第二章 売り払われた少女

「こいつはちょっと唄が得意なんです。ほら、歌ってみろ」

 潮の匂いがする風がほんのりと暖かい、南州の果ての島の夕暮れどき。

 沈む太陽に赤々と照らされた家の石塀の前に立つ若い男が、赤染めの着物を着た幼い少女の背中を軽く叩いて命令する。

 若い男は叔父であり、少女は姪である。

 二人の前にはもう一人の中年の男がいて、島ではめったに見ない上等な白いサマースーツに身を包んだ彼は、少女を買いにやって来た人買いだった。

 子供を売り買いするのは良くないことだけれども、学校教育もあってないような南州の島では珍しいことではない。

 白髪の混じった髪を後ろに撫でつけて固めた人買いの男の日に焼けた顔は強面で、まだ十一歳の少女は怖くなって後ずさりする。

 しかし着ている古いシャツと同様にくたびれた顔をした叔父は、姪の気持ちを慮ることなく、少女の肩を掴んで前に押し出す。

(叔父さんの次は、この男の人なの?)

 おそるおそる少女が顔を上げると、人買いの男は腕を組み、値踏みするように見下ろしていた。

 見知らぬ男にじっと見つめられて歌いづらいけれども、少女は仕方がないので叔父に言われたとおりに唄を歌った。


  唄をうたいましょ、はばかりながら

  唄のあやまり、ごめんなされ

  ここの屋敷は、いわいの屋敷

  黄金こがねの花咲く、良か屋敷


 ゆったりと節をとって、高音も低音も自在に響かせて少女は島唄と呼ばれる地元の民謡を歌う。

 あどけない幼さに反して、少女の唄声は巧みで深みがあった。

 島唄を少女に教えたのは、育ての親である少女の祖母である。

 少女の母親は若い頃、この南州の辺境の島での穏やかな人生には満足できずに、派手で刺激のある都会に憧れて西都へ行った。そして街のどこかで出会った男との間に子供を作って島に戻り、その子を実家に預けて再び西都へ去った。

 その母親に置いていかれた子供が少女であり、その後は祖母に可愛がられて島で育った。

 祖母は島唄の優れた歌い手であり、持っていた技術をすべて少女に伝えた。

 島唄を歌うか田畑の手伝いをするしかない島の生活であっても、少女は祖母と二人でそれなりに心地の良い生活を送っていた。

 しかし何十年もの年月を生きていた祖母は、暑さの厳しかった今年の夏に老衰で息を引き取った。

 祖母の死後に少女を引き取った叔父は、あまり働かず博打をして借金ばかり作る生活をしていた。だから少女を真面目に育てるという面倒なことはせず、人買いに売って金に換えることにしたのだ。


  私しゃお前さんに七惚れ八惚れ

  今度惚れたら命がけ

  踊り上手に袖振り見れば

  三味しゃみに踊ゆる綾蝶あやはぶら


 温暖な南の風に乗せて、少女は大きな声量を保ったまま唄の最後まで歌った。

 やることがないから歌っていただけで、唄が特別好きではないものの、嫌いというわけでもなかった。

 人買いの男は腕を組んだまま聞いていて、考え込んでからまず一言を述べた。

「確かに上手いが、今の西都では民謡は流行らない」

 その率直な感想に、叔父の表情が不安げに曇る。

 しかし男は大きく頷くと、今度は前向きな言葉を続けた。

「だからうちの店に来たのなら、まずは流行歌を覚えてもらおう」

 古くから歌い継がれてきた島唄は、人買いの男の趣味ではなかったようである。だが少女の唄声にはある程度の価値を見出したようで、態度がやややわらかくなる。

「じゃあ、良いお値段で買ってもらえますね」

 媚びへつらった笑顔を浮かべて、叔父はしきりに両手を擦り合わせていた。

 男は叔父とは視線を交わさずに屈み、十一歳らしくまだ小さい少女の顔を覗き込んで強引に頭を撫でた。

「まあ、この髪と目の色もめずらしいからな」

 男の太い指が、結ってまとめた少女の金色の髪を梳く。

 見知らぬ父親は遠い異国から来た人間だったのか、少女の髪の色は刈り取る寸前の稲穂のような金色で、瞳は島を囲む海のように青かった。顔立ちも他の島の子供たちとは違う華やかな可愛らしさがあり、どこか浮いた存在だったため同世代の友人はいない。

 また男は、額にしわを寄せて少女をよく観察して、さらなる変更を押し付けた。

「あと名前も地味だから、ここで変えてしまおうか」

 それから男は、勝手に少女の新しい名前を数秒ほどで考える。

「そうだな。阿佐香あさか菫玲すみれという名はどうだろう」

 男は少女から手を離し、自慢げに立ち上がって、適当に思いついた名前を提案した。

 さっそく叔父は新しい名前を使って、少女に話しかける。

「菫玲……。すごく良い名前だ。なぁ、菫玲」

 名前を与えられるということは、奪われることでもある。

 だが元々の自分の名前にそう深い愛着があったわけでもない少女は、適当に頷いた。

「うん。いいよ。菫玲でも」

 冷たく計算高い目をした男のことを、少女は好きにはなれない。

 しかし臆病で怠け者の叔父はそれ以上に嫌いだったので、少女は文句を言わずに人買いの男について行くことにする。

 自分を大事に育ててくれた祖母が死んだ今、少女が島に残る理由はなかった。

「それじゃまあ、払えるのはこれくらいだな」

 男はスーツの内ポケットから財布を取り出し、紙幣を何枚か叔父に渡した。

「ありがとうございます。助かります」

 その金額は想定よりも高いものであったらしく、叔父はへこへこと頭をさげて喜んでいる。

 少女は叔父のそうした卑しさを軽蔑していたので、もう会うことはないと思うと心がすっきりもした。

「もうそろそろ、船が出る時間だな」

 左手につけた腕時計を見て、男は少女と叔父の二人に別れを済ませるように言った。

 血のつながりがあってもお互いに情の薄い二人は形式的に言葉を交わして、手を握ることも涙を流すこともない。

 少女は夕日が叔父を照らし、不規則に組まれた石塀に孤独な影を作るのをぼんやりと見ていた。

 だが男が少女の手を引き、港へ行こうと背を向けたところで、叔父は唐突な大声で呼びかけた。

「あの、そいつに優しくしてやってくださいね」

 叔父は最後の最後に、ほんの少しだけの思い遣りと後悔を見せていた。

 しかしあまりにも遅く、ささやすぎるその配慮では、少女が叔父が見直すことはなかった。

 男の方は叔父の真心をそう真剣に受け取らず、足を止め振り返って笑った。

「安心しろ。俺は女に優しいし、手を出すなら幼い子供よりも色気のある人妻だ」

 一人で自分の言葉を面白がっている男の声が、澄んだ秋の空に響き渡る。

 あとはもう、人買いの男が立ち止まることはなかった。

 稲の刈り取りが終わった田畑に挟まれ、ゆったりとした下り坂で日が沈む海まで続く農道の真ん中を、少女は男に連れられて歩いていく。

(あの海の向こうに、私はこの人と二人で行く)

 稲の束をまとめて干した稲架掛はさがけが田んぼに並んでいるのを横目に、少女は祖母から叔父に持ち主が変わった赤瓦の平屋の家を後にした。

 それから菫玲という名前になった少女は、人買いの男と二人で連絡船に乗って島を出た。

 まず南州の中心地にある本土の港町へ向かい、そこで大きな船に乗り換えて移動して西都に着く。

 裏社会とも関わりがあるらしい人買いの男は西都では辰井と名乗っていて、キャバレーと呼ばれる種類の舞台付きの飲食店に勤めていた。

 そこには歌って踊ったり男性の相手をしたりする女たちがいて、辰井は彼女らの管理をすることを仕事にしていた。

 菫玲は都市の歓楽街にある店で働く彼の下で、まずは花形歌手の前座として同じ年頃の少女たちと歌い始めた。

 しかし意外と、辰井という男が菫玲の近くにいた時間は短かった。

 なぜなら辰井は裏社会の権力者の妻になった女と密通していて、あるときその関係が明るみになって相手と二人一緒に殺されたからだ。

 辰井が殺された後は、別の男が菫玲の面倒を見る。

 だがその変化は小さなもので、誰の下で働いていたとしても、菫玲は歌って生きていた。



 叔父に売り飛ばされてから約八年。

 背が伸びてハイヒールを履けば誰にも見下されなくなった十九歳になっても、菫玲は舞台で歌い続けていた。

 幼いころと違うのは、菫玲はもはや前座に出てくる可愛らしい少女のうちの一人ではなく、大勢の踊り子を引き連れて堂々と歌う花形歌手であるということである。

 夜でも昼のように明るい、ナイトクラブやバーが立ち並ぶ西都の歓楽街の中でも、一際ネオンライトが鮮やかに光り輝くキャバレー「月のかげ」はホリゾン・ブルーの塗装が目を引く大きな建物で、薄暗く洗練された店内は客が数百人は座ることができる。

