第三章 与えられた少女

 夥しい数の摩天楼が立ち並び、それらのビルすべてに電気の明かりが灯された東都の夜景は、黒い箱の中に小さなガラス玉やビーズを詰め込んだように明るく、冬の始まりを告げる澄んだ空気に瞬いている。

 その皇国で最も華やかに栄えている都市の輝きを、霜山しもやま椿咲つばきは東都で一番に贅が尽くされたホテルにある展望レストラントの窓から、今夜は眺めることができる。

 色硝子を通した間接照明の心地の良い明暗に包まれたレストラントのドーム状の天井は高く、ゆるやかに空間を区切る垂壁には、羽を広げた孔雀のような幾何学模様が金箔や銀箔で縁取られた極彩色で描かれていた。

 真っ白なクロスが敷かれた八角形のテーブルは他の客が気にならない十分なゆとりをもって配置され、特注のデザインの白磁の皿に載った前菜は、清潔感のある給仕の手によって運ばれてくる。

 三つ編みにした髪を丸めて赤いリボンでまとめ、古典的な薄紫の振り袖に茶色と黒のストライプの半衿を覗かせて今風に着飾り、きらびやかなホテルに合わせた装いで席についている椿咲は、まずはじっくりと料理の盛り付けを品評するように見つめる。

(さすが皇国で一番のホテルの、レストラントの料理は違います)

 やわらかな紅色のスモークサーモンに、上品な酸味の花椰菜カリフラワーのピクルス、ミモザの花のように刻んだゆで卵を散らしたポテトサラダが綺麗に並んだ三種の前菜の盛り合わせは、花畑のように美しい一皿である。

 十六歳の女学生である椿咲が、こうした贅沢なものに触れられるのは、椿咲の父親が海運業を中心に皇国中のさまざまな企業を傘下に収める霜山コンツェルンの総帥であり、その父によって定められた婚約者もまた由緒ある財閥の御曹司であるからであった。

「えっと。君と会うのは、何度目だっただろうか」

 椿咲の正面に座る婚約者の結城ゆうき隆司りゅうじが、手慣れた所作でフォークを使ってピクルスを食べながら、椿咲に話しかける。

 髪を固めて黒いディナージャケットで正装した隆司は、椿咲よりも十歳ほど年上だが佇まいは若々しく、肌の艶も良い顔は美男子に分類しても差し支えのない造りである。

 しかし服も姿勢もきちんとしているはずなのに、発言や表情にどこか締まりがなく、怠惰な印象を人に抱かせるところが彼にはあった。

「二度目、ですね。今日は二人っきりですから、じっくりとお話しすることができます」

 まだ一度や二度くらいの少ない回数なら忘れず覚えていてほしいと思いつつ、椿咲は隆司の問いかけに答える。

 両親が同席していた料亭でのお見合いで一度会ったのが二週間前であり、椿咲はまだ隆司について見てわかる雰囲気以上のことを何も知らない。

 しかし早くも椿咲は、隆司の大雑把な人間性を理解しつつある気がした。

「そうか。二度目か。でも僕みたいな年寄りは、君みたいな若くて可愛い子と二人っきりだと、何を話せば良いのかわからなくなるなあ」

 隆司が照れて目を細めた笑顔で、わざと年の差を強調しておどける。

 きっと人は良い相手なのだろうと好意的に解釈し、椿咲は前菜に口をつける前にまず葡萄酒に似せた飲み物の入ったグラスを傾けて、無言で微笑んだ。未成年の椿咲のために用意されたその飲み物は、酒ではないのに酔ってしまえるような、ほどよい渋みのあるコクを感じる。

(別に私は、この人のことをすごく大人だとは思っていませんが)

 目を伏せつつもじっと隆司を観察し、椿咲は料理と同じように婚約者も品定めした。

 椿咲自身は華奢で背も高くなく、整ってはいるものの幼さが残る顔は化粧をしても七五三のように可愛らしくなるだけで、大人っぽい美人になれたことはない。

 しかし椿咲には四人の年の離れた兄がいて、常日頃から年上の異性に接することに慣れているため、隆司に対して距離を感じるところはなかった。

 こうして浮かれず冷静な気持ちでいる椿咲に対して、隆司はたいした意思も考えもなさそうな様子で、判断を投げて首を傾げた。

「僕は君と、何の話をすれば良いと思う?」

 面倒なことを避けるのに長けた大人の隆司は、椿咲を子供扱いしたうえで、趣味をあわせる余裕のあるふりをして会話の主導権を任せてくる。

 だが日々妹や娘として生きてる椿咲は、子供であるという立場を受け入れてもいるので、反発はせずに素直に話題を提供した。

「では、食べ物の話をしませんか。私は、食べることが好きなんです」

 そこでやっと椿咲はフォークとナイフを手にし、フォークでサラダを掬って口に運んだ。

 なめらかに茹で上げられたじゃがいもが、かすかに辛子で風味づけされたマヨネーズにしっとりとまぶされ、まろやかな酸味とともにほどけていく。

 じゃがいものやわらかい味わいの中で、歯ざわり良く食感のアクセントになっている千切りの玉ねぎは、辛みも少なくむしろほどよい甘みを感じた。

 またサラダの上に散らされた刻まれたゆで卵を一緒に食べることで、より一層食べごたえのある美味しさになる。

 椿咲はその折り重なる素材の旨みを噛み締めて、うっとりと二口目を掬いながら感想を述べた。

「ポテトサラダは我が家の料理人も作れますが、このホテルのものは一流で、マヨネーズの出来からして違います」

 フォークで運ばれるポテトサラダは温もりのある雪のように、白く輝き食べられるときを待っている。

 皇国でも有数の資産家の一族に生まれた椿咲は、当然家でも優秀な料理人が作った料理を食べている。

 だからこそ椿咲は、さらに優れた腕を持つ料理人の技を理解することができた。

 会話の間をもたせるためではなく、本当に食べることにこだわっている椿咲は、隆司の存在を忘れそうになるほどに、目の前の料理に夢中になる。

 そうして嬉しそうに前菜を味わう椿咲を呑気な顔で見つめて、隆司は適当に皿を空にしていた。

「椿咲さんは、すごいな。僕は良いものをたくさん食べさせてもらっているのに馬鹿舌で、卵かけご飯がこの世で一番美味しいものだと思っている」

 隆司は浅い感動で、椿咲に感心していた。

 馬鹿舌であるという自己申告が謙遜ではないことを証明するように、隆司は前菜のすばらしい品々をあまり味わってない。

 大富豪の一族に生まれた人間として同じように日々美食に触れていても、隆司と椿咲では理解の深さがまったく違っていた。

 しかし椿咲は、良家の子女として相手に話を合わせるように躾けられているので、隆司の食への姿勢を否定せずに頷いた。

「私も卵かけご飯は好きですよ。素材の質が問われて、奥深いです」

 気を遣って受け答える椿咲に対して、隆司は別に本当に知りたいというわけでもないのに、ただ間をもたせるためだけに質問する。

「素材の質って、違いがそんなにわかるんだ?」

「香りとか甘みとか、いろいろ違いますよ。私は後味がすっきりしているものが食べやすくて好きです。ゆで卵にしたときも、風味のふくらみが変わってきます」

 椿咲は隆司にはきっと響かないとわかっていたけれども、訊ねられたので話す。

 それから二人は、実りのないやりとりを続けた。

 水のように飲み干されていく隆司のグラスに入った葡萄酒の味を想像しつつ、椿咲は次はスモークサーモンとともにポテトサラダを食す。

 やわらかな薄紅色のサーモンのしっとりとした塩気のある旨味はポテトサラダの味を引き締め、とろけるようにのどを通っていった。

 その味をより深く堪能できるように、椿咲はゆっくりと瞬きをする。

(やはり私は、呉服店よりもどこよりも、人が食べるためだけに存在するレストラントが好きです)

 鮮やかで綺麗な絵柄の柄の着物や、金銀で縁取られてきらきらと輝く宝石箱に入った装飾品。銀幕に映し出されるロマンチックな恋物語に、活字の文学作品が語る死の匂いがする悲恋。

 椿咲はそうした女学校の同級生が少女らしく憧れているものではなく、食べることそのものが好きだった。

 だから常に食が中心にあるレストラントにいる時間は、椿咲にとっては特別だった。

(同席している方とは話が合いませんが……。でもあんまり小煩い殿方よりは、適当な殿方の方が配偶者としては良いでしょう)

 隆司が料理の美味しさを分かち合える人物ではないことを残念に思いつつ、椿咲は話の合間に天井で揺れているガラス玉を連ねた照明の飾りを見上げる。

 洒落た着物の着こなしも、外国の建築家が精魂を込めた美しい建築も、椿咲にとってはすべてはより良い食事の瞬間を成り立たせるためにある。

 他人が思うよりもずっと欲深い椿咲は、いつか誰も食べたことがない、他の何よりも美味しいものを食べてみたかった。

 この世界にたった一つの、最高に美味しい何かが存在するのならば、椿咲はその価値を余すことなく理解できるように、できるかぎりの美食を知っていたい。

 だから父親が決めた婚約者に多少意に沿わないところがあっても、恵まれた食生活を続けるためには目をつむるべきだと椿咲は思っていた。



 レストラントでの食事を終えた椿咲は、隆司の車で自宅に送ってもらう。

 椿咲の自宅は父・霜山しもやま智直なおともが郊外に建てた軒が深い寄棟屋根のレンガ造りの屋敷で、周囲の田園風景に溶け込むように水平方向に輪郭が広がっている。

 庇が突き出た車寄せに駐車された隆司の青いフェートンから降りて、椿咲は可憐にお辞儀をした。

「今日はありがとうございました」

「うん。僕も楽しかったよ」

 二人は社交辞令的な言葉を交わして別れ、隆司の車は車寄せから門へと抜けて去っていく。

 大地を凍らせる空気が火照った頬を冷やす冬の月夜に、橙色のヘッドライトが田畑を横切って遠ざかっていくのを椿咲は見送った。

 明かりが見えなくなったところで、椿咲は踵を返して家の中に入ろうとする。

 そこにちょうど、椿咲と同じくらいに小柄な人影が目の端に入る。

弥太郎やたろう

 その人影が誰かすぐにわかった椿咲は、足を止めて呼びかけた。

 生け垣の裏を通って勝手口の方へ行こうとしていた人影は、おずおずと椿咲の前に現れ薄闇の中で出迎える。

「おかえりなさいませ、椿咲様」

 うやうやしく椿咲を様付けで呼ぶのは弥太郎という名前の使用人の少年で、筒袖の着物に股引という野暮ったい服装であるものの、分厚い眼鏡を外せばそれなりに可愛い顔をしていることを椿咲は知っていた。

