第一章 虐げられた少女

 西都の歴史ある伯爵家のご当主の妾だった母は、革張りの寝椅子に腰掛け、透明な宝石みたいなロックグラスで洋酒ウィスキーを飲んでは、娘である桜良さくらにいつも甘い声で語りかけた。

「知れば知るほど、こわいものが増えていく。だから勉強なんかしないで、ばかな子でいるのが一番よ。かわいい女の子は、ばかで許してもらえるんだから」

 酔っ払った母が花柄のワンピースを着た幼い桜良を膝の上に置き、深緋こきひのマニキュアを塗った手で小さな娘の可愛らしい顔を撫でる。

 まだ数年しか生きていない桜良には、母が何を言っているのかよくわからない。でも母に触れられていると安心するので、母の言うことには素直に頷いた。

「うん。わたし、ばかな子でいる」

 桜良は背中を丸めて、派手な夜会服姿の母親の、甘い香水の匂いがする胸に頭を預ける。

 その後、本当に自分が馬鹿な子でいられたかどうかについては自信がない。だが桜良が自分の知識を増やすことに興味がないまま成長したのは、その母の忠告があったからだと思う。

 若くして桜良を生んだ母・杉下すぎしたハルはいわゆるモガ——モダンガールと呼ばれる種類の人であり、艶やかな黒髪は耳の下のあたりで切りそろえていて、ドレスは黒地にパールが光る袖無しのフラッパー風だった。

 指なしのレースのロンググローブと巻下ろした薄い絹の靴下を身に着けた手足は細く長く、常にヒールのあるパンプスを履いているから立ち姿は必要以上に背が高く見える。

「わたし、着物って見てるだけで息が詰まっちゃうんだよね」と、彼女は家のリビングで呉服店のカタログをめくってはよく目を細めて苦笑していた。

 だから普通の既婚女性が着るような留袖や浴衣は、彼女のクローゼットには一枚も入っていない。彼女は海の向こうの映画女優のような、派手でまぶしい装いがよく似合う人だった。

 当然化粧も、目元を彩る灰紫のアイシャドーに優美な弧を描く鮮やかなルージュ、肌をほの白く整えるおしろいに耳まで赤く塗られた頬紅などで、とびきり濃く仕上げられていた。厚化粧をしていても美人だとわかるはっきりした顔立ちは華やかだけどさみしげで、いつも泣き出しそうに見える顔で笑っていた。

 また、こうして皇国らしい伝統の文化とは縁遠く生きていた母を、妾として溺愛していた伯爵家の当主である父も、異国の趣味にかぶれた酔狂な人物であった。

 桜良の父・俊作しゅんさくが若くして後を継いだ久世月くぜづき家は、神々が住まう聖域の神在森かみありのもりに入ることを許されるほど高位ではないが、何百年も前から帝に仕えて皇国を守護し続けている、馬鹿にはできない格式のある武家である。

 だが好奇心が強く常識に囚われない気風を持って生まれた俊作は、皇国の歴史を尊重することよりも、異国の文化を消費することを好んでいた。

 そのため彼は伝統的な様式を伝承した先祖代々の屋敷の敷地内に、外国から招いた建築家に設計を任せた別邸を構え、妾であるハルとその庶子の桜良を住まわせて、舶来の品々に囲まれた生活を送らせた。

 別邸は濃緑の軒や瓦と、白いモルタルの壁のコントラストが美しい木造の洋館で、窓には円弧や直線が優美な模様を描いたステンドグラスがはめられていた。

 邸内も天井は放射状の石膏装飾が施されている一方で、床には幾何学的な文様が描かれたカーペットが敷かれていて、テーブルやソファなどの家具も上品で洗練されたものが揃い、綺麗に設えられていたことを桜良は覚えている。

 母は洋酒ウィスキーを飲んでいないときにはだいたい、その洋館の風通しの良いベランダに出て煙草を吸った。長いシガレットホルダーを手に紫煙をくゆらせる母の瞳は、青い芝生が広がる天気の良い日の家の庭ではないどこかを、ぼんやりと見つめていた。

(おかあさんは、なにを見ているんだろう)

 近くにいるのに遠い横顔を見上げて、桜良は母の頭の中のことについて考えていた。その目が本当は何を映しているのか気になるけれども、訊いてはいけない気がして押し押し黙る。

 もしかすると母には行きたい場所があったのかもしれないが、そこがどこかなのかは今もわからない。

 塔に閉じ込められたおとぎ話のお姫様みたいな切なさで、母は聞き取れない歌を口ずさむ。しかし娘の桜良が知っているかぎり、母は籠の中の鳥ではなかった。

 母は特に理由もなく街に出かけていて、たまに桜良を連れて行ったときには、百貨店で可愛らしいが値が張る子供服を何着も買った。

 また父も、母と二人でよく遠出をした。

 父には男児と女児を一人ずつ生んだ正妻がいて、公の集まりには正妻を伴ったが、私的な外出には必ず妾である桜良の母を相手に選んだ。

 子供の桜良から見ても正妻と妾のどちらが愛されているかがはっきりとわかるほどだったので、二人の女の間にはそれなりの確執があった。だが正妻を母に持つ嫡出の兄妹と庶子の桜良の関係は必ずしも悪くはなかった。歳も近く同じ場所に住んでいる三人は、小学校にあがる前はよく屋敷の敷地で遊んだ。

 だからそのよく晴れた弥生の月のある午後も、桜良は腹違いの兄の和頼かずよりとその妹の明里あかりの三人で、春光が暖かな離れの裏庭にいた。

「この花は、あかりのだよ」

「じゃあおれは、この枝をもらう」

 明里の小さな手がしっかりと濃い黄色のたんぽぽの花を何本か折って、和頼が太めの枝を手にして振る。

 芝生が綺麗な表の庭と違って、裏庭は木々や草花が茂っていた。

 ふくふくとした丸顔の明里と、幼くとも凛々しい顔立ちの和頼は、母親は同じでもあまり似ていない。しかし兄妹であるので服装はだいたい同じで、簡素だが仕立ての良い木綿の肩上げした着物を着た二人は、草や花をちぎったり埋めたりして、子供らしくたいした目的もなく過ごしている。

 一方着物ではなく母親に買ってもらったギンガムチェックのジャンパースカートを履いた桜良は、兄と妹が植物をもてあそんでいる横でしゃがんで小石をいじっていた。

「さくらは、石が好きなんだな」

 和頼が横目で桜良を見て、話しかける。

「うん」

 別に石にこだわりがあるわけではないのだが、否定するほどのことでもないので桜良は適当にうなずいた。

 小さな石の尖りや冷たさは嫌いではないが、桜良は別にそれが金属や樹脂でも構わなかった。

 兄の和頼が桜良に話しかけても気にせずに、明里は一人でたんぽぽの花弁をちぎってい。だがやがて何かに気づくと、顔を上げた。

「父さまのくるまのおとだ」

 耳の良い明里がつぶやくと同時に、離れの玄関の方からエンジン音が響いた。それは明里の言う通り、父・俊作が愛車を玄関ポーチに横付けした音だった。

 全員揃って父親と会う機会がいつもあるわけではないので、三人は無言でうなずきあって玄関の方に出た。

 三人が家の影から顔を出すと、ガラス張りのひさしが陽光をやわらかに遮る玄関ポーチには、淡黄色の自動車が止まっていた。ひと目で輸入車だとわかる、大きくて派手な自動車だ。

 運転が好きな父は、榛色のゆったりとしたスーツに白と焦げ茶のツートンカラーの革靴を履いて、車の外で迎えに来た相手を待っている。

「今日は三人も見送りがいるのか」

 子供たちが来たことに気づくと、父は手を広げて笑顔を見せた。

 しっかりとしたあごと太い眉が印象的な桜の父は、髪を後ろになでつけていてもどこか大人になりきらない雰囲気があって、実際に家長としてはまだ若かった。

 三人は父親の前にぞろりと並び、まず話しかけたのは年長の和頼である。

「今日もハルさんと出かけるの?」

「そうだ。今日は新しく浜の方にできた海浜公園に行くんだ」

 桜良の母をハルさんと呼んで和頼が尋ねると、父が行き先も含めて答えた。その口ぶりは、まるで海浜公園というところが地上の楽園であるかのように、自慢げである。

 だが三人は父に甘える習慣をもっていなかったので、「ふうん」とだけ言って、その場所に連れて行ってほしいとはねだらなかった。

(おとうさんのくるま、またあたらしくなってる)

 海浜公園という場所には興味を持たず、桜良は目の前にある、新品に近い輝きの自動車を見つめた。

 すると父は少年のように目を輝かせ、そっと車の窓の縁を撫でて、桜良に語りかけた。

「フローレンス風のクリーム色で注文した、インターナショナルモデルの新型自動車だ。エンジンは十二気筒で、スターターもヘッドライトも電気式。もちろん屋根付き。この国の首相が乗ってる車よりも良い車だぞ」

 恍惚とした表情を浮かべて、父は自分の車の性能をひけらかす。

 父が何を言っているのか、桜良にはまったくわからない。それはおそらく、桜良が子供だからではなさそうだった。

 だが父があまりにも誇らしげなので、桜良は何か褒め言葉を返さなければならないと思った。そこで隣の和頼に助け舟を求めようとしたところで、玄関の扉が開いた。

 外に出てきたのは、薄い鴇色のスプリングコートを羽織り、白い帽子クローシュを被った桜良の母である。

「女の子にそんな自慢をしたって、絶対わかんないでしょ」

 母は桜良に話しかけるときの甘い猫撫で声とは違う、落ち着いて少々冷めた調子の、それでいて聞く人に親密さを感じさせ魅了する声で、子供たちの父親であり自分の恋人である男をからかった。

 すっきりと髪を短くした耳元に、銀の留め具に赤い瑪瑙の輪っかが揺れるイヤリングをつけた母は、咲きほころぶ春の花のように美しく、ちょっと眠たげな顔で微笑んでいる。

 広告の画のように完璧なその母の姿には、父だけではなく桜良の隣にぼんやりと立つ兄妹も目を奪われていて、特に和頼の瞳には幼い憧憬以上の感情が宿る。

 どんなときも人の視線を堂々と受け止める容姿端麗な母が誇らしくて、桜良は自分も背筋をのばした。

 ゆっくりと車の近くに寄ってきた母の手をとって引き寄せ、父は嬉しそうにからかい返す。

「何回デートをしてもスーパーカーの浪漫ロマンをわかってくれない君よりは、この車の良さをわかってくれるかもしれないだろ」

 そして父と母は子供たちがすぐ近くにいるのを気にもとめずにお互いの首に抱きつき、べたべたと愛撫したり口づけをしたりした。

 遠慮なく睦み合う父親とその妾を前にして、和頼と明里は視線をさまよわせる。だがその光景を見慣れている桜良はしっかりと顔を上げて、くちびるを重ねる父と母を凝視した。

(おとうさんは、おかあさんのことがほんとうにすきなんだな)

 いつも心がどこか遠くにあった母が、父を心から愛していたかどうかはわからない。

 しかし父が母を真剣に想っていたのは確かで、どんなときでも少しでも長い二人の時間を求めていた。

 やがて玄関の前でやるべきことを十分にやった二人は、今度は車に乗り込んで笑い合う。

「それじゃあ、父さんたちはちょっと出かけてくるからな。お前たちも大人になったときに後悔しないように、よく遊べよ」

 今も十分に遊んでいるように見える運転席の父が、子供たちに助言を残してアクセルを踏んだ。クリーム色の自動車は低い音を立てて滑らかに走り出し、タイルで舗装された敷地内の道の上を進んでいく。

 助手席の母が「じゃあね」と口を動かして手をふるのを桜良は見たが、エンジン音で声は聞こえなかった。

 残された排気ガスの臭いの中で、桜良は満開の桜並木の向こうへと車が消えていくのを見送る。

(さくらは、わたしのお花)

 自分の名前の花であるので、桜良は桜の花が好きだった。

 桜良の頭をぼんやりとさせる春の日差しが、白い桜もクリーム色の自動車もすべてを平等に暖かく染めている。

 霞のように溶けていく景色を前に三人の子供はしばらく静止していたが、それからまた玄関の前のポーチを去って、意味を持たない庭遊びに戻った。



 夜、父の車が遠出から戻ってきて母を離れの玄関で降ろすときには、ドアの閉まる音や二人の話し声が桜良のいる子供部屋にも聞こえる。

 その音が響くのが宵の口であれ夜更けであれ、父と母は桜良のいる屋敷に必ず帰ってくるはずだった。

 だがその日は何も聞こえず、桜良は母の姿を見ないまま朝を迎えた。

「おかあさんは、まだかえってこないの」

 白いフリルのついたパジャマから着替えずに、桜良が一階のキッチンに下りると、いつも面倒を見てくれている若い使用人の姐やねえやが、フライパンで卵を炒って待っていた。

 金縁の皿に盛られた炒り卵はいつもと同じように香ばしい匂いがしたけれども、姐やの表情は暗い。

 姐やは桜良が下りてきたことに気がつくと、フライパンを火の消えた焜炉コンロに戻した。

「お嬢様。お父上とお母上は……」

 屈んで目線を桜良に合わせて、姐やが父と母が帰ってこない理由を説明する。

 彼女が言うには、父が真夜中に母を車に載せて海沿いの崖を走っていたところ、ちょうどそのときに落石があったらしい。父は落石を避けようとハンドルを切ったが避けきれず、父の自慢のクリーム色の自動車は一瞬で巨大な岩の下敷きになった。

 車の中にいた父と母は当然即死して、遺体もほとんど形が残っていないそうである。

(じゃあもう、おかあさんにもおとうさんにも、あえないんだ)

 桜良は現実感のないまま、姐やに抱きしめられた。

 自分を可愛がってくれた両親が死んだのだから、もっと悲しむべきだったのかもしれない。だが父と母はどこかこの現実の世界から浮いて生きていた気がしたので、一瞬で二人一緒に死んでしまえたのは幸せだったように思える。

(おかあさんは行きたいところに、行けたのかな)

 ここではないどこかを見ていた美しい母のことを考えて、桜良は家政婦の姐やの胸元に頭を預けて悲しんでいるふりをする。何度も洗濯されたエプロンをつけた温かな姐やの胸元は、化粧をして香水をつけていた母とは違う、地に足のついた生活の匂いがした。

 それから数日後に、伯爵家の当主であった父の立派な葬儀と、彼の妾だった母のささやかな葬儀が行われた。死んだのは二人一緒だったのに、葬儀や墓の場所が別であることは、二人が死んだことよりも悲しいことだと桜良は思った。

 お斎の食事が並んだ大きな和室で、喪服を着た大人たちは大勢で今後のことについて話し合っていたが、桜良は一人で部屋の隅に座っていた。和頼と明里も離れたところにいて、彼らの母である正妻の隣で静かにしていた。

 その後、両親の死後もしばらく、桜良は家政婦の姐やと共に別邸で暮らした。

 しかし死んだ二人の四十九日が過ぎた頃、別邸が突然の火事で全焼したので、母の記憶が残る場所での桜良の生活は終わった。

 出火はちょうど姐やが桜良を連れ出していたときだったため、その火事で誰も死ぬことはなかった。

 だがその夜空を赤く染める炎によって、父が母のために莫大な財産を投じて築いた瀟洒しょうしゃな洋館は、彼らと同じように灰に還っていく。

 最後に一際輝くように赤くまぶしい光を放つ屋敷からは、ぱちぱちと炎が燃える音や中で床や柱が崩れる音がして、黒煙の嫌な臭いが広がっていた。

 せめて焼けていく屋敷を見上げて記憶に残そうと、外出から帰宅して火事を知った桜良は姐やの側から離れて庭に出た。そこで桜良は、先客がいるのを見る。

「あのひとは……」

 人影に気づいたところで立ち止まって、桜良はぽつりと声をもらした。

 主が去って雑草で荒れつつあった広大な芝生の庭に立っているのは、久世月家の当主であった父・俊作の正妻の都志子である。

 夜の闇に溶けそうな真っ黒な着物を着た都志子は、半分怒ったような笑顔を浮かべて、屋敷が炎に包まれていくのを眺めていた。

 桜良がそばにいることに気づくと、草履を履いた彼女は上品な足取りで近づいてきて、冷ややかに見下ろした。

「あの人があの女と見た夢も、これでお終い」

 炎に照らされた都志子の眼光が幼く小さな桜良を捉えて、無理して平常を装った声が朗らかに話す。

 初めてまともに見る彼女の顔は、思慮深げで立派な大人に見えるのに、その裏にある感情が怖く思えた。

「あなたもこれからは、生んだ母親の身分に見合った生活を送りなさい」

 都志子は夜風に冷えた手で桜良の体温が高い頬を掴み、物事を正すように妾の子を諭した。

 有無を言わさない都志子の態度に、桜良は消え入りそうな声で「はい」と返事をする。

 自分を愛さなかった夫を、そして夫を永遠に奪った妾とその子供を、都志子は憎んでいた。だが名家から嫁いできた彼女はその誇りの高さゆえに、恨み言をそのまま吐露することはない。