 常に完璧に磨かれた銀色のテーブルの上には、舶来の果実酒が注がれたグラスや冷肉が盛り付けられた皿が並ぶ。テーブルを取り囲むように置かれた青いベロアのソファには、上品なスーツを着た紳士たちが座って、舞台を見ながら歓談していた。

 その閉じられた世界にいる人々の関心をすべて集めているのが、今はまだ金色のオペラカーテンの奥に身を隠している菫玲だ。

 菫玲は遠い異国の女神を模した、ドレープの美しい真っ白なロングドレスを着て、耳の下あたりで切り揃えた金色の髪に真珠の飾りをつけている。

 そして両側に大きな羽根扇を持った踊り子の少女を伴い、舞台の中央に置かれた階段状の台の上で幕が上がるのを菫玲は待っていた。

「それではお待たせいたしました。当店で一番の、いや皇国で一番の歌姫。至高の芸術を体現した美女。阿佐香菫玲の登場でございます」

 タキシードを着た司会の男が仰々しく前置きを述べると、菫玲を待っていた客の男たちの拍手が鳴り響いた。

 やがて拍手の音に被せるようにオーケストラボックスから哀愁の漂うサックスの調べが流れ、ゆっくりとオペラカーテンが上がっていく。

 菫玲は深く深呼吸をして、目をつむってしまいそうなほどにまぶしい照明を浴びた。

 それから音楽の拍子を少しも逃さずに、マイクを使わない生の声で歌い始める。



  恋をすることについて

  すべてを言葉にできる人はいるかしら

  恋に夢中になったり、計算ずくでいたり

  みんなそれぞれ違うことを言うわ



 ゆっくりと階段を下り、長い腕と指を使って舞いながら降りれば、チュール生地のドレスを着た踊り子たちが操られるように羽根扇を揺らして移動する。

 菫玲の声は朗々と響き、客席に座る男たちの酒を飲む手を止め、話す言葉を途切れさせた。

(そう、私はこの夜の街の一番のスタアだ)

 舞台上で歌手という仕事についてみても、菫玲は歌うことが好きでも嫌いでもない。

 しかし祖母に教えてもらった島唄から流行歌に歌う曲が変わっても、菫玲の巧みで情感のある歌声は人の心を魅了し続けた。

 その結果、菫玲は店の隣にある映画館で上映されている外つ国の映画の主人公のように、娯楽興業ショービジネスの世界で華やかに出世する人生を送ることになった。

 菫玲が歌えば客席は埋まり、菫玲がささやけば男たちはひざまずく。

 田舎では気味悪がられていた金色の髪に青い瞳も、西都の歓楽街では蠱惑的なものとして好意的に認められた。


  楽しい恋に、悲しい恋

  穏やかな恋に、激しい恋

  正しい恋に、間違っている恋

  どの恋もすべて美しいの


 日焼けする機会が減って本来の白さを取り戻した顔に白粉を塗り、紅を挿したくちびるで艶やかに微笑み、恋の歌を歌う。

 すべてを輝かせる照明の中で昔の名前を忘れて、菫玲は踊り子が下がった舞台でただ一人で客の男たちの視線を受け止めていた。



 何事もなく舞台を終えると、菫玲は楽屋に戻り、衣装係の手を借りて衣装を脱いで私服に着替えた。

 ライト付きの鏡台がまぶしい個室の楽屋は、公演中にいつも誰かが片付けてくれているため整然としている。部屋の隅に置かれた真っ白な天板のテーブルには、色とりどりの包装紙に包まれた贈り物の箱がいくつも載っていた。

 しかし終演後すぐに用事がある菫玲は、箱を一つも手に取らない。

(だってお菓子とかの食べ物は分けて配ってもらってあるし、化粧品やアクセサリーは急いで開けなくても困らないから)

 黒いシルクのカシュクール・ワンピースを身にまとい、ミンクの毛皮に縁取られた金色のイヴニング・ケープを羽織って、つま先の尖ったハイヒールを履く。

 舞台を降りても菫玲は花形女優の風格があり、照明の魔法は解けることなく星の輝きを与え続けてくれていた。

 身支度を整えてビーズ刺繍付きのハンドバッグを手にした菫玲は、自分の楽屋から廊下に出た。

 そして途中の開きっぱなしのドアから顔を出して、大部屋にいる前座の歌手や踊り子たちに声をかける。

「それじゃ、おつかれさま」

 大部屋の楽屋の中はがやがやと騒がしかったが、菫玲が仕事終わりの挨拶をすると、女の子たちは顔を洗ったり髪を梳いたりする手を止めて返事をした。

「おつかれさまです。菫玲さん」

 ばらばらだけれどもまとまりのある、おおむね菫玲より若い女の子たちの可愛らしい声が響く。

 気さくな雰囲気を装って手を振ると、菫玲は大部屋の入り口から顔を引っ込めて、足早に廊下を抜けた。

 最後に守衛の男性にも笑顔で挨拶をして、鉄の扉を押し開けて劇場を後にする。

 田舎なら蟋蟀こおろぎの鳴き声が聞こえるであろう、神無月の中頃の外の空気はほどよく冷たく、菫玲は心地の良い夜風に火照った身体を預けて歩いた。

 終夜営業している酒場やホテルの、色とりどりの灯りに照らされた小路とは反対側の裏道に人影は少なく、姿の見えない人々の喧騒だけが遠くに聞こえた。

 その裏道から大通りの方に進んだ、車の停めやすい一画に、菫玲を待っている人はいる。

(あの車は色が明るいから、夜でもすぐに探し出せる)

 道端に駐車された、遠い異国の砂漠の色に似せたサンド・ベージュの外国車を見つけた菫玲は、迷わずまっすぐに助手席側へと進んで扉を開けて乗り込む。

 運転席には洒落たツイードのスーツを着た眉目秀麗な青年が乗っていて、菫玲の名前を慣れた調子で呼んだ。

「菫玲」

 青年はそのまま流れるように腕を伸ばし、菫玲の身体を寄せてくちびるに軽い口づけをする。

 黒い前髪を大人の男らしく後ろに流して固めていても、澄んだ瞳にはまだ青臭さが見え隠れするこの青年が、菫玲の恋人の岩峰いわみね瑶平ようへいである。

 店で働く女性たちの中には客の男と不本意な関係を持つ者もいるが、店で一番の人気がある菫玲は数え切れないほどの選択肢の中から自由に恋人を選ぶことができた。

 瑶平は皇国でも指折りに裕福な財閥の一族に生まれた青年であり、若くて、顔が良くて、金を持っていて、性格もそれなりだったので、菫玲は彼の求愛を受け入れ恋仲になったのだ。

(良い条件が揃っている人を選んだんだから、きっと間違いはないと思う)

 菫玲は好意の証に、自分からも瑶平に口づけをした。

 手入れの行き届いた狭い車内では、自分がつけている香水の匂いがより甘く感じられて、菫玲はより恋人同士らしい気分になる。

 しかし付き合いたてというわけでもない二人の口づけはまずはあっさりと終わって、菫玲はすぐに助手席に座り直した。

 瑶平もハンドルを握り、ギアを入れてアクセルを踏み込み車を発進させる。

「今日は顔を出さなきゃいけない集まりがあったんだけど、途中で抜け出してきた」

 裏道から大通りに出て、ガス燈に照らされた自動車の連なりに流線型の外国車を走らせながら、瑶平は恋人との時間のためのサボタージュを冗談めかして自慢した。

 仕事があってもなくても、たいていの日は瑶平が菫玲を迎えに来て、どこかのホテルに連れて行ってくれるのだ。

「うん。いつもありがとう」

 菫玲は車を運転する瑶平の目鼻立ちの整った横顔の向こうを流れる、華やかな看板で飾られた赤煉瓦造りのビル郡を見つめてお礼を言う。

 洋服屋に宝飾店、西洋食堂に珈琲館。表通りの店はもう閉店している時間だが、ショーウィンドウには鮮やかな色彩のセットアップを着たマネキンや、蝋細工でできたグリルチキンの見本などが並んでいるのが薄闇の中に浮かび上がっている。

 西都には、南州の田舎の島で目にする数とは比べ物にならないほどの人と建物と商品があり、菫玲はそれらを消費する存在であると同時に、自らも誰かに消費される存在でもある。