(妙にばつが悪そうなのは、どうしてでしょうね)

 弥太郎はなぜか、椿咲を前にするといつも緊張している。

 もしかすると弥太郎は椿咲のことが好きでいつも見ていて、そのことが恥じているから今日もまた声をかけずに去ろうとしてたのではないかと、椿咲は理由もなく思っていた。

「別棟に行っていたのですか?」

「はい。風呂の調子が悪いと言われたものですから、様子を見てきました」

 夜に出ていた理由を椿咲が訊ねると、弥太郎は俯きがちに答えた。

 広大な敷地に建てられた霜山邸には本棟の他に別棟があり、椿咲の母亡き後に父が再婚した若い後妻が生んだ子どもたちはそこで育てられていた。

 父と後妻は仕事のためによく二人で出かける夫婦であるので、幼い子どもたちは主に使用人によって育てられている。

 弥太郎は主に本邸で働いている使用人であるが、呼ばれれば別棟で雑用をこなすこともあった。

 気まぐれに使用人をからかってみようと考えて、椿咲は冗談を言って頷いた。

「そうですか。私は食い意地を張ってますから、月を食べたらどんな味がするのか、と考えていたところです」

 白く輝く月光を背に、椿咲は微笑む。

 話が続いたことが嬉しかったのか、弥太郎は心なしか頬を染めて目を上げた。

「月の味、ですか」

「はい。外国には月は新しいチーズでできているという、古いことわざがあるそうですよ」

 井戸に映った月をチーズと間違えて落ちた狼の童話を、椿咲は幼い頃に絵本で読んだことがある。

 椿咲は勘違いして井戸に落ちて死ぬ馬鹿にはなりたくない。

 しかしもしも本当に月がテーズでできているのなら、椿咲はそのほの白い黄色を薄く切り、クラッカーに載せて食べたかった。

「新しいチーズ……。俺は普通に、月にはうさぎがいるものだと思っていました」

 弥太郎は月をみているのか、椿咲を見ているのかわからない瞳で、椿咲の言葉に感じ入っていた。

 霜山家の使用人として洋食の食材についての知識はあっても、根は庶民である弥太郎の発想は前時代的である。

 椿咲はうさぎが餅をついているごく一般的な月の様子を思い浮かべ、搗きたての餅と同時にうさぎの肉の味について考えた。

「そういえば私は、うさぎは食べたことありませんね。どんな味なのでしょうか」

 食べられるものはすべて食べてみたい椿咲は、無性に可愛らしいうさぎを食べたくなる。

 東都で生まれ育った椿咲は、野生の鳥獣の味をそれほど知らない。

 椿咲が好奇心に駆られていると、少々の間をおき、弥太郎が控えめに口を開いた。

「俺は北の田舎にいるとき、うさぎ汁にしたうさぎをときどき食べていました。骨が細かいんで食べづらいですが、やわらかくてとても美味しい肉です」

 北洲の農村の出身である弥太郎は、実食してきた者としての感想を椿咲に伝える。

 その興味深い情報を聞き、椿咲はより一層うさぎの肉を食べたくなった。

「なるほど。教えてくださり、ありがとうございます。月は食べることができなくても、うさぎはいつか食べてみたいですね」

 椿咲は舌なめずりがしたくなるのを我慢して、顔の前で冷えてきた手を合わせて弥太郎に微笑みかけた。

 お礼を言われた弥太郎は、照れて恥ずかしそうにまた目を伏せる。

 純朴な少年をからかうのはこれくらいにしようと、椿咲はそこで話をやめた。

「夜は冷えますから、もうそろそろ戻りましょうか」

 嘘ではなく本当に寒くなってきた椿咲が内玄関へと歩きだすと、弥太郎も黙ってうなづきついて来た。

 両親を早くに亡くした弥太郎は、北方の帝国との戦争で軍隊に行っていた兄を失い、故郷にいる幼い弟妹や祖母の生活のために東都に出稼ぎに来た苦労人である。

 だから何一つ不自由のない裕福な都会の生活を送る椿咲にとって、まったく別の世界を知る弥太郎と過ごす時間はささやかで新鮮な楽しみだった。

(少なくとも、隆司さんと一緒にいるよりも面白いですからね)

 本来は比べる対象にはならない婚約者を使用人と比べて、椿咲は良い気分になる。

 その後すぐに内玄関に入った椿咲は、カーテンの隙間から橙色の明かりが漏れる屋敷の暖房の暖かさにすぐに冬の寒さを忘れて、ショールを脱いで弥太郎に預けた。

 弥太郎は椿咲にとって、空気のように当たり前にいて役に立つ存在であった。



 翌朝、濃紺のサージ生地のワンピースに臙脂色のネクタイを結んだセーラー服に着替えた椿咲は、トーストとハムエッグの朝食を食べた後に、運転手付きの黒塗りのセダンで女学校へ行った。

 毎朝着る服を決めなくても良いので、椿咲は制服が好きだった。

 椿咲の通う女学校は西洋の文化の影響を強く受けていて、丘の上に建てられた緑色の屋根と赤レンガの壁の対比の美しい校舎は、遠く離れた寒空の田園からでも目立って見えた。

 その校舎の三階にある、同じ木の机が整然と並ぶ教室には、椿咲と同じ制服を着た同級生たちがいる。

 背格好も顔立ちもそれぞれ違うはずなのに、どことなく似た雰囲気がある同級生たちは、可憐な青い花が描かれた一冊の函付本はこつきぼんを机の上に置いて囲み、朝礼までの自由時間を楽しげに過ごしていた。

「こちらの瑞穂書店の新刊の御本、皆さんはもうお読みになりましたかしら?」

「異国の宮廷のお話ですよね。華やかな世界に、うっとりしてしまいました」

 本の持ち主らしい三つ編みの少女が期待のこもった瞳で集まった友人を見回すと、少々ふくよかな一人が簡単な感想を述べる。

 周囲に立っている少女たちは皆わかった顔をしていたが、椿咲は読んだことがないので黙って椅子に座っていた。

(たしか複数の女性を誘惑する主人公の子爵の恋の駆け引きを楽しむ作品だったと、誰かが言っていた気がします)

 大雑把なあらすじを聞いても、椿咲は恋物語にはまったく興味を持てなかった。

 しかしある一人の小柄な少女は内容について議論したくて仕方がない様子で、熱っぽくまくしたてる。

「だけど主人公は酷い方でした。他に想い人がいるのに関わらず、暇を持て余して十五歳の淑女と関係を持ってしまうのですから。淑女として生きている私達にとっては、危険な男性です」

 聞こえてくる言葉から察するに、同級生たちが読んでいる本は椿咲が想像しているよりもさらに爛れた男女の関係を描いたものらしかった。

 大人たちが望むように生きている淑女であるならば、そうしたいかがわしい本とは関わりなく過ごしているはずである。

 だがこの教室にいるのは趣味は違っても皆欲望に正直な者ばかりであるので、誰も破廉恥な内容の物語は読むべきではないとは言わなかった。

「確かにこの本の主人公は、女性たちに酷いことをしました」

 本の持ち主である三つ編みの少女が大切そうに本を手に取り、深い想いに浸って息をつく。

「それでも私は、つまらない人に真剣に想われるよりも、素敵な男性に捨てられてみたいですわ。多少人格に問題があっても彼は、誰よりも魅力的に愛をささやきました」

 存在しない男に恋い焦がれ、少女は甘い声で破滅を願っていた。

 身も蓋もない意見に、周囲の少女たちは無言になる。しかしその無言は肯定の意味を持っていおり、否定の結果ではなかった。

 会話が一段落したところで誰かが、黙って座っている椿咲が昨日婚約者と二人で夕食に行ったはずであることを思い出し、話を転換する。

「素敵な殿方とのご結婚が近い椿咲さんは、こんな非現実的な夢想はしないのかしら」

 その言葉が発された瞬間、全員の注意が椿咲に向いた。

 隆司はひと目見ただけなら素敵な男性と言えるのかもしれないが、数時間話した椿咲はそうは思えない。

 だがわざわざ他人に悪く言いたくなるほどの欠点があるわけではないので、椿咲は隆司の人柄にはふれずに質問に比喩で答えることにした。

「皆さんが仰っていることは、少しはわかります。物足りない食事で長生きするよりも、好きなもの食べて早死にしたい、というようなお話ですよね」

 椿咲は真面目な本音で、答えたつもりだった。食を何よりも重んじる椿咲にとって、美味しい食事を食べられるかどうかは死生観に直結する問題であった。

 しかし同級生たちにとってはその答えはどこかずれたものであったらしく、教室はゆるやかな笑いに包まれた。

「椿咲さんは、いつも本当に個性が溢れていますわね」

 一番笑っていたのは、本の持ち主である三つ編みの少女だった。地味な外見に反して饒舌に、高らかな笑い声が響く。

 付き合う男の価値の議論を、椿咲が健康と食の問題に変えてしまったことを、彼女は面白がっていた。

(別に笑わせようとしたわけではないのですが)

