第2話


 フィランが受けた屈辱は、華々しい話の裏側にこびりつきあっという間に伝聞されていったようだった。

 表向きでは返り咲いた心優しき少女アルアの話題であるものの、それが語られるということは本来そこに座するはずだった者の失墜も共に語られることを意味する。


「もし今日の事を話す者がいれば、どんな者でも屋敷から追い出してやるからね……、一言もアタシに向かって今日の事を語らないで……。一言もよ!!」


 久々に屋敷に帰ってきた令嬢は、家を出ていった時とは見違えるほどに汚れた雨と泥まみれの姿で、先んじて馬車に積まれていた運び出すのも一苦労する大量の荷物の一番上に、最後の荷物である”蜘蛛”を放り込んだ。

 蜘蛛といっても虫のソレではない。ただフィランが蜘蛛と言えばそれは蜘蛛である。少なくともアストラル家に仕える者たちにとって。


 ――フィランがティアラを奪われた、もとい獲得できなかったという話よりも、メイド達がよほど訊ねたかったのがこの蜘蛛についてである。

 しかしフィランからの命令は『春の訪れ祭』のあったあの日すべてに関して口にするなというものだ。それはこの蜘蛛についても当然含まれる。

 つまりフィランは……人生最大の屈辱を封じると共に、厄介事を持ち込んだことへの文句も封じたわけだ。

 ただでさえヒステリックな彼女の張り詰めたピアノ線のような神経に、わざわざ触れようとする者はいない。蜘蛛の話題に触れれば、それは『春の訪れ祭』の話題を引きずり出してしまう。爆弾の導火線に火をつける真似は誰もしたくはないのだ。


「ひとまず、コレをまともに動いて喋れるまでにしなさい」


 フィランの命令に使用人たちは押し黙った。

 誰だって得体の知れぬ薄汚い死にかけの人間を世話しようなどとは思わなかった。アルアなら真っ先に名乗り出たかもしれない。しかし彼女はもう彼らとは別の世界の人間だ。

 フィランの目尻がヒクヒク引きつるのを分かりながらも使用人たちは、誰か早く手をあげろよ、と心のうちで文句を吐いているだけだった。


「誰もいないというのかしら」

「お嬢様……私共は既にお父君より、お嬢様のお世話だけでなく屋敷や敷地の管理など様々な命令を仰せつかっております。これ以上仕事が増えれば、肝心のアストラル家の維持が難しくなるやもしれません」

「ああそう。分かった。蜘蛛の世話をする者の手当ては倍にしましょう」


 偉そうに腕を組み直し、フィランは言った。使用人たちがザワつく。

 お互い顔を見合わせ、どうしようかと探り合いをしている様子を見て、フィランは苛立ちに目を細めて更に付け足した。


「仕事量が多いというなら……名乗り出た者は当面アタシの世話はしなくて良いわ」


 バッといきなり複数の手が勢いよくあがったので、フィランは「お前達!!!」と怒り狂い、尖ったヒールを脱ぎ捨て使用人たちへとぶん投げるのであった。


 結局使用人たちの間でルコエア大会が行われ(※ルコエアというのは君たちでいうところのジャンケンみたいなものだ)、勝者三名が代わる代わる蜘蛛の世話と見張りをする事になった。

 蜘蛛を拾ってきたフィラン当人といえば、蜘蛛の世話などするわけもなく、暫く私室で塞ぎ込んでいた。

 誰かと目が合えばそれだけで「なによその目、まさかアタシを哀れんでいるの?」と目尻を吊り上げ、もし自分の名が廊下から聞こえてこようものなら部屋から飛び出してきて「アタシの悪口を言いたいなら、よその国まで行きなさい!」と喚き散らす。そして、昼夜問わず部屋の中からワンワンと泣きわめく声が聞こえてくるのだ。

 あれもこれもと命令してくる方がまだマシだった、どうしてか弱く落ち込むこともできないのか、とどこまでの手のかかる令嬢に使用人たちはほとほと疲れ果てていった。


「アルアがいればこんな事にはならなかったろうに」

「仕方ないさ、雲の上の人間だったんだ」

「そして私達はまた別のの世話ってワケね」

「どこの誰かも知れない者を屋敷に入れて……お嬢様も懲りない人だよ」

「あの蜘蛛まで天上人ってんなら、気合入れてお世話しなくちゃね。あはは」

 

 フィランの部屋からしっかり距離を取り、屋敷の裏庭で洗濯物を干しながら三人の女中達は楽しげにひそひそと話している。

 医者も最初は匙を投げるかに思われるほど弱りきった蜘蛛は、しかし驚異的な回復を見せていた。弱音のひとつも吐かず、必要なだけ眠り、無茶なほどに食べようとして、なんとか身体を動かしトレーニングをする。召使いのひとりが昔着ていたボロボロの服を与えられても文句もナシに健気に礼を口にした。弱りきった身体でも手伝えることがあればと、今年庭園から収穫できたクルベリルナッツの実を殻から取り出す作業を延々とこなしている。