 そしてまた、菫玲を消費する誰かの一人である瑶平も、社会の歯車として消耗していた。

「いいんだ。どうせ会社絡みの人に会ってたって、兄貴たちに嫌味を言われるだけだから。お前は軍人としてお国のために死ぬんじゃなかったのかって」

 安全運転で自嘲して、瑶平は赤信号で車を止める。

 財閥の総帥を祖父に持つ五人兄弟の末っ子の瑶平は、菫玲から見れば十分な高学歴なのだが、家業に携わって成功している兄たちに比べると、商売のために頭を使うことがそれほど得意ではなかったらしい。兄と比べられることを嫌った瑶平は、父親に反発する形で軍隊に入った。

 しかし実際に北方の帝国との大戦に従軍し、大勢の戦友の死を目撃した瑶平は、軍人として生き続けることができずに戦場から家に帰った。

 挫折して戻ってきた息子に、父親は世間体には困らない役職を与えた。だが兄たちは弟の無様な変節を忘れず、ことあるごとに馬鹿にしているという話である。

 そうした瑶平の家での格好良くはない立場を、菫玲は恋人としてある程度はわかっていた。とはいえ少しは理解しているからといって、かける言葉がすぐに思い浮かぶというわけではない。

(この話題は、どんな反応を返せば良いんだろうな)

 菫玲は黙ったまま、車のダッシュボードに視線を落とした。

 戦争のことも大企業のこともわからない菫玲は、結局そのまま何も言うことはできない。

 しかし青信号に変わった交差点を左折すれば、目的地のホテルはすぐそこだったので間が持たないということはなかった。

「思ってたよりも、道が空いてて良かったね」

 スピードを落としてエントランスに車を寄せる瑶平に、菫玲はどうでも良い話題で微笑みかけた。

 テラコッタで仕上げられた真っ白な外壁にブロンズのレリーフで名前が掲げられたホテルは、地上五階建ての立派な造りの新築で、数多ある部屋の窓からは黄金色の光がこぼれている。

「まあ、急ぐ理由もないけどな」

 車を停めた瑶平は菫玲と二人で車を降りて、車の鍵をベルボーイに預けて駐車場に運ばせた。

 それからドアマンが開く金縁の分厚いガラスの扉を通れば、金色のシャンデリアが輝く直線的な幾何学模様が描かれた天井と、見事な丸いモザイクがはめ込まれた黒大理石の床の対比が美しいロビーがあり、落ち着いて洗練された高級ホテルの佇まいが二人を迎える。

 しかし夜遅くの人の少ないロビーが日常に組み込まれている菫玲は、必要以上には感動はしなかった。

「二名で予約している、岩峰だ」

「ご予約の、岩峰様でございますね。お待ちしておりました」

 瑶平がフロントでチェックインを済ませて、受付の男性から鍵をもらう。

 運んでもらう荷物もない二人は、最新式のエレベーターで最上階に向かい、ひっそりと薄暗い廊下でいつもの部屋の番号を探した。

(壁の向こうには人が大勢いるはずなのに、どうしてホテルの廊下ってこんなに静かなんだろう)

 恋人同士らしく瑶平と腕を組みつつも、静けさを壊さぬように黙り、菫玲はやわらかい絨毯の上を歩く。

 一番ではないけれども、二番目か三番目に上等な五〇六号室は廊下の奥にある客室で、シリンダー錠付きの黒いドアを開けた先には、西都の夜景がよく見えるように照明を落とした部屋が待っていた。

 光沢のあるタッセルで纏められた深紅のカーテンのむこうには、外国の写真ほどではないにしろ、立派に暗闇を照らす街の明かりが広がっている。

 数日前も見たその光景を見下ろし、菫玲は真っ白なシーツがかかったほどよい硬さのダブルベッドに腰掛ける。

「ホテルって結局他人のものだから良いよね。黒革のソファも色ガラスの電燈も全部、自分のものじゃないから安心できる」

「それはちょっと、俺もわかるな」

 上着を脱いでハンガーに掛けながら、瑶平が頷く。

「ホテルで働いている人は皆親切だけど、使用人と違って全員他人だから気楽で落ち着く」

 瑶平の所見は菫玲と似ているようで少々ずれていて、金持ちの息子らしい無責任さがあった。

 値の張る物は手に入れずに眺めていた方が良いという、元は貧民だった菫玲の気質は瑶平のそれとは違う。

(自分と関係のないものに安らぎがある、という点では一緒みたいだけどね)

 菫玲はケープを脱いでコート掛けの近くに立っている瑶平に渡し、自分はベッドサイドの引き出しを開けてルームサービスのメニューを開いた。

「お腹空いたから、サンドイッチとか頼んでも良い?」

 重厚な青い布張りの表紙に挟まれた分厚い高級紙のメニューをめくり、菫玲は適当に気分で食べたいものを決める。

 菫玲の要望を聞くと、瑶平はすぐに電話台から受話器を取って、内線のダイヤルを回してくれた。

「じゃあ、フルーツサンドにするか。あとはワインとチーズも頼んでおこう」

「ありがとう。私、ここの生クリームの味が好きなんだよね」

 金額をまったく気にしていない様子で受付の応答を待つ瑶平の横顔に、菫玲はお礼を言う。

 それから瑶平は滞りなく注文を伝えて、軽い返事で電話を終えた。

「あと十五分くらいで、届けに来てくれるそうだ」

 受話器を置いた瑶平が、無地のワイシャツを着た広い背中で振り返る。

「じゃあそれまでは、お行儀よくしてないといけないね」

 菫玲はエナメルのハイヒールを床に脱ぎ捨て、ベッドの上で膝を抱えて座っていた。白地のストッキングを履いた脚を無意識のうちに指でなぞりながら、菫玲は瑶平の視線を青い瞳で捉える。

「でも本当にいいの? 瑶平は私のために、随分お金を使ってくれているけど」

 半分冗談の半分本気で心配して、菫玲は瑶平の金遣いの荒さを指摘した。

 すると瑶平はベッドの方に来て菫玲の横に座り、妙な慎重さで菫玲の短く切り揃えた金髪を撫でた。

「大丈夫だ。俺は兄貴たちにとやかく言われても、父さんには怒られないようにやっている」

 瑶平は投げやりな態度をとっているけれども、本人が悪ぶるほどには本当にすべてを投げ出しているわけではない。

 おそらく、瑶平の父は女遊びに少しは理解のある人物であり、瑶平も斜に構えつつも良家の子息として常識の範囲は外れずに生きているのであろう。

 瑶平は菫玲の肩をそっと掴み、優しく口づけをしてささやいた。

「それに俺の人生が空っぽじゃないって思えるのは、君がそばにいるときだけだからな」

 恋人が怒ったり泣いたりする姿を、菫玲は見たことがなかったが、愛をささやく表情には時折かすかな暗さがあった。

 日々の暮らしに決して困ることのない、最上級に裕福な身の上に生まれた瑶平の目に陰が差すのは、彼がかつて望んで栄光を求めた戦場で、目に見えない傷を負ったからである。

 大勢の戦友の死を背負い、ほんのわずかな運命の違いで生き残ってきた瑶平が、命の意味を見失っている理由を、菫玲はただの情報としてしか知らない。

 だから菫玲は、問題の本質には触れずに、無知を強調した微笑みでごまかした。

「大切にしてもらえて、すごく嬉しい。でも私はもしかすると、そこまでちゃんと瑶平を愛せてないかもしれないよ」

 膝を抱えたまま首を傾げて、貢がれてはいても純真な少女らしさが残っているふりをする。

 その本心を理解しているのかいないのか、瑶平は救いを求めるように腕を伸ばして菫玲の肩を寄せた。

「そういう正直なところがあるから、俺は君が好きだ」

 くすぐったくなる腕の温もりで、薄手のドレスをまとった菫玲の身体を包み、瑶平は低い声でささやく。

「人間はいつ死ぬかわからないから、俺はできるかぎりの時間を大切な人の隣で過ごしたい」

 そのすがりつくような響きをもった瑶平の言葉を、菫玲はこれまでに何度も聞いていた。

 瑶平が刹那的な恋に身を置きたがるのは、おそらくかつては穏やかで末永く続く幸せを求めていたことの裏返しである。

 しかし身内に売られたことはあっても、死の危険に直面したことがない菫玲は、瑶平とは逆の不安を抱えていた。

(明日死ぬかもしれないことよりも、ずっと先の未来にしか死ねないことの方が、私は心配なんだけど)

 今手にしているものすべてを失うほどに老いても、死なずに生き続けなければならない可能性が時折、菫玲の心に重くのしかかる。

 昔から菫玲は、歌うと人からお菓子やお小遣いがもらえた。菫玲は特別に可愛くて歌が上手いから、歌うだけで良かった。

 しかし他の少女たちは菫玲と同じではないようで、彼女たちは何かを引き換えにしなければお菓子をもらえなかった。

 そして少女から大人になった今の菫玲は素敵な恋人もできて、希少な宝飾品を贈られ、高級ホテルに連れて行ってもらえるようにもなった。

 ではさらに年齢を重ねて、老婆と呼ばれる存在になったらどうなるのかを、菫玲はたびたび想像する。

 今は瑶平が側にいてくれているけれども、その幸運がいつまで続くかはわからない。

(できる限り一緒にいてくれるのはいいけど、そんなに長く二人でいたら飽きるのも早くならないかな)