 言葉を尽くしても意図が伝わるとは思えず、椿咲は再び黙った。

 教室の少女たちには話したいことがたくさんあるので、椿咲が何も言わなくても勝手に話題は膨らんでいく。

 椿咲は周囲の会話に耳を傾けるのをやめて、緑色に塗られた窓枠から、ガラス越しの風景を見た。

 外では冷たい木枯らしが、黄色に色づいたイチョウの木々の葉を落として、銀杏ぎんなんが美味しい季節を運んできている。

 季節が移り変わるように人生は進み、結婚すれば椿咲は女学生ではなくなる。

 だが結婚をして隆司の夫人として社交界に身を置くことになっても、おそらく今日と変わらない気持ちで生きているのだろうと、椿咲は悲観も期待もせずにいた。



 学校の授業を終えた椿咲は、登校時と同じように迎えに来た車に乗って家に帰った。

 生徒のほとんどが自家用車で送迎されている上流階級者のための女学校であるので、朝夕は常に車が校門の前で行列を作っている。

 しかし白い手袋をした車両の整理係が何人か道に立って適切な指示を出してくれるため、椿咲が乗る車は毎日問題なく家路につくことができた。

 時間割の関係で普段よりもやや遅い時刻に帰宅した椿咲は、女中メイドに荷物を任せると手を洗ってダイニングルームに直行した。

 直線的な模様のステンドグラスが庭の風景を飾るようにはめ込まれた窓から夕日が赤く差し込む部屋には、木製のハイネックの椅子と細長いテーブルのダイニングセットが置かれている。

 テーブルの上には黒釉の陶器でできた六角形の皿とティーカップが載っており、午後の茶の時間アフタヌーンティーのためにミルクティーとレーズンバターサンドがいくつか用意されていた。

(今日のお菓子はレーズンバターですか)

 干しぶどうが好物の椿咲は、窓からの景色がよく見える席に上機嫌で座った。

 沈みかけた太陽の光に眩しさはなく、茜色に染まった雲が流れていく様子は秋らしい風情がある。

 穏やかな自然の明かりの中で、椿咲は丸く綺麗な卵色に焼けたクッキーに挟まれた、大粒のレーズン入りのクリームの白い断面をよく見た。

 そしてきちんと爪を切ってある指でバターサンドをつまみ、クッキーのざらついた手触りやクリームの重みを楽しみながら、そっとかじった。

 しっとりと焼けたクッキーはほろりと崩れて、ほどよく冷たいクリームは手にした印象よりも軽く溶けていく。

 椿咲はなめらかなバタークリームの甘さと香ばしいクッキーの甘さが、それぞれを引き立てるように一つになるのを楽しんだ。

 時折クリームからのぞく大粒のラム酒漬けのレーズンは確かな食感で、香り豊かに菓子を味わい深いものにしている。

(この甘さ、この酸味。子供の頃から何回食べても美味しいです)

 ゆっくりと上品にまず一つ目を平らげると、椿咲はティーカップを手にしてミルクティーを飲んだ。メイドが淹れたミルクティーは濃い味の茶葉を使ったコクのあるもので、甘いバターサンドによく合った。

 椿咲が迷いなく二つ目に手を伸ばしたところで、広く開放的なダイニングルームにもう一人の人影がやってくる。

 真鍮のメタルボタンのついた濃紺のフランネルのブレザーを着たその人物は、椿咲の四番目の兄の邦匡くにまさだった。

 邦匡は一ヶ月会わなかったら家族でも顔を覚えていられなさそうほどに地味な顔立ちなのだが、仕立ての良い服をきちんと着ているので、それなりの外見の人物に見えた。

「邦匡お兄様も、お茶の時間ですか?」

 バターサンドにかぶりつこうとしていた手を止めて、椿咲は兄に訊ねた。

 邦匡は椿咲に向かい合うように窓を背にして席につき、顔に比べると印象的なすっきりとした美声で答える。

「ああ。ちょうど、仕事が一段落したところだ」

 事務仕事が得意な裏方気質の邦匡は、いつも家に残って父や上の兄に任された書類を片付けている。

 だから特別仲が良い兄妹というわけではないが、椿咲と邦匡が家で二人顔を合わせるのはめずらしいことではなかった。

 邦匡が着席するとすぐに、もう一組のティーセットを持った弥太郎がやってきて、うやうやしくテーブルに置く。

「また御用があったら、呼んでください」

 空のトレイを持った弥太郎は、一礼をして部屋を下がった。

 礼儀を欠かさない態度をとっていても、弥太郎は椿咲にあまり目を合わせず、その不自然さに何かしらの想いをにじませていた。

(想われているからと言って、何かが起こるわけではないでしょうが)

 婚約者がいる椿咲は、弥太郎の見えざる眼差しにも特に心動かされることなくバターサンドを口にした。バタークリームの旨みのある甘さが舌の上に広がれば、椿咲は他人のことは忘れてその美味しさを味わうだけになる。

 しかし邦匡の声が再び、椿咲に菓子を食べる手を止めさせた。

「ところで一刻ほど前に、神祇省の役人がお前に会いに来ていたぞ」

 邦匡は椿咲に用意されていたものと同じ、ミルクティーを飲みながら椿咲に話しかけていた。おそらく邦匡は、今日は休憩が目的なのではなく、伝えるべきことがあって椿咲に会いに来たのだろう。

 会社の仕事をしている父や兄にはよく客人が来るが、女学生の椿咲を訪ねてくる者はめったにいない。だから椿咲は首を傾げて、不思議に思った。

「神祇省ってあの、神々のお世話をしていらっしゃる省庁ですか? そんなところのお方が、なぜ私に?」

 皇国には生きた神々がいて、人間は神々に尽くすことでその祝福を受ける。古来から続くその習わしは皇国が近代国家となった今も行政機構に組み込まれていて、神祇省には神々に直接仕えている役人たちがいる。

 椿咲はそうした教科書で得た知識と、自分をつなぐ事柄がわからず困惑した。

 来客に対応した邦匡がすべて知っているものだと思って、椿咲は兄に質問を並べる。

 しかし邦匡もすべてを理解しているわけではないようで、はっきりしない言葉で説明をした。

「その役人が言うには、なんでもお前を神喰いの花嫁とやらにしたいそうだ。詳しくは、また後日改めて来たときに話すと言っていた」

 「神喰いの花嫁」という言葉が何を意味しているのか、皇国の伝承や習俗に疎い邦匡はぴんときていない。

 一方で食に関することには少々詳しい椿咲は、その一言でほとんどすべてを理解した。

「神喰いの花嫁、ですか?」

「ああ、確かそう言っていた。私にはよくわからんが、卜占で選ばれた巫女のようなものだそうだな」

 椿咲がおうむ返しに繰り返すと、邦匡はティーカップをよく磨かれたテーブルの天板に置かれた受け皿に戻して呑気に頷く。

 事の重大さを兄に説明するために、椿咲は静かに息をつき、かしこまって口を開いた。

「神喰いの花嫁は、食を司る神であらせられる御饌都之宇迦尊みけつのうかのみこと様に嫁ぐ女性の名称です。生と死を繰り返す定めにある宇迦尊様の肉を食し、宇迦尊様の再生のために死ぬのが、その花嫁の役割です」

 食に関係する神の名前と人間との関わりはすべて暗記している椿咲は、本来は神祇省の役人が説明するはずだったであろう事柄をすらすらと空で語る。

 しかし椿咲の話に耳を傾けていた邦匡は、疑問が増えた顔をしていた。

 邦匡はバターサンドを片手に考え込み、まず一番に気になっているのであろう点について確認した。

「つまりお前は、国に死ねと言われていると」

「断ることはできると思いますが、そうとも言えます」

 肯定する椿咲の返事は、妙に晴れやかな響きになる。

 死を語っているのにも関わらず嬉しそうに見える妹の態度に、邦匡は怪訝そうに眉をひそめた。

「その神喰いの花嫁とやらになる話を、お前は受け入れるつもりなのか?」

 咎めるわけでもなく、悲しむわけでもなく、ただ理解できないという様子で、邦匡は椿咲を凝視している。

 椿咲は愛よりも何よりも美食を求める人間として、兄のまなざしに微笑み返した。

「宇迦尊様の肉は、この世の何よりも美味しいって言われているんです。私はその神様の肉を食べることができるなら、喜んで死にますよ。そんなすごいものを食べられる機会は、他にありませんから」

 損得の計算を素早く済ませ、椿咲は少なくとも四番目の兄とは共有できないであろう想いを語った。

 誰も食べたことがない、他の何よりも美味しいものを食べるのが、椿咲の人生の最も大きな夢である。

 だから死んでしまうほどに美味しい神の肉を食べて満足して死ぬ「神喰いの花嫁」の昔話は、椿咲が憧れることができる数少ない物語の一つだった。

(チーズでできた月と同じくらい、私は神様の肉を食べてみたいと思っていました)

 対価を払うことに迷いを持たず、椿咲は正式に話を聞く前にもう、神喰いの花嫁として神を食べて死ぬことにした。

 生きるために食べるのではなく、食べるために生きていた椿咲は、最上の美味しさに触れられる機会を前に軽々と命を捨てる。

 妹の異常な食へのこだわりを、完璧ではないにしろ把握している邦匡は、何も反論はせずにティーカップの中のミルクティーに視線を落とした。

「本当にそうなるなら、父さんや兄さんたちに連絡しないといけないな。あとはお前の婚約者がいる結城家にも」

 邦匡以外の兄や父は、巨大コンツェルンの創業家に生まれた男として、皇国の各地でそれぞれの仕事をしている。だから家族が全員家に揃うためには、誰かが話をまとめる必要があった。

 さすがの椿咲も実の兄や父のことは、自分にとって大切な人たちとして覚えている。

 しかし婚約者の隆司のことは、すっかり失念していた。

(でもまあ、私と隆司さんは愛し合っているわけではないですから、どうにかなるでしょう)