 出火の原因については、都志子も他の大人も何も語らなかった。しかし誰も語らないということは、誰かに原因があるということでもあった。

(この人が、おかあさんとわたしのおうちをもやした)

 別邸に火をつけたのが都志子であることは、桜良にもすぐにわかった。だが父も母も死んだ今は、そのことを口にしたところで何もかもが無駄な気がした。

 それまでの桜良は、父と母の見ていた夢の片隅で、霞のように軽い幸福に包まれて生きていた。

 その夢が終わり、今度はつらく息苦しい不幸の中で生かされることを、桜良は都志子の静かな憎しみを感じ取って子供ながらに理解した。



 生きては帰らぬ両親を見送った春の日から十一年後。

 夢を見ることもない深く重い眠りから、もう子供ではなくなった十七歳の桜良は目覚めた。

 小柄でやせ細った身体はまだ休息を求めているけれども、頭は毎日同じ時間に覚醒する。

 暗闇の中で生暖かい布団から抜け出て、電灯の紐の引いて裸電球を灯せば、人が一人寝るのが精一杯の狭い女中部屋が薄明かりに照らされた。

 突き上げ式の高窓はあるが、開けてもまだ空が暗い早朝であることはわかっている。

 それでも桜良が起きて布団を畳むのは、亡き当主の娘ではなく、女中として久世月家に置いてもらっているからだ。

 桜良がリボンの可愛いネグリジェを着てやわらかなベッドで眠っていたのは遠い昔のことで、今は使い古された長襦袢を着て薄くかたい布団で寝起きしている。

 その落差を悲しもうにも悲しめないほど、暗く狭い屋敷の片隅で始まって終わる一日が、桜良にとっての現実だ。

 桜良は部屋の端に置かれた小さな鏡台に生気のない顔を映し、結ったままにしてある髪のほつれを櫛で直した。そして長襦袢を脱いで肌着になり、壁に吊るした井桁絣いげたがすりの着物を手にとる。

 二畳の女中部屋に押し入れはなく、身の回りには最低限のものしかない。

(あの人が言うには、これが生んだ母親の身分に見合った私の生活らしいけど)

 父の正妻であった都志子を、桜良は心の中ではいつもあの人と呼んでいる。

 都志子は夫の死後、息子の和頼が成人するまでの間の後見人として伯爵家を取り仕切ることになった。

 そして妾が溺愛され続けるのを夫が死ぬまで黙って耐えていた都志子は、両親が死んだ幼い桜良を庶子として認めずに女中部屋に住まわせ、家事労働をさせた。都志子の生んだ子である和頼と明里は高等学校や女学校に進学することができたのに対して、桜良は小学校にも満足に通えなかった。

 だから桜良は子供らしく生きる時間を奪われたまま義務教育の年齢を終え、あかぎれだらけの手で毎日働いている。

(でも何も知らないほうが楽でいいって、お母さんは言っていた)

 桜良は着物に着替えてたすきで袖をたくし上げ、そっと静かに襖を開けた。自分の人生について考えれば辛くなるのがわかっているので、桜良は何も考えないようにして生きていた。

 古く格式のある久世月家の本邸は白漆喰の壁に黒色の瓦屋根が立派な和館で、桜良の住む女中部屋は日の当たらない北側に位置し、部屋の前の廊下は台所と内玄関に通じている。

 桜良はまず裏庭に出て外の水道から水を汲み、小だらいで顔と手を洗った。

 雲が低く垂れ込んだ冬の早朝の空気は暗く冷たく、地面には薄く雪が積もっていた。今にも凍りそうな水で顔と手を洗うのは痛いが、女中の仕事には常に清潔さが必要とされている。

 それから何度も洗濯をしてくたくたになっている割烹着を身に着けた桜良は、勝手口から台所のある薄暗くがらんと広い土間に入って、壁に取り付けられた電灯のスイッチを入れた。

 久世月家の本邸は外観は古めかしいものの電化やガス化は進んでいて、台所にあるかまどや焜炉はすべてガスを使う最新式のものになっている。

 だから薪で火を起こしている家庭に比べれば火加減の調節はだいぶ楽らしいのだが、他の家の台所を知らない桜良にはそのありがたみはわからなかった。

(だって炊飯の他にも、やらなきゃいけないことはたくさんある)

 水道の水で米を研いで羽釜に入れ、マッチでかまどに点火をして屋敷にいる者全員分の飯を炊く。飯が炊きあがるまでの時間は豆腐と大根を切って味噌汁を作り、魚の内蔵をとって塩で焼く。

 朝食が片付けばたらいと洗濯板で服を洗い、洗濯物を干した次は掃除。正午が近づけば昼食の準備と、女中の仕事には終わりがない。

 その毎日の繰り返しの中で、桜良はただ与えられた仕事をこなすことだけを考えて、黙って手を動かしていた。

 まずは朝食の準備を進めれば、だんだんと窓の外の空は白く明るくなっていく。

 やがて味噌汁の味が整い、魚が焼き上がった香ばしい匂いがして、炊いた飯が十分に蒸らされたところで、台所にふっくらとした顔の少女が現れた。

「おはようございます。遅くなりました」

 必要最低限の愛想で台所に入ってきたのは、久世月家で働く女中である絹江である。今日は遅くなったと言いつつ、絹江は必ず桜良が料理を終える頃になってやって来る。

「はい。おはようございます」

 桜良は相手の調子に合わせた挨拶を返して、その他は何も喋らずにしゃもじで炊けた飯をかき混ぜた。

 女主人の都志子に嫌われている桜良が他の使用人と親睦を深めれば、何かしらのひどい仕打ちを受けることになる。

 そのことをわかっているから、桜良も絹江も積極的に言葉を交わそうとは思わない。

 絹江は所在なげに台所に立って、目尻の下がった意思の弱そうな目でほとんど出来上がっている料理を見回した。

 家事全般をやらなければならない桜良と違って、絹江は主家の人々の身支度の手伝いや外出の同行、来客対応など人に接する機会が多い仕事を任されている。彼女は中流の商家の出身で、家事よりも社交性を身につけることを望まれているのだ。

 だから絹江は実家で買ってもらった市松模様に梅が入った綺麗な銘仙を着ていて、たすきもあまり使わず、本人もあまり家事はやる気がないし能力もない。

 とはいえ、絹江は桜良を嫌ったり見下したりしているわけではないので、時間が余っていれば料理の盛り付けくらいは手伝うそぶりを見せる。

 だからその日もとりあえず、絹江は食器をしまってある年代物の茶箪笥を開けた。

「あたしは食器を出しますね」

 木製の黒い塗椀を鍋の横に並べて、絹江はささやかな作業を始めようとした。

 しかしちょうどそのとき廊下に通じている障子が音もなく開いて、久世月家の女主である都志子が、髪も着物も一つの乱れもなく完璧な姿で顔を出した。

 表情は温和で所作もたおやかな年相応の婦人である都志子は、何か頼みたいことがあるようで、絹江の名前を丁寧に呼んだ。

「絹江さん。ちょっと」

「何の御用でしょうか。奥様」

 主人の登場にかしこまって、絹江は姿勢を正した。

 頬に手を当てて首をかしげた都志子は、やわらかな声で絹江にたずねた。

「この前のお茶会で使った真珠付きの黒いべっ甲の簪を、どこにしまったのかわからないのだけども」

 そして一瞬、咎めるような視線を絹江が手にしている塗椀に向けて、そっと忠告を与える。

「そういうお仕事は全部、桜良さんに任せておけばいいのよ」

 優しく絹江を気遣うように、都志子は他の者が桜良に手を差し伸べることを禁じる。

 その言葉を発している間、都志子は近くにいる桜良を一瞥もしなかった。

 どんな些細な思い遣りであっても、桜良のためになる行為を都志子は絶対に許さない。

 美しい笑顔で語られる明確な悪意に怯えて、絹江は食器を急いで手放した。

「はい。かしこまりました」

 中途半端に塗椀を鍋の横に並べたまま、絹江が簪を探すために都志子と二人で台所を去っていく。都志子の機嫌を損ねないことだけを考えているであろう絹江は、桜良のいる後ろをまったく振り返らない。

 都志子は何事も器用な人で、本当は絹江がいなくても自分のことはすべて自分でこなしてしまえる。しかし絹江が桜良の仕事を減らさないように、あえて絹江にちょっとした用事を頼んでいることを、桜良は知っていた。

 こうして桜良は結局、一から十までのすべてをやることになる。

(一人で残されるのは、もう慣れた)

 桜良はため息をつき、絹江が途中で投げ出した食器を並べ直した。

 それから自分の食事を先によそって箱膳に載せ、土間の隅に腰掛けて手短に味見を兼ねた朝食を済ませる。

(美味しいかどうかはわからない。でもいつもと同じ味かどうかは、比べることができる)

 米のかたまりを箸で掴んで頬張り、桜良はそれを味噌汁で流し込んだ。

 やわらかめに炊いた米は甘く、鰹節で出しをとり白味噌を溶いた汁はほんの少しだけ塩辛い。それが特に異常がないときの、毎日桜良が作っている料理の味である。

 しかし都志子によって料理を褒められる機会も奪われた桜良には、自分の料理が美味しいかどうかはわからなかった。

(昔は料理が下手だとあの人によく注意されたけど、今は何も言われない。だから不味くはないはずだと、思うのだけれども)

 魚の身をほぐして飯と重ねて、咀嚼し飲み込む。

 美味しいとも思えない料理を作って食べる度に、桜良は虚無感に襲われる。

 誰かが一言、美味しいとか不味いとか言ってくれれば、それが否定的な言葉であったとしても、桜良は美味しさについて考えることができるのかもしれない。

 しかし桜良が誰かと話す機会はほとんどないので、今日も明日も美味しさとは何かわからないまま料理をしなければならなかった。



 朝食の配膳と片付けが終わった後も、桜良は洗濯や掃除などをこなし働き続けた。

 都志子と絹江は運転手に車を出させて、昼前からどこかへ外出している。

 屋敷には庭師の老人が一人残っていたが、とりたてて会話は生まれない。屋敷で働く男性たちは、そもそも桜良以外の者に対しても深入りしないように心掛けているからだ。

(最初から無関係な人しかいなければ、困ることはないのに)

 厚い雲に覆われた灰色の空を庭から見上げて、桜良は冷たく乾いた洗濯物を物干し竿から外した。

 庭師の姿は見えないものの、隅々まで手入れの行き届いた自然豊かな中庭の居心地は悪くはない。冬の今は寒さを我慢すれば、南天の赤い実や緑が曇天や積雪に映えるのを見ることができる。

 だから桜良は、一人で庭にいる時間が嫌いではなかった。

 ほんの少しだけ手を止めて、他人のために美しく保たれた庭の風景を楽しむ。

 そうして寒空の下で桜良が一息ついていると、門の方から誰かが帰ってくる気配がした。

「ただいま。桜良」

 明るい声で気兼ねなく桜良を呼び捨てにするのは、本来は腹違いの妹である明里である。

「おかえりなさいませ。明里様」

 桜良は乾いた洗濯物を手に、会釈をして明里を迎えた。

 近くの女学校に通っている明里は、薄紫色の菱文の丸袖と海老茶の女袴に革靴を履いていて、リボンで髪をまとめた姿はいかにも女学生らしい装いである。

 丸顔で大柄な明里は決して美人ではないのだが、堂々とした態度で可愛らしい服装を着こなしていた。

 明里は快活な笑顔で桜良に近寄り、学生鞄からしわくちゃの巾着を出して押し付ける。

「学校の授業で巾着を作ったんだけれども、私は上手にできなかったから桜良が作り直してちょうだいな。布の生地はとても、気に入ってるのよ」

 その強引さは人に物を頼む態度ではないが、明里に悪気はなく彼女はそうした人間性を持って生まれ育っている。

 女中の桜良は要求を拒まず「はい」と返事をして、失敗作の巾着を受け取った。

 粛々と従順な桜良に、明里はさらに命令を重ねた。

直芳なおよしさんへの贈り物を入れる袋にする予定だから、特に綺麗な仕上がりにしてほしいわ」

 恥じることなく人に頼る明里が、笑顔を深める。

 直芳というのは明里の婚約者あり、帝の縁戚の由緒正しい家柄出身の青年である。親同士決めた縁談ではあるが、明里は直芳に惚れており、直芳も明里を気に入っているらしいと桜良は聞いていた。

 好きな人物に贈るなら、真心を込めて自分で作り直すべきではないかと訊ねたかったが、立場を考えて桜良は押し黙る。

 皮肉を返されたとしても、おそらく明里は意に介さない。しかし明里の母親である都志子は、桜良が生意気な口を利くことを許さないだろう。

「あなたには誰もいなくて、気の毒ね」

 開けた鞄を閉じながら、明里は軽くつぶやいた。

 同じ男を父に持ちながら同じ幸せを得ることはない桜良に対して、明里は同情している。だがその哀れみは、無神経で温もりがない。

(本当に気の毒だと思うのなら、何も言わずに放っておいてくれればいいのに)

 表情には何も出さずに、桜良は心のなかで毒づいた。わざわざお前は不幸だと言われるのは、幸せになることを諦めていても嫌な気持ちになる。

 しかしそうした感情の機微に疎い明里は、何も気遣うことなく、またもうひとつの雑用を桜良に言いつけた。

「あと今から私、自分の部屋で宿題をするの。だからお茶とお菓子の準備もよろしくね」

「かしこまりました」

 内玄関の方へと足取り軽く去っていく明里の後ろ姿に、桜良は使用人として頭を下げた。

 本当は桜良が腹違いの姉であることを、明里も知らないわけではない。しかし明里は生まれの隔てなく遊んだ幼い頃のことを覚えていないようで、主家の人間として振る舞うことに迷いがなかった。

(私も単なる女中として接すればいいわけだから、楽は楽なのだけれども)

 桜良は気を取り直して巾着を前掛けにしまい、洗濯物を取り込む作業を進める手を早める。

 朝から夜まで働かなくてはならない桜良には、庭の南天の赤色をゆっくりと愛でる時間はなかった。



 その後、明里のためにお茶を淹れて運び、取り入れた洗濯物を畳んだ桜良は、女中部屋に戻って頼まれた巾着の修理を進めるために重い木製の裁縫箱を開けた。

 下手くそに縫い付けられた糸を切ってほどき、生地を伸ばしていた桜良は、内玄関の外から人が歩いてくる音を聞く。

 嫡男の和頼が高等学校から帰宅したのだとわかった桜良は、かしこまって玄関に座って出迎えた。

「おかえりなさいませ、和頼様」

 乾いた音をたてて開く引き戸を前にして、桜良は和頼に丁寧にお辞儀をした。

 高等科の二年生として詰め襟の学生服の上に黒い羊毛ウールのコートを着た和頼は、凛々しい眉や瞳が男前な十八歳で、高い背丈と広い肩幅は伯爵家の次期当主にふさわしい風貌であるように見える。

 しかし恵まれた容姿に反して和頼の表情は常に曇っていて、まとう雰囲気もどこか陰鬱である。

「ああ。今帰った」

 口ごもるようにつぶやき、和頼は窮屈そうに身を屈めて靴を脱いだ。そのふるまいは主らしさに欠けてぎこちなく、視線も桜良を避けて伏せられていた。

 その様子から察するに、兄の和頼は妹の明里と違って、桜良を女中扱いすることに居心地の悪さを感じているようである。

 幼い頃の和頼は、腹違いの妹の桜良にいつも優しく話しかけてくれていた。

 勘違いや自意識過剰でなければ、和頼は今も桜良のことを気にしてくれているはずである。しかし状況が変わってしまってからは、幼い頃と同じではいられずよそよそしい。

「先程、明里様のためにお茶を淹れましたが、和頼様も何かお飲みになりますか?」

 和頼の脱いだ革靴を下駄箱にしまいながら、桜良は温かい飲み物が必要ではないかと訊ねた。

 女中らしくふるまう桜良を、和頼は一瞬だけ顔を上げてまともに見た。そして何か言いたげな顔をしたが、すぐにまた顔を伏せて聞き取りづらい声で答える。

「いや。俺はいらない」

 そう言って桜良に背を向けて、和頼はコート姿のまま自室の方へと消えていく。

(一体和頼は、何を言いたかったのだろう)