 肩を寄せる瑶平の身体に頬を寄せ、菫玲は顔を上げればそこにあった恋人のくちびるに口づけをした。瑶平のくちびるは温もりがあるけれども、口紅を挿した自分のくちびるは冷たい気がする。

 しかし瑶平はその口づけに情熱を見出してくれているらしく、菫玲の身体を一層きつく抱いてさらに長い口づけをした。

 暗い橙色の照明が、ベッドの上で身体を寄せ合う二人を照らす。

 十数分後にはルームサービスの食事を受け取って食べなければならないので、瑶平はそれ以上はまだ菫玲に何もしない。

 今日の菫玲は、注文して届くキウイやイチゴの断面が綺麗なフルーツサンドを、飽きずに美味しく食べることができる。

 しかし明日も明後日も、飽きないでいられるかどうかはわからなかった。



 ホテルで十分に瑶平との時間を過ごした菫玲が、車で送ってもらって自宅のアパートに帰ったのは、日が高くのぼった正午前だった。

 菫玲の住んでいるのは真新しいコンクリート作りの集合住宅の三階で、瑶平が借りて菫玲に貸してくれている家賃の高い部屋である。

 鉄製の手すりが当世風な外階段を上りながら、菫玲はハンドバッグから本革のキーケースに入った鍵を取り出した。

 冬が近づく秋の空は高く澄んでいるけれども、アパートの階段にいる今は、建物の隙間からしかその青色は見えない。

(部屋は部屋で、窓の外がなかなか見えないんだけど)

 ひんやりと暗い踊り場を足早に後にして、花柄のドアプレートで飾った自分の部屋のドアの鍵を開けて中に入る。

 大理石に似せた床が綺麗な玄関でまず待っているのは、傘立てにむりやり押し込まれた大量の傘と靴箱からあふれ出た靴で、菫玲は苦労して足の踏み場を探し、履いていたハイヒールを脱いだ。

 時折人を雇って家事を任せている菫玲の家は、衛生的に問題があるわけではないのだが、とにかく物が多く雑然としている。

 ガスも水道も揃った時代の最先端のキッチンのガラス戸には、簡単に取り出せないほどみっちりと食器や保存食が詰まり、バルコニー付きの広々としているはずの洋室は、様々な服の入った大小の衣装ケースがいくつも置かれ、狭く日当たりが悪くなっていた。

 だから自宅というものは落ち着て過ごせる場所のはずなのだが、菫玲にとっては別にそう帰りたい場所ではない。

(贈り物をたくさんもらえば当然、物は増えるよね)

 金銀の容器がきらめく、使いかけの化粧品が積み重なったドレッサーを前にした椅子の上に、菫玲はハンドバッグを置いた。

 そして日光が差さない部屋の寒さにケープを着たまま、ソファーベッドに寝そべる。

 ソファーベッドの上には何種類ものクッションが転がっていて、菫玲は隙間に埋もれる形になった。

 大きくやわらかなクッションをぬいぐるみのように抱えてみても、その温もりは菫玲に安心感を与えない。

 たくさんの物に囲まれていても、いや囲まれているからこそ、菫玲は漠然とした不安の中にいた。

(皆がいろんなものをくれるのは、私が歌が上手くて美人だから)

 落ち着かない空間から逃れるように目を閉じて、菫玲は部屋に物が多い理由について考えた。

(それで私が歌が上手いのは、島で一番の歌い手だったお祖母ちゃんが島唄を教えてくれたからで、私が美人なのは両親が多分美男美女だったから。貰い物ではないものを、私は何も持っていない)

 菫玲は遠い過去をさかのぼり、自分の豊かさと貧しさを再確認する。

 夜の世界に属する職業に就いていても、菫玲には搾取されているという感覚はない。

 技能も美貌も持っている菫玲は、異性に尽くされることはあっても、傷つけられたことはほとんどなかった。

 だがもしも菫玲から歌や美しさが失われたのならば、酷い目にあわないとも限らない。

(お祖母ちゃんは昔は美人だったと評判で、年のわりには綺麗にしていたけど、私が知る限りは貧しい暮らしだったし。島を出たまま帰らなかった母親も、結局どうなったのかわからない)

 自分の将来を重ねることができる先人の人生は明るくはなく、菫玲はクッションに頭を預けたままため息をついた。

 革命前の皇国では遊女は店に死ぬまで管理されて長生きしなかったらしいが、近代化が進んだ今はそこまで過酷な時代ではない。

 だから菫玲も早死にすることはなさそうなのだが、逆に言えばそれは若くはなくなった未来もどうにか生きていなければならないということでもあった。

 老いて金色の髪が白くなり、化粧でしわを隠すようになる、菫玲が特別ではなくなったそのときには、華やかな舞台も金持ちの恋人の愛も何も残っていないかもしれない。

 努力して得たものが何もない菫玲は、今は花形歌手として自信を持ってはいても、与えられたものが失われる将来には何も期待できなかった。

(でもだからこそ、幸せな今日は楽しみたい)

 何とか前向きな思考に戻りつつ、菫玲は着替えずソファの上で寝返りを打って眠気に身を任せる。

 菫玲は二度寝をしながら、眠りたい時に眠れる幸せも十分に楽しむべきだと屁理屈をこねていた。

 玄関の呼び鈴が鳴ったのは、菫玲が思い出すことのない夢を見始めていたそのときだった。



(仕事の時間にはまだ遅いのに、誰だろう)

 菫玲はソファから起き上がり、手ぐしで髪を直しながら、壁にかけた部屋の時計を確認する。

 クロームメッキの文字盤を回る時計の針はまだ正午を過ぎたところを指していて、出勤時間は遠かった。

 部屋中を占拠している衣装ケースの間をすり抜けて、菫玲は洋室から玄関の方へ出ていく。

「はい、どちらさま?」

 呼びかけと同時に、ドアを開ける。

 菫玲が外を覗いてみると、玄関前には見知らぬ背の高い青年が立っていた。

 仕立ての良い茶色のピンストライプスーツを着た青年は菫玲より一回りは年上に見えて、どことなく自尊心が高そうな微笑みを浮かべている。

 後ろで束ねた黒髪は若々しく艶があり、色黒で彫りの深い顔の造形は一度見れば記憶に残るはずの美形である。

 だからその顔に見覚えがなかった菫玲は、青年が家に来た理由の検討もつけられずに不思議に思った。

(一体、この人は何なんだろう)

 青年に名前を訊ねようとして、菫玲は口を開きかける。

 しかし菫玲が問いかける前に、青年はにこやかに挨拶をした。

「こんにちは。阿佐香、菫玲様。突然のご訪問、申し訳ありません」

 青年は丁寧な言葉遣いで菫玲の姓と名を呼んで、うやうやしく会釈をする。そしてスーツの胸ポケットから革製の名刺入れを手にして、上質紙を使った名刺を差し出した。

「僕は神祇省で典客官という役職を務めております、津雲つぐも由貴斗ゆきとと申します」

「神祇省の、典客官?」

 由貴斗と名乗る青年が語る聞き慣れない肩書に、菫玲は眉をひそめる。

 神祇省が皇国に住む神々に関わる業務に携わっている省庁であることくらいは、菫玲も常識としてわかっている。

 しかし菫玲はそう信心深い方ではないので、現実に神々と国家の間にどのような関係があるのか、詳しくは知らないし興味もなかった。

 本物らしく立派な名刺を受け取っても敬意を払わない菫玲に、青年は余裕のある態度を崩さずに微笑んだ。

「すべてをご説明するには少々お時間がかかりますが、この後のご予定は大丈夫ですか?」

 青年は菫玲の背後を見やって、家に上がって話をしたそうにする。

 菫玲は正直に言うと玄関でのやりとりですべてを終わらせたかったのだが、仕方がないので青年を中に通した。

「じゃあ、こちらにどうぞ」

 菫玲は扉を大きく開いて、青年を手招きした。

「ではお言葉に甘えて、お邪魔いたします」

 青年はあまり遠慮はせずに敷居をまたぎ、物が散乱している玄関で靴を脱ぐ。

 玄関と同様に、収納に物が収まり切っていないキッチンや廊下を興味深げに見つめて、青年は菫玲の案内に従った。

(人が来るとわかっていたら、私だってもう少しごまかしておいたのに)

 普段は自分に自信があり、恥ずかしがる機会が少ない菫玲であっても、片付いていない自分の家を見られるのは羞恥心を刺激される。

 客人の顔に目隠し用のずた袋を被せたい衝動に駆られながらも、菫玲は郵便物が重なったままになっているダイニングテーブルの下から揃いの木製の椅子を引き出し、青年と向かい合って座った。