 家族や友人のことを思い出しても決心が揺らぐことはなく、椿咲は兄の段取りの良さにお礼を言った。

「ありがとうございます。父様たちに伝える前に、明日にでもすぐに神祇省の方とお話しなければいけませんね」

 来客の目的が聞いていたものとは違う可能性を忘れず、椿咲は上品なセーラー服に似合った仕草でティーカップを傾ける。

 そして神の肉を食べることができるならなおさら、それまでに食への理解をより深めなくてはならないとバターサンドに向き合った。

 ステンドグラスの向こうの空はバタークリームの中のレーズンと同じ葡萄色で、次第に暗さを増していた。



 神祇省の役人は翌日、今度は椿咲の下校時間に合わせて屋敷を訪ねてきた。

 彼は椿咲が想定していた通りのことを言ったので、椿咲もあらかじめ考えていた言葉で答えた。

 兄の邦匡も立ち会った上での意志の確認が済むと、正式な書類が交わされることで宇迦尊と椿咲の縁は間違いのないものになる。椿咲は願った通りに、神喰いの花嫁として神を食す未来を約束されたのだ。

 東都に別れを告げて宇迦尊に嫁ぐのは約一ヶ月後の睦月の初めで、椿咲はその間に人に別れを告げたり、衣裳を用意したりしなければならない。

 だから父と兄たちには、いつもよりも急いで家に集まってもらった。

 邦匡が電報を打ってから五日たった夜の、半円の大きなブロンズ彫刻で飾られた暖炉を囲んだリビングに、椿咲の父と四人の兄が揃う。

 オーク材のローテーブルや革張りの長椅子が置かれたリビングは開放的で広々とした造りだったが、自宅でもきちんとした洋装で過ごす親と子が並ぶと少しばかりの圧迫感がある。

(お父様とお兄様たちが全員いると、壮観ですからね)

 暖炉を背に置かれたソファに座る、父であり霜山家の当主である直智なおともと対面する位置に手毬柄の錦紗を羽織って着席し、椿咲は久々に会った家族の顔を見渡した。

 向かって右手の長椅子には長兄の真匡さだまさと次兄の貴匡たかまさが、左手には三兄の輝匡てるまさと四兄の邦匡くにまさが腰掛けている。たまにしか揃わない兄たちは皆似た名前がついているので、椿咲はいつも呼び間違えないようにするのに苦労していた。

 椿咲が久々に会った三人の兄の名前を思い出している間に、事情をすべて把握している邦匡が状況を説明をしてくれていた。

 かつては美男子だったらしいが、年をとった今はやや気の抜けた薄毛の中年になった父・直智は、邦匡の話を聞き終えると椿咲の方を向いて大きく頷いた。

「神々と御縁を結ばせてもらえるのは、我が霜山家にとっても至上の栄光であり幸福だ。その上本人も乗り気ときたら、認めるしかないだろう」

 直智は考えていたものとは違う娘との別れを惜しみ、その丸い瞳に悲しみをたたえていたが、椿咲が神に嫁ぐことを止めはしなかった。

 腹違いの幼い弟妹がいる今はもう一人娘ではないが、直智は末妹として生まれた椿咲を、上の四人の息子よりも可愛がっている。

 しかし可愛がっているからこそ、直智は椿咲が望むことをは何でも叶えようとした。

「ありがとうございます。お父様」

 父親に首を横に振られたことがない椿咲は、願いを否定される可能性はまったく考えてはいなかったが、笑顔で感謝の言葉を述べる。

 個人の命が何よりも尊いという西洋の思想が広まっても、皇国では神に選ばれることは人命以上に価値があるという信仰は根強く、娘を溺愛する直智であっても例外ではなかった。

 またシャドーチェックのスーツで怜悧な印象に装う長兄の真匡も、常に利益と損失について考えている実業家らしく椿咲が神に嫁ぐ未来を評価した。

「財力があっても古い歴史がない我々には、思いもよらない僥倖だ。神祇省の卜占の結果に感謝して、妹を祝福しなければいけないな」

 椿咲とは付き合いの薄い真匡の言葉は、父のものとは違ってほとんど切なさがなかった。

 また兄弟の中で一番に大柄な身体をツーボタンのジャケットに包んだ三兄の輝匡は、ワインの入ったグラスを片手にやや太った指でテーブルの上に置かれた皿からイクラの載ったクラッカーをつまみつつ、椿咲に羨望の眼差しを向ける。

「正直、羨ましいな。俺だって美味しいものが好きだから、神喰いの花嫁になってみたかった」

 椿咲と同様に食に重きを置き、目の前に食べ物があれば必ず手をつける輝匡を、次兄の貴匡は煙草をふかしながら茶化した。

「輝匡はどっちかと言うと、食べられる側じゃないのか。よく肥えている輝匡の肉はきっと霜降りだ」

 甘く整った自分の容姿に自信がある次兄の貴匡は、息を吸うように他人を馬鹿にしていて、年に数回しか会わない妹の人生には興味を持たない。

 貴匡に貶されることに慣れている輝匡は、兄の皮肉は気にせずにクラッカーを食べている。

 一方で椿咲と過ごした時間が長い邦匡は、半ばふざけているようにも見える三人の兄の態度に苦言を呈した。

「兄さんたちはもう少し、まともな会話ができませんか? 椿咲が神喰いの花嫁になるということは、今生の別れが近いというわけですが」

 至って真面目な意見を邦匡が述べると、他の兄たちも一応は黙って椿咲の様子を伺った。

 それほど感傷的になっているわけではない椿咲は、軽く笑って首を横にふった。

「私は別に、気にしてませんよ。湿っぽいのは苦手ですから」

 照れ隠しでも何でもなく、椿咲は妹に対してやや薄情な兄たちが嫌ではなかった。いつも自分勝手に生きている兄たちが、椿咲のために真剣になる様子は想像できなかったし、そんな態度をとられたとしたら気持ちが悪いとも思う。

 子どもたちの会話を黙って聞いていた直智は、椿咲の正直な意見がわかったところで、ゆっくりと口を開いた。

「椿咲がそう言うなら、わしたちもより一層明るく送り出そう。娘が神様の花嫁になるなんて、とんでもなくめでたいことだからな」

 直智は寂しさと嬉しさの入り混じったまなざしを、娘の椿咲に向けていた。

 今日まで可愛がってくれた父親の気持ちを考えると、さすがの椿咲も感じ入るところはあるが、結局は今後知ることになる神の肉の美味しさへの期待が勝る。

(輝匡お兄様にも羨ましがられましたし、神様のいる神殿に行ける日が楽しみです)

 話が一段落したところで、椿咲は輝匡が食べ尽くしてしまわないうちにテーブルの上のクラッカーに手を伸ばした。

 薄く綺麗に焦げ目のついたクラッカーには、薄切りのチーズを敷いた上に小さなきらめきを零した赤いイクラが載っている。

 兄たちと父が話す事柄は、椿咲の代わりに誰を結城隆司に嫁がせるかという議題に移っている。椿咲の腹違いの妹たちはまだ幼いので、分家の従姉妹の誰かという話になっているようだった。

 椿咲は兄と父の会話を適当に聞き流し、イクラを落としてしまわないようにそっと、手にしたクラッカーを食んだ。

 やがて皿が空になると、トレイを手にした弥太郎が来て下げて、また別の新しい軽食を置いた。

 椿咲は弥太郎を横目で見たけれども、弥太郎は椿咲には視線を向けなかった。

 その後もずっとそんな調子であるので、椿咲は自分が神に嫁ぐことについて、弥太郎がどう感じているのかわからなかった。



 神喰いの花嫁になる件について椿咲が女学校で話したところ、友人たちもまた皆祝福してくれた。

 神を食せば死ぬことになる椿咲を誰も可哀想だとは言わず、むしろ強い興味を示す。

 彼女たちにとって椿咲の人生は、異国の映画や小説と同じ、退屈を忘れさせる物語の一つであった。

 だから椿咲が神に嫁ぐために婚約者である隆司と別れることも、現実を離れた叙情的な出来事として勝手に語られていく。

 友人たちは同情はせずに好奇心で接するのに、将来が約束していたはずの人と椿咲の関係が終わることは、切なくて悲劇的なものであってほしいと願っている。

 しかし実際のところは、隆司と椿咲の別れはそれほど物悲しいものにはならない。

「今日は朝からずっと、ありがとうございました」

 会って二人で過ごす予定を終えた、隆司が運転する帰りの車の中で、椿咲は特に気負わないでお礼を言う。

 サファイア・ブルーの車体のフェートンのハンドルを握る隆司も、表情を曇らせることなく朗らかに応えた。

「うん。僕も最後に、椿咲さんに会えてよかった」

 宇迦尊に嫁ぐことになってから「最後」という言葉を様々な人から聞いてきたが、隆司が言うものには特に深みがない。

 最初からわかっていたことではあるものの、隆司も椿咲もお互いを代替可能な存在としか考えておらず、ささやかな好意があったとしてもおそらく明日には忘れてしまうのだろう。

(結婚相手が従姉妹になったところで、きっとこの方は気にも留めないのでしょう。それは私にとっても、好都合なことですが)

 罪悪感を抱かずに婚約を解消できることに、椿咲は黙って感謝する。

 隆司は誰と結ばれても良いのだとしても、椿咲は選ばれた今はもう相手が神でなければ嫌だった。

 座席の背もたれに頬を寄せて、椿咲は頭上の幌以外には何も隔てるもののない薄暗い車の外を見た。

 車窓から吹き込んでくる風は冷たく、道から見える宵闇の迫る冬の東都の街では、師走の用事を済ませるために外に出てきた厚着の人々が、薄鈍色の空の下で忙しそうにしている。

 自分は何一つ動くことなく、軽油で動く鉄の駕籠に乗って運ばれながら、椿咲はもうすぐ終わろうとしている今日を振り返った。

 午前中は、赤レンガの建物が立ち並ぶ大通り沿いにあって、白いテラコッタの壁が一際まぶしく目立つ大劇場で、騎士が真実の愛を探して死ぬよくわからない内容のオペラの昼公演マチネを見た。