 桜良は和頼が伝えようとした言葉を考えながら、玄関で一人立ち上がった。

 振り向き女中部屋に戻ろうとすると、廊下の進んだ先に人影があることに気づく。

 それはじっと桜良を見つめる、これから人を殺そうかどうか理性的に迷っているような、複雑な表情をした都志子の姿であった。

(あの人が見ていたからか。和頼が黙ったのは)

 和頼が何を言おうとしていたのかはわからない。

 しかし和頼が黙った理由には納得し、桜良は礼儀正しく立ち止まって、都志子に深々とお辞儀をした。顔を伏せるのは、その方が都志子の怒りを買わずに済むからでもある。

 幸いなことに、都志子が桜良に近づく気配はなかった。

「桜良さん。もうそろそろお食事の準備、お願いね」

「はい。かしこまりました」

 顔の険しさをごまかすように、都志子は平静なふりをして何気ない言葉をかける。

 深く頭を下げたまま、桜良は返事をした。

 立ち去る足音がしてから顔を上げたので、そのときにはもう都志子の姿は廊下にはなかった。

(ちょっと話すだけで、そんなに警戒されるんだ)

 重い緊張をといて、桜良は軽く息をつく。

 桜良と和頼が満足に言葉を交わすこともできないのは、やはり都志子の目を気にする必要があるからである。

 都志子は何よりも、和頼と桜良が親しい関係になることを恐れていた。

 だから少しでも和頼が桜良に優しげに話しかけたのなら、都志子は桜良が和頼を誘惑したものと見なす。

 そうしたときには都志子は、桜良は母親と同じ売女であり、見境なく色目を使うみだらな女なのだと、やわらかな言葉遣いで罵った。またさらに昔は言葉だけでは済まず、都志子は幼い桜良をしつけと称して土蔵に折檻したこともある。

 都志子が万事そうした調子であるので、和頼は桜良がひどい仕打ちを受けないように、次第に距離を置くようになったのだ。

(お互い余計なことを言わなければ、とりあえず文句は言われないから)

 女中部屋に戻り戸を閉めた桜良は、糸を解きかけた巾着を床から拾い上げる。

 高窓から入る日差しは夕暮れの色で、都志子が言っていた通り、夕食の支度をしなければならない時間が近づいていた。

 結局遠くにいるのなら、何を想われていてもたいした意味はない。桜良にとっての和頼は、そうした存在であった。



 夕食とその片付けを済ませた桜良は、明里が失敗した巾着を縫い直し、一番最後の冷めてぬるい風呂に入ってすぐに就寝した。

 少しでも長く眠らなければ明日も働けないので、自分のことをして過ごせる余暇は桜良にはない。

 薄くひんやりとした布団にもぐり込み、桜良は電灯を消した暗い天井を見上げる。

(あの人もそんなに私が嫌なら、最初からどこかの養子に出せばよかったのに)

 まるで他人事のように、桜良は都志子の選択を心のなかで非難した。

 庶子を養子に出すのはめずらしい話ではないのだが、都志子は桜良を家からは出さなかった。都志子は自分から夫を奪った女の娘である桜良が、自分の目の届かない場所で幸せになることが許せないのだ。

 見目も悪くなく、黙ってよく働く桜良は意外と縁談を持ちかけられるのだが、これも都志子が適当な理由をつけて尽く断った。

 大戦後の皇国は西洋の国々ほどではないものの成人男性の人口が減っており、結婚相手を見つけることが難しくなっている。そのため桜良に縁談があるのは非常に幸運なことだったのだが、都志子がいる限り話が進むことはない。

 桜良は都志子によって、檻のない牢獄に幽閉されているようなものである。

(だけど、この家を出ていけば幸せになれるとも思えない)

 だんだん重くなってきたまぶたを閉じて、桜良は自分の将来の可能性について考えた。

 例えば都志子が死ねば状況は変わり、桜良は誰か立派な人の嫁になったり、もしくは妾にしてもらったりできるのかもしれない。

 しかし妾として大切にされ、美しいドレスや屋敷を与えられていた母親の、どこか淋しげな横顔を覚えている桜良は、異性に愛されればそれで幸せになれるのだとは信じられなかった。

 決して、孤独が心地よいわけではない。

 だが今更他人と深く関わって生きていける気もしないほど、桜良は孤独に慣れていた。

 何も憧れず、何も望まず、ただいつか終わりが来るのを待つ。それが桜良の人生だった。

(あの広い森にいらっしゃる神様たちが知ってる時間の長さに比べれば、私が死ぬまでなんてほんの一瞬のはず……)

 眠りにつきながら桜良は、西都の近郊に広がる聖域である「神在森」にいる神々のことを考えた。

 人は神々を祀り、神々は人を祝福する。

 桜良が暮らす国である皇国の各地には永遠に近い時を生きる神々がいて、特に西都の北にある神在森には格式の高い神々が住んでいる。彼らとの対面が許されているのは皇族や古い歴史を持つ旧家だけであるので、神在森は聖域として厳重に管理され神々の存在ごと祀られている。

 神々に会う権利を持っているのは本当に限られた家だけであるため、それなりの名家である久世月家であっても聖域の森に立ち入ることはできない。だから久世月家に認められた庶子ですらない桜良が、森の神々を目にすることは絶対になかった。

 だが見ることができないからこそ、桜良は神々について考えることが好きだった。

(今を生きる私たちのしがらみも、きっと神様にとってはつまらないものだから)

 桜良は一日の終りには必ず、祈るように神々の姿を思い浮かべる。学のない桜良には、正式な祈りの言葉も、本当の神の形もわからない。

 しかしそれでも夜に布団の中で目を閉じたときには桜良は、暗い森の奥にいる神々に想いを馳せる。幼い頃はそれほど興味はなかったが、今は想えば安らげる存在だ。

(私が幸せでも不幸せでも、神様の前では小さな問題だと思えば諦められる)

 こうして桜良は布団の中で何かを祈りながら、重く疲れた身体を泥に沈めるように眠りにおちた。

 何を想像しながら寝ても、桜良の眠りは星の見えない高窓の外の夜空と同じで、暗くて寒々しい虚無であり夢も見なかった。



 大晦日や元旦の休みもなく、冬の雲は桜良の頭上を通り過ぎていく。しかしそのなめらかで希望のない日々は、空気がわずかに緩みはじめたある晩冬の朝に引っかり止まった。

「あの、ちょっと」

 客人の対応をしていた絹江が障子を開けて、桜良が掃除をしていた廊下に困った様子で顔を出す。

 着物の上に割烹着を着て手ぬぐいを頭に被り、いつものように床を雑巾がけしていた桜良は、敷居のへこみを拭く手を止めて顔を上げた。

「何か、私がやることがありましたか?」

 桜良は淡々と、必要なことだけを訊ねる。

 お茶を淹れて出すくらいのことは、家事が出来ない絹江にもできる。しかし絹江は包丁や鍋を持たせると何もできないので、来客中もことあるごとに桜良を頼った。

 だから桜良は、今日もきっと客人の手土産の羊羹を綺麗に切ってほしいとか、そういう用事なのだろうと思って冷めた気持ちでいた。

 しかし絹江が口にした内容は、桜良が見越していたものではなかった。

「神祇省からいらしたお客様が、桜良さんにお会いしたいそうなんです」

 絹江は自信がなさそうに、障子に手をかけたまま立っていた。

「神祇省の人が、私に?」

 まったく自分との関わりがわからない突然の単語に、桜良はおうむ返しに聞き返す。

 神祇省とは皇国にいる神々に関わる行政と祭祀を司る官庁であり、女中として生きている桜良と接点があるような存在ではない。

 いくつも思い浮かぶ疑問についての答えを来客を取り次ぐだけの使用人が知っているはずもなく、絹江が何の説明も言えないまま桜良を急かす。

「理由はあたしにもわかんないんですけど。とにかく、客間に来てほしいそうなんです」

 絹江は床を拭くために屈んだままでいた桜良を立たせて雑巾を預かり、困った表情のままこちらをじっと見つめた。

「えっと、とりあえず手ぬぐいと割烹着は外しときましょう」

 みすぼらしい服装の同僚を少しでもましな姿にしてあげようと、絹江は桜良の頭を覆った手ぬぐいを取ってささやかな思い遣りを見せる。

「確かに、これはないほうがいいでしょうね」

 割烹着を脱いで絹江に渡し、桜良はただの着物姿になった。隠すものがない分、ぼろ布のようなかすりが目立ってしまったが、着替えの着物も同じくらい古いのだから仕方がない。

「お客様は、こっちです」

 絹江に案内されて、桜良は客間に通じる襖の前に立つ。そこは掃除以外では、ほとんど入らない部屋である。

(あの人に文句を言われないように、ちゃんと振る舞わないと)

 何をするにしても桜良は、都志子の目を気にするくせがついていた。

 室内に声をかけて確認し、絹江がゆっくりと真鍮の引手に触れて襖を開ける。

 桜良はどんな感情で客人に会えば良いのかわからないまま、挨拶をするために急いで廊下に座った。



「失礼いたします」

 慣れない微笑みを浮かべて、桜良は姿勢よく座礼をする。

 顔を上げればそこあるのはガラス窓の引き戸から庭の緑がよく見える客間であり、南向きの座敷全体が冬日向になっていて明るく暖かい。床の間や違い棚には趣のある掛け軸や壺が置かれており、桜良が日々掃除をしているので埃はほとんどないはずであった。

 部屋に入ってすぐの下座には、穏やかな表情に困惑を隠した都志子が座っている。

 そして上座の方には見知らぬ洋装の男がいて、桜良と顔を合わせるとすぐに鷹揚な態度で声をかけた。

「あなたが桜良様ですか。どうぞ、こちらにお座りください」

 まるで屋敷の主であるかのように、男は堂々とした笑顔で桜良に着席を勧める。

 男は健やかに日焼けした褐色の肌をしていて、異国の血が混じっているようには見えないのに、洋装がよく似合う彫りの深い顔立ちだった。年齢はおそらく、二十代の半ばくらいだろう。少し長めに伸ばされた髪は後ろで束ねられ、かすかに選民意識を忍ばせた瞳は強かに輝く。

 ゆったりと仕立てられたスーツは大人びた濃紺のストライプで、臙脂色のネクタイには銀色のピンが光っている。靴下もポケットチーフも時計も、身に付けている物の一つ一つが、雇われの運転手が使っているような物とは違って上質に見えた。

 身なりも顔立ちも洗練された男の姿に、桜良は目的がわからずただ戸惑いを深める。

(こんな美男子が、私に一体何の用があるって言うのだろう)

 まずは言われた通りに、黙っている都志子の隣の、畳の上に敷かれた八端判の座布団に移動して座る。

 まずどんな言葉を発するべきか桜良が迷っていると、盆を手にした絹江が部屋に入ってきて、緑茶の注がれた茶碗と饅頭の載った皿を置いて去った。

 饅頭は雪の結晶の形の焼印が押された真っ白な薯蕷饅頭で、黒茶色の皿の上で小さくもつやつやとした光を放っている。

 男と都志子の分の茶と茶菓子は先に並んでいて、都志子は手を付けていないが、男は皿も茶碗も空にしていた。

「西都の中でも屈指の評判の 御菓子司おかしつかさで買ってきた饅頭だから、美味しいですよ。ぜひ、召し上がってみてください」

 遠慮をさせない爽やかな強引さで、男は広げた手を差し出して桜良に菓子も勧める。

 桜良は努めて愛想よく、お礼を言った。

「ありがとうございます。いただきます」

 そしてうろ覚えの作法で饅頭を楊枝で切り分け、丁度良い大きさにして食べる。

 口どけの良い漉餡こしあんの甘さをしっとりとした生地が包む具合が、職人の技を感じさせる上品な薯蕷饅頭であった。

 頭の中が疑問で一杯の桜良は、饅頭の美味しさや餡の香り高さをゆっくりと味わえるほどの心の余裕はなかったが、名店の品だと言われたのでとりあえず褒め言葉を絞り出した。

「すごく、贅沢な味がします」

「でしょう? 僕は以前この饅頭を一日で三十個食べたことがあるのですが、それでも食べ飽きなかったんですよ」

 饅頭を食べる桜良を満足そうに眺めて、男がよくわからない自慢を言う。

 最後に桜良は、丁度良いぬるさになった緑茶を飲んで心を落ち着けた。高級店の饅頭は食べ慣れないが、緑茶はまだ味に馴染みがある。

 桜良が茶碗を茶托に戻すと、掴みどころのないやりとりにしびれを切らした都志子が、頃合いを探って本題を切り出した。

「それではもうそろそろ、この家で雇っている女中にどんな用事がおありなのか、お訊ねしてもよろしいかしら」

 婦人らしく少しの乱れもなく藍染めの紬を着て座る都志子はあくまで、桜良をただの女中として扱う。

 そのあたりの事情を知っているのか、男は薄く笑って頷いた。

「桜良様もいらしたことですし、まずはもう一度自己紹介しましょうか」

 答えを焦らすように、男は自分の名前と役職をゆったりと聞き取りやすい声で話した。

「僕は神祇省で典客官という、神々の客人等をお迎えする役職を務めております、津雲つぐも由貴斗ゆきとと申します」

 由貴斗と名乗る男は、にこやかに桜良を見つめていた。

 生きた神々が各地に住んでいる皇国では、神と人間が様々な関わりを持って暮らしている。

 神祇省はそうした神々と人間の関係を取り結ぶ省庁であるので、由貴斗が言うような仕事を果たしている者がいても不思議ではない。

 相手が丁寧に自己紹介をしてくれたのだから、自分も改めて名前を言わなくてはならないと桜良は思った。

 しかし桜良が口を開くよりも先に、少しでも早く由貴斗の目的を聞き出したい都志子が質問を投げた。

「この娘をどこかの神殿へ連れて行くために、あなたはいらっしゃったと」

 態度には出さないものの、不可解な来客に苛立ってる都志子は、由貴斗に話を長引かせないように話しかけている。

 その問いに対して由貴斗は、流れるようになめらかに、桜良が神祇省の職員と会わなければならなくなった理由を告げた。

「僕が参りましたのは、人に食されるために再生する神であらせられる御饌都之宇迦尊みけつのうかのみこと様のこの春のご伴侶に、桜良様が選ばれたためです」

 そこで由貴斗は一度言葉を切り、少々考え込んでから説明を続けた。

「桜良様はその命と引き換えに神の肉を食すことができる『神喰いの花嫁』になることができる、と言ったほうがわかりやすいでしょうか」

 「神喰いの花嫁」という言葉を聞いてやっと、桜良は自分が置かれた状況を理解した。

(神喰いの花嫁ってあの、昔話に出てくる神様の食べる女の子の……)

 神の肉を食す少女と、死と再生を繰り返す食物神の物語は、皇国に生まれた人間にとっては常識に等しい昔話である。

 また宇迦尊うかのみこととも呼ばれるその神が、西都の北の神在森にいる神々のうちの一柱として今も生きていることは、学校へ行けず知識の少ない桜良でも知っていた。

 宇迦尊が住む神殿では一年に一度か二度、「神喰いの花嫁」という名の巫女に選ばれた女性が宇迦尊に嫁ぎ、その身体を食して死ぬ儀式が行われる。花嫁に食されるために宇迦尊も死ぬが、彼は昔話と同じように花嫁の死後に生き返る。

 それは季節のめぐりを言祝ぎ、豊穣や大猟を願う儀式として、古来より神在森で行われる数々の祭事の中でも特に重要なものとされていた。

(そんな神様に、私が?)