 閉まりきらないチェストや、物を引っ掛られて本来の用途を忘れされている電気スタンドに囲まれた洋室の中であっても、青年は宮殿にいるかのように優雅に姿勢良く着席していた。

「それで、あなたが私の家に来たのはなぜ?」

 茶や菓子でもてなすという気遣いもなく、菫玲は青年に用件を訊ねた。あまり青年に長居をしてほしくない菫玲は、前置きもしない。

 しかし青年は菫玲に急かされても、自分の段取りで説明を始めた。

「先程お伝えしたように神祇省の典客官である僕は、御饌都之宇迦尊みけつのうかのみこと様の神殿である甘醒殿かんせいでんで、神々の客人等をお迎えするお仕事をさせていただいております」

 青年はまず自分が何者であるかを、菫玲にわからせるために詳しく話す。

 神々の名前をほとんど知らない菫玲は、青年が言っていることのすべては理解できなかったが、青年が重要な役割を果たしていることは察した。

(お客さんを迎えに来るのが仕事ということは、私が神様を祀る儀式に歌い手として招かれたとか、そういう話なのかな)

 菫玲は、青年の仕事と自分の接点を予測した。

 しかし青年が涼しい顔で話し始めた本題は、菫玲の想像を何重にも超えるものだった。

「今日は菫玲様が宇迦尊様の来季の花嫁に選ばれ、甘醒殿にご招待されたことをお伝えするために伺いました」

 青年は長いまつげに縁取られた形の良い瞳で、菫玲を面白がるように捉えていた。

 唐突に見知らぬ神との縁談について聞かされた菫玲は素っ頓狂な声を上げ、きっと相手に対して失礼になるのであろう態度をとった。

「はあ? 私が神様の花嫁って、どういうこと?」

 菫玲は歌手であるので、儀式か何かのために歌を奉納しろという話ならまだ、すぐに受け入れられる。

 しかし自分が花嫁として神に嫁ぐというのは、菫玲の理解の範疇を完全に超えていた。

(いやいやだって、おかしいでしょ。神様のことなんか普段から全然考えてなくて、お賽銭だってめったに投げない私が、神様と結婚なんて)

 菫玲も皇国に生まれた者であるので、自分たちの生活の延長線上に神々がいること自体は疑ってはいない。

 しかし本当に自分の人生に神々の意志が関わっているのだと考えたことは一度もなかったため、突然の不可解な縁談に混乱する。

 理解が追いつかない菫玲に対して、青年は落ち着かせるどころか、さらに動揺させることを言った。

「それも宇迦尊様と結ばれるのは、ただの花嫁ではありません。あなたはその命と引き換えに、神の肉を食すことができる『神喰いの花嫁』に選ばれたのです」

 青年が朗らかな声に似合わない、陰惨な言葉を冷たい部屋に並べる。

 少女が神の肉を食べる昔話を祖母から聞かされた記憶があった菫玲は、青年が使う「神喰いの花嫁」という言葉の意味は何となくはわかった。

 食べられることで再生する神が現実にいるのなら、神を食べて死ぬことになる少女もいるだろう。

 だが昔話は昔話であり、自分が今生きている近代的で異国の影響が強い生活は、神々のいる世界から遠く離れているように思える。

「でも私は夜の店の舞台で歌う歌手で恋人もいるし、神様に嫁げるほど清らかで純真じゃないから……」

 菫玲は清純とは言えない自分の職業を盾にして、青年の話す不可解な案件からおそるおそる距離を置こうとした。

 そうした菫玲の努力を軽々と交わし、青年は商品に自信がある営業担当者セールスマンのように、満面の笑みを浮かべた。

「ご安心ください。神喰いの花嫁を定めることができるのは神祇省の卜部の卜占の結果だけであって、職業や年齢、出自などは何も関係ありません」

 そして偉大な神々の前ではか弱い人間は皆平等なのだと自慢気に話した後、青年はまた別の倫理を持ち出して付け加えた。

「もちろん我が国は人権を尊重する近代国家ですから、菫玲様がお命を失いたくなかったり、すでに将来を決めた大切なお相手がいらっしゃるのであれば、宇迦尊様とのご縁をご辞退することは可能です」

 机の上に置いた手を軽く組み、青年は穏やかだが妙な力のある瞳で菫玲を捉える。

 菫玲は青年の言葉を頭の中で繰り返し、自分が今直面している情況を何とか飲み込もうとした。

(要するに私は、神様を信じて死ぬか、自分のために生きるか選べられるってことでいいの?)

 聞かされたことを単純化して、考える必要のあることを考える。

 信心深さのない菫玲は、神の伴侶になって死ぬことが、それほど幸せだとは思わなかった。

 しかし世界中の何よりも美味しいらしい神の肉を食べることができる機会を、貴重な贈り物の一つだと捉えるのであれば、断ってしまうのももったいない気がする。

(こんなこと、急に言われたってわかんないし)

 面倒な話を持ち込まれて、菫玲は不機嫌になった。何が何でも死ねと命令されるのなら悩まなくて済むが、自分で考えて決めろいうのは何かを試されているようで困る。

 だから菫玲は今ここで考えをまとめることを諦め、慎重に口を開いた。

「……少し、考えさせてもらえる?」

 反応を待つ視線を感じつつ、菫玲は目を伏せて答えを先延ばしにする。

 青年の話だけで雰囲気に流されて選ぶのは、しっくりこない気がしていた。

 結論がすぐに出ないことは想定の範囲だったらしく、青年は嫌な顔はまったくせずに頷いた。

「かしこまりました。また一週間後に伺います。もしも早めにお気持ちが決まったのなら、先程お渡しした名刺に記載されている連絡先にご一報お願いいたします」

 丁寧な受け答えを残して立ち上がり、青年は何が入ってるかわからない木箱で溢れかえった廊下から玄関の靴の山を通って去る。

「それでは、お忙しい中、失礼いたしました」

「はあ。じゃあ、また」

 来たときと同じように姿勢良く出ていく青年を見送り、菫玲はドアを閉めて鍵をかける。

 それから菫玲はキッチンへ行き、誰にもらったのかを忘れた果物の缶詰の詰め合わせの箱を棚から引っ張り出した。

 桃に、ミカンに、パイナップルに。

 文明が進んだ近代世界を生きる菫玲は、旬の季節に関係なく選ばず様々な果物を食べることができる。

 ただし缶詰の中の果物は、どれもシロップにとっぷりと浸かって必要以上に甘い。

(その宇迦なんとか様っていう神様は、やっぱりこの桃の缶詰よりも美味しいんだろうか)

 そんなことを考えかけながら、菫玲は選んで開けた黄桃の缶詰を平らげたが、結局は眠くなってソファで二度寝の続きに戻った。



 神祇省の役人の青年が突然訪ねてきた日から二日後の、店の仕事がない休日の朝。

 菫玲はアパートの階段を下りたエントランスで、瑶平の迎えを待っていた。

 その日は元々、休みの日は恋人らしく二人で海の方に出かけようと約束をしていたのだ。

(天気は悪いけど、雨は降らない予報だったから大丈夫だよね)

