ヴィラン令嬢の蜘蛛~彼女はどうしたって生まれ変われない……が!!~

光杜和紗

第1話

 華々しい日だった。……彼女以外は。


 ――まさかこんな事になるなんて誰が予想しただろうか。


 そうだ、本当であれば彼女は今日が人生で最も華々しい日になるハズだった。少なくとも彼女――フィラン・アストラルはそう信じてやまなかった。

 誰が着るよりも高級で質の良い流行の最先端のドレスを身に纏い、紅茶に黄金の蜂蜜を溶かす瞬間のような茶色に金が入り交じる自慢の瞳や小さい鼻、えくぼの愛らしい唇、小さな顔を更に際立たせるために研究を重ねた最高のメイクをして、自慢の金糸のように輝くハニーブロンドヘアーをそれは豪奢に飾り立て、そんな完璧な姿にスポットライトを浴びて、隣には誰もが憧れる彼がいて――……。

 そうだ、頭には皆が憧れるティアラを被っているはずだったのだ。

 『春の訪れ祭』で選ばれたクイーンに贈られる、クイニー学院の女学生なら誰もが一度は夢にみるあのティアラ! 

 あれぞ現代におけるプリンセスの象徴。物語の中のお姫様に最も近い位置といっても過言ではない。

 それはフィランのものになるはずだった。少なくとも彼女はそう信じてやまなかったのである。


 ……だというのに、どういうわけかフィランは今、華々しいパーティー会場から怒りと悲しみでぐしゃぐしゃになった顔で走り去っていた。

 魔法で美しく七色にライトアップされたホールからは、フィランを追い立てるようにペアダンスのワルツが未だに聴こえてくる。

 晴れていたはずの夜空にはいつの間にか暗い雲が次々とやってきて、眩い月を覆い隠してゆく。まるでフィランの心がそうであるように。


「あううっ、えぐっ、ひぐぅんっ、ゔぁううう……!!」


 空よりも早く大粒の雨を両目から落としフィランは走る。

 華やかな祭典の場から飛び出してきたであろう少女の姿に、街の人々は訝しげな視線を向けていた。あんなにも着飾っているのに惨めったらしいあの女は一体どこの貴族の娘だろうかと、遠巻きながらも顔だけは確認しようとしてくるのだ。

 中にはクスクスとバカにしたように笑ってくる声も聞こえてきて、フィランはこれ以上の羞恥がまだ存在するのかと半ば悲鳴のような泣き声をあげて、人目を避けるために路地裏へと走ってゆく。

 いつもは人気のない路地裏も、祭りの夜だからか物陰で二人きりの時間を楽しんでいるカップルに遭遇してしまった。仲睦まじく抱き合っている幸せそうな男女を見て、フィランはますます惨めな気分になった。

 まだ若い女の子がボロボロの姿で現れたのを見たカップルは「なぁにこの子」「なんだよ、混ざりたいのか?」と冷たい声とからかいの言葉を放ってくる。


「……!!」


 恥辱に顔を赤くしてフィランは二人の間を半ばぶつかるように通り抜け、人気のない場所を探して走り出す。「なんなのアレ」と背後からの軽蔑の声も振り払い、フィランはガタガタの舗装のなっていない段差を降りてゆく。

 そもそも彼女の履く高級ブランドのヒールはこんな場所を歩くことを想定されていない。簡単に泥に足をとられて、フィランはカクンと膝からチカラが抜けるのを感じた。


「ひぎゃあっ!!」


 次の瞬間には身体は薄汚い段差から転げ落ちていった。

 動揺していたせいで受け身を取ることもできず、自慢のドレスは泥にまみれ、擦り切れて、破れてゆく。これまた自慢のすらりとした手足も擦り傷だらけになっていた。ひりひりと痛むのは身体の傷か、心の傷か。熱いのは傷口と目玉だ。熱湯にも思える涙が枯れることなく流れてくる。


「い、痛い……! 痛い、なんなのよ、もう……!!」


 フィランはがばりと起き上がり、ヒステリックに叫んだ。

 彼女の金切り声は賑やかな祭りの音にかき消され、誰にも届かない。

 否、届いたところで誰も助けになんてきてくれないのだ。フィランが怪我をして喚いたところで、もう誰も心配なんてしてくれないのかもしれない。


「なぜ!? なんでアタシがこんな目に遭わなくっちゃならないの!?」


 少なくとも今この瞬間、スラム街に差し掛かった路地裏で、誰の目にも留まらぬ彼女はただただ無価値な存在であった。


「あの女……!! あの女が……!!」


 フィランの瞳に憎しみの炎が燃え上がる。転げ落ちた時に脱げたヒールを鷲掴み、怒りのままに投げつけようと振り上げる。


「あの身の程知らずの小娘が――――!!!」


 しかし、その手はピタリと止まった。

 ――あの女。あの清楚で可憐で誰にも親切で天使のような少女!!