 桜良は現実感のない気持ちで、由貴斗の説明を心の中で反芻した。これまでの自分の立場とはまったく釣り合わない空想であるような気がして、ただ黙って由貴斗を凝視することしかできない。

 隣にいる都志子も桜良同様、男の説明を即座に飲み込めなかったようで、目を丸くして言葉を失っていた。

 しかし都志子は冷静さは忘れてつつも、久世月家の女主としてまず最初に反応を返した。

「ここにいる桜良が、神喰いの花嫁ですって?」

「はい。神祇省に勤めております卜部うらべが、そう占いました」

 うろたえる都志子をよそに、由貴斗は涼しい顔で桜良が選ばれた根拠を語る。

 あまりにも突然の話であるので、桜良は何かの詐欺ではないかと疑ったが、由貴斗には本能的に神々とのつながりを信じさせる本物らしさがあった。

 桜良がまだ何も言えないでいると、都志子が男から主導権を取り戻そうと言葉を発した。

「この娘は卑しい出自の女を母に持つ、学も何もないつまらない女中です。縁あって我が家に置いていますが、そんな尊いお役目を果たせるような娘ではありません」

 神の花嫁という栄光ある立場に桜良がなることを、爵位はあるものの神々との距離が遠い家格に属する都志子は許さない。

 だから何とかして都志子は、これまでと同じように理由をつけて桜良の縁談を断ろうとしていた。

(また今回も、この人が扉を閉ざすんだろうか)

 絶対に桜良を家から出さないという、強い意志を感じさせる都志子の態度を前に、桜良は暗い気持ちで視線を落とした。

 だが由貴斗は、都志子の言い分には全く耳を貸さずに言い返した。

「奥様。神喰いの花嫁は、出自や性質ではなく卜占ぼくせんが決めるものです。たとえ無知で淫乱で怠惰な下賤の身の女子であったとしても、卜部の結果が彼女だと告げれば彼女になります」

 反論の内容をよく聞いてみると、由貴斗は桜良を侮辱するような言葉を使っていた。

 神々を中心にしたことわりの中で、桜良は人間性を無視されただの駒のように扱われている。

 しかしどんなに見苦しい属性の人間でも構わないと言われているからこそ、桜良は由貴斗のことを信じられる気がした。

 取り付く島もない由貴斗の姿勢に、都志子はひざの上に置かれた綺麗な手を握りしめて引き下がる。

「それは、そうなのでしょうが……」

 易々と都志子を言い負かした由貴斗は桜良に向き直り、それまでの話の強引さの埋め合わせをする配慮を見せた。

「もちろん、革命後の我が皇国では基本的人権うちの一つである自由権が認められています。ですから桜良様が神喰いの花嫁になることを望まないのなら、ご辞退は可能です」

 古いしきたりがすべてを決めていた以前の皇国なら、神に代わって国を統治する朝廷の政治は絶対的なものであり、民がその命令に逆らうことは許されなかった。

 しかし数十年前に一部の海外の思想に影響を受けた青年たちが民主革命を起こし進歩主義の帝を即位させた結果、人権と呼ばれる西洋由来の概念が広まり、今では民の意志も尊重されることになっている。

 これまでの桜良の人生には関係がないし、あまり本質を理解していない事柄であるが、現在の皇国はそうした歴史があって存在していた。

「神の肉を食した人間はその美味なる味に命を失うことになりますから、花嫁に選ばれても断った方も当然います」

 由貴斗は誰かが決めた規則どおりに、桜良に与えられた二つの選択肢を提示していた。

 『神喰いの花嫁』になることを辞退した女性がいたというのも、おそらく嘘ではない。

 だがいつどのような場合であっても、大半の国民は神と関わることができる機会を拒まない。たとえ自分の命や人生が犠牲になることがあっても、神々に選ばれ結ばれるのは至上の幸福なのだと信じる人々の気持ちは、革命後も変わらない。

 神の存在に深く触れることができるのは、どんな身分の人間にとっても、何を引き換えにしても良いと思わせるほどに名誉なことなのだ。

「桜良様は、どういたしますか。お日にちを空けて決めることもできますが」

 まだ桜良自身も頭に浮かべていない答えを見抜くまなざしで、由貴斗はこちらを見つめていた。

 桜良は由貴斗に尋ねられてやっと、都志子ではなく自分が返事をしなくてはならないと理解する。

 もはや都志子は口を挟む口実もなく、部外者として無愛想な顔で沈黙していた。

(私は何も持ってない。だから断る理由も、どこにもない)

 まず桜良は控えめに、しかし積極的に、神喰いの花嫁になることを自分の中で受け入れた。

 この先生きても何も得られない気がしていた桜良には、神の肉を口にすれば最後は命を失うしかないという前提は、むしろ好ましいものに思える。

 これまで結婚生活に憧れを持ったことはなかったものの、その先の未来が生きる必要がないのなら、花嫁になってみたい気持ちはあった。

 だから桜良は知っている限りの礼儀作法を使い尽くし、畳の上に手を揃えて正座のまま丁重にお辞儀をした。

「……私は、御饌都之宇迦尊様に嫁することを、謹んでお受けしたいと思います」

 どこかで言葉遣いを間違えているかもしれないと思いつつも、桜良はかしこまった口調で神の伴侶として神を食すことを承諾する。

 知らないうちに、桜良は笑みも浮かべていた。

 桜良はこれまで、終わりの見えない辛い日々の中で終わりが来るのを待っていたので、思ったよりも早く人生の終末が訪れたことが嬉しかった。

「栄えあるご機会を私にくださり、誠にありがとうございます」

 自分でも驚くほどに快活な声でお礼を言って、桜良は顔を上げた。

 スーツ姿で座る由貴斗は、健やかな笑顔で一度黙ってうなずいてから、桜良の選択を祝福する。

「素晴らしいご決断、おめでとうございます。桜良様」

 どちらが選ばれたとしても花嫁の選択を肯定するのが仕事であるらしい由貴斗は、あらかじめ用意されているのであろう言葉で桜良を祝福をした。

 怒りを隠しきれない面持ちで横隣にいる都志子の表情を伺う必要は、もはや桜良にはない。

 桜良は部屋の中の冬の日だまりのように、明るく暖かな気分でいた。



 『神喰いの花嫁』になることが決まったその日に、桜良は女中の仕事から解放された。

 さらに部屋も着物も伯爵家の令嬢にふさわしいものを与えられ、庶子として認められるための書類も急いで用意される。

 また残された絹江はまったく家事ができないので、新しい女中が急遽雇われた。彼女は無口な老いた女性で、これまでの桜良と同じように黙って働いた。

 それから卯月の輿入れまでの二ヶ月弱、家事の代わりに桜良がやらなければならなかったのは、並大抵ではない量の習い事である。

「久世月家から神に嫁ぐのなら、誰に見せても恥ずかしくない女性になってもらわなくては困ります」

 都志子は半ば命ずるようにそう桜良に言って、習字や読み書き、歴史や文学などの一般的な教養などに加えて、茶道や華道などのお稽古事も学ばせる。

 教育を受ける機会をもらえたことは、感謝するべきなのかもしれない。

 だが長年の憎しみを捨てたわけではない都志子は、桜良に自信を持たせず劣等感を抱かせるためなのか、次々に無理な難題を押し付ける。

 だから桜良の元には入れ替わり立ち替わり何かの先生がやってきて、空いた時間には抱えきれないほどの課題があった。

 両親が死んでから今日まで掃除や洗濯、炊事に裁縫以外のことをさせられてこなかった桜良は、覚えなければならないことの多さになかなかついてはいけない。

(調味料とか洗剤の文字はわかるけれども、それ以外の言葉の漢字はさっぱりわからない)

 暗く狭い女中部屋と打って変わり、広々として小綺麗な和室に置かれた抽斗ひきだし付きの文机を前にして、桜良は付け焼き刃の知識という言葉の意味を実際に理解する。

 机の上に広げた子供向けにふりがながふられた歴史の教科書は、絵が多く内容はわかりやすいものの読んでも身になる気配はない。

 実際は神喰いの花嫁になるのに特に準備の必要はないと、由貴斗は説明していた。とはいえ、実情はともかく伯爵家から嫁ぐことになる桜良は、都志子の言う通り多少は令嬢らしさを取り繕わなくてはならなかった。

 その必要性は理解できても、求められる通りになることは難しい。

(服だけは着てしまえば、どうにかなるのだけど)

 簡単なようでわかりづらい教科書の文章から視線を外し、桜良は前掛けや割烹着を身に着けていたときとは違う自分の装いに視線を落とした。

 死ぬまで働き通しの女中ではなくなっても、結局桜良に自由はない。

 それでも青磁色の雪輪模様の着物のやわらかな着心地には、立場が変わったことを実感する。明里のお下がりであってもその着物は、朧げな色彩が桜良の細身によく似合う一枚だった。

 目を上げれば文机の近くの窓からは、庭で木々の傷んだ葉を取り除いている庭師の男の姿が見えた。

 季節は雪が溶けて水になる頃で、雀もつがいを探して鳴き、朝夕は寒いが昼の寒さは和らいでいく。

 その淡く明るいの新しい季節の兆しに、桜良は人生で最良の春の訪れを感じていた。

 たとえ自分の好きにできる時間がなかったとしても、桜良には花嫁にどんな瑕疵があっても受け入れ終わらせてくれる神がいる。そのことを考えれば桜良は、これまでの理不尽なこともすべて報われた気がする。

 そして桜良が再び勉強に戻ろうとしたところで、襖の外から絹江の声がした。

「失礼いたします」

 以前よりも恭しくなった絹江の呼びかけに、桜良は「どうぞ」と短く返事をする。

 絹江は襖を半分開けて、中には入らず要件だけを伝えた。

「呉服屋の坂井様が、花嫁衣裳用の反物の見本を持っていらっしゃいました」

「わかりました。今から行きます」

 机の上の教科書をしまい、桜良は立ち上がって部屋の外に出た。

 廊下では絹江が待っていて、侍女のように桜良に付き従う。

 そして絹枝は呉服屋のいる部屋まで桜良を案内して、また襖を開けた。

「おはようございます。よろしくお願いいたします」

 客間には表面上は平静を装う都志子もいたが、桜良はなるべく物怖じしない態度でお辞儀をする。

 もうすでにいくつかの反物を広げて待っていた呉服屋の中年男性は、愛想良く挨拶を返した。

「神喰いの花嫁になられるこんなにお綺麗なお方の御衣裳を仕立てることができるのは、私どもといたしましても非常に光栄なことでございます」

 お世辞に迷いのない愛想の良さで、呉服屋は桜良に話しかける。

 容姿を褒められたことが嬉しくて、桜良はより一層誇らしい気分になった。

 だが表情が明るくなっていく桜良をたしなめるように、都志子は皮肉を挟んだ。

「見せかけは何とかできても、なかなか中身はちゃんとしませんから、坂井屋様の御衣裳のお力を借りたいところでした」

 都志子はやわらかな物腰で微笑んで、分別のある継母のふりをする。しかしそうした態度の裏にある敵意は、以前よりも力を失っていた。

 せめて最後に自信を奪おうと、都志子が粗探あらさがしをして文句をつけても、終着が見えている桜良にはそれほど恐ろしいものではない。

(それに私は多分、優越感を抱くことが好きなのだと思う)

 神々の道理によって敗北した都志子を後目しりめに、桜良は仄暗い喜びを覚える。

 以前の桜良は、自分は謙虚で我慢強い人間だと思っていた。

 しかし実際は敬われるのは気持ちが良く、これまで散々不当な扱いを強いてきた都志子が、桜良の美しさを認めざるを得ない状況を見るのはすがすがしい。

 桜良は自分が自分に評価を下していたほどには、清らかな心を持っていなかった。

「どの唐織も、一級品だけをご用意いたしました。細かな柄のものも、大胆な柄のものも、どちらも桜良様にはきっとお似合いになると思います」

 様々な柄が織り込まれた白地の布を桜良に見せて、呉服屋が微笑む。

 桜良にはとても豪奢なこと以上のその布の価値がわからなかったが、後ろに控えていた絹江がうっとりとした嘆息をもらしたので、本当に素晴らしい品なのだとわかった。

 着る機会は一生ないような気がしていた花嫁衣裳の準備に立ち会い、桜良は神の伴侶になれる幸運を噛み締めた。

 もしかすると毎晩寝るときに神に祈っていたから、想いが届いたのかもしれないと自惚れる。

(私は今更、教養のある人間にはなれない。でも確かに見かけだけなら、どうにかできるはずだから)

 女中として虐げられていたときでさえ、桜良は自分の容姿にそれなりだと自負していた。

 だから呉服屋に対しては怯まずに、お世辞も素直に喜んで話を聞いた。



 桜良は神喰いの花嫁になることでまた、なし崩し的に嫡子と同等の存在として認められ、久世月家の人間として日常の食事も家族と共にすることになった。

 夕食の時間になると、家紋が描かれた立派な器の載った食膳が、花菱の透かしの入った電笠シェード付きの電灯で明かりをとった座敷に並ぶ。

 黒い漆塗りの皿や椀にはひらめの煮付けや小松菜の味噌汁など、桜良の代わりの女中が作った旬のものを使った質素だが滋養のある献立が盛り付けられていた。

(自分で作らなくても料理が出てくるのは、ちょっと変な気分がする)

 席次によって決められた端の席に座り、桜良は自分で作ったものよりも美味しそうに見える夕食をしげしげと眺めて箸を手に取る。

 台所の隅で一人で食べる食事と違って、その部屋には家族と呼べるようになったらしい人たちが隣にいる。

 しかし和頼は相変わらず黙り込んでおり、都志子も何も言わずに料理に箸をつけていたので、いわゆる今風の一家団欒という雰囲気にはならない。食事中は喋ってはならないという昔ながらのしきたりを使って、彼らは桜良との間のわだかまりから逃げる。

(今から打ち解けて話せって言われた方が困るから、私は別にこれで良いけれども)

 桜良は沈黙を気にせずに、鼈甲べっこう色の煮汁に浸かったひらめの身をほぐして、艶のあるふっくらとした白米と一緒に食べる。

 だが元々引け目も何もない明里だけは例外で、一足先に茶碗に盛った白米を平らげ、二杯目を頼み待っている間に隣の桜良に話しかけた。

「神喰いの花嫁になること。桜良は嫌ではないのよね」

「ええ、まあ。嫌ではないです」

 桜良は言葉少なく頷いた。使用人だった頃の明里への態度を急に改めることはできず、結局敬語を使っている。

 物珍しい見世物を見るようなまなざしで桜良を見つめ、明里は「ふうん」と相づちをうってまったく誰にも配慮することなく考えを述べた。

「神様に嫁ぐことができるなんてありがたい話だけど、私なら絶対に辞退するわ。だって私には、私には大事な将来を決めた人がいるから」

 その素朴な感想はごく自然に、桜良を何一つすがるものがない哀れで孤独な人間として見下していた。

 悪意がないのに人を傷つける鋭い言葉選びに、桜良はかえって感心する。

 明里のあまりの心のなさには、桜良だけではなく兄の和頼と親の都志子も表情を強張らせた。

 婚約者である直芳に脳天気な恋をしている明里と違って、和頼と都志子はそれほど幸せに生きているわけではない。明里は気まずさややましさを感じないことに異常に長けているので、彼女以上に心から幸福な人間を探すのは困難である。

「明里。そんなにべらべらと喋りすぎるのは……」

 不必要に不協和音を大きくする明里を、都志子はそれとなくたしなめようとした。

 しかしある意味では平等に、誰に対してでも気を遣わないで鈍い明里は、母の忠告を無視してさらに決定的な一言を桜良に刺した。

「でもあなたには誰もいないから、結局死んでしまっても困らないのね」

 親切そうに配慮し、勝手に納得するような調子で、明里は桜良の尊厳を踏みにじった。

 他人の人生を死んでも困らないはずだと評価するのは、普通に考えればひどい話である。

 だが言いたいことを言ってしまうと、明里は小皿の上の白い大根の漬物を口に放り込み塩分を味わっていた。

(明里の言っていることは、間違ってはいないけれど)

 自分が神喰いの花嫁になることを決めた理由を振り返り、桜良は冷静なままでいる。

 以前の桜良なら、何かを言えばよりみじめになる気がして、そのまま黙っていたかもしれない。

 しかし今の桜良は、これまでと同様に冷めてはいても、怖いものがない気分だったので、一つ自分の意見を言ってみた。

「そうですね。他に誰かがいたら、私は神様を選べなかったかもしれません」

 宇迦尊という神のことを、好きになれるかどうかはわからない。それでも桜良は、神に嫁げば幸せになるのだと信じている。

 その決意を聞いているのかいないのか、明里は絹江が運んできた二杯目の茶碗を受け取り上機嫌でいた。

 再び静かになった部屋で、都志子は目を伏せて桜良の言葉を無視した。

 桜良はそれ以上はもう、明里の反応も都志子の顔色も気にしないことにした。

 淡く塩辛く温かい味噌汁を飲んで桜良が顔を上げると、正面に座る和頼がこちらを見ていたようで、一瞬目を合わせると後ろめたそうにあちらから視線をそらした。

 暗い表情で俯き、食事もあまり進んでいない様子の和頼は、桜良がこれから神に嫁いで死ぬことに動揺しているようにも見える。

 だが自分のことで心を砕いているのであろう和頼を目の前にしても、桜良は黙り続ける彼の想いを汲もうとは思えなかった。

(和頼は私のことをちゃんと考えてくれていたのかもしれない。でも結局何も言えないなら、大事な誰かにはならないから)

