第8話・屋敷5
陽太はめちゃくちゃに走り続けた。自分がどこをどう走っているのかすらわからず、ただひたすらに。逃げても逃げても、どこまでも火が追いかけてくるようで、ちっとも落ち着かなかった。恐怖がぐるぐると体内を駆け巡り、手足から骨や内臓にいたるまで、すべて支配していくようだった。
――こんなはずじゃなかったのに。
幼い体を必死に動かしながら、陽太の中にあの日の自分が浮かんだ。
きっかけはただの、なんでもない親子喧嘩だったはずだ。
具体的に何について言い争ったか、それすら曖昧なくらい。本当に些細なこと。でもあの日の自分にとっては最悪なことで、両親に醜く当たり散らして、それから家を出ていった。これより最悪なことなんてないと思っていた。
外で頭を冷やしてきて、帰って謝るつもりだったのだ。
――それが、どうしてこうなった?
あの日、陽太の目の前にあったのは、呼吸すら躊躇うほどの異様な熱。ぱちぱちと音をたてて夜空へのぼっていく巨大な炎。安い同情と好奇心で群がる野次馬。それを退けながら崩れゆく家を消火しようと試みる消防隊員と警察。その場全体が悪夢そのもののように赤く揺らめいていた。
なんでもない日常が一瞬で全部失われた。炎は陽太にとって怒りと恐怖の象徴だ。
足がもつれて、陽太は勢いよく転んだ。思いきり膝を擦りむいてしまう。頭を庇って先についた手も、真っ赤になって血が滲んでいた。怪我したことなどどうでもよかった。もっと大事な、恐ろしいことが追いかけてくる。
後ろから、まだ炎が迫ってきている気がする。赤い熱が、獣が這うように近づいてくる。
嫌だ。逃げなければ。あれに捕まったら、また陽太は空っぽに戻ってしまう。大切なものが奪われる。
「い、嫌だ。くるな。こっちへくるな……!」
「――え、何、この子。いきなり拒絶されたんだけど」
「!?」
上から声が降ってくる。涙で前が見えなくて、声の正体までは掴めなかった。いや、そんなことはどうでもいい。逃げないと。痛む体を引きずって、陽太は炎から遠ざかろうとした。
「ちょっと、君。待ちなよ。どうしたの」
「く、くるな! 俺に近づくな!」
「えー、生意気……」
ずるずると床を這って逃げる陽太に、声の主がついてくる。炎と同じ、嫌なものかもしれない。そう思うと途端に声も怖くなった。涙をぽろぽろこぼしながら、陽太は差し伸べられた手を全力で拒否した。
「近づくなと言ってるだろう! やめろ!」
手を払いのけて、陽太はのろのろと立ち上がる。声の主は陽太よりずっと大きいらしく、顔まで見えない。もっとも、涙で歪んだ視界では見えたところで誰かもわからない。
陽太はとにかく逃げたかった。炎に追いつかれたくない一心で、目の前に立っているだろう相手を力いっぱい押しのけた。
「わっ、ちょっと」
相手はよろけて尻餅をつく。長い足に引っかかって、陽太もまた転んだ。相手に馬乗りになったような格好で、陽太は小さく悲鳴をあげた。怖いもの。音をたてて燃える炎と同じ。陽太にとって恐ろしいもの……!
恐怖で顔がひきつる陽太を、相手は不思議そうに見上げていた。
「あれ。もしかして……」
彼の頬に、陽太の目いっぱいにたまった涙がこぼれ落ちる。その瞬間、彼は何度か瞬きをして口を開いた。
「朝倉くん?」
「……え」
涙がこぼれると、視界がクリアになる。
柔らかそうなミルクティー色の三つ編み。常夜色の目。
陽太の下敷きになっていたのは、陽太の涙ですっかり顔を濡らした鏡夜だった。
「なつ、め……きょうや……え?」
「え、はこっちの台詞だよ。どうしちゃったの、そんなに小さくなって」
鏡夜の指が伸びてきて、陽太の涙を優しく払った。それだけで、彼は何も言わなくても察したらしかった。真顔になって、上体を起こす。
「怖いものは何もきてないよ」
「あ、ああ……」
陽太と目が合うと、鏡夜はにこりと微笑んだ。その笑顔にほっと胸をなでおろす。よかった。彼は炎でも恐ろしい何かでもない。
しかし――陽太の耳に、何度目かの声が響いた。
――にげちゃだめ……!
今度は笑っていない。むしろ怒っている。壁や床を震わせるような声で、陽太に怒りをぶつけている。苛立ち、地団駄を踏むような大きな音が何度もした。
――にがさない。
――このこはもらうの。
――このこがほしい……!
声が低く呻いた。ずず……と獣が這うような音がして振り返る。
深く暗い通路の向こうに、再び炎が見えた。
大きな獣が這い寄るように、炎は陽太を燃やそうとやってくる。たまらず叫び声をあげた。すると、怒っていた声たちが嬉しそうに笑いだす。
――あはははははは!
――もうにがさない! ちょうだい! ちょうだい!
「朝倉くん!」
鏡夜が陽太の肩を掴んで揺さぶる。
「しっかりして。向こうには何もない。ただの廊下だ」
「ち、違う。火だ。火があるんだ。俺をのみ込もうとして、火が」
言うと、視界いっぱいに真っ赤な炎が広がった。陽太の絶叫が辺り一帯に響き渡る。体が熱い。怖い。背中が総毛立つ。必死で手足をばたばたと動かし、もがいた。消えない。火は消えない。目の前が炎でいっぱいになる。のみ込まれて、すべて失うのだ……!