 襟や袖が毛皮で縁取られた珈琲色の厚手のツーピースに黒い帽子クローシュを被り、菫玲は立ち並ぶアパートや商店の隙間から見える曇り空を見上げた。

 秋のひつじ雲というには分厚く波打った雲が、白く空を覆う様子は冬が近いことを感じさせ、実際日差しがないため肌寒い。

 通りを走っていく他の自動車をしばらく見つめていると、サンド・ベージュの瑶平の車が軽快なエンジン音と共にやって来て、路肩に寄せて止まる。

 ドアを開けて菫玲が乗り込むと、白いスポーツジャケットで休日らしく装った瑶平は軽く菫玲の頬に口づけをして、すぐに運転に戻った。

「今日はめずらしく、俺がお前を待たせたな」

「まあ、そこまで待ってないけどね」

 ハンドルを握り直して軽口で挨拶をする瑶平に、菫玲は金髪に映える黒玉ジェットのイヤリングを揺らして微笑んだ。

 瑶平は市街地の脇を通る幹線道路へと車を走らせて、国道の白と黒の案内標識が指し示す海の方角へ行く。

 ほどよく空いている道の車の流れに合わせてギアを上げ、瑶平は視線を前方に向けたまま菫玲に話しかけた。

「君の家に来たらしい神祇省の役人。名刺から調べて確認してみたが、本物だったよ」

 瑶平がまず菫玲に伝えたのは、先日相談した神祇省から来た青年についての情報である。

 自分の身に何が起きているのか整理するために、菫玲は瑶平に青年が残した名刺を見せて相談していた。

「やっぱり、偽物ではない気がしてたけど」

 菫玲は青年が本物の役人であることは信じていたが、彼と話していると騙されているような感覚にもなった。

 だからとりあえずまず瑶平に話してみたのだが、それで何かためになったというわけでもない。

「でも君は、断るつもりなんだよな。その神喰いの花嫁とかいうものになること」

 菫玲が瑶平以外を選ぶ可能性をまったく考慮していない様子で、瑶平は真っ直ぐな道を車に走らせている。

 菫玲は今のところ神の伴侶になるつもりはなかったが、即決できるほどの意志がないことは黙った。

 ふと視線を落として、菫玲は瑶平の車のダッシュボードを見る。

 そこには金色の箔押しで入った文様がお洒落な革のブックカバーがかけられた一冊の文庫本が置かれていて、菫玲は特に考えもなくその本を手に取った。

「瑶平って、本も読むんだ」

「ああ。ちょっと評価されているらしい外国の小説で、本屋に積まれていたから買ったんだ」

 菫玲がぱらぱらと中をめくると、瑶平はそれほど楽しくはなさそうな顔をしてその本を選んだ理由を説明する。

 その様子を菫玲は不思議に思ったが、漢字が多く文字が詰まった活版印刷の頁を見ていると車酔いしそうになるので、素直に読者である瑶平に内容を訊ねた。

「私には読めなさそうだけど、どんなあらすじの本なの?」

 菫玲は絵や写真の多い雑誌ならまだ読めるが、文字しかない本は読めない。

 しかし芸はあっても学のない菫玲と違い教養のある瑶平は、難しそうに見える本の内容もわかりやすくまとめてくれる。

「自分の良心や美徳を守って生きようとする少女がどんどん不幸になって死んで、悪徳に走ることに迷いのない少女の姉が幸せに生きていく話だな。気が滅入るような内容で、正直俺はあまり好きじゃない」

 瑶平は楽しくなさそうな横顔をさらにしかめて、分厚い文庫本のあらすじを端的に説明する。

(まったく好きになれない本を、瑶平はなんで読んでるんだろう)

 気に入らない本を嫌々読む理由は、菫玲には少しもわからなかったが、何かしら褒めるべきところはあるのだろうと思って話を続ける。

「でも外国で評価されているくらいには、面白いんだよね」

「そうだな。面白いことは面白い」

 瑶平は遠い目でどこかを見て、内省的な表情で頷いた。そして菫玲に語ると言うよりは、何かに願うようにつぶやく。

「でも俺は現実が暗いんだから、物語の中くらいは人が死なない明るい話で救われたい」

 言っていることはごく普通のことだったけれども、戦場でたくさんの不幸を見た瑶平の実感のこもったその言葉には切実な響きがあった。

 だが菫玲は瑶平の素直な理屈にはあまり納得できなかったので、ごく気軽に反論を加えた。

「え、だけど自分が救われないなら、誰かが救われる物語を読むのは嫌じゃない? 私だったら、不幸そうな話の方が安心できそうな気がするけど」

 文庫本を閉じてダッシュボードに戻し、菫玲はマスカラで華やかにした目元で瑶平を上目遣いで見つめる。

「不幸な人の話を読んで幸せじゃないのは私だけじゃないんだと思えた方が、きっと気分が良いよね?」

 菫玲自身は今の自分が不幸だと思っているわけではないし、不幸な物語を好むわけではない。しかし菫玲が自然に思う論理では、瑶平とは逆の結論になる。

 あっけらかんと恋人の考えを否定する菫玲に、瑶平はかすかに動揺を見せた。

「菫玲は、そういう考え方をするんだな」

 少々恐れるように菫玲を脇目に見た瑶平はそのまま何も言い返さなかったので、議論は短い一往復で終わった。

 不幸を語ることが救いなのか、幸せを語ることが救いなのか。

 菫玲と瑶平の立場はまったくの逆で、重なるところはなかった。

 他に何か話題を探そうと、菫玲は車窓から、西都の中心部から離れて田園風景になってきた景色を眺めた。

(ここらへんは、島とそう変わらない雰囲気だな)

 洗練された外国車に乗る瑶平と菫玲の二人は、車に見合うように近代風モダンな服装をしていたけれども、走る景色はまだ昔ながらのものである。

 稲刈りも稲架掛けも終え、がらんと殺風景な田んぼをガラス越しに見つめる。

 そこで菫玲は、瑶平の過去に関する一つの疑問が頭に浮かんだ。

 それは普段なら、口にはせずに飲み込んでいた問いだった。しかしなぜか今日の菫玲は、気づけば瑶平に呼びかけていた。

「ねえ」

 はっきりと響く菫玲の声に、瑶平の瞳が反応する。

 それから菫玲は少々気まずくなったついでに、絶対に気まずくなることがわかっているから避けていたけれども、ずっと気になっていた質問を瑶平に向ける。

「瑶平は、戦争で人を殺したことがあるの?」

 自分にも多少は思いやりというものがあると自負している菫玲は、いつもよりは神妙な面持ちで、なるべくふざけずに訊ねた。

 呼びかけに気づいているのだから、質問も聞き逃してはいないはずである。

 だが瑶平は何も言わずに、ただハンドルを握って運転を続けていた。

 返事が返ってこないので、菫玲は横を向き、瑶平の様子を伺うことで答えを探す。

 菫玲とは違う、格式のある名家に生まれた者らしい瑶平の賢そうな横顔は、恥じて後悔しているように見えた。

 戦争で人を殺したことが恥なのか、殺していないことが恥なのか。

 その答えは、戦場に行ったことがない歌手の菫玲にはわからなかった。

 二人が乗っているサンド・ベージュの外国車が走る国道は、やがて海岸沿いの断崖の道につながり、そこから海が見えるはずだった。

 しかしその日は崖のどこかで落石事故があったらしく、途中で通行止めになっていたので、潮の匂いがする前に引き返すことになった。

 二人は道の途中のしなびた食堂で魚の煮付けの定食を食べて、あとは特に何もせずに家に帰った。



 「神喰いの花嫁」になるか否か、神祇省の役人に伝えなくてはならない期日の前日の夜も、菫玲は特別なことはせずに過ごしていた。

 電話で呼んだタクシーで、小雨の中いつもと同じように店に着いた菫玲は、重役出勤のタイミングで守衛が立って見張る楽屋口を通る。

 自分の個人楽屋まで行く廊下の途中には踊り子の若い女の子たちがギャザーでボトムを膨らませた黒いバブル・ドレスの衣装に着替えて待っていて、菫玲の姿を見つけると礼儀正しくお辞儀をした。

「おはようございます、菫玲さん。今日はよろしくお願いいたします」

「うん。今日は、あなたたちが私の後ろで踊ってくれるんだね」

 菫玲は花形歌手らしく大きく構えて、頼れる先輩として微笑む。

 髪も肌も瑞々しく輝く女の子たちは、声を揃えて返事をした。

「はい。頑張ります」

 女の子たちが憧れの眼差しで見てくれるので、菫玲は気分良く自分の楽屋に入って電灯のスイッチを入れた。

 終演後に毎日誰かが片付けてくれる楽屋は自宅と違って居心地が良くて、テーブルには水差しキャラフに入った飲み物と軽食として紙に包まれたフルーツパイが置いてある。

 菫玲は水差しキャラフからグラスに冷えた水を注いで飲み、リンゴとラズベリーが入ったフルーツパイを一切れだけ食べた。

 手早く小腹を満たしたところで、衣装係の女性がやって来て、舞台に上がる準備が始まる。

「今日のお衣装は、こちらの新調したものです」

 裁縫道具を入れたポーチを腰に下げた動きやすい服装の衣装係の女性が、自慢げに運んできたトルソーから衣装を外す。

 それは裾全体に薔薇の造花の飾りを目一杯につけた漆黒のコルセットドレスで、揃いで作られたレース付きの小ぶりなトークハットが添えられていた。

「なかなか、良いんじゃないの?」

 菫玲はドレスのジャガード生地の細かく織り込まれた文様をさわって確認して、衣装係の仕事を褒めた。

 それから家から着てきた深緑色のシャツワンピースを脱ぎ、ドレスに着替える。足元は素足を宝石ビジューが華やかに飾るサンダルで、金色の髪はトークハットに合わせて上品にコテで巻いてまとめてもらった。

 最後は鏡を囲むライトがまぶしいドレッサーに座り、引き出しに詰め込まれたたくさんの化粧品の中から自分の手で使うものを選んでメイクをする。

 それらの化粧道具もまた、自分で買ったものではなく贈り物としてもらったものだ。

(私は、私が美しいことを知っている)

 椿の花描かれた小さな容器にそれぞれの色が収められた七色の粉白粉から、舞台照明の色に映えるものをパフにとって塗り、舶来品のマスカラや眉墨で青い目がより美しく見えるように華やかにする。