 今このときも和頼の横には都志子が見張るように座っていて、庶子の妹と嫡子の兄の関係は自由にはならない。そのことは理解しているが、桜良はただの想いだけに救われることはできない。

 食べなければ空腹は満たされないように、桜良にはただ見られるだけではない、誰かの何かが必要だった。

 人に食べられるために生まれて死ぬ神の肉は、料理が得意な女中が作った夕食よりも美味しいはずで、その食べた者が死んでしまうほどの美味しさが桜良の灰色の日々のむなしさを埋めてくれるはずである。

 その幸せを信じて、桜良は食膳に載った食事を食べ続けた。



 卯月の中旬のある縁起の良い日が、桜良が神喰いの花嫁として久世月家を出ていくときになった。

 屋敷では花嫁の門出を祝う宴が開かれて、桜良には思い入れのない客が集まっている。

 しかし花嫁本人である桜良にはやるべきことがたくさんあるので、宴で振る舞われるご馳走を食べる時間はない。

 日差しは暖かいが空気にはひんやりとした清々しさのあるよく晴れた日の自室で、桜良はさらさらと肌触りが良い長襦袢を着る。

 本来なら家族が支度に関わるものなのかもしれないが、明里や都志子が桜良の面倒をみる雰囲気ではなかったので、代わりに絹江が手を貸してくれた。

「それじゃあ、始めますよ」

「はい。お願いします」

 使い込まれた道具を机に並べて声をかける絹江にすべてを任せて、桜良は鏡台の前に座った。

 絹江はまずコテを使って髪のクセをとり、鬢付け油を使って両鬢や髱に分けてまとめていく。

 身支度の手伝いは絹江の本来の仕事であるので、家事と違って慣れた様子で手際は良い。

 やがて結い上げた髪が乱れなく整ったところで、絹江はくしやヘラを片付けて今度は化粧道具の入った抽斗ひきだしを開けた。

「次はお化粧ですね」

 普段よりも若干自信がありげな絹江は、てきぱきと手のひらで化粧油を温めて、下地として桜良の顔や首になじませた。

 そして練白粉を小皿にとると、水で薄く溶かして刷毛で桜良の肌に塗る。

(白粉は、ちょっと苦手)

 ぬるりと冷たい白粉が頬に触れる感触に、桜良はびくりと身体を震わせた。化粧とは縁のない生活が長かったせいか、何度してもらっても慣れることはない。

 そうした桜良の戸惑いは意に介さず、絹江は顔だけでなく手や衿足にも白粉を塗っていく。

 肌がほの白くなるとさらに、まぶたにはぼかし紅が、眉には眉墨が施された。

 濃い白粉の匂いの中で桜良は、鏡に映る自分の顔が淡く彩られていくのをただ見つめる。

 水化粧が終われば白無垢の着付けがあって、絹江は衣紋掛けから幸菱が織り込まれた真っ白な掛下を手に取って微笑んだ。

「お衣裳、間に合って良かったですよね」

「はい、本当に」

 絹江の他愛のない言葉に、桜良は静かな喜びを込めて頷く。

 掛下も打掛も呉服屋の職人が今日に間に合わせてくれたもので、誰のお下がりでもない桜良のための衣裳である。

 長襦袢の上に掛下を裾を引いて重ね、やや高めの位置で銀襴緞子の立派な帯を締めて打掛を羽織る。

「もうほとんど、最後です」

 白無垢の花嫁衣裳を無事に着せた絹江は、古風な銀細工の花笄はなこうがいを木箱から出して髷に挿した。

 そして仕上げに、桜良のくちびるに小筆で紅を塗る。

 桜良は軽く目を閉じ、絹江がくちびるの形を筆でなぞるのを感じていた。

 本来の紅差しは母が娘の幸せを願って送り出す儀式であるが、絹江はただ仕事として、桜良を花嫁人形を飾るように桜良を美しくする。それはもしかすると寂しいことなのかもしれないが、特に深い意味はないからこそ、桜良は差し出された善意を安心して受け止めた。

「これで、終わりました」

 長い時間をかけてやるべきことをすべてやった絹江は、満足そうに息をついて桜良を姿見の前へ連れて行った。

 誘導されるまま鏡の中を覗けば、白地に銀糸で流水に満開の桜の意匠が刺繍された白無垢を着た桜良がすました顔で立っていた。

 煌びやかで上品な光沢のある正絹の打掛が、桜良の華奢な身体の美しさを儚く繊細に引き出す。薄く施された化粧によって瑞々しく冴えた面貌は、まったく違う装いのはずなのに、いつも異国の服を着て紫煙を揺らしていた母親に似ていた。

(私と違ってたくさん愛されていたのに、幸せそうじゃなかったお母さん)

 心からの笑顔を見た覚えがない亡き母親の姿を自分に重ね、桜良は不器用に微笑んだ。母は桜良に幸せになる方法を教えてはくれなかったが、美しい人間の振る舞いは記憶に残してくれていた。

 その微笑みの意味を知らない絹江は、安心した様子で桜良に話しかける。

「まあまあ緊張したんですけど、上手くできましたよね」

「はい。ありがとうございます」

 桜良は本当の気持ちよりも純粋なふりをして、お礼を言った。綺麗になって嬉しいのは嘘ではないが、期待されているよりもずっと冷めた喜びを抱いている。

 それから桜良は、絹江が用意したもう一枚の鏡を使って華やかに裾が広がった後ろ姿も確認した。

 しばらくすると座敷で客人の相手をしていた都志子と明里も様子を見に来て、桜良に何もかも予定通りに進んでいることを告げた。

「桜良は名前にちなんで、桜の刺繍の打掛なのね。私の場合なら夫と二人で長生きしたいから、縁起良く鶴や亀の文様にしたいけれどもどうかしら。簪はそうね、藤の花みたいな飾りが揺れる金色のもので……」

 明里は品定めするように桜良の衣裳を見ながら、いずれ着ることになる自分の花嫁衣裳についての希望を絹江や都志子にまくし立てている。

 真っ赤な振り袖を着た明里の横に佇む黒留袖の都志子は、改めてよく観察すると桜良が今まで考えていた以上に老いていた。落ち着きはあっても若さは失っていなかった昔の姿と違って、今は積み重なる年月の重さに疲れて抗うことを諦めていた。

(それに今日のこの人は、昨日までと何かが違う)

 そう重要ではない明里の話は聞き流しながら、桜良はそっと都志子の顔色を探る。

 見たところ都志子の瞳に宿っているのは、憎しみや憤りではなかった。

 どうやら桜良に対して何もできることがなくなった都志子は、畏怖と切望が入り混じったまなざしをこちらに向けているようだった。

 より古い時代を生きてきた都志子は、部屋にいる他の誰よりも神に嫁いで食す花嫁の神聖さを信じていて、選ばれた少女を畏れている。また同時に都志子は、自分には与えられなかった幸運を羨ましがってもいた。

「良かったわね。素敵にしてもらえて」

「はい」

 誰にも選ばれなれなかった失望を込めて、都志子が桜良に声をかける。

 余計なことは言わないように注意して、桜良は短い返事をして頷いた。

(この人が妬むってことは、私はやっぱり幸せになるんだ)

 障子越しに差し込む午後の日差しが、部屋に影を作り出す。

 その光と影の間に桜良は立ち、幸福を手にする確信を他人のまなざしによってより強めた。



 そのうちに、迎えの車が屋敷の前に着いたという知らせがあり、桜良は白い草履を履き、綿帽子を被せてもらって表玄関から外に出た。

 鬼瓦や妻飾りや重厚な表玄関は、土間や式台の掃除はしたことがあっても、通り抜けて出ていくのは最初で最後のことである。

 迎えの車が止まっている場所までの短い道のりであるが、桜良は形式的に花嫁行列の形をとって歩いた。

 桜良の背後では絹江が朱柄傘をさして花嫁を太陽から隠し、さらにその後ろには蒔絵の装飾のついた長櫃を担いだ使用人が続く。

 踏石の敷かれた道の脇には、宴に呼ばれていた親族が並び、物珍しげに桜良を見ていた。

 裾を踏まないように右手でつまを取り、絹江がさす傘の影から外れないように、桜良はゆっくりと前に進んだ。

 話したり声をかけたりする者はほとんどおらず、聞こえるのは先導役の鈴のちりんちりんという音だけである。

 気づけば太陽は西の空で沈みかけていて、人も木々も茜色に染まっていた。その郷愁を誘う光の中で、桜良は幼い日のことを思い出す。

(昔はこのあたりで、和頼や明里と遊んだものだけれど)

 ちょうど懐かしくなったところで、都志子と並んで立つ和頼と明里の前を通り過ぎる。

 しかし作法通りに俯き黙って歩く桜良には、三人の親子の表情はわからない。結局彼らは桜良の本当の家族ではないので、わからなくても困らない。

 別れらしい気持ちもないまま家族と親族を後にして、桜良は屋敷の敷地の外を目指した。

 夕暮れの風は肌寒いはずの気温だったが、花嫁衣裳を着込んだ桜良には冷たくはなかった。

 そのうちに現れた黒くくすんだけやきの木材が歴史の古さを感じさせる瓦屋根の門をくぐり、白塗りの塀を囲むように伸びている小道を進むと、客用の駐車場として使っている芝草の空き地に出る。

 花嫁を迎えに来た黒塗りのクーペはその空き地に駐めてあって、神祇省の高官でありながらも運転手も兼ねているらしい由貴斗が車外で桜良を待っていた。

「荷物は後ろのトランクに。桜良様はこちらのお席にどうぞ」

 前回の訪問時とは違う漆黒のスーツを着た由貴斗が、ドアやトランクを開けて指示を出す。

「荷物は、ここですかね」

 使用人は長櫃を下ろしてトランクに載せ、紐で固定して一息ついた。

 長櫃と同じように桜良も、綿帽子を天井にぶつけないように身を屈めて、黙ったまま後部座席に収まる。

 真新しいクーペの枯茶からちゃのシートはなめらかで触り心地がよく、広々と足を伸ばせる広さを持っていたが、白無垢の桜良は窮屈に座ることしかできなかった。

 桜良が席につくと、絹江は傘を畳んでお辞儀をしてクーペから離れる。

 そうした何人かの付添に見守られて、桜良は長年暮らした家を離れようとしていた。

「準備ができたなら、出発しましょうか」

 運転席に乗り込んだ由貴斗は、シフトレバーでギアを操作し、鍵でエンジンをかけながら桜良に確認した。

 だが桜良が頷こうとしたそのときに、後部座席の窓を誰かが叩く。

 桜良が横を向くと、車の外には和頼が立っていた。礼服の代わりに学生服を着た和頼は、なぜか桜良を追ってここまで来て、車の中を覗き込んで軽く窓ガラスを叩いている。

「彼は、桜良様のご兄弟ですよね」

 車の近くに和頼が来たことに気づいた由貴斗が、サイドブレーキを握ったまま下げるのを止める。

 桜良は返事をせずに、じっと和頼の顔を注視した。

 和頼の表情は普段どおり曇っていたが、最後の最後に勇気を出して桜良にずっと言えなかったことを言おうとしている。

 ためらいがちに口を開く和頼の声は、ガラス越しに桜良の耳に届いた。

「桜良。俺は……」

 遠い昔に白い帽子クローシュを被った桜良の母の姿に見入ってときと同じ、恋い慕う熱を込めた瞳で、和頼は桜良を見つめていた。

 父親の妾であった桜良の母に幼い恋をしていた和頼は、その娘である桜良に想い人の面影を重ね、今もまた恋をしているようだった。

(そうか。だから和頼は私を……)

 桜良は紅をのせたくちびるを閉ざしたまま、拒絶するわけでもなく、受け入れるわけでもなく、ただ和頼を見つめた。

 これまでの桜良は、和頼の好意に気づいてはいても、態度をはっきりさせないその本当の意味までは掴んでいなかった。

 だが今日はたとえ声が聞こえなくても、凛々しく見えて陰りを秘めたその瞳の奥の感情を探るだけで、桜良には和頼の気持ちがすべてわかる。

 真面目で良識のある和頼は、桜良に兄妹以上の愛情を示すことを理性で抑え続けていた。しかし心の底では、神に嫁ぐ桜良を引き止め、自分のものにしたかったのだろう。

 慕情の宿る和頼の表情は、手も触れられないのに桜良のすべてを求めていて、同時にその欲望を恥じていた。

(私がいてもいなくても、和頼はこの先絶対に幸せになれないんだ)

 選んだわけでもなく非道徳的な恋心を背負わされた兄の不幸を、桜良は窓ガラスに触れる和頼の手のひらを眺めて理解した。

 桜良が和頼の腹違いの妹として生きている限り、和頼の願いは歪んだ形でしか叶わないし、そして和頼はその歪みに耐えられる人間ではない。

 しかしこのまま桜良が神喰いの花嫁としてこの世を去ったとしても、和頼の恋は永遠に報われない過去として、彼の心を縛り続けるだろう。

 都志子は和頼の想いに気づいていて桜良を遠ざけたのか、それとも遠ざけられたことが彼にとっての妹の価値を高めたのか。その違いについて考えることにはもう意味はなく、一度抱いた恋心を消し去ることはできない。

 どちらにせよ辛い目にあうしかない、夕日が影を落とす和頼の顔に、桜良は他人事のように同情した。

 切実な気持ちを打ち明けようとする和頼を目の前にしても、桜良は兄のことを好きにも嫌いにもならなかった。何も言葉を交わさずに過ごしてきた日々の長さは、今更無かったことにはできない。

 しかしその重苦しさが十分に伝わった今は、和頼に想われることが無意味だとは思わなかった。

 だから何が和頼の救いになるのかわからない桜良は、薄く化粧をした顔に精一杯に幸せな微笑みを浮かべる。立派な花嫁衣裳を着て神に嫁ぐ自分は、何も思い残すこともなく幸福なのだと伝えようとする。

(切り捨てることも、選び取ることもできないなら、最初から無かったことにするしかないから)

 桜良は最初から何もできない人間だし、何かをしても誰にも変えられない未来もある。

 だがそれでもきっと綿帽子に包まれて目を細める桜良の笑顔は、白い帽子クローシュを被った母の姿以上以上に、和頼の心に残るはずだった。

 何も気づいていないふりをして、最後に兄に見送られることを喜ぶ純粋な妹として振る舞う桜良に、和頼はどうにか口にしようとしていた言葉を失う。

「……じゃあな。達者でな」

 その代わりの何も面白くない別れの挨拶を、和頼は泣き出しそうに震える声で言った。その声はあまりにもくぐもってはっきりしなかったので、窓ガラスを挟んだ桜良はあやうく聞き逃してしまうところだった。

 そしてまた和頼はこれまでと同じように俯き、下ろした前髪の奥に瞳を隠して遠ざかる。迷いやためらいを見せながらも、諦めて桜良の側から去る。

 本当の望みが何であれ、残されたものは生きる他に道はなかった。

 親戚たちが並ぶ列に和頼が戻るのを見て、桜良は窓の外を覗くのをやめた。

「用は済んだみたいですね」

 桜良と和頼のやりとりが終わったのを確認した由貴斗が、サイドブレーキを下ろして車を発進させる。

 クーペは低速で空き地を出て、雑木林や田畑を通る農道に出ると次第に加速して流れるように走っていく。

 振り返らずに目を伏せ続ける桜良は、後ろの窓リアウインドウの向こうで並ぶ人や屋敷の門が小さくなっていく光景も見なかった。

 血縁のしがらみから一足先に抜け出るのは清々しい気分で、どうやら和頼に微笑んだ気持ちは嘘ではなかったことに桜良は気づいた。

(お母さんと同じように、私も車に乗ってもう戻らない)

 鈍く身体に響く車の排気音を聞きながら、桜良は父と母が海に出かけたまま帰ってこなかった日のことを思い出す。

 生きている二人を見た最後の記憶だからなのか、桜良は見たことも聞いたことも鮮明に覚えていた。

(お父さんは自分の車は十二気筒だって自慢してたけれども、それはこの車よりもすごいものなのだろうか)