 それから午後には新装開店したばかりの宮殿のような百貨店に行き、輸入品のブローチや香水を特にほしいわけでもないのに眺めて買った一日は、どちらも大財閥出身の二人らしい贅沢で退屈な時間だったと思う。

 こうして椿咲が自分の食に関すること以外の興味の薄さを確認していると、隆司は進行方向に目をやったまま話しかけてきた。

「相手が神様ならきっと、僕よりもすごいんだろうな」

 何か言いたいことがあるわけでもない様子で、隆司はただ思いついた言葉を適当に言っていた。

 本人も考えていないことを他人がわかるはずはなく、椿咲には隆司が神をどう超越した存在だと捉えているのか理解できない。

(すごいの種類によっては、人間の方がすごいことだってあると思いますが)

 椿咲は隆司に言っても仕方がないことを飲み込み、とりあえず会話を成立させようと口を開いた。

「宇迦尊様がどんなお方だとしても、私はその隣にふさわしい花嫁になります。私は他のありえた未来をすべて賭けて、宇迦尊様のもとへ行くわけですから」

 ほんの少しは残っていた隆司への真心を込めて、椿咲は宇迦尊に嫁ぐ覚悟を語った。

 だがやはり隆司は、椿咲の意図を把握できていない顔をして、混み合った通りが進むのを待っていた。



 人との別れよりもまず、日々の食事を大事にして過ごしているうちに一ヶ月はすぐにたち、椿咲が宇迦尊に嫁ぐために旅立つ前夜はすぐにやってきた。

 椿咲の食べたいものだけが並んだ食卓を家族で囲んで、普段よりもやや長めに風呂に入って寝る。

 椿咲の寝室は狭すぎず広すぎず居心地の良い二階の一室で、上等な舶来のマットレスが敷かれたベッドは一年を通して心地が良く眠れるやわらかさである。

 しかしその夜の椿咲は、満腹すぎたのか、それとも気持ちが昂ぶっているのか、軽く暖かな羽布団に包まってもなかなか寝付けなかった。

(少し、台所で飲み物でももらいましょうか)

 一旦眠ることを諦めた椿咲は、ベッドから起き上がって布団から抜け出た。

 そして丈長のネグリジェの上に厚手のフランネルのガウンを羽織り、上沓をはいて一階の台所に向かう。

 兄も父も実業家として忙しく過ごしているからこそ常に規則正しい生活を送っており、女中メイドも含めて深夜の屋敷はひっそりと寝静まっている。

 その一方で霜山家の屋敷の廊下は窓が多く、また外は雲のない月夜であるので、椿咲は明かりを灯すことなく歩くことができた。

(無難に白湯か、甘く牛乳か。迷ってしまいますね)

 椿咲は何を飲もうか考えながら、台所に入った。隅々まで片付けられた台所はステンレスの天板が鏡のように見事に磨かれ、聖域のように月明かりに照らされていた。

 普段は台所に立つことがない椿咲は、どこか厳かな気持ちになって改めて周囲を見渡す。

 椿咲はそこで勝手口のガラス戸の外に、人影があることに気づいた。

 それが誰であるのかすぐにわかった椿咲は、考えるよりも先に黙って戸を開けた。

 一瞬でも凍える寒さの中で、褞袍どてらを着た弥太郎は勝手口に背を向けて小庭に佇んでいた。

 月が淡く生け垣を照らす薄闇が、椿咲からかけるべき言葉を奪う。

 戸が開く音に気づいた弥太郎は、驚いて振り返った。

「椿咲様?」

 慌てた様子で数歩先に後ずさる弥太郎も、椿咲と同じように寝付けずにいたようである。

 ただ椿咲と違うのは、弥太郎が泣いていることだった。

 椿咲が来るまで誰にも知られることなく流れていた弥太郎の涙は、寒さの中で赤くなった頬を濡らしていた。

 涙を見られたことを恥じたらしい弥太郎は、うつむいて眼鏡を外し、着物の袖で涙をぬぐった。しかし涙は止まることなく、ぽろぽろと芝の枯れた地面に落ちていく。

 椿咲は上沓のまま外に出て、戸を閉めた。

 そして弥太郎が泣いている理由はすでに理解していたが、念のために控えめな言葉で確認する。

「もしかして私のために、泣いているのですか」

「そうです。俺は椿咲様が死ぬのが、嫌ですから」

 妙に冷静に響く椿咲の問いが、弥太郎の涙をさらに溢れさせる。

 弥太郎は遠慮のない椿咲への怒りを半ば滲ませて、肩を震わせて答えた。

 今日まで別れを告げてきたほとんどの人は、椿咲が神に嫁ぎ神を食して死ぬことを、否定せずに受け入れて祝ってくれていた。

 椿咲は父にとっては幸せに去っていく娘であり、兄にとっては都合のよい縁談をもらった妹である。

 そして友人たちにとっては非日常的な物語の一部になった同級生で、隆司にとっては代わりのいる婚約者だった。

 だからこそ椿咲は、気兼ねなく命と引換えに神を食すことを選べる。

 しかしただ一人、弥太郎だけは、椿咲の利欲的な死を認めていなかった。

 弥太郎に好かれていることはわかっていたけれども、泣かれるほどだとは思っていなかった椿咲は狼狽える。

(好きでいてもらえるのは嬉しいですが、ここまでだとちょっと困ります)

 湿っぽいやりとりは、椿咲は好きではない。

 だから自分の死を深刻に捉えてほしくなくて、椿咲はわざとおどけてみせた。

「毒で死ぬとわかっていてもフグを食べた人が、遠い昔にはいるでしょう。毒を避ける方法が見つからなくてもただ、美味しさを知るためだけに。私の人生もきっと、そういうものなのです」

 冷えてきた手をガウンの袖の中に隠して擦り合わせながら、椿咲は小さく微笑んだ。なかなか面白い例えではないかと、自分では評価している。

 だが弥太郎は椿咲の冗談混じりの説明には笑ってくれず、逆に何とか泣き止もうと顔をしかめて言い返した。

「そこまでして、月を食べなければいけませんか? ただのチーズでは駄目ですか?」

 弥太郎は以前に月の伝承について話したことを踏まえて、椿咲に訊ねていた。

 あの夜の会話を思い出すということは、弥太郎もおそらく、椿咲が何を考えているのかはわかっているのであろう。

 椿咲が求めるものを突き詰める人間だからこそ弥太郎は椿咲を好きになり、求め続けた先の結果に椿咲が死ぬからこそ弥太郎は泣いている。

 すべて理解していても、弥太郎は弥太郎で椿咲を諦めることはできない。

 そうした弥太郎の想いを、思い遣りのない椿咲は掬いとることはできない。

 だから椿咲は弥太郎を見つめるのを止めて、夜空を見上げた。

「ただのチーズも、もちろん好きです。だけど私は、月を食べる資格を与えてもらえました。私は食べれるものは全部、死んでも食べたいのです」

 藍色に明るく星の見えない空には、白く大きな満月が輝いていた。屋敷と生け垣の間の小庭から見える狭い夜空に浮かぶ月に、椿咲は手を伸ばす。

 どうせいつかは人は死ぬものだから、椿咲は自分らしい死に方がしたかった。誰もが納得するような、嘆かれることのないような、自分の人生にふさわしい死について考えていた。

 決して、椿咲は死にたいわけではなかった。

 ただ機会を得たなら後悔はしたくなくて、誰も食べたことがないものを食べたいという願いをどうしても叶えたかった。

 だから椿咲は、弥太郎にも受け入れてほしかった。さすがだと思ってほしかった。

 しかし弥太郎が椿咲に特別な感情を抱いている限り、思うようにはならないことはわかっている。

 椿咲はじっと、月を眺めていた。

 やがて弥太郎は外した眼鏡を握ったまま、目を伏せてつぶやいた。

「命よりも大事なものが、椿咲様にはあるんですね。俺にはないです。椿咲様の命以上に大事だと思えるものは」

 眼鏡を握る弥太郎の手に、力がこもる。

 弥太郎の話す言葉は熱く、吐く息は白い。

 泣きはらした目をした弥太郎の顔は普段よりも幼くて、故郷を離れて働く年相応の少年らしかった。

 「椿咲以上に大切なものはない」という言葉が、たとえ成り行きで言ってしまったものだとしても、弥太郎がそれなりに本気で椿咲のことを考えているのは真実だった。

 弥太郎が椿咲に捧げてくれている想いは、一人の少年が一人の少女に恋したものとして、それなりの価値があるはずである。

 真面目な弥太郎なら椿咲と結婚が許されるだけの出世も、時間をかければ不可能ではないかもしれない。

 しかし神に嫁ぎ神を食すことに決めた椿咲は、その恋を選び取ることはできない。

 残念ながら弥太郎の恋心は、皿に載せて食べることができないものなのだ。

 だから椿咲は数歩先にいる弥太郎に触れようとしたり、それ以上の言葉をかけたりはせずに、勝手口を開けて台所に戻った。

 フランネルのガウンが翻り、椿咲と弥太郎の距離は遠くなってガラス戸に隔てられる。

 椿咲と弥太郎が交わした会話は、それが最後になった。



 翌日、椿咲は黒地に金駒刺繍が施された檜扇紋が華やかな大振袖に、白地の丸帯を立て矢結びで結び、白貂の毛皮のショールを巻いて西へ向かう船に乗った。

 正式な婚礼衣装というわけではないので、髪は紅白のリボンを使って編み上げてまとめいる。

 やや童顔の顔を大人っぽく化粧をした仕上げには、隆司と出かけた百貨店で買った香水を使った。

 甘い菓子のような匂いになって、椿咲は自分よりも美味しそうな匂いがするはずの神を想う。

(甘い匂いをまとっていると雪も砂糖に見えてきますけれども、宇迦尊様はどんな匂いがする神様なのでしょうか)