 そしてオペラピンクの頬紅を頬と耳たぶに足し、最後に金属製の筒型の容器に入ったリップスティックの口紅でくちびるの形を濃くはっきりと描いた。

「今日も、素敵ですよ」

 化粧を終えると、衣装係の女性が菫玲の頭に黒いトークハットを被せて自らが作り上げたものに満足する。

 完璧な角度でドレッサーの鏡の中に収まっている、派手な化粧が調和した目鼻立ちのくっきりした自分の顔を一瞥し、菫玲は立ち上がった。

 媚びない華やかさのある漆黒のドレスは、長身の菫玲のきりりとした美しさを引き出して、立ち姿も様になっている。

「私はこの街の誰よりも美人で、歌が上手いからね」

 菫玲も衣装係の女性も、今この瞬間の自分の仕事に自信を持っていて、他の美しくないものたちに勝利している。

(でも私が嫁ぐことができる神様は、私よりもずっと綺麗なんだろう)

 神祇省の役人に会ったその日から、常にどこかで意識し続けている見知らぬ神について、菫玲は楽屋を出て舞台裏の廊下を歩きながら思いを馳せる。

 この世界にいる神々はたいてい美しい姿をしているそうなので、菫玲を花嫁にしようとしている食物神も、神々しい美貌を持っているものと思われた。

 人間である菫玲がいつかは失うものを、永遠の輪廻の中を生き続ける神は持ち続けている。

 だからその神の肉を食べて死んだのなら、菫玲は永遠に美しい存在でいられるのかもしれないとふと思う。

 化粧品に服。宝石にお菓子。

 菫玲は今まで数え切れないほどの贈り物をもらってきたれども、きっと神の肉が与えてくれる永遠が一番価値があるものなのだと、そんな考えが頭をよぎる。

 こうして物事に序列がついた瞬間に、菫玲は答えを決めた。

(だったら私はありがたく、神様の肉を食べさせてもらおうか)

 あちこち走り回っている裏方の助手も、出番を終えたり待ったりしている他の歌手や踊り子も、舞台で奏でられている音楽が響く薄暗い廊下を女王のように歩く菫玲の美しさを見つめている。

 それらの視線を意に介さず通り抜け、菫玲は最初の出番を見計らって、今はまだ舞台装置の影に隠れた廻り舞台の一画に置かれた小道具の椅子に足を組んで座る。

 舞台装置を挟んだすぐ後ろで前座の歌手が歌っている歌は、ささやくように可愛らしい声のバラードで、菫玲は腕を組みポーズをとって曲の終わりを待った。

 舞台袖には、菫玲の歌う途中から現れることになっている若い踊り子の女の子たちが控えている。

 そして歌い出す瞬間の表情を作りながら、菫玲は自分の人生を映画のように振り返り、今自分がしようとしている選択の先にエンドマークを見る。

(人間はいつ死ぬかわからないから、できる限り私のそばにいてくれるって瑶平は言ってた。それなら私は、瑶平の期待している通りに、突然綺麗に死んであげよう)

 菫玲は、戦場の無意味な死とは違う、意味のある死を見せて美しい思い出になることが、瑶平の虚ろを埋める方法であるような気がしていた。

 そうしてこのまま神様に嫁いで死んでしまえば、菫玲はずっと先の未来にしか死ねない可能性を心配しなくてもすむだろう。

 だからきっとこの選択は瑶平と自分にとっての最善なのだと、菫玲は確信する。

 瑶平は人が死ぬ物語が嫌いだと言っていた。

 しかし嫌いということは、本当は好きでもあるはずだと菫玲は思った。死を恐れば恐れるほど、人は命よりも大事なものを探すものなのだ。

 荒れ果てた温室を模した舞台装置を載せた舞台が廻り、白く熱い照明が喪服のように黒い衣装を着た菫玲を咲き誇る花の精として照らす。

 その一夜の夢のような光景に向けられた拍手喝采にかき消されることのない声量で、菫玲はいずれ散りゆく花が最後に望む恋の歌を歌い出した。



 終演後、瑶平は今日もまた迎えに来てくれて、菫玲を深夜も営業している高級店のレストラントへ連れて行った。

 街の中心にあるそのレストラントは目新しい金属的な外観の平屋で、丸みを帯びた屋根には遠目からでもよく見える照明付きの看板が掲げられ、駐車場も広かった。

 車から降りた二人は、入店して窓際の席に向かい合って座る。

 白い布がかかったテーブルが並ぶ明るい店内は、夜ふかしをする着飾った男女が優雅に交際を楽しんでいて、人々が話す声の後ろにはラジオから流れるジャズの洋曲がかすかに聞こえた。

 昼間の町中では目立つこともある菫玲のドレスと瑶平のスーツも雰囲気に溶け込む、異国の趣味が活かされた店である。

「俺は、ポークカツレツにしようと思う」

 臙脂色の革張りの椅子に腰掛けて、瑶平は一枚の上質な厚紙に収まっているメニューを流し見た。

 赤と黒の二色刷りで紹介されているメニューは、どれも西洋の献立を真似たもので、オムレツにハンバーグ、ミルクセーキなど、近代風モダンなカタカナの料理名が並んでいる。

「じゃあ私はパンケーキにしようかな。今夜は甘いものの気分だから」

 菫玲も特に何も考えずに注文を決め、女給を呼んで料理を頼んだ。

 客席からは見えない店の奥で働く調理係の仕事は早く、注文した品はすぐに運ばれてくる。

「ポークカツレツと、パンケーキ、それからミルクセーキがおふたつでございます。ごゆっくりお召し上がりください」

 小豆色ラセットのエプロンワンピースを着た若い女給が、やや高い声で献立の名前を読み上げ、テーブルに金属製の皿に載った料理を置いて去った。

 瑶平が注文した千切りのキャベツと蒸かし芋が添えられたカツレツは、大ぶりで分厚い肉が使われていて、こんがりと熱く香ばしく揚がった衣は黄金のような色をしている。

 また菫玲のパンケーキも、丸く食べごたえがありそうな大きさのものが何枚も重なり、きつね色の表面にはとろりと甘い匂いのする糖蜜がかかって、さらには真紫のブルーベリーのコンポートと溶けかかったバターのかたまりも載っていた。

(全体的に、量が多い店なのかな)

 周囲のテーブルで食べられている皿も同じくらいに大盛りであるのを横目で見て、菫玲はフォークとナイフを手に取った。

「それじゃ早速、いただきます」

 菫玲はほどよいやわらかさに焼けたパンケーキにナイフを入れ、きつね色の表面を切って甘い黄色の中の生地の断面を見る。

 そしてフォークで二、三枚をまとめて挿し、皿の底にたまった糖蜜によく浸して食べる。

(うん。甘いね)

 ふっくらと甘い卵と小麦を混ぜて焼いた生地が、琥珀色の糖蜜にしっとりと浸ってより一層甘くなって菫玲の口の中でほどける。

 それは一口だけなら十分に満足できる味なのだが、最後まで美味しく完食できるかというと不安だった。

 パンケーキにたっぷりと載せられたブルーベリーのコンポートも酸味よりも甘みが強く、バターのほんのりしょっぱい風味はほとんど砂糖の力に負けかけている。

 飲み物で口の中の甘みを和らげようにも、瑶平がついでに頼んでくれたグラス入りのミルクセーキはこれもまたふんわりと甘く、冷たい氷が入っている点以外にさっぱりするところはなかった。

(これはつけ合わせがある分、瑶平のカツレツの方が食べやすいのかも)

 菫玲は早くも味に飽きつつ、瑶平の方を見る。

 しかし一人パンケーキを食べ進めている菫玲と違って、瑶平はカツレツに手をつけずに何か言いたげな様子で菫玲の様子を伺っていた。

 フォークとナイフを握る手を止めて待っても瑶平が黙ったままなので、菫玲は料理を食べない理由を訊ねた。

「カツレツ冷めちゃうけど、どうかしたの?」

「……この機会に俺も改めて、君との関係のことを考えてみたんだが」

 菫玲が急かしてやっと、瑶平は重々しい口調で話を切り出した。この機会というのはおそらく、菫玲が「神喰いの花嫁」になる機会を与えられたことだと思われた。

 あまりにも瑶平が深刻そうな顔をしているので、菫玲は別れ話を切り出されるのだと考えた。

 しかし瑶平が言おうとしていたことは菫玲が身構えていたこととは違ったようで、瑶平はチャコールグレイのスーツの内ポケットから小さな箱を取り出した。

「俺は、君とこの先もずっと一緒にいたい。君を幸せにできるかどうかはわからないけど、君がいれば俺は幸せだから」

 瑶平はこれまでとは違う真剣な眼差しで、菫玲を見つめていた。

 唐突な告白に何も言えない菫玲は、とりあえず箱を受け取り中身を見た。白くしっかりした素材で作られた箱の中には、純金の指輪が入っていた。

「これはもしかして、結婚したいってこと?」

 勘違いで話を進めては恥をかくと、菫玲はまずは瑶平の意図を確認する。

 瑶平は黙って頷き、テーブルの上に置かれた箱の中から指輪を取り出して菫玲の左手を取った。瑶平の手は汗をかいていて、緊張しているのだと思われた。

 指輪を菫玲の薬指にはめようとしたところで、瑶平は手を止めて目を上げた。

「嫌なら、また箱に戻すが」

 自信がなさそうなささやき声が、菫玲の意志を訊ねる。

 菫玲が神に嫁いで死ぬ決心をしていたことを、瑶平はおそらく知らない。しかし瑶平は恋人の心がどこか遠くの方を向いていることは気づいていて、何とかして菫玲を引き留めようとしていた。