 自分がもうすぐ死ぬことも知らずに無邪気に自動車の話をしていた父親の言葉を思い出し、桜良は運転席の由貴斗の方を向いた。

「あの、十二気筒の車って特別なものなのですか?」

 車の良し悪しや違いがまったくわからない桜良は、自分よりは詳しそうに見えた由貴斗に教えてもらおうとする。

 しかし由貴斗は、慣れた手付きでハンドルを握ったまま首を傾げた。

「さあ、どうなんでしょう。僕は運転はできますが、技術的なことに詳しいわけではないので」

 遠い視線で前を見ている由貴斗の横顔が、かすかに桜良に注意を払う。

「桜良様は、自動車にご興味がおありですか?」

「いいえ。ただ、父が車が好きだったので」

 もしかすると茶道や華道よりは自動車に関心があるのかもしれないが、特にこだわりがあるわけではないので桜良は首を振った。

「お父上が、そうでしたが」

 桜良の両親の事故の詳細を知っているのかいないのか、由貴斗は納得した顔で質問を終える。

 特に他に話したいこともない桜良は、助手席にかしこまって座ったまま今度は窓の外を見た。

 いつの間にかクーペが走る道は郊外を横切る農道から市街地の脇を走る幹線道路になっていて、周囲を走る車も車線も増えている。

 石細工の正面ファサードが重厚な洋風の商店に、ひときわ高く煉瓦で建てられた時計塔。白い漆喰がまぶしい土蔵造りの町家に、屋根付きのテラス席で人がくつろぐレストランなど、曲がって分かれた道の先に広がる市街地にひしめく建物は和洋様々な文化が溶け合って華やかだ。

 またさらに車道の横には透かし彫りの飾りのついたガス燈が等間隔でいくつも並び、刻々と暗さを増していく夕暮れを明るく照らしている。

 時折通り過ぎる他の車のヘッドライトの光に目をすがめながら、桜良は久しぶりに見た市街地のにぎわいに驚いた。西都の中心部は幼い頃に母に連れられて来たときよりもさらに栄えていて、集まる人や物の多さに自分が知る世界の狭さを実感する。

 屋敷の外には人々が楽しげに買い物をしたり食事をしたりするきらびやかな場所があるが、桜良にはもうその中に入る機会は与えられていない。

 しかし桜良は、広くまぶしい世界を知らないまま神在森で待つ神のもとに行く自分の人生に、それなりの価値を感じていた。

(きっと何も知らないほうが、神様だけをより深く知ることができるから)

 触れられそうで遠く車の窓の外を流れていく街の景色を前に、桜良は白粉を塗った手をひざの上で組んだまま微笑んだ。

 桜良は自らの命と引き換えに神の肉を口にする機会を得た存在であり、その死は神の再生のためにある。

 だから白無垢を着せられ、物も言わずに黒い自動車で運ばれる桜良の姿は、葬送の棺の中で眠る死者に似ていた。

 桜良は死者だから生きていく人には何もできないし、またしなくてもいいのだ。



 由貴斗が桜良を乗せて走らせるクーペは、幹線道路を抜けると検問所を通って神在森に入った。

 神在森は、日が完全に沈んだ夜の闇の中でもブナの木の新緑の濃さがわかる、鮮やかな静けさに満ちた場所だった。

 生い茂る葉の隙間から差し込む月明かりが木々の幹と青白い縞模様をつくり、夜の霞が寝静まった生き物の気配を隠した森全体を薄い紗のように優しく包む。

 神聖で厳かな夜の森の光景は、見るものに神々の実在を信じさせる。

 しかし膠石こうせきで舗装された道は車が二台すれ違えるほどの幅があり、複雑に枝分かれして広がっていたので、すべてが手つかずの自然というわけではなくあちこちに人の手が入っていることも確かだった。

 おそらく神々の数だけ、道が分かれているのであろう。

 そうした神々に選ばれた人間たちが守り整備する聖域の中で、一台だけになったクーペはヘッドライトの機械的な光で行く先を煌々と照らしていた。

「もうすぐ到着しますよ」

 標識のない分岐を迷いなく曲がりながら、由貴斗は桜良に声をかけて安心させる。

 初めての場所に興味深く窓の外を見ていた桜良は、何も考えずに返事をしようとしたが、目に留まったあるものに注意を引かれた。

「あれは……」

 桜良の視線の先には、暗い森の奥に堂々と建てられた巨大な洋館があった。明かりもなく暗いものの、離れた場所からでもわかるほどに軒下や窓の装飾は凝っていて、その華々しさは森の神秘的な雰囲気とは不釣り合いである。

 唐突に現れた異質な光景に、桜良は訝しんだ。しかし由貴斗は横目で洋館をちらりと見ると、何でもないことのように説明する。

「あの建物は、宇迦様が今の神殿に飽きたと仰るので、新しく建設している洋館です」

 神が異国趣味の洋館を求めるという、皇国の民が神々に対して抱いている心象に反する組み合わせに、桜良は思わず驚き声を上げた。

「神様って、洋館に住むものなんですか?」

「宇迦様は、とても飽きやすいお方ですから」

 桜良の問いに対する由貴斗の答えは、至極単純なものだった。

 その一言で納得できるわけではなかったが、宇迦尊に仕えている由貴斗がそう言うなら桜良は受け入れるしかない。

 背後に遠ざかっていく洋館を振り返り、桜良はこれから会うことになる宇迦尊の性分について考えた。

 せっかく神に伴侶として選ばれたのに、飽きられてしまうのは怖いことである。しかし神喰いの花嫁である桜良には、飽きる暇もないほどすぐに終わりがくるのだから心配はなかった。

 やがて道は直線になり、排気音を響かせて進むクーペは森に溶け込むように建てられた石造りの鳥居をいくつかくぐる。その終着点に楼門が見えたところで、由貴斗はその神が待つ場所の名前を告げた。

「あちらが、宇迦様の神殿である甘醒殿かんせいでんです」

 月光に照らされた杮葺きの屋根が輝き、赤々と焚かれた門火よって丹塗りの赤い垂木や柱が暗い森の中に浮かび上がる。

(ここで私は、神様を食べて死ぬ)

 桜良は前方の窓フロントガラスの向こうに視線をやって、深く息をついた。

 見知らぬ場所に来ているはずなのに、桜良は不思議な安心感を覚える。それはやはり自分が神の伴侶となる存在だからなのだと、桜良は与えられた運命を確信した。



「ここから本殿までは、少し歩きます」

 楼門を支える石段の前でクーペは止まり、桜良は車から下りて由貴斗と二人で歩いた。

 玉砂利が敷かれた敷地の中には大小様々な伝統的な様式の建物があって、由貴斗がいなければどちらへ歩けば良いのかもわからない。

 真っ暗になった夜空には星々が瞬いていて、時刻はもう午後の八時か九時くらいだと思われた。

 しかし神殿の周りは森が切り開いてあり、道の脇に置かれた石灯籠や建物の軒下に掛けられた吊り灯篭にはたくさんの明かりが灯されていたので、足元が見えないということはない。

 履き慣れない厚底の草履とゆったりと長い白無垢の裾に苦心しながら砂利の上をしばらく進むと、桜良と由貴斗はひときわ立派な館の前に出た。

 檜皮葺の屋根と連子窓のついた回廊がどこまでも続くので、桜良には館全体の大きさを推し量ることもできない。

 回廊の向こう側に通じる入り口らしき木製の板扉は開け放たれていて、その前には一人の男が立っていた。

「よく来たな。神喰いの花嫁」

 よく通る声で桜良に呼びかけた男は、質素な熨斗目色のしめいろの作務衣のような服を着ていたので、彼が由貴斗とは違った形で神に仕える人間であることはすぐにわかった。

 何をどう返事を返せば良いのかわからないまま、桜良は男に近づいてみた。すると男の姿が、由貴斗と双子のようによく似ていることに気づく。

 よく日に焼けた肌の色も、彫りの深い顔立ちも、束ねた黒髪も由貴斗と瓜二つで、やや雰囲気が鋭い他に違いはなく、服装が同じなら他人の桜良には見分けがつかないだろう。

 思わず桜良がじろじろと見比べていると、由貴斗が自分と瓜二つの男について紹介する。

「彼は津雲つぐも真那斗まなと。僕の従兄弟で、この甘醒殿で内膳官ないぜんかんとして働いています」

 真那斗と呼ばれた男は、自虐的な微笑みを浮かべて由貴斗の説明を補足した。

内膳官うちのかしわでのつかさ、と呼ばれることもある。由貴斗と同じ神祇省の官僚だが、まあ平たく言うと神様の料理人兼使用人みたいなものだな」

 何でもないことのように話しているが、親戚関係にあるらしい二人は神々に仕える歴史ある一族の生まれで、本来は桜良よりもずっと高貴な存在なのだと思われた。

 しかし料理人であり使用人でもあるという真那斗の自己紹介には、女中として働いてきた桜良は勝手に親近感を覚える。

「短い間ですが、よろしくお願いいたします」

 求められている距離を理解したような気がした桜良は、同僚に接するときと同じくらいの丁寧さでお辞儀をする。

 真那斗はどんな人間が花嫁でも通しそうな余裕のある態度で、板扉の中へと桜良を手招きした。

「では、花嫁は俺と控えの間に。由貴斗は宇迦様に、花嫁が到着したことを伝えてくれ」

「ああ、わかった」

 気心が知れた者同士の軽さで目配せし、由貴斗は桜良に接するときとは違う言葉遣いで返事をした。

 そしてまた再び敬語に戻って、桜良に話しかける。

「では、私は宇迦様の方に行ってきます。桜良様のことは、この真那斗が案内してくれますので」

 由貴斗はそう言い残すと、先に館の奥へと消えていった。

「花嫁はこちらに」

 てきぱきと真那斗に先導されて、桜良も開け放たれた板扉をくぐって館に入る。

 館の中に入ってまず見えたのは、月や星空を映した池を中心に、松や柳が植えられた典雅な中庭だった。

 森のどこかの水源から引き込んでいるのであろう池には澄んだ流れがあって、赤い太鼓橋がいくつか架かっている。また松は力強く静止して、柳はさらさらとやわらかくそよいでいた。

 御伽話のように美しい空間に目を奪われて、桜良は真那斗に遅れそうになる。

 桜良は真那斗の背中を追って、計算された弧を描く欄干の間を通って橋を渡り、足を踏み入れることを躊躇するほどに綺麗な真砂土の地面の上を歩いた。

 複雑に木材を組んで建てられた古風な館は、中庭を囲むように建てられていた。

 だから庭の真ん中に立つと、御簾や蔀戸からもれた部屋の明かりが館を橙色に染め上げ、庭全体を照らすのがとても幻想的に見える。

「ここから入ったところにある部屋が、控室になる」

 時折振り返って歩を緩めて中庭を横切り、真那斗は縁側に上がる階段に桜良を案内した。

「こちらですね」

 桜良は草履を脱いで、真那斗の指示通りに階段を上がる。

 四花菱紋が散らされた几帳を上げて部屋に入ると、中は燭台で明かりをとった板の間だった。館の形式自体は古めかしいものの、木材や調度品の質感には不思議な真新しさがある。

 中央に置かれた緑縁の畳に座り、桜良は次の指示を待つ。開放的な造りの館は風通しが良く、桜良は冷えた空気の流れを感じていた。

 しばらくすると、真那斗が簡素な木製の盆を運んでくる。

「宇迦様が今準備をしているから、ちょっと休憩しててくれ」

 真那斗が桜良の前に置き去った盆には、小さな白磁の椀に入った桜湯と、一口で食べられる大きさの丸いおはぎが三つ盛られた皿が載っていた。

 塩漬けの桜にお湯を注いだ桜湯は、満開の桜を椀の中に閉じ込めたように風流である。

「ありがとうございます」

 昼から何も食べていないものの空腹を忘れていた桜良は、気遣いに驚きつつお礼を言った。

 添えられていた楊枝を使って、丸く小さなおはぎを頬張る。

 ほんのり塩味がする甘さを控えた餡で包んだおはぎは、もっちりとした優しさを感じるきたてのやわらかさで、半殺しの餅にはまだ炊きたてのもち米の温もりが残っていた。

(これは、すごく丁寧な一品なのでは?)

 緊張でじっくり味わえない桜良にも、艶々と皮が光る濃紫色の小豆餡の出来の良さはわかった。

 桜良はなるべくゆっくり噛んでもち米の食感と甘みを感じる努力をしながらも、無意識のうちに次のおはぎに手を伸ばしていた。甘味が特別好きなわけではないのに、二つ、三つと食べ続けたくなるのだから、やはり美味しいのだろうと思う。

 残りのおはぎも平らげると、ほのかに桜の匂いがする温かい桜湯で余韻を落ち着けた。

 ちょうど皿も椀も空になったところで、真那斗が再び部屋に入って来る。

 美味しさを表す言葉の語彙に悩みながらも、桜良は真那斗にお礼を言った。

「すごくやわらかくて、美味しかったです。ありがとうございます」

「当然だ。俺が作ったものだからな」

 おはぎを作った本人であるらしい真那斗は、得意満面な様子で微笑んだ。以前由貴斗が久世月家に買って持ってきた薯蕷饅頭の店に負けず劣らず、真那斗は素晴らしい和菓子の技術を持っているようである。

 桜良は真那斗は食べ終えた盆を下げにきたのだと思って、片付けられるのを待とうとした。

 しかし真那斗は片手に桜良が食べたものよりも大きなおはぎを持っていて、桜良の前の床に腰を下ろして胡座あぐらをかいた。そして一口分食べて飲み込むと、話を始める。

宇迦尊うかのみことに仕える内膳官は、神に作った料理を捧げる同時に、神を殺してその肉を割いて烹て、花嫁に食べさせるという役割を持っている」

 何でもない世間話のように、真那斗は『神の料理人』という肩書の二重性について語っていた。その手で普段食事を作ってt食べさせている神を殺して料理するのだと言われ、神の肉を食べることになる桜良は身の引き締まる思いになる。

(ちゃんと料理してもらって、本当に普通に神様を食べるんだ)

 神の肉を食べるという行為の重みを感じつつ、桜良はじっと真那斗の餡の粒がついたままになっている口元を見つめた。

 小豆の粒に気づいていない真那斗は、そのまま二口目を食べて桜良に尋ねた。

「だから明日、俺が宇迦様を料理するのだが、何か苦手な食材はあるか」

 まるでどこかの料亭のような質問をされて、桜良はいよいよ具体性を帯びてきた神喰いの花嫁としての役割について考える。

 まだ会ってもいない夫の宇迦尊は明日には桜良が食べるために殺されて、その肉を口にした桜良もすぐに死ぬのだから、終着は想像していた以上に近かった。

「特に、ないです」

 好き嫌いがあるほど食にこだわりがない桜良は、首を振って苦手な食材はないことを伝えた。

 真那斗は「わかった」と頷いて、三口目でおはぎを平らげた。ここでやっと口元を手で拭いたので、くちびるに残っていた小豆の粒はなくなった。

 そしてまだ言っておくことがあったようで、真那斗はじっと桜良の様子を伺ってから口を開いた。

「あと、今回の宇迦様の最後の食事となる明日の朝食はちょっとした儀式みたいなもので、一応花嫁が作ることになっている。お前は料理はできるな」

 雰囲気で見抜いたのか、女中扱いされていたことを知っているのか、真那斗は桜良がそれなりに家事全般ができることを察しているようだった。

 唐突に普通の花嫁らしい、しかし責任重大な仕事を要求されて、桜良は少々面食らった。

 だが夫に食事を作るのが結婚だと言えばその通りであるので、桜良は何も聞き返さずに頷いた。

「ええ、まあ。人並みには」

「それじゃ作りたい献立があれば言ってくれ。必要なものはこちらで用意する」

「では、茶粥と卵焼きか何かで……」

 何でもないことのような軽い調子で、真那斗は食材の確認する。

 作りたいものと言われても作れるものしかない桜良は、とっさに一番よく作っていた朝食向けの献立を挙げた。

 ほうじ茶で米を炊いた茶粥は、西都を中心に食べられている郷土料理で、久世月家の朝の食卓に並ぶことも多かった。

 桜良の希望を聞いた真那斗は、もう用事がなくなったらしく立ち上がった。

「茶粥と卵焼きを中心に何品か、という感じだな。俺も手伝うから、そう緊張はしなくてもいい」

 おそらく料理ができない人間が神喰いの花嫁に選ばれた場合は、結局ほとんど真那斗が作ることになるのであろう。

 真那斗の態度には、桜良が失敗したとしてもどうにかなるという自信が見えた。

 しかし桜良はせめて朝食くらいは、胸を張って自分が作ったものを捧げたいとささやかな野心を抱いた。

(せっかく選んでもらえたのだから、私はやれることはやりたい)