 そいつが今、フィランが憧れ続けた場所に立っている。その輝いた光景は、まさにフィランが憧れ続けた御伽噺そのもののようだった。

 驚きの展開であったものの、誰もがあの結果に納得いったような顔をしていた。少なくともフィランがあそこに立つよりは喜んでいる様子だった。皆、フィランをいい気味だとでもいうような目で見ていた。


「……っ」


 ――身の程知らずだったのは、ひょっとして……。

 決して認めたくはないとフィランは脳裏に過った答えから目をそらすように立ち上がる。ぎゅっと目を閉じると、だばりと涙はまだまだ止めどなく流れた。

 雨がざあざあと降りだして、いよいよドレスは汚い茶色に染まってゆく。まるでフィランの心とおんなじ色だ。


「……どうせアタシは意地悪よ!!!」


 ぽとりとヒールが側に落ちる。

 フィランはやけくそのように叫び散らした。


「純粋でもないし、優しくもないし、献身的でもないし、処女でもないわ!!!」


 憧れたお話の中心に立つ少女の条件など自分は何一つ果たしていない。

 そんな事、フィランはとっくに勘づいていた。


「そうよ!! アタシはお姫様じゃなくてどうせ悪者よ!!!」


 本当は気づいていた。気づかないふりをしていただけだ。

 物語を読み返す度に遠い存在だと憧れを抱くと共に、理解してしまうのは異なる存在だと。


「けど、資格なんてないなら……!!! ただの夢物語なら……!!」


 喉が裂けそうな悲痛な悲鳴は、祭りの音が遠のいた路地裏に響き渡る。


「最初からそんなもの見せないでよ!!!」


 地面に転がったヒールの真横に伏せ、フィランはわんわんと泣き喚いた。

 この姿だけ見れば彼女はとても哀れな娘だったろうが、もしこの場に誰かがいたとしても果たして同情を得ることはできたろうか。

 助く者がいるとすれば、彼女を持ち上げて損はないアストラル家の関係者の者だろう。


 しかし――この時、フィランに声をかけたのは、全くもってフィランに関係のない存在だった。


 その声のまこと小さいこと。フィランがその声に気がついたのは、暗雲たちがゆっくりと頭上を去り、彼女自身の声がほとんど枯れ果てた頃だった。

 まるで錆びきった包丁を研ぐような音を喉からひっきりなしに零していると、フィランのすぐ横にある路地とも呼べぬような狭い暗がりから空気の滑る声が聞こえてきたのだ。

 古ぼけた家と家の隙間。そんなところを好んで通るのはネコか冒険好きで身の程知らずの子どもくらいだろう。

 しかし、確かに声はそこから聞こえてきた。

 この頃にはフィランの瞳は眩いパーティー会場の輝きも忘れ、すっかり薄汚い路地裏に馴染んでいた。なので、彼女は確かに見つけたのだ。暗闇の中から浮き上がる真っ白でガリガリの腕を。


「ヒ……!!」


 フィランは恐怖に息を飲み、尻もちをついたまま後ずさった。

 その時、月にかかっていた最後の薄暗い雲がようやっと去り、路地裏に僅かな明かりが差し込む。

 骨と皮だけ……という表現は些か誇張しすぎているが、少なくとも生きているのが不思議なほどに痩せこけた人間がそこに転がっていた。

 いや、きっとこの人間はもうすぐ死ぬだろう。動く気力もなさそうで、襤褸の服とも呼べぬ布を纏ったこの人間は、ほとんど死んでいるように思えた。

 仰向けに転がっていたその人間は、落ち窪んだ目元の中心にある目玉でジ……とフィランを凝視していた。

 ガリガリの胸がわずかに上下しており、ボサボサの長い銀色の煤けた髪がゆらゆらふわふわと風で綿埃のように動いている。

 すっかり泣きつかれていたフィランは、目の前のこの人間と呼んでいいものかも分からない死にかけのそれが、自分を襲うような力はないことに気がつくと、途端にどうでも良くなってきた。