 灯台の白色が冷たく冴える冬の港は、灰色に低く雲が垂れ込めた空に粉雪がちらついていた。

 正装した家族が見送る中で桟橋を離れるのは、霜山家が営む海運会社が運行する蒸気船である。

 黒煙を上げて進む最新式の蒸気船は、安心安全を強調する会社の謳い文句の通りに椿咲を乗せて迅速に運んだ。

 出港前に「我が社の船は、皇国で一番に快適な乗り物だ」と自慢していたのが、何番目の兄だったのかは早くも思い出せないが、確かに船の内装はホテルのように豪華だった。

 しかし椿咲は外の風景を良く見たかったので、蒸気船の発動機の規則的な音が鳴り響く甲板から、暗い海が波打つのを眺めていた。



 一日後に雪が降り積もった西都の港についた椿咲は、神祇省の役人が運転する迎えの車に乗って、宇迦尊が待つ甘醒殿かんせいでんと呼ばれる神殿へ向かった。

 甘醒殿は神在森かみありのもりと呼ばれる深いブナの森の中にあって、清らかな流れにつながる池のある敷地に建てられた、大小の伝統的な様式の館から成り立っている。

 正午過ぎに甘醒殿の敷地に入った椿咲は、降車後は役人の案内に従って最も大きな館の門をくぐった。

「どうぞ、こちらに」

 気取った表情でダークスーツを着こなす役人は、丁重に椿咲を誘導する。

 重々しく開いた板扉の先にあったのは、白雪に覆われた古風で広々とした庭で、その荘厳な眺めには豪邸に生まれ育った椿咲も思わず息を飲んだ。

(古い絵巻に描かれた世界に迷い込んだら、こんな感じでしょうか)

 雲の隙間からもれる太陽の光に照らされた凍った池は輝き、水辺に植えられた木々には鮮やかに赤い椿の花が少し早めに咲いている。

 大きな池の向こうには、またさらに大きな入母屋造りの檜皮葺の屋根が立派な正殿があり、左右には廊で結ばれた対屋が置かれていた。

 椿咲は庭の中心の、さくさくとした雪の感触が心地の良い白い地面に立ち、造りは古いのに真新しい清々しさを感じさせる館を眺める。

 緻密な檜の斗栱が支える軒下に畳まれた蔀戸の下には、御簾と練絹の几帳が吊るされ、厳粛に内と外を分けていた。

 役人も急かさず待っているので、椿咲も立ち止まってじっくりと寒さを忘れて感慨に浸る。

 しばらくすると、立派な白い袍服を着た一人の子供が館の向拝の下の階段を降りて、その後ろを青年が付き従って歩いてくるのが見えた。

 役人はわざとらしくもったいぶった口調で、こちらに歩いてくるのが誰であるのかを説明した。

「あちらからいらっしゃる白い御服をお召しになったお方が、御饌都之宇迦尊様です」

 おぼつかない足取りで歩いてくる五、六歳に見える子供が宇迦尊であることは、状況や身なりからして椿咲もわかってはいた。

 しかしそれでもその幼さには驚いて、椿咲は思わず役人に訊ねる。

「宇迦尊様は、あんなにお小さいのですか?」

「今季の宇迦様は、幼いお姿ですね。青年のときもあれば、少年のときもあります。お亡くなりになるたびに、年齢が変わるのです」

 何もかもに慣れた様子で、役人は冷静に受け答えた。

 どうやら食べられて死んでは生まれ変わる存在である宇迦尊は、蘇るたびに違う年齢になるらしい。

 そんな話をしているうちに、宇迦尊は池にかかった赤い橋を渡ってすぐそこにまで歩いてきていた。

 椿咲は頭を下げるというよりは、目線を合わせる気持ちで冷たい雪の上に屈んだ。

(これが、私が食べることになる神様)

 船に乗るときとはまた別の、対い鶴が織られた黒い大振袖を着た椿咲は、レストラントで料理を出されたときと同じようにじっと目の前にいる少年の姿をした神を眺めた。

 椿の半分くらいの背丈の宇迦尊は、人見知りの子供といった雰囲気で、口を閉じたまま落ち着かない様子で椿咲を見たりうつむいたりしていた。

 顔立ちは未熟だが端正で、綿菓子を撚って糸にしたように白い髪や、美しい虹彩を描く金色の瞳は、神らしい神聖さを感じさせる。

 しかし服の袖から覗く手はやわらかそうで小さく、はにかんだ表情も幼いので、神でもやはり子供なのだと椿咲は思った。

(老いているよりは若いほうが美味しいでしょうけれども、これは……)

 あまりにもあどけない神の姿に、椿咲は彼を食べることになる自分の立場に罪悪感を抱いた。

 無口な性分なのか宇迦尊はしばらく何も言わなかったが、先に口を開くのは無礼かもしれないと考え、椿咲も黙っていた。

 お互いに何も言わない二人を前に、役人は従者の男と目配せをしてから、宇迦尊に声をかけた。

「宇迦様」

 挨拶を教え込まれる子供のように名前を呼ばれた宇迦尊は、あいまいに微笑んで顔を上げ、やっと椿咲に数歩ほど近づいた。

 革に漆を塗った浅沓あさぐつを履いた宇迦尊の歩みは、金色の草履を履いた椿咲の歩みよりもずっと軽くて頼りない。

 そして宇迦尊は椿咲の顔を覗き込み、小さく整った口を開けた。

「きみがぼくをたべてくれる、およめさんなの?」

 冷たい冬の風にはかなく溶ける、鳥の囀りほどにかすかな声が、椿咲に問いかける。

 宇迦尊は自分を食す相手を前にしても恐れている様子は見せず、ただ椿咲がどんな人間であるかを素朴に気にしている。

 少し手を伸ばせばすぐに触れられる距離に立っている宇迦尊からは、その身体からは父の後妻が弟妹を産んだときにかいだような、新生児に似た甘く穏やかな匂いがした。

 その匂いに不思議な愛しさを覚えつつ、椿咲は問いに答えた。

「はい。さようでございます。私は貴方の花嫁になる、霜山椿咲と申します」

 宇迦尊を真っ直ぐに見据える椿咲の声は、淡い陽光の下で迷いなく強く響く。

 神のものになるというよりも、神をものにしたとするのだという気持ちを、椿咲は持っている。

 だから椿咲は突発的に、なめらかでしっとりとした宇迦尊の頬を撫でたい衝動に駆られたが、何とか自制して耐えた。

 宇迦尊はしばらく椿咲の目を瞬きをして見ていたが、やがて相手の性質を確かめるように、短い腕を伸ばして椿咲の頬に触れた。

「……つばき」

 可愛らしい鳴き声が椿咲の名前を呼んで、肩口のあたりで切り揃えられた白い髪が揺れる。

 白粉を塗った冷たい頬に温もりのある小さな指が触れた瞬間に、椿咲はこれから捕食者になる自分の罪深さをより一層自覚する。

 橋や花の赤が曇り空を映した池や雪の色に映える冬の庭が人の手が入った自然であるように、その風景の中に美しく収まる椿咲と宇迦尊もしきたりや慣習によって作られた夫婦である。

 だから椿咲は花嫁らしく宇迦尊を愛そうとしても、その想いは歪なものにしかならなかった。



 壁の少ない開放的な作りの甘醒殿は、外から見たときには絶対に寒いように思えたが、中に入ってみると意外なほどに過ごしやすかった。

 また小川の流れの上をかかった渡り廊下も、高欄で囲まれた縁側も、屋根の下は不思議と寒さが和らぐ。

 従者の男の他に使用人が見当たらないのにどこも清潔で掃除が行き届いているところを見ても、神殿として何か霊的な力が行き渡っているから、居心地の良い空間が保たれているのではないかと椿咲は推測した。

(髪の色や目の色が普通ではないだけの子供に見えて、やはり本当に神様なのですね)

 椿咲は追い越してしまわないようにゆっくりと歩きながら、横目で宇迦尊の幼く澄んだ表情の横顔を見つめた。

 それから椿咲と宇迦尊は三献の儀を行った。

 蝋燭の明かりだけが灯された中で盃を交わす儀式は厳粛な雰囲気があったが、相手が宇迦尊だとままごとにも思えた。

 三献の儀を終えたあとは、宇迦尊の寝室で二人だけの食膳を囲む。

 子持ち昆布と雪輪れんこんの酢の物の先付から始まる冬の食材を使った懐石は、どの料理も食材を十二分に生かした素晴らしい味を楽しむことができるものだった。

「牡蠣豆腐の牡蠣、すごく大きいですね」

 煮物が入った塗り椀を開けた椿咲は、琥珀色の餡で寄せられた牡蠣豆腐の輝きにうっとりとした。

 大振りな牡蠣になめらかな絹豆腐、それから春菊が入った牡蠣豆腐は、とろりとした餡が熱さを保っている。その熱々の湯気の良い匂いをかぐと、椿咲はもうすでに何品か食べているのに、空腹であるかのように食欲を刺激された。