鏡夜が自分を呼んでいる。でも、陽太にはもう何がなんだかわからなくなった。視界が点滅する。真っ黒な景色と、炎が、何度も入れ替わる。両手で目を覆っても変わらない。炎の奥に、何か小さな部屋が見える。階段を降りて、降りて……ずっと降りた先、真っ暗な小部屋。
――おいで。
――こんどはにがさないから。おいで。
ゆらゆらと声がささやきかける。炎の奥に見える部屋へ誘おうとする。
そこにいるのは、膝を抱えて泣きじゃくる、人形を持った小さな少女……。
――さびしいのは、もう、いや。
(君、は――)
と――がくん、と体が揺れた気がした。
誰かに体を揺らされて、次に背中に衝撃がきた。ぐるりと視界が回転し、目の前には焦っているような、怒っているような男の顔。
「な、つめ」
「動かないで」
気づけば押し倒されていて、陽太はぽかんと口を開けていた。鏡夜は懐から何か取り出すと、陽太の顔を片手でぐっと押さえ込む。
陽太の目に、透明な一滴の雫が落ちた。
冷たい。鼻の奥がつんとする。何事かわからないうちに、もう片方の目にも一滴、雫が落とされた。ぱちぱちと何度もまばたきする陽太が、鏡夜の手に握られたものを見つける。
「なんだ、それ」
彼の手には、小さな容器が握られていた。点眼薬を入れるような、四角い黒い容器。
陽太は今朝のやりとりを思いだして言った。
「また、ただの目薬か」
「今度は違うよ。これはまじない祓いの雫」
鏡夜が陽太の顔から手を離す。まじない祓い。以前、見たことがある。確か、悪い魔法を払いのける効果があるんだったか。
「もう火は見えないでしょう?」
言われて、ぞっとする恐怖が蘇った。呼吸が浅くなる。でも、今は鏡夜がいる。悪いものは祓ったはず。
恐る恐る振り返った。……何もない。薄暗い廊下が続いているだけだ。
今度こそ本当にほっとして、陽太は仰向けに寝転がった。天井も、豪華なだけのただの天井。おかしな声も聞こえない。
ゆっくり呼吸を整えていると、遠くから二人分の足音が近づいてきた。
「ヒナタ~! って、あれ、鏡夜くん? 無事だったんす、ね――」
「鏡夜様!」
キーランを置いて、ミサが全速力で走ってきた。素早く鏡夜の横に膝をつき、王にこうべを垂れるように一礼する。
「申し訳ありません、鏡夜様。ミサは鏡夜様をお守りできませんでした」
「謝らなくていい。あれは僕のミスだ」
「ミサは納得できません。……あ、頬に傷が……」
「いや、だから気にしなくていいってば」
全身ぺたぺたとボディチェックするかの如く触れられて、鏡夜は困ったように髪をいじった。まるで過保護な姉と逆らえない弟だ。肩で息をしながら追いついたキーランが羨ましそうに唇をかみしめている。
「ヒナタ、無事みたいでよかったっすネ……」
「あ、ああ。心配かけてすまん」
よかった、と言いながら顔は全然笑っていない。視線はミサにされるがままの鏡夜に注がれている。親友といいつつ、ミサの関心を一身に受ける鏡夜には複雑な気持ちがあるらしい。陽太はなんと言えばいいかわからず、とりあえず謝っておいた。
が、何か気に食わなかったのか、キーランは陽太を無理やり引きずり起こして唸った。
「うう……ヒナタにはわからないんす。おれの友情と愛の狭間で揺れ動くこの複雑怪奇な心情が……!」
「キーラン……いや、わからなくもないぞ、その気持ち」
陽太は遠い目をしてうなずいた。脳裏には、会うと決まって「店長さんは元気?」と照れたようにたずねる満島楓の姿が浮かぶ。虚しさがこみ上げる陽太に何かを感じ取ったらしいキーランが、ぐいっと肩を組んできた。
「ヒナタ……! おれたち、今日から親友っすよ……!」
今にも唇から血が溢れそうなキーランをなだめていると、鏡夜がめずらしそうに首をかしげた。
「あれ。二人とも、いつのまに名前で呼び合うくらい仲良くなったの」
「たった今、親友になったっす。ていうか、二人だって仲いいんじゃないすか? さっきさりげなく呼んでたじゃないすか、鏡夜って」
陽太はぎくりと顔を歪ませた。そういえば、鏡の中に連れて行かれる鏡夜を見て、思わず口走ったかもしれない。なぜか口の中に甘苦い変な味が広がった。
鏡夜は特に気にしておらず、ああ、と言いながら顎に手をやった。
「そう言われると、僕も呼ばれた気がする。意外とフレンドリーなのかな、朝倉くんって」
「お、覚えてない。どうでもいいだろう、そんなことは」
それよりも、と陽太は強引に話題を変える。
「さっき、妙な声に引きずられそうになったときだが。何か見えたんだ。たぶん、カスミちゃんに関する大事なことだ」
全員の視線が陽太に集中する。陽太はひと呼吸おいて続けた。
「下だ。カスミちゃんは、階段をずっと降りていった先……おそらく、地下室にいる」
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