味の機微はまったくわからない葵依は、宇迦尊も目の前の料理も食べて無くしてしまうのが惜しい気がする。
だから神喰いの花嫁としての自分の役割を果たすため、葵依は食事に味わうこととは別の意義を見出す努力をしようとしていた。
「それじゃあ揃ったところで、いただこうか」
「うん。いただきます」
宇迦尊はいつの間にか紅い酒が注がれた杯を手にして、葵依に呼びかけた。
洋式の食事を始める手順を知らない葵依は、とりあえず宇迦尊と同じように杯を掴んで一口飲んだ。
紅い酒は独特の酸っぱさがあって甘く、葵依が想定していた酒の味とは違った。
(外国のお酒っていうのは、こういうものなんだろうか)
葵依が不思議そうな顔をしていると、葵依よりもずっと優雅に杯を傾けていた宇迦尊が、酒の材料について説明した。
「このお酒は、ローゼルを使っているから赤いそうだよ」
そして静かに飲んだグラスを置いた宇迦尊は、今度は皿の脇に置かれた銀製の器具を使って料理を食べ始めた。
ローゼルとは一体なんだろうと考えつつ、葵依は宇迦尊を適当に真似て銀製の器具を握る。
米も箸もない食卓は初めてで、そもそも今始めていることが食事だという意識も薄い。
(こんなハイカラなもの、食べたところで絶対に味がよくわからないだろうし)
葵依は味わうということを諦めて、むしろ味もわからないのに立派な料理を平らげてしまうことに、逆説的な喜びを見出そうとした。
神を食す神喰いの花嫁は、神の肉の美味しさに満足して死ぬらしい。
それならばその美味しさを理解できなければ死ぬことはないのだと、葵依は味覚が鈍い自分が生き残る確信を強めた。
神喰いの花嫁 名瀬口にぼし @poemin
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