(私と瑶平は他人同士だから安心できていたはずなのに、瑶平は私が他人じゃ嫌になったんだ)

 想いがすれ違ったなら、別れるという選択肢もあったはずである。

 しかし戦場で死に損ねながら、軍人として生き続けることもできなかった瑶平は、たった一つの人生の慰めを失うことを恐れて、菫玲の愛を求めている。

 本当は心から大切に想ってくれている瑶平に、もっと感謝するべきなのかもしれない。だが菫玲は変わったのは自分が先であるのに、瑶平の眼差しに以前にはない必死さがあることを悲しんだ。

 それでも菫玲は物をもらったらまず感謝しなければならないと反射的に考えて、気づけばお礼を口にしていた。

「ありがとう。嬉しい」

 その声は思ったよりも明るく、本当に喜んでいるようにやわらかく響く。

 その受け答えに瑶平はすっかり受け入れられたものだと思ったらしく、安堵した顔で菫玲の指に指輪をはめた。

 瑶平の熱い想いに反して、店の照明に輝く純金の指輪の感触は冷たい。

 その瞬間に菫玲は、もはや自分には「神喰いの花嫁」として死ぬ気持ちがなくなってしまっていることに気づいた。

 瑶平と一緒に生きたいと思ったというわけではない。菫玲はむしろ、目の前の男のために自分が死ぬ価値がないと思っていた。

(瑶平だけじゃなくて、お客さんの拍手も、指輪も、神様も、何もかもに価値がない)

 これまでの人生において菫玲は、あらゆるのものを勝ち取ってきた。他の者が手に入れることができなかったものを得られたのなら、それはきっと価値があるはずであり、与えられた幸運に感謝するべきだと信じていた。

 しかし冷静になってあまり帰りたくはない自分の家を思い出して見れば、そこにあるのは何の思い入れもない色褪せたがらくたばかりで、菫玲は自分が心から大切だと思えるものを何も持っていなかった。

(瑶平に愛されなくなる日が来たら、どうしようかと思ってた。でも本当は、私が瑶平を愛せなくなる心配をするべきだったんだ)

 永遠を手に入れたと信じて微笑む瑶平の優しげな顔と向き合い、菫玲はその永遠を信じることができない自分の不誠実さに涙を薄く瑠璃色の瞳に浮かべた。

 おそらくこのまま瑶平と結婚すれば、死ぬまで一生大切にしてもらえるだろう。しかし瑶平の愛が変わらないことが確信できるからこそ、菫玲はその約束された未来が耐えられない。

(だって私は、最初から愛していたかどうかもわからないんだから)

 菫玲の手元の銀色の皿には、甘くて美味しくて、しかしすぐに食べ飽きてしまいそうな味のパンケーキが載っている。

 その糖蜜でべたべたとした甘さが本当に嫌になってしまう前に、自分で終わらせてしまえば良いのだと菫玲はそのときにはもう気づいていた。

 だから菫玲は理由はどうであれ涙ぐんだことはには違いない目元を片手で隠して、ハンドバッグを手にして席を立った。

「ちょっと、化粧直しに行ってくるね」

 嘘で震えた声で、菫玲は席を離れる理由を取り繕った。

 相手が後ろめたさによって泣いているのだとは知らないまま、瑶平は穏やかに菫玲の背中に返事を返す。

「ああ、わかった」

 そのさりげない一言が最後に交わした言葉になることを、菫玲だけは知っていた。

 菫玲は混み合った店内の奥へと進み、まずは本当に化粧室へ向かった。

 そしてそこで用を済ませ、そのまま席には戻らずに店を出る。

 瑶平が待つ席は出入り口から遠く、また化粧室とは反対側に位置していたので、菫玲は明るく照らされた店内とはガラスで隔てられた外の暗闇へと、気づかれずに出ていくことができた。

 こうして菫玲はテーブル席に革のカバート・コートを残したまま、深緑色のシャツワンピース姿で街の明かりの中に姿を消した。



 瑶平を置いてレストラントを去った菫玲はその後、徒歩で鉄道の駅に向かった。

 普段歩かない距離を歩いて疲れた菫玲が駅に着いたとき、ちょうど丸い二つのヘッドライトを光らせた夜行列車が止まったので、行き先がわからないまま乗車する。

 神祇省の役人に会う明日の約束を破ることも気にせず、菫玲は神喰いの花嫁になるかどうかを考えることそのものをやめた。

(価値がないのなら、全部捨ててみれば良い)

 菫玲は動き出した列車の揺れに身を任せ、座り心地がほど良い二等席に深く座った。

(全部捨ててみれば、最後に残るものがわかるかもしれない)

 ひじ置きにほおづえをつき、他の客は皆寝静まった薄暗い車内の中から、目が慣れてくると意外と明るい月夜の空を見つめて冷たく微笑む。

 死ぬ覚悟も、生きる執着も持たずに一人無為な移動を試みている菫玲は、生まれて初めて触れる孤独な自由に高揚感を覚えていた。

 金銭面の面倒も見てくれていた瑶平に背を向け、評価されていた歌手としての仕事も捨て、神に花嫁として選ばれたことも無視した自分が、これからどうなるかはまったくわからない。すべてを捨てても結局、大切なことがわからないまま虚無感を抱えることになるのかもしれない。

 しかし少なくとも今の菫玲は、速度を増す列車によって、恋人がいて家も職場もある西都の街から引き離されていくのが気持ちが良かった。

 愛も、歌も、命も、神も。

 与えられたものすべてを手放して、自分の中に何が残るのか、それとも何も残らないのか。菫玲は自分の限界を確かめてみたかった。

 列車は市街地を抜け、田園地帯を抜け、幹線道路とも違う山中の線路を走っていく。

 紅葉が終わりかけた山の木々の葉は、黄色や紅色に染まりきって散り、地面に降り積もる。

 そうした移り変わっていく季節の様子が車窓の外を流れていくのを眺めて、菫玲はその景色の中に月明かりに照らされたささやかに薄紫の晩秋スミレを見つけた。

 春に咲くものであれ、秋に咲くものであれ、菫玲は自分の名前の一部でもあるスミレの花を見るとあらたまった気持ちになった。

(そういえば私は船には乗ったことあるけど、列車は初めてかもしれない)

 故郷では見えなかったスミレの花の色に、菫玲は昔から今日までのことを思い出す。

 西都に来てからはいつも自動車にばかり乗っていたので、列車の乗り心地と車窓からの眺めは新鮮だった。

 秋の夜更けの忍び寄る寒さに、上着がない菫玲は座席の上で身体を縮こませる。

 菫玲はおそらく、きっと何かがほしかった。

 しかし何がほしいのかは、考えてもわからなかった。

 だから菫玲は眠らずに、列車の走行音にかき消されて周囲に聞こえないくらいの大きさの声で、約八年ぶりに島の民謡を口ずさむ。


  唄をうたいましょ、はばかりながら

  唄のあやまり、ごめんなされ


 島を出てからは一度も歌っていなかった曲なのに、調べも詞も自然と思い出せるのが不思議で、西都での暮らした記憶が幻のようににじんでいく。

 しかし幼かったときと同じように歌っても、菫玲はもう大人に手を引かれていた子供ではなかった。髪や目の色は変わらなくても、様々なことが違っている。

 月夜を走る列車がどこへ行くのか、菫玲は知らない。

 しかしこれからどこにたどり着いたとしても、そこは誰かに強いられたわけでもない、菫玲が望んだ場所であるはずだった。

 やがて歌い終えたところで、菫玲はかすかに空腹を感じた。

 それはおそらくパンケーキを半分残してレストラントを抜け出してきたからで、菫玲はもう少しは食べても良かったのかもしれないと一瞬後悔しかける。

 だが常に何かしら食べ物をもらっていた菫玲は空腹にも自由を見出し、その可笑しさに安らいで目を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る