 それはめったに自分の能力を試したがらない桜良が示した、他人のために何かをしたいという積極性だった。

 桜良はこれまで、苦境に耐えてただひたすらに終わりが来るのを願っていた。神喰いの花嫁に選ばれて嬉しかったのも、優劣ではなく卜占で決められたのであって、特別な何かを期待されているわけではないからだった。

 自分が何かの才能を持っているとは思えないし、持ちたかったとも思わない。

 しかし最後に自分ができることで神に尽くせたのなら、孤独な歳月も報われるような気がしてくる。

(私はそう、もらえるものなら意味がほしい。これから神を食べて死ぬ意味だけではなく、これまで生きてきた意味を)

 その密かな欲望を、桜良は口にしなかった。

 聞くべきことを聞いたら立ち去ろうとしている真那斗は、作務衣を着た使用人であり、桜良が心を開くべき相手ではない。

 桜良が真心を見せるべきなのは、これから会って結ばれる神である宇迦尊なのだ。



 それから桜良は、髪や化粧を少々直した後、館のさらに奥の間に通された。

 開かれた板戸が先にあったのは金の屏風が置かれた暗い部屋で、明かりは隅に置かれたいくつかの蝋燭だけだった。

(神様に会ったら、一体どんな挨拶をすれば良いのだろう)

 指示された場所に正座して、桜良はだんだん闇に慣れてきた目で土を塗り込んだ壁を見る。

 傍らには黒地の差袴に白い上衣を着た真那斗が控えていて、寝ているのか起きているのかわからない顔で目を閉じていた。

 落ち着かない気分で待っていると、やがて廊下から二人分の衣擦れと足音が近づいてくる。

 とうとう宇迦尊がやってきたのだと思った桜良は、姿勢を正して顔を伏せた。

 まず部屋に入ってきたのは、真那斗と同じように黒と白の装束を着た由貴斗だった。

 由貴斗は取り澄ました表情で戸の近くに立って、その後ろにいる神のために入り口に垂れている几帳を手で上げる。

 もう一人の白い影はゆっくりと歩を進めて、暗闇の中から桜良の前に姿を現した。

(この方が、私の神様)

 顔を伏せている桜良には、白い裾を引きずった束帯に足袋を履いた足元しか見えない。

 宇迦尊と呼ばれるその神は、一旦、無言で立ち止まっていた。それからさらに一歩近づき、宇迦尊は花嫁に声をかけた。

「桜良」

 優しく親しげな、やわらかな声である。

 今まで名前を呼んできた誰とも違う響きに、桜良は綿帽子を被った頭を自然に上げた。

 まず目に入ったのは、宇迦尊の人のものではない、金色の鉱石のように虹彩が輝く瞳だった。見つめ合う形になった桜良は、気恥ずかしさから視線を反らそうとした。しかし月明かりに照らされた雪や真新しい上白糖に似た美しさのある宇迦尊の姿に、桜良は目を離せなくなった。

(とても綺麗な、男の人だ)

 桜良は宇迦尊が神であることを知っていたし、淡く光る銀色の髪を長く伸ばし、白綾の袍に長身を包んだ宇迦尊は神々しかった。

 だがその鼻筋の通った顔が纏う束帯よりも白く繊細に整っていて、目は髪と同じ銀のまつげに縁取られていても、宇迦尊は桜良が想像していたよりも人間らしい存在に見える。

 それは宇迦尊の表情には、理由のわからない寂しさがあるからだろうと、桜良は思った。

「君が明日、僕を食べてくれる女の子なんだ」

 薄紅を塗ったかのようにほんのり桜色に色づいたくちびるで、宇迦尊が桜良に問う。

 立って見下ろす宇迦尊を座ったまま見上げて、桜良は小さな声で「はい」とつぶやいた。

 憂いを帯びた視線を宇迦尊に注がれて、桜良は胸を締め付けられる切なさを感じた。礼儀正しい挨拶を考えてはいたけれども、返事以外の言葉は何も言えない。

 やがて宇迦尊は小さく頷くと、桜良の横に並んで座った。

「ほんの少しの間だけど、よろしくね」

 宇迦尊の微笑みは、飴の包み紙をほどくように甘い気がした。

 宇迦尊と桜良が並んで座ったのを確認すると、由貴斗は真那斗に目配せして屏風の裏に消えた。

 居眠りしていたのかも知れない真那斗も、慌てて由貴斗に続く。

 そしてすぐに、二人はそれぞれ膳を持って屏風の裏から現れた。

 赤漆の膳には、揃いの三ツ組盃と銚子が載っていたので、桜良は今から誓いの盃を交わすのだとわかった。

 真那斗は宇迦尊の側に屈んで膳を置き、一番小さな盃に銚子で酒を注いだ。由貴斗も桜良に同じようにしたけれども、まだお酒は注がない。

 酒を注ぎ終えた真那斗が、宇迦尊に声をかける。

「では、まずは宇迦様から」

「うん。わかった」

 宇迦尊は両手で盃を持ち、優雅に傾けて飲んだ。

 一つ目の盃が飲み干されると、今度は中くらいの大きさの盃に酒が注がれ、同じことが三度繰り返される。

 時間をかけて宇迦尊が三つの盃で酒を飲み終えると、今度は由貴斗が銚子を手にした。

「次は、桜良様が」

「はい」

 透明に澄んだ酒が注がれた赤い盃を、桜良は宇迦尊と同じように両手で持った。

 蝋燭の明かりを映して、盃の中の清酒は揺れた。そしてゆっくりと口に近づけ、少しずつ飲んで空にする。

 やはり水とはどこか違うその液体を口にしてみると、清酒の濃く甘い匂いと刺激が、舌が触れた。

 生まれて初めて酒を飲んだ桜良は、のどを過ぎていく酒の冷たさに反して、身体が熱くなるのを感じた。

 とりあえず一つ目は空にした桜良は、若干ふらつきながら盃を膳に戻す。

「お酒は、全部飲まなくても大丈夫だよ」

「はい。ありがとうございます」

 桜良を気遣いささやく宇迦尊の声が聞こえ、桜良は反射的にお礼を言う。

 しかしぼんやりとしていた桜良は、自分が酒を飲める量もわからないのに、結局残りの盃も飲み干した。

 それからまた再び宇迦尊が三度、酒を飲んで儀式は終わる。

 手続きめいたやりとりだけでは、実感はわかない。

 しかし神である宇迦尊と誓いの盃を交わしたのだから、桜良は神に嫁ぎ、神の伴侶になったはずだった。



 盃を使った儀式を終えた桜良は、一旦宇迦尊と別れて、別室で白無垢よりも簡素な白地の衣裳に着替えた。そこは桜良の一応の自室になるらしく、唐木の文机や厨子が並んだ部屋の隅には、久世月家から持ってきた長櫃が置かれていた。

 無事に着替えが済むと、由貴斗に案内されてまた別の部屋に移動する。甘醒殿と呼ばれる館はとても広いので、桜良には自分がどこからどこへ向かっているのか把握できない。

 やがて由貴斗は回廊の途中で立ち止まり、御簾を上げて桜良をある部屋に通した。

「こちらが宇迦様のご寝所です」

 着替えた花嫁を寝室に連れてくるという仕事を終わらせた由貴斗は、桜良を残して部屋を去る。

 由貴斗の説明の通り、部屋の中心には練平絹ねりひらぎぬとばりに囲まれた豪奢な帳台がある。

 しかし部屋の主である宇迦尊は寝具の置かれた帳台にはおらず、板の間の床に敷かれた畳の上に座っていた。

「真那斗が僕たちのために夕食を用意してくれたから、早く食べよう」

 手招きする宇迦尊の前にはいくつもの食膳が置かれ、その上には食にこだわりのない桜良でも思わず見入ってしまうような料理の数々が載っている。

「こんなご馳走は、初めてです」

 桜良は宇迦尊と並ぶ形で、燭台の光に明るく照らされた畳に腰を下ろした。

 真ん中の膳には、炊きたての白米にふきの味噌汁、菜の花の辛子漬け、あじの細作りの昆布締めにたけのことわかめの煮物といった、春らしく手の込んだ品々が並んでいる。

 他の膳にも、尾頭付き鯛の塩焼きや鶏と茸の蕪蒸かぶらむしなどの華やかな献立が載っていて、桜良は自分が作る朝食が真那斗の料理と比べられることになるのが怖くなる。

 しかし神である宇迦尊は人の悩みは意に介さず、桜良に箸をとることを勧めた。

「ここに、桜良の箸があるよ。食べ足りない品があったら、真那斗を呼べばいいからね」

 婚礼衣装から白色の狩衣に着替えて、少々印象が軽やかになった宇迦尊は、自分の箸を手にするとさっそく白米と味噌汁から食べ始めた。

 白いまつげが降り積もる雪を連想させる横顔は、確実に人間ではない美しさがある。しかし箸を使って飯粒を食べる様子は妙に人間臭く、ちぐはぐな可笑しみがあった。

(神様も、普通にご飯を食べるんだ)

 興味深げに隣の食事を眺めていると、宇迦尊が桜良の方を見た。

「桜良は、食べないの?」

「はい。今から、いただきます」

 不思議そうな顔をする宇迦尊を前に、桜良は慌てて目の前にあったあじの昆布締めに箸をつけた。

 青芽紫蘇あおめじそが彩りを添える、ほんのりと出汁の色に染まった細作りのあじは、流れる水のように黒漆の皿に収まっている。

 桜良はその皮引きの銀色の跡に艶がある、透明に澄んだ赤身を箸で一切れ口に運んだ。

(うん……。昆布出汁のやさしい旨みが染みていて、お醤油も何もつけなくても美味しい)

 丁寧に小骨を取り除かれたあじは、まったりとやわらかく口の中でとろけ、脂ののった旨味が出汁の風味と重なって広がる。

 自分の舌を確かめるように、桜良は無言で添えられた加減酢や山葵わさびを使いつつ食べ続けた。

 柑橘で香り付けされた加減酢と、舌触り良くすりおろされた山葵わさびを使ってあじを食べれば、さっぱりと爽やかな味わいになって食べ飽きることがない。

「それを食べるなら、お酒が必要だね」

 横目で桜良を見ていた宇迦尊が、脇に置かれていた燗鍋かんなべから白磁の杯に酒を注いで桜良に渡した。

 桜良はうやうやしくお礼を言って杯を受け取り、勧められるままに飲む。

 その酒は婚礼の儀式で飲んだものとは違ってぬるく温められていて、香りにふくらみがあり、先程食べた肴の味がコクを引き立てていた。

(お母さんがいつも酔っ払ってた理由が、ちょっとわかる気がする)

 身体が温まって気分が良くなった桜良は、洋酒ウィスキーを愛していた母親への理解を深めた。このまま飲み食いを続ければ、母親に助言された通りの馬鹿な女の子になれるだろうと桜良は思う。

 しかし相手は神なのだから、馬鹿になる前に礼節を守らなくてはならないと考えた桜良は、箸を止めて宇迦尊の方を向いた。

「あの、私はあなたを、どのように呼べばいいのでしょうか。由貴斗さんや真那斗さんは、あなたを宇迦様と呼んでいますけれども」

 御饌都之宇迦尊という名前の神に対して、桜良は呼びかけに困っていた。正式な名前は長すぎるとして、宇迦尊様では親しみに欠け、宇迦様では気安すぎるような気がしていた。

 ささやかな戸惑いを見せる桜良に、宇迦尊は蕪蒸かぶらむしの入った平椀を手に、匙ですくって食べながら答えた。

「何とでも呼んでくれていいよ。死んだ恋人の名前でも、憧れの俳優でも、好きなように」

 宇迦尊は冗談めかして茶化したが、金色の瞳は本当にどうでもよさそうに笑っている。おそらく彼にとっては、名前は意味を持っていないのだろう。

「では、神様と呼んでもいいですか。これまで漠然と、心のなかで神様って呼んでいたので」

「うん、神様だね。いいよわかった」

 特に仮託したい名前もない桜良が無難な提案をすると、宇迦尊は軽い調子で頷く。

「ありがとうございます。神様」

 さっそく桜良は、望んだ呼び方で宇迦尊を呼んだ。そうすることで、長年寝る前に祈ってきた神が最初から宇迦尊であったような気がして、桜良はより深く運命を信じることができる。

(私は明日、この神様を食べることになる)

 桜良は改めて宇迦尊の姿を見つめて、自分に与えられたものの大きさを実感した。

 香ばしく焼けた鯛の塩焼きを食べるくちびるも、やわらかそうで形がよい耳も、白くてなめらかな裸足の足も、すべてが暴かれ、神喰いの花嫁である桜良が食べる肉になる。そう考えると桜良は、倫理に反した気持ち悪さを覚えると同時に、言い知れない背徳的な喜びをかすかに抱いた。

「僕の顔に、何かついてる?」

 あまりにも桜良が見つめるので、宇迦尊は箸を置いて向き直った。

「いいえ。何も」

 桜良は否定で答えながらも、宇迦尊を見つめ続ける。

 すると宇迦尊は、ごく自然に桜良との距離を縮めて、顔を近づけた。

 これから口づけをされるのだと、桜良は理解した。桜良は宇迦尊の花嫁であるので当然、その行為を受け入れる。

 何より桜良は、ただの卜占の結果なのだとしても、庶子としても認められず未来を奪われていた自分を特別な存在にしてくれた宇迦尊に、好意を持っていた。

(だってこの神様は今、私だけの神様だから)

 桜良は祈るように、目を閉じてそのときを待った。

 やがて酒を飲んで熱を持った桜良のくちびるに、鯛の塩焼きの風味を残した宇迦尊の平温のくちびるが触れる。

 重なるくちびるの感触とほのかな塩気に、桜良は旨みを感じた。口づけをしただけでこれだけ美味しいのだから、宇迦尊の肉は本当に美味しいのだろうと思う。

 しばらく息を止めていた桜良が一杯になったところで、宇迦尊はくちびるを離して桜良に確認した。

「君は、それでいいんだね」

 ゆっくりと目を開けると、桜良の鼻先には宇迦尊の整いすぎた顔がある。

 まぶしくて宇迦尊を見えない桜良は、再び目を閉じると無言で頷いた。

 了承を得た宇迦尊は、華奢で軽い桜良を抱き上げ、帳台に敷かれた寝具の上に運んだ。

 幻のように美しく見える宇迦尊も、触れてみると男性の身体をしている。

 何もかもが初めての桜良と違って、何度も死んで生まれ変わっている宇迦尊は、愛を交わすことにも慣れていた。

 耳を澄ませば桜良の動悸と二人の息遣いの他に、遠くでなにかがさざめく音がする。

(あれは多分、神在森の……)

 帳台の上で宇迦尊の身体の熱を感じながら、桜良は館の中にいても聞こえる、外の森の葉が風にこすれる音を聞いていた。神在森の木はブナであるので、おそらく秋にはたくさんの団栗どんぐりの実がなるのだろう。

 きっとおぼろ月の光に照らされているはずの、外の森の音は両者の耳に届いているらしく、宇迦尊は桜良のあごを細い指でなぞってささやいた。

「明日、僕を食べた君が死んだら、あの木々の葉のそよぐ音がする神在森のどこかに埋められる。その土の中の君のからだから新しい木が芽吹いたとき、僕は再び生まれるんだ」

 宇迦尊は語り終えると、そっと桜良の額に口づけをした。くちびるを重ねるのとは違ったこそばゆさに、桜良は宇迦尊の腕の中で身体を震わせる。

 昔話の通りの結末は嘘のようであるが、宇迦尊が言うなら真実である。

 酔いの回った桜良は、何の後悔もなく幸せに宇迦尊のために死ぬことができる多幸感に、静かに微笑みを浮かべた。

「素敵です。神様のお身体をいただく私は、神様の一部になれるのですね」

 いびつなほどに素直な花嫁の感謝を宇迦尊がどう受け止めるのか、桜良は反応を見ようとして目を開けた。

 宇迦尊の装束が解かれていく桜良の衣に重なり、白銀の髪がさらさらと頬を撫でる。

 燭台から離れた帳台の中は暗くても、桜良には神々しく美が息づく宇迦尊の顔が輝くように見えた。

 しかしその穏やかな微笑みにどんな感情が隠されているのかは、酩酊した桜良には察することはできなかった。



 翌朝。やわらかな朝日の光の混ざった薄闇の中で、桜良は目覚めた。

 心が満たされた倦怠感の中で身体を起こし、夢ではないことを確かめるように宇迦尊の姿を探す。

 まだ目覚めていなかった宇迦尊は、茹でた卵の白身のように曇りのないなめらかな肩を晒しつつ、絹のふすまに包まれて眠っていた。

 穏やかに寝息をたてる綺麗な寝顔は、少年のようなあどけなさがありつつも、人間の寿命を超えて生きてきた年月を感じさせる。

(たとえ神様にとっては一瞬だとしても、私には一生分の夢だったから)