 そのように蜘蛛と呼ばれる新入りはどんどん回復をし、肉付きもよくなり、率先して仕事を探すので、使用人たちの間でもそう反感を買う事はなかった。

 いかんせん蜘蛛よりも目に余る厄介者がいるのだ。そうもなる。


「お嬢様はいつまでああしていられるのかしら」

「昨晩も死んでしまいたいって部屋で叫んでいるのが聞こえてきたわ」

「放っておけばいいのよ。そうお望みなんだもの。それに毎日そうしてただ叫んでいるだけよ。本気じゃないわ」

「けどもうひと月もあの様子よ。このままじゃあ、『サルメ』に行かないなんて言い出しかねないんじゃ……わっと」


 ぶわりと風が吹き、シーツが揺蕩うまま飛んでゆきそうになり慌てて女中がそれを押さえようとすると、シーツのすぐ向こうに不機嫌な顔がドンと現れ「ヒィィ」

と悲鳴があがった。


「お、お嬢様……!!」


 いつから聞いていたのか、フィランが鬼のような顔で仁王立ちしている事に気づき、女中達は震え上がった。


「お、お散歩ですか? 本日はお日和も良く……」

「太陽の光は身体に良いですから……」

「お気持ちもきっと晴れますわ……!」

「温室に行くだけよ」


 地を這うような声で告げ、フィランはドンドンドンとわざとらしく女中達の肩に自分から当たりに行き、自分もちょっとよろけたのをなんとか立て直しでズンズンと屋敷裏の林に続く道を歩いていってしまった。

 お咎めなしである事に安堵し、青い顔のままドッドッドッと鳴る心臓を両手押さえる女中達。


「本当にあれはお嬢様なのかしら」

「あの方もきっとやっと反省したのでは? 恥をかいて……」

「でもあれはあれで調子が狂うような……」


 顔を見合わせほっと息を吐き出し、三人はシーツを干し直そうと振り返り……「ギャッ!!」と声をあげた。

 シーツがまた風に吹かれ、その向こう側には鬼ではなくゾンビが立っていたからだ。


「殻剥き終わりました」


 そこに立っていたのはゾンビではなく”蜘蛛”だった。

 肉がついてきても尚ガリガリの姿で、ザルに入った大量のクルベリルナッツを両手に持って、ひょろりと立っている。

 いつもベッドで横になっているか、椅子に座っているかの蜘蛛は立つと存外背が高かった。女中達に適当に切ってもらい肩ほどまでになった銀色の髪が、ほわほわ綿埃のようにシーツと一緒に揺れている。


「あ、ああ、ありがとう……もう歩いて大丈夫なの?」

「その大丈夫というは何があったら大丈夫でないということになるのかは分かりませんが、歩きたかったし歩けたので歩いています」

「あそう……」


 この”蜘蛛”はいつもよく分からない言葉回しをする。

 ずいとナッツ入りのザルを差し出し女中のひとりに渡すと、”蜘蛛”は先程林の向こうに消えていった後ろ姿を追うように視線を木漏れ日が輝く林へと向けた。


「あの人はどこへ?」

「え? ああ、お嬢様? 温室よ」

「ついていっては駄目よ。立ち入りはご主人様に許可された者のみだから」

「それに顔は合わせない方が身の為よ。気まぐれで助けていただいたんでしょうけど、今度顔を合わせればあっという間に追い出されちゃうかも!」


 さっさと部屋に戻りなさいと遠巻きに言われてしまえば、”蜘蛛”は大人しく屋敷に戻るしかなかった。この場で逆らっていいことなどひとつもない。


 ”蜘蛛”が与えられた部屋はH型で形成されている屋敷の後方館の一番西にある狭い角部屋だった。一階通路は使用人達に充てがわれた部屋がずらりと並んでおり、全部が同じ造りの部屋をしているらしい。

 すぐにはなんの役にも立てない薄汚い死体もどきにも関わらず、このように部屋を与えられたのは偶然その部屋が持ち主が不在になったばかりだったからだ。

 最近まで使用されていた痕跡があり、埃もない棚。使い込まれたベッドのシーツ。癖がついた誰かの香りがする枕。置き去られたであろう召使いの服は”蜘蛛”が着るには小さすぎる。

 机の引き出しの中に入れっぱなしになっていたのは古ぼけた一冊のノートだった。

 ”蜘蛛”はことあるごとにそれを取り出し、文字を指先でなぞる。


「言葉は通じる。文字は読めない。常識は通じる。知識は微妙。――……」


 なんと書いてあるかてんで分からない謎の文字から目線を外し、”蜘蛛”はベッドの上へと倒れ込んだ。


「棲家をもらって、食べ物もあって、歩けて、息はできるし、心臓は動いてる」


 あの日、あのままだったら確実に野垂れ死んでいたハズだ。

 ”蜘蛛”は一瞬だけ感極まったように口元を手で覆い、多幸感に身を委ねる。

 そして決意の炎が揺れる瞳を開き、誰に言うでもなく誓った。


「絶対にあなたを地獄から救い出します」

 

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