 いや、むしろ襲ってこられようと自暴自棄でどうともしなかったろうか。いや、いや、残念ながらそんなに潔い性格はしていない。自分の意地汚さだって本当はとっくに気がついていた。


「――すよ」

「は?」


 乾いた青白い唇からやっとなにやら明確に音が聞こえ、しかし単語までは聞き取れずフィランは反射的に声を返してしまった。

 もそもそと青白い唇の中で舌が蠢いた。ピチャピチャ音がして、口の中を湿らせているのだと分かった。


「あんまり……処女じゃないだのなんだの……年頃の女の子が……騒ぐものじゃないですよ……」

「は?」


 フィランはまた同じ音を返してしまった。

 言葉こそ理解できても、状況も意味も理解できなかったからだ。

 眼の前の死体もどきは思ったより知性のある喋り方をしたし、すぐそこに死神がいるであろうに全く関係のないことを話すし、とんでもなく余計なお世話だった。


「う、う、うるさいわね!! 今日は人生最低最悪の日なのよ!!! 終わりなのよアタシの人生!!! お淑やかになんてしてられるわけないじゃない!!!」


 自分の叫びが誰かに聞かれていたと知り、じわじわと羞恥が襲ってきてフィランは顔を怒りと恥ずかしさで真っ赤にしてキィキィ叫んだ。さんざん泣き叫んだせいで、ガラガラでガチョウみたいな声だった。

 死体もどきは煩わしそうに僅かに薄い眉を寄せ、疲れきったように目を閉じる。

 死んだか。そう思ったが、薄っぺたな胸はまだ上下していた。


「聞きますよ……話……」

「は?」


 また聞こえてきた掠れた声に、フィランは三度目の音をあげる。


「なんでアタシがあんたなんかに話をしなくちゃいけないのよ」

「話し相手とか……いなさそうなので……」

「い、い、いるわよそれくらい!! あんたにアタシの何が分かるのよ!!」

「話し相手がいる人は……こんな場所であんな風に泣かないと思ったんですが…」

「……!!!」

「意地悪オンナの話でも聞いてくれる人はいるんですね」

「誰が意地悪オンナよ!!!」

「ご自分で仰ってたんでしょう……」


 そういえばそうである。フィランはぐっと言葉を飲み込んだ。

 いつもなら散々やかましく言い返したろうが、今日はそんな元気もなかった。

 見ず知らずの死にかけの人間と話すくらいにはヤケクソ状態である。


「……ティアラを奪われたのよ」


 もう喋る気力もないのか、死体もどきは視線だけで話の続きを促した。


「春の訪れ祭の至尊のティアラ……、アタシがもらうハズだったのに……!! あの小娘が!! アルアがティアラを奪って、サルト様の隣に立った……!! プリンセスの座はアタシのものなのに!!」

「……よく分かりませんが……、どうやって奪われたんですか……?」

「と、投票でよ」

「投票……?」

「あ、あの小娘、周りを味方につけて票を得やがったのよ!! 地位を振りかざして、哀れな境遇で同情まで得て、手段を選ばず!!」

「…………」


 死体もどきの瞳がうろうろ……と少しだけ動く。何か考えているようだった。

 肩で息をして怒りを抑えようとするフィランに、死体もどきは言った。


「よく分かりませんが……、その小娘とやらは……真っ当にティアラを得たのでは?」

「!!!」

「あなたが……人気がなかっただけでは……」

「うるさい!!!」


 ギャアとカラスのように叫ぶフィランに、死体もどきは「図星か……」と声にならない声を漏らした。


「そもそもあの小娘はアタシの使用人だったの!! それを、いきなり尊い血筋だっただのなんだのでのし上がってきて……!! アタシはあいつをコキ使ってたって悪者呼ばわりよ!! 皆だって使用人をコキ使ってるくせに!!!」