 桜良は解かれた衣裳を腕に通し直しながら、手では触れずに宇迦尊の顔を見つめ直した。

 それから彼の最後の朝食を作るという役目を思い出し、帳台のぬくもりに痕跡を残して寝室を去る。

 二人が眠っている間に夜に食べた料理は片付けられていて、衣裳を着て出ていく他に桜良がすることはない。

 御簾を上げて桜良が廊下に出ると、ちょうど真那斗が中庭から上がってきていた。

「もうそろそろ、起きてくる頃だと思っていた」

 作務衣姿の真那斗は、桜良をぬるま湯の入った桶と布巾が用意された部屋に連れて行く。

 そこで身を清めて着替えた桜良は、場所を説明された厨房へ向かった。

(神様のこと。何もわかってないのに、ずっと一緒にいたような気がするのはなんでだろう)

 だんだん白くなっていく空を回廊から見ながら、桜良は本当は一晩ではなく何晩もたっているのではないかと思う。そうした錯覚を覚えるほどに、長い時間をかけて宇迦尊と共に過ごし、愛しさが増した感覚が桜良にはあった。

 もしかすると本当に、桜良は何日もの時間を宇迦尊と二人でいたのかもしれないが、もはや夢と現実の境界を知ることにそれほど意味はない。

 やがて館の北に移動した桜良は、草履を履いて裏庭に下りる。

 館の敷地内に主殿とは別に建てられた厨房は、質素な切妻造りの小屋だった。

「失礼します」

 女中として働いていたときと同じように髪を結ってまとめ、清潔な前掛けを身に付けた桜良は、板戸を開けて中に入る。

 弧を描くようにつながって並んだ竈を中心に、流しや甕壷かめつぼが並んだ厨房では、真那斗が焚口に薪をくべて待っていた。

「じゃあ、好きなように始めてくれ。食材は、そこに並んでいるものでいいな」

 桜良の姿を見た真那斗は立ち上がり、手にしていた薪で木製の作業台を指した。

 使い込まれてはいるが清潔な作業台には、米や卵に、季節の野菜などの食材が並んでいて、味噌や塩などの調味料も一通り揃っている。

 桜良は食材を確認した後、薪が燃える竈を改めて振り返って、正直に真那斗に懸念を伝えた。

「すみません。私はこれまで、ガス式の釜と焜炉しか使ったことがなくて……」

 最初から躓いたのが恥ずかしくて、桜良は自信を失って頭を下げた。

 しかし真那斗は何も気にしていない様子で、今度は火吹き竹を手にして応えた。

「それなら火の加減は、俺がやる。お前はできることをやればいい」

 真那斗の態度には、たとえ桜良がどれだけ失敗を重ねたとしても自分がいるから問題ないのだという、神の料理人としての矜持があった。

 その言葉は以前に由貴斗が神喰いの花嫁になるのに個人の資質は関係ないと告げたときに似た、安心感を桜良に与える。

 誰か頼れる人がいる状況で料理をするのは、桜良にとって初めてのことだった。

 気持ちが軽くなった桜良は、表情を緩めて顔を上げた。

「かしこまりました。では私は最初にお伝えしたとおり茶粥と卵焼き、そして味噌汁を作らせていただきます」

 自分の持つ能力で宇迦尊を喜ばせたいという欲を、捨てたわけではない。

 できないことを無理してやろうとするのではなく、できることを精一杯やることが大事だと思えたから、桜良は気兼ねなく真那斗の力を借りられる。

「わかった。俺は、お前に適当に合わせる」

 真那斗は腕を組んで、桜良が動くのを待った。

 それから桜良は迷わずに水甕から水をくみ、まずは調理に必要な水を釜と鍋に入れて火にかけた。

 湯が沸くまでの間に、作業台にあった芹を根本までよく洗い、包丁でほどよい長さに切る。一合枡に入った米も、水甕の水を使って流しで研いだ。

 水が沸騰したところで、釜には番茶の入った茶袋を入れる。鍋は火から離して鰹節を加え、少々時間をおいてからざるに布を敷いてゆっくりした。

 釜から番茶の香ばしい匂いが立ち上り、十分に茶を煮出せたところで、桜良は茶袋を取り出し研いだ米を投入する。

 そしてだし汁を入れて再び火にかけた鍋には、湯をかけて油抜きをした油揚げを千切りにして、芹と一緒に入れた。

「ふきこぼれないように、こちらをお願いします」

「わかった」

 桜良が火加減を任せると、真那斗は頷いた。

 一旦釜と鍋から離れた桜良は、余らせておいただし汁と卵を椀で混ぜて、揚焼鍋フライパンを焜炉に置いて焼いた。

(慣れない大きさの揚焼鍋フライパンだけど、何とか上手く焼けそう)

 桜良は卵液を分けて流し入れ、菜箸を使って器用に薄焼きの卵を巻いて卵焼きにする。

 焼き上げた後は巻き簾まきすで巻いて形を整えれば、薄黄色が綺麗な卵焼きが完成した。

 最後に鍋に味噌をといて味噌汁にし、釜の中の米もやわらかくなったところで真那斗に火を消してもらえば、茶粥も出来上がる。

「私の料理は終わりました」

 手際良く三つの料理を作れたことに満足して、桜良は真那斗の方を振り返った。

「こっちもだいたい終わった」

 包丁とまな板を片付けながら、真那斗も返事をした。

 真那斗は火の加減を見ながら、焼き鮭を焼き、分葱わけぎ烏賊いかでぬた和えを作り、大根の麹漬けを切って香の物の用意をしてくれていた。

(真那斗が作る料理は、すごく綺麗に出来てる)

 桜良は作業台に載っている、真那斗が作った料理をまじまじと見た。

 ごく一般的な家庭料理であっても、焼き鮭の焼色も、香の物の精密な切り口も、すべてが完璧な仕事に見える。

 また真那斗は食膳への盛り付けもさり気なく手伝ってくれたので、桜良の作った朝食はほとんど半分は真那斗の作ったものになった。

(でも半分は私が、神様のために作った料理だから)

 桜良の料理の技術は、真那斗には及ばない。

 しかし桜良は自分のできることはできたと信じていて、ささやかでもきっと宇迦尊のためになれるはずだと期待していた。



 うららかに晴れた春の日の、朝の光に満ちた板の間の広い部屋に、一揃いの器に盛られた朝食が二膳分並べられている。

 その広間には黒打掛に着替えた桜良と、白絹の袍服を着た宇迦尊だけがいて、二人手を伸ばせば触れられる距離で向かい合い座っていた。

 神と花嫁の二人で朝食をとった後に、神は屠られ、花嫁に食される。

 神を食べて死ぬ人間と、人間に食べられて生き返る神が短い縁を結ぶことで、皇国の民が飢えて死ぬことがなく幸せであることを願う。

 それがこの甘醒殿で行われる奇妙な儀式に、与えられた意味だった。

「これが、君が用意してくれた朝ご飯なんだね」

 桜良が作った茶粥の入った汁椀の蓋を外して、宇迦尊が興味深げに朝食の内容を見る。

 茶粥と味噌汁は出来たての熱さが残っていて、長皿に盛られた焼き鮭と卵焼きもまだ温かい匂いがした。分葱と烏賊のぬた和えは器の赤漆に映える鮮やかな緑で、香の物も小皿に綺麗に盛り付けられている。

「半分は真那斗さんです。私は茶粥と卵焼きと、味噌汁を作りました」

「それなら茶粥から、いただきます」

 桜良が自分の作った範囲を説明すると、宇迦尊は木匙を手にして食べ始めた。

 しっとりと薄茶色に染まった米を匙がすくい、宇迦尊の口元まで運んでいくのを、桜良は息をするのも忘れて見ていた。

 女中扱いされていたときも不味いと文句を言われないようにしてきたのだから、味はまともなはずだとは思っている。しかしそれでも、本当に気に入ってもらえるかどうかは不安だった。

 宇迦尊が粥を口に含んで、目を閉じる。桜良にはじっくりと味わっているように見えたけれども、観察している側だから時間が長く感じるだけなのかもしれない。

 そして目を開けると、宇迦尊は蕾がほころぶように桜良に微笑みかける。

「美味しいよ、すごく。ほっとする味がする」

 ごく普通に料理を褒めてもらえたのが初めてだったので、桜良は黙ってその言葉を反芻した。気を使って美味しいふりをしているだけだとしても、嬉しさが込み上げる。

 誰に言われても桜良に響くに違いないのだが、言ってくれたのは宇迦尊だった。やはり卜占で定められた通りに、宇迦尊は運命の相手なのだと桜良は思う。

 何も言わずに桜良が感じ入っていると、宇迦尊が視線に気づいてからかった。

「桜良はいつも、食べずに僕を見てるよね」

「すみません。今、いただきます」

「別に、謝らなくてもいいけど」

 桜良は即座に謝罪して、匙を手にする。

 硬さが残る桜良の反応に、宇迦尊は苦笑して面白がっていた。

 好きな人が相手なら、可笑しさを笑われても嫌ではないのだと、桜良は知った。

 宇迦尊のまなざしに半分緊張して半分安心しながら、桜良は自分が作った茶粥を食べる。

 茶粥はほどよく冷めていて、火傷するほど熱くもなく、心地の良い温もりで舌の上にしっとりと広がる。

 米のやわらかさと甘みを番茶の香りと風味が温かく包んで、さらりと奥深い味わいを残してのどを通っていくのを、桜良は感じた。

 その味にはこれまで食べてきた自分の料理とは違う、穏やかでやさしい美味しさがある。

(これまでこんなに食べ物が美味しいと思えたことって、なかった気がする)

 一口目を飲み込み、桜良は物の感じ方の変化に驚いた。

 自分よりも技量がある人々が作った料理や菓子よりも、桜良が作った下手ではないだけの茶粥の方が美味しく思えるのが不思議で、桜良は匙を持ったまままばたきをする。

 その理由はおそらく本当に単純なことで、美味しいと褒めてくれる誰かがいれば、桜良が作った料理でも正しく美味しくなるというだけのことであった。

(だけど良かった。私にもちゃんと、本当の美味しさがわかるんだ)

 朝日の中で輝く薄茶色の粥を見つめて、桜良は気分を落ち着かせようと深く息をついた。

 食事の楽しさとは無縁に生きていた桜良は、自分は物を食べて味わう能力に欠けているという劣等感を薄く抱いていた。

 だから実のところ、もしかすると自分は宇迦尊を食べても、その味の価値をきちんと理解できないかもしれないと不安に思っていた。

 しかし宇迦尊がいるおかげで食べたものを心から美味しいと思える瞬間を知った今は、神の肉も十分に味わって堪能できそうだ安心している。

 宇迦尊は再び黙っている桜良に、なぜか自慢気に声をかける。

「ね、美味しいよね」

「はい、本当に美味しいです。多分、今までで一番」

 照れた笑顔で頷き、桜良は二口目の粥をすくって食べる。

 食べ進めるごとに温かく心と身体が満たされていくのは、まるで呪いがとけるようでもあった。

 女中として働いていた桜良はこれまで幾度も美味しいかどうかわからない朝食を作ってきたが、その灰色の日々はすべて今日のためにあったのだと思う。

 素直に微笑む桜良に、宇迦尊も金色の目を輝かせて嬉しそうな表情になった。

「じゃあ僕は幸せだ。最後に食べるものが、君が一番美味しく作れたお粥なんだから」

 最後とは言っても、宇迦尊は桜良に食べられても蘇り、また誰かの作った朝食を食べることになることを、桜良は知っている。

 それでも桜良は、宇迦尊の言葉が嘘だとは思わない。

「最後に作った料理を神様に食べてもらえる、私も幸せです」

 宇迦尊を食べて死ぬことになる桜良にとっては、これは本当に最後に作った料理である。

 塩も何も入れていない茶粥は薄味だけれども、その分塩鮭や香の物と一緒に食べれば満足感が増す。

 卵焼きも橙色に半熟のところが残ったやわらかく甘い仕上がりで、芹と油揚げの味噌汁は香りよく爽やかで出汁の味わいが深くコクがあった。

 桜良が作ったものもそうではないものも、食膳の上には綺麗に並んでいる。

 最後に良いことができて、桜良は幸せだった。

 もっと長く宇迦尊と共にいられたのなら、さらに多くの幸福を知ることができたのかもしれない。

 しかし桜良は死なずにもっと生きたいとは思わなかった。より多くを求めて、小さな幸せでは満足できなくなる日がくることが、桜良は怖い。

 だから桜良は、今あるものだけを大切にして、それ以上のことをは知らずに死んでしまいたかった。

(だってそう。お母さんも、女の子は何も知らないばかな子の方が幸せだって、いつも言っていたから)

 古い伝統を守って建てられた館の一室で、皇国の神話を現実に生きる神と食事をしながら、桜良は遠い異国の文化に囲まれて生きて死んだ母親のことを考える。

 銀色の飾りが光る袖無しのドレスを着て、シガレットホルダーを手に紫煙を燻らせていた母は、桜良が無知なままでいることを願っていた。

 長年父に愛されていた母は多分、今の桜良よりもずっとたくさんの幸せを知っていて、与えられたものの価値を理解できる広い教養や知識も持っていたのだろう。

 だからこそ、知りすぎていた彼女は不安になって、絶対的な何かを求めて、ここではないどこかへ行きたがっていた。

 だから桜良は知りたがってはいけないし、より多くのもの欲しがってはいけない。

 母が残した人生の忠告は、そういうことであるはずだった。

 遠い記憶をさかのぼり、桜良はすべてに納得する。

 過去から現在まで、桜良には十七歳までの人生があり、その先の未来はない。

 その終わりに待ってくれていた宇迦尊は、婚礼の夜に口づけをしたときと同じように、桜良の意志を確認した。

「僕を食べたら死ぬのに、それでも幸せなんだね」

 そのまなざしには、同情か苦悩か、それとも葛藤か羨望か、桜良には正体のわからない感情が宿っていた。

 その想いを知ろうとはせずに、桜良は宇迦尊に真っ直ぐに向き合って微笑む。

「はい。私は幸せです」

 迷いやためらいのある宇迦尊の声に対して、桜良の声は明るく揺るぎなく響く。

 何も持たない、見捨てられた少女だった桜良が手に入れたたった一つものが、宇迦尊である。

 幼い頃にもらった舶来の人形よりも端正な顔に、母親が身に付けていた宝石をすべて合わせたよりも綺麗に輝く金色の瞳。真珠よりもなめらかで白い身体に、染める前の絹糸みたいにまぶしい白銀の長い髪。

 こんなに美しいものを食べて自分のものにできるなら、死んだって構わないのだと思い、桜良は宇迦尊を見つめていた。

 桜良はどこかにある何かを探しながら、たくさんのものを抱えて彷徨さまよいたくはない。たった一つのものを大事にして、迎えてくれた場所で眠りたい。

 これ以上のものは受け取れないし、もらってもきっと自分の手では掴みきれないことを桜良はわかっている。

 人の一生には限りがあり、何を知るかと同じくらいに何を知らずにいるかが大事で、桜良は宇迦尊との婚姻以外の幸せを知らない。

 だからこそ宇迦尊と出会うことで、桜良のこれまでの人生の不幸には意味が与えられたのだ。

「じゃあ僕も幸せに殺されて、君に食べられるべきだ」

 すべてを見透かしたまなざしで、宇迦尊は桜良の微笑みを真似る。

 人間である桜良が知らないことも、神である宇迦尊は知っていた。

 それから宇迦尊は桜良に口づけをするように、桜良が作った粥の最後の一口を食べる。

 食べることも食べられることも、相手に身体を明け渡すことから始まる。

 桜良はその二つの境界を見失いながら、触れられる近さにいながらも遠く隔てられた、宇迦尊の口づけを胸の中で受け止めた。

 食事が終われば器は空になる。

 食べ終えた器が空になるように、もうすぐ宇迦尊の命は失われる。

 しかし次の食事が始まるときには別の料理で器が満たされるように、宇迦尊は蘇りまた命を得る。

 下僕しもべである人間に幾度も殺され、その肉を食され続ける神が何を感じているのか、桜良は知らないし知る本当の時間もない。

 宇迦尊がどんな想いを抱えていたとしても、神喰いの花嫁である桜良はただ、あとは出されたものを食べて死ねばいいのだ。

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