 しかし隣にちょこんと座る宇迦尊は、椿咲と違って無感動に、箸をつけている。

「ぼくはかきはにがてだけど、とうふはちょっとだけすき」

 そう言って牡蠣を椀の蓋に除け、宇迦尊は餡のかかった豆腐だけを食べた。

 宇迦尊の膳をよく見ると、甘海老と野菜の友禅蒸しも、唐墨の烏賊巻きも、どの料理も半分以上は残っている。

 まだ子供だから残すのは当然とは言え、もったいないことだと椿咲は思った。

 だから椿咲は礼を欠かないように気をつけつつも、抜け目なく宇迦尊に申し出た。

「食べきれないのなら、私がいただきましようか?」

「たべかけだけど、いいの?」

 塗り椀の蓋に除けられた牡蠣をじっと見つめて椿咲が訊ねると、宇迦尊は首を傾げてこちらを向いた。

「私は食いしん坊ですから。よろこんで」

 茶化しつつも正直に食欲を隠さず、椿咲は宇迦尊に微笑みかける。

 すると宇迦尊は食べ残しの載った膳を、椿咲に差し出した。

「じゃあ、これもこれもつばきに」

 椿咲はそれらを笑顔で受け取って、宇迦尊にお礼を言った。

「ありがとうございます。私は豆腐も牡蠣も好きなんです」

 それから椿咲は、大ぶりで弾力のある、食べごたえたっぷりの餡かけの牡蠣の味をいくつも楽しんだ。

 椿咲の手にかかれば、どの料理も綺麗に消えていった。

 やがて宇迦尊の食べ残しも含め、すべての膳を空にした椿咲は満腹になって、大振袖を脱いだ赤い襦袢姿で帳台に座る。

 そのすぐ横には、単衣に袴を着た宇迦尊が横になっていて、眠たそうしていた。

「揚げたてで骨までさっくりしていたワカサギの唐揚げも、だし汁の滋味が身体に染みる鶏肉と茸の止め鍋も、どれもとても美味しかったですね」

「うん。まなとは、りょうりがじょうずだから。つばきのためにぼくをりょうりするのも、まなとなんだよ」

 椿咲が会席料理の感想を事細かに述べると、宇迦尊は閉じかけた瞳で頷いた。

 従者の男は真那斗まなとという名前で、料理が主な仕事であるらしい。

 あれだけの料理を一人で用意した真那斗が宇迦尊を料理するなら、間違いなく美味しくなると椿咲は確信する。

「美味しいものが毎日食べることができて、宇迦様はお幸せでしょう」

 椿咲は真那斗や役人の男に倣って、宇迦尊を「宇迦様」と呼ぶことにした。実物を前にしてみると、「宇迦尊様」では堅苦しすぎる気がしたからである。

「でもまいにちだと、あきちゃうの」

 絹のふすまに小柄な身体を包んで、宇迦尊はあくび混じりに答えた。

 神であると同時に子供でもある宇迦尊の夜は早く、椿咲のかける言葉は寝かしつけに近いものになっている。

 実際は初対面の印象ほどには無口ではなかった宇迦尊は、半ば目を閉じかけて微笑んだ。

「だからぼくは、あしたのつばきのあさごはんがたのしみ」

 宇迦尊が無邪気に期待しているのは、椿咲が花嫁としてのしきたりに従って最初の朝に作る、宇迦尊にとっては最後の朝食である。

 どうやら今日まで幾度も繰り返されてきた宇迦尊の最期は、神喰いの花嫁が作った食事を食べてから、神喰いの花嫁に食されるという形に決まっているらしい。

 従者の真那斗に朝食は何を作るのか聞かれたので、椿咲も希望を伝えている。

「あまり自信はありませんが、頑張ります」

 女学校で料理を学ぶ機会は山ほどあったが、椿咲は食べることは得意であっても作ることには自信はない。

 だから控えめに受け答えたのだが、横を見てみると宇迦尊はすでに眠りについていた。

 銀色のまつげの震える宇迦尊の目を閉じた顔は、まるで異国の宗教画に見えると、椿咲は思った。

 椿咲はしばらく宇迦尊のかすかな寝息を聞いていたが、やがて自分も眠くなってきたので部屋の明かりを吹き消して自分も帳台に横になった。

 赤い長襦袢の袖や裾が寝具に広がり、宇迦尊の眠る空間を侵食する。

 椿咲はそれほど背丈が高い方ではなかったが、宇迦尊を前にすると自分が大きくなったような気がした。

(そばにいるだけでこんなにも温かいのですから、きっと触れたらもっと気持ちが良いのでしょう)

 自覚していたよりも欲深い椿咲は、宇迦尊の細い腕も、薄く小柄な身体も、すべてあの良い匂いごと抱きしめてみたかった。

 しかしあまりにいたいけな宇迦尊の寝顔に、そっと触れることも憚られて椿咲は目を閉じた。



 普段よりもずっと早い時間に床についた椿咲は翌朝、日が昇る前に目を覚ました。

(厨房に行って朝食を作らなければいけませんから、まあちょうど良い時間ですね)

 椿咲は几帳きちょうや蔀戸の隙間からもれる薄明かりから、朝が近いことを理解した。

 起き上がって横を見てみると、宇迦尊はうつ伏せになって静かに眠り続けている。

 椿咲は宇迦尊を起こしてしまわないように気をつけて、とばりを上げて寝室から出た。

 そして前日に聞いていた真那斗の指示に従って別室で身を清め、手触りの良い瑠璃紺のモスリンの小紋に着替えて、髪を結って袖を括る。

 身支度を整えた椿咲は館の北の裏庭に向かい、そこに建てられた切妻造りの小屋に入った。

「おはようございます」

 椿咲は引き戸を開けて、礼儀正しくお辞儀をした。

 思ったよりも広い小屋の中には石でできた竈や木製の流しが並んだ土間の厨房があり、宇迦尊の従者であり料理人でもある真那斗が作業台で包丁を研いで待っていた。

「ちゃんと時間通りに来たようだな」

 熨斗目色のしめいろの作務衣を着た真那斗は、包丁を研ぐ手を止めずに横目で椿咲をじろりと見る。

 ここで改めて真那斗の日に焼けた精悍な横顔をよく見て、椿咲は真那斗が神祇省の役人の男によく似ていることに気づいた。服装や佇まいが違うから気が付かなかったが、もしかすると二人は血縁関係にあるのかもしれないと椿咲は思った。

「宇迦様と一緒に早く寝たので、ちゃんと起きることができました」

 椿咲は顔を上げて微笑み、にこやかに約束の時間に間に合った理由を述べる。

 機嫌の良い椿咲に対して、真那斗はやや不機嫌そうに包丁を研ぎ終えた。

「お前がうさぎ汁を作りたいと言ったから、俺もちゃんとうさぎを用意してきたぞ」

 そう言って真那斗は、床に置かれた籠から一匹のうさぎの耳を掴んで椿咲に見せた。

 うさぎは目を閉じてすでに死んでいて、真っ白な毛に覆われた身体は小さいけれども丸々としている。

 自分の要望通りに本当にうさぎが用意されたことに感動して、椿咲は手を合わせて真那斗にお礼を言った。

「ありがとうございます。一度食べてみたかったんです。うさぎ汁を」

 宇迦尊の最後の朝食として作りたいものは何かと言われて思い浮かんだのは、以前に弥太郎が故郷ではよく食べたと話していたうさぎ汁だった。

 これまでなかなか食べる機会がなかった郷土料理を口にすることができそうで、椿咲はとても嬉しい。

 しかし急遽狩るか何かしてうさぎを手に入れてきた真那斗にとっては、椿咲の注文は不可解で少し腹が立つものだったようだ。

「こういうときは普通はな、自分が食べたいものじゃなくて、自分が作れるものを言うんだぞ」

 軽くたしなめてくる真那斗に、椿咲は一応申し訳なさそうな顔をして謝った。

「すみません。でも何で良いと、言われましたので」

 本当に悪いことをしたとは思っていなくても、椿咲はとりあえずは謝罪ができる性分である。

 真那斗は何でも良いと言っても限度があると言いたげな顔をしていたが、諦めてうさぎをまな板の上に置く。

「まあいい。時間がかかる料理だから、早く始めるぞ」

「はい。わかりました」

 荒っぽく命令されることを新鮮に感じながら、椿咲は真那斗のいる作業台の方へ移動した。

(どちらにせよこんなに古い厨房では、この人にかなり頼らないと朝食は完成しなさそうです)

 女学校でも自宅でも、ガスと水道が揃ったキッチンしか使ったことがない椿咲は、何百年も前に時間旅行をしたような気持ちで真那斗の隣に立った。

「では、うさぎの捌き方を教えてください」

 家事はすべて使用人に任せる生活をしていた椿咲は、料理をした経験があまりない。

 それでもやれるところはまではやってみようと、椿咲は研いでもらったばかりの包丁を手にして真那斗に訊ねた。

 真那斗は不慣れな椿咲の手付きを不安げに見つつも、面倒くさいと思っているのを我慢しているのであろう表情で手順を教えてくれた。

「まず後脚の足首に切り目を入れて、頭の方に引っ張って皮をはがせ」

「えっと、後脚ですね」

 椿咲はうさぎの身体を持ち上げて、後脚を自分の手元に運んだ。冬の朝に死んでいるうさぎの身体はふさふさの毛に反して重く冷たくて、だらりと力なくまな板の上に横になった。

 そして爪の生えた固いところの少し上に包丁を入れて、切った毛皮の縁に手をかけて剥がす。

(動物の皮は、意外と簡単に剥がせるものなのですね)

 少しの力で簡単に皮が肉から離れていく心地よさに、椿咲はかすかな興奮を覚えた。

 所々が白い脂に覆われた薄紅色のうさぎの肉はしっとりと手触り良く、女学校の授業を捌いたときよりもさらに、命を奪って食べるのだという実感を与える。

「前脚の先まで剥がせたら、首と前脚の先のを切って皮を切り離す。爪や皮の残っている後脚の先もここで切れ」

 真那斗は危なっかしいものの言われたことはできている椿咲の手元を見て、次の指示を出した。

 その声の響きから察するに、真那斗が考えていたよりも椿咲は肉の扱いが下手ではないようだった。

 それほど叱られずに済んでいる椿咲は、少々誇らしげに返事をした。

「はい。首と脚の先ですね」

 ほとんどの皮を剥がせた椿咲は、銀色の切っ先の鋭い肉切り包丁を使って、片手で掴めてしまううさぎの細い首を切り落とした。

 軽快な音をたてて、包丁の刃がまな板に触れる。

 研ぎたての包丁の切れ味は鋭く、あまりにも簡単に骨や肉を断つことができたので、木製の柄を握る椿咲の手は少し緊張で震えた。

(血が……)