 はー、なるほど。ともう声に出す気力はないが、死体もどきは納得してきた。

 ハチャメチャな喋り方をするこの女の言うことを推測するに、典型的なプリンセスストーリーが繰り広げられてたわけだ。

 しかしプリンセスはこのキィキィ女ではなく、その使用人とやらで、恐らくこの使用人は純粋で優しくて献身的で、オマケに処女なのだろう。


「アタシの人生順調だったハズなのに……!! あんな恥かいて……もう終わりよ!! 明日から生き地獄よ!! いっそ本当に死ぬべき!? こんなところで見ず知らずの死体と一緒に!! 死ぬべき!!?」

「まだギリギリ生きてます……失礼な人だな……」

「ってな~~んでアタシが死ななきゃならないのよ!! 絶対絶対絶対返り咲いてやる!! 納得するもんですかこんな結果!! こんなとこで人生終わりにするもんですかーッ!! まずはあの小娘をなんとか引きずり落として……」


 乾いた声はもうフィランに届いていないらしい。

 ピチャピチャとまた乾いた舌でなんとか口内を潤し、死体もどきは言った。


「極悪人が地獄から脱出する方法を知ってますか」

「は?」

「――蜘蛛を助けるんです」

「くも?」


 全くもって訳の分からない話にフィランは眉間に皺を寄せる。


「地獄に落ちた極悪人は……かつて気まぐれで蜘蛛を助けたことを評価されて、天から降ろされた蜘蛛の糸を手繰って、天まで登ってゆけるんです」

「……なあにそれ、おとぎ話?」

「そんなようなものです……」

「……蜘蛛を助けただけで天の国へ行けるっていうの? 蜘蛛の糸なんかで?」

「まあまあ……地獄に落ちたあなたは……縋る藁もなさそうだ……今は蜘蛛の糸ですら掴みたいのでは……?」

「…………」


 ジ……と死にかけの身体についた生きる闘志を燃やす2つの目玉がフィランを見つめている。それは月明かりを受けて、キラキラと輝いていた。

 フィランは死体もどきの意図を悟るが、その糸に果たして価値はあるのかと瞳を細める。


「それで、アタシに”蜘蛛”を助けろって?」

「私は死にたくないんで……、本当の地獄に行くなんてゴメンなんです。……今私を助ければあなたは命の恩人だ……。――この蜘蛛は全力で恩返ししますよ……」

「…………」

「あなたを必ず天上へのしあげます」

「うふ♡」


 ギラギラと地獄の炎のように燃える瞳を見て、フィランは更に瞳を細めて笑った。


「くだらないわ。なんの地位も力もない蜘蛛一匹助けたところで何になるのよ」

「――……」

「――でも、そうね。最高にミジメな日に、少しくらい善人ごっこをしてもいいかも。丁度使用人も最低なハプニングでいなくなって困っていたところだし……あんたを助けたことを慰みに生きるのも悪くないかもね」


 フィランはすくりと立ち上がる。泥と雨でびしゃびしゃのスカートを引きずり、死体もどきの側にしゃがみ込んだ。

 顔を覗き込まれ、死体もどきはフィランの瞳がギラギラと輝くのを間近で見つめる。それは確かに自分の中で燃える炎と同じ輝きを放っていた。

 フィランは死体もどきの腕に触る。薄汚れた肌とひどい臭いに「うえッ」と遠慮なく顔を歪め、死体もどきの腕を自分の肩へと回した。

 どうやら自分より身長が高いらしい死体もどきは、しかし驚くほど軽く、フィランでも引きずれそうだ。


「ありがとう……この恩は必ず返します……」


 耳元で囁かれた声は掠れきってほとんど音になっていない。

 生きるために力を振り絞って、フィランに説いていたのだろう。

 フィランはフンと鼻を鳴らした。こんなガリガリでちっぽけな存在が、自分に何かしてくれるとはまるで思えなかった。


「バカね。蜘蛛が同じ地獄にいちゃあ、糸を垂らしようもないじゃない」

 

 返事はない。気絶でもしたようだ。

 フィランは片足に残っていたヒールを乱暴に脱ぎ捨て、薄汚れたスラムを歩き出す。

 炎の燃ゆる瞳の中心にきらめく別の輝きは、彼女の見つめる天に輝く世界の光りか。

 ――こうしてヴィラン令嬢は蜘蛛を助けた。


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