 うさぎは十分に血抜きがしてあったが、それでも切った首からは少量の血が流れて清潔なまな板を汚した。

 良家の淑女として育った椿咲は、人のものであれ、動物のものであれ、あまり血が流れる傷を見ることはなく育ってきた。

 しかし皮を剥がされたうさぎの首から流れる血の匂いを嗅いでも、不思議と残酷だとは思わずにむしろ落ち着いた。

(首とあと、脚の先ですね)

 椿咲は包丁で、皮が残っているうさぎの脚の先を切った。

 完全に皮を剥がされた首のないうさぎの肉は一回り小さくなって、無力に人間の手によってなすがままにされている。

 その隣には生きていたときの姿を残した、中身が空になったうさぎの皮が並んでいた。

「皮を全部はがせたら、腹を割いて内蔵をとれ」

 日々いろんな生き物を捌いているであろう真那斗は、椿咲と違って何の感慨にも浸らずに次にやるべきことについて話す。

 椿咲はその声に従って、うさぎの肉をあおむけにして浅く腹のところに包丁を入れた。

 すると赤黒かったり灰色だったりする内蔵が、切り目から覗く。

 椿咲はその冷たい塊に手をつっこんで、内蔵を取り除いた。

 やわらかい内臓を傷つけないように気をつけたけれども、うさぎの身体の中からは濃い血が流れて、野性味のある匂いは強くなる。

 そのグロテスクな状況に、椿咲は当然のように恍惚感を覚えた。

(宇迦様も、このうさぎみたいに切り開かれて捌かれるのでしょうか)

 神の肉をどうやって食べることになるのか、椿咲は知らない。

 しかし椿咲には小さなうさぎが、宇迦尊の姿に重なって見えた。それどころか椿咲は、自分が包丁で切っているのが、宇迦尊であるという錯覚すらしそうになる。

 小さな子どもの姿をした宇迦尊が内臓を暴かれる様子を想像することは絶対的な倫理に反していて、だからこそ椿咲は空想をやめることができない。

「内臓が取れたなら、あとは足の骨と背骨をとって……」

 椿咲の空想に構うことなく、真那斗の指示は続く。だんだん細かい作業になってきたので、椿咲は無理だと思ったら真那斗に任せた。

 真那斗は椿咲とは比べ物にならないほど手際よく迷いなく、うさぎの肉に包丁を入れた。

 やがて毛皮も内臓も奪われたうさぎは、元の形がわからなくなるほどに切り分けられて、いくつかの肉の塊になる。

 椿咲はほとんど可食部分だけになったうさぎの肉をそっと指で弄んで、そのしっとりとした冷たさに触れた。

「ところであなたは宇迦様を、どうやって料理するのですか?」

 うさぎを捌いている途中で抱いた素朴な疑問を、椿咲は真那斗に訊ねてみた。

「別に普通に、このうさぎと一緒だ」

 真那斗は表情も少しも変えずに、何でもないことのように低い声で答える。

 残酷な椿咲の空想は間違いではなく、可愛らしい寝顔で眠っていた宇迦尊は、もうすぐばらばらの肉塊になる運命にあった。

 そしてその肉を口にするのは、他ならぬ椿咲なのだ。

(宇迦様はうさぎを食べて、うさぎのように殺されるのですね)

 椿咲は今日の朝食を楽しみにしていた宇迦尊の顔を思い出して、神妙な気持ちになった。

 死んでも蘇ると言ってもまったく同じ存在としてではわけではないはずで、幼く微笑んで椿咲の名前を呼んだ宇迦尊はきっと永遠に戻ることはない。

 その喪失は、神を食べて死ぬ覚悟を決めている椿咲も、心が痛む気がした。

 その後、切り分けられたうさぎの肉は小骨ごと棒で叩かれ、つみれになって大根や人参と一緒に鍋で煮込まれた。

 さらに真那斗が米を炊き、漬物も出してきてくれたので、椿咲が食べたかったうさぎ汁の朝食は、立派な形で赤漆の膳に載った。



 真那斗が食膳を運んでくれた板の間で、椿咲は宇迦尊を待っていた。

 半分ほど開いた御簾の向こうでは、鈍い太陽の光が庭の雪を淡く包むのが見える、静かな朝である。

 寒そうな景色が見えているのに、板の間には心地の良い温もりがあって、塗椀に入ったうさぎ汁も冷めずに湯気を上げ続けているのは、やはり神のいる館だからだろうと椿咲は思った。

 やがて花嫁の滞在中は真那斗の仕事を手伝っているらしい役人の男が、灰白の羅紗の着物に着替えた宇迦尊を連れてくる。

「あ、つばきだ」

 部屋に入ってくるまでは眠そうにしていた宇迦尊は、敷畳に座って待っていた椿咲の顔を見るなり急に元気になって駆け寄ってきた。

 気を利かせて役人はすぐに去ったので、部屋にいるのは椿咲と宇迦尊の二人きりである。

「おはよう、つばき」

「おはようございます、宇迦様」

 最初で最後になるからこそ椿咲は、愛おしい気持ちで朝の挨拶を宇迦尊と交わす。

 宇迦尊は椿咲にぴったりと寄り添って座り、椿咲の身体に頭を預けて食膳を覗いた。

「これが、つばきがつくったあさごはんなんだ」

 朱塗りの食膳の上には、米味噌で薄茶に仕上げられたうさぎ汁の入った椀に、青々としたかぶらの葉の漬け物の載った小皿、そしてつややかな白米が盛られた飯椀がある。

「はい。さようでございます。うさぎ汁と、かぶら漬けです」

 飯を炊く釜の火加減はほぼ真那斗任せで、漬け物は切っただけ。うさぎ汁も自分一人では絶対に作れないものであったが、椿咲は堂々と胸を張って頷いた。

 宇迦尊はうさぎという言葉に反応し、きょとんとした顔で椿咲の顔を見上げた。

「うさぎって、あのうさぎ?」

「あの白くて小さい、うさぎの肉団子が入っています」

 食膳と揃いの木匙でつみれを掬い、椿咲は宇迦尊に見せる。

 宇迦尊は目を丸くして、いちょう切りの大根や人参と一緒に煮えているつみれをまじまじと見つめた。

「うさぎが、このまあるいおだんごになるの」

 つみれが何から出来ているのか一度も考えたことがなさそうな表情で、宇迦尊はうさぎ汁に視線を注いで、香り高い味噌の匂いを嗅ぐ。

 ここでは主が食べ終えるまで料理が冷めることはないと気づいていたけれども、椿咲は宇迦尊の興味が深まったところで声をかけた。

「冷めないうちに、食べましょうか」

「うん。いただきます」

 宇迦尊は目を輝かせて、金色の瞳を細めて笑った。

 そしてごく自然に、小さな口をいっぱいに開けて、椿咲に手ずから食べさせてもらおうとねだる。

 くせがなくやわらかいうさぎの肉のつみれの味と、うさぎの肉の風味をほんのりと残したさっぱりと香りの良い味噌仕立ての汁の味を、椿咲は味見をして知っていた。

 だから匙で汁と一緒に掬ったうさぎのつみれを、椿咲は自信を持って食べてもらうことができた。

「では、どうぞ」

 汁を零してしまわないように、椿咲はそっと優しく宇迦尊の口に匙を運んだ。

 宇迦尊はやや小さめに丸められたつみれを口に含んで、熱そうに頬張る。

 その薄く味噌の染みたつみれの味は、宇迦尊の気に入るものであったらしく、何も言わずに口を開けて二口目を所望した。

(可愛いものですね)

 椿咲は湯たんぽのように温かい宇迦尊の身体を片腕で抱きとめ、もう一方の腕で匙を手にして二口目、三口目と与えた。

 そして宇迦尊は、十分に味を理解できたところで、食べるためではなく言葉を発するために口を開いた。

「うさぎは、あじもしろくてちいさいのね」

 きっとうさぎの鳴き声よりも愛らしい声で、宇迦尊はうさぎ汁の味を幼い語彙で表現した。

「はい。そうですね」

 白くて小さい味という表現を気に入った椿咲は、心のなかで高らかに笑って、宇迦尊の口元についたつみれのかけらを指でぬぐって食べた。

 神に自分が作った料理を食べてもらいながら考えるのは、自分が神の肉を食べるそのときのことである。

 見た目通りの味か、見た目とは違う味か。

 どちらにせよ美味しいはずの宇迦尊の味を、椿咲はもうすぐ確かめることができる。

 これから椿咲は自分の手の中にいる、与えられたものを無邪気に食べている子供を食べることになるのだ。

 その小さな命を奪うことはどれだけ理由があっても罪深く感じられたけれども、それでも椿咲は宇迦尊を食べたいと思った。



  小さいはうさぎ

  うさぎは白い

  白いは月



 うろ覚えの言葉遊び歌を思い浮かべて、椿咲は改めて死と再生を繰り返す食物神である宇迦尊の、白い月のように美しい顔を見る。

 それは食べること以外には何の価値も感じないこの人生で椿咲がずっと求めてきた、世界中のどんな珍味よりも価値のあるはずものであった。

 いつか食べることを夢に見てきた月に似た神を、椿咲は食べることができる。

 軽くて重いそのやわらかい肉が、どんな味がするのかは知らないけれども、椿咲はうさぎ汁を食べる宇迦尊を見つめて唾を飲み込む。

 御簾の向こうにある雪景色の庭を眺める暇もなく、ただ腕の中にいる宇迦尊を五感で感じた。

(良い匂いも、綺麗な声も、心地よい体温も、私は何も食べ残したくはありません)

 宇迦尊は世界で一番美味しい神であり、椿咲は世界で何番目かに食い意地を張った花嫁である。

 だから椿咲は自分が持っている時間と命をすべて犠牲にしてでも、宇迦尊を愛し、味わい尽くすつもりでいた。

 幼く無邪気な神を殺して食べる罪は、おそらく死ななければ許されないものなのだ。

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