第7話・屋敷4
バサッ……と、陽太の真横を羽音が過ぎ去った。振り返ってみると、真っ青な鳥が翼をバタバタとせわしなく動かし、今初めて飛び方をしったように飛んでいた。天井を舞う青い鳥から、羽根がひとひら落ちてくる。ふわり、と宙を泳いだ羽根にはたっぷりの文字が書かれていて、薄っぺらくて、四角い。よく見ると、鳥は本物のそれではなく、一冊の本だ。
高い天井を大空のようにして、数冊の本が頭上を飛び交っていた。キーランは疲れたように、ミサは何も感じていないような顔でそれらを見上げた。ミサのほうは、心なしか顔色が悪いようにも見える。
「鏡夜くん、いないっすね……」
キーランが、がくり、と肩を落とす。図書室と思わしき部屋に辿り着いた陽太たちは、見回しても自分たち以外の人間がいないことに息を吐いた。壁一面が本棚で埋め尽くされた広い部屋。一家は読書家なのだろうか。それとも、これも魔法によって生み出されたものなのか。陽太は深く考えるのをやめた。意味はないし、意味のないことを考えるのにも疲れていた。一体、ここに来るまでいくつ部屋を回っただろうか。途中で数えるのをやめたから、これもわからない、意味ないことだ。
「鏡の次は、本に引きずり込まれる、なんてことないっすよね……?」
「そうあちこち呼び出されては困る」
飛び回る本を眺めるキーランが笑顔を引きつらせる。これまで陽太とミサの重たい空気をなんとか浮上させてきたキーランだったが、さすがに隠しきれない疲労が浮かんでいた。幽霊より幽霊らしい青白い顔で、よろよろと室内を歩き回る。陽太たちのなかでいちばん小さな体で、気を遣いながらここまで来たのだ。少し休ませてやりたいと感じるのは自然なことだと思う。
「一旦休憩しないか? ここは特に害もなさそうだし」
「え、でも、鏡夜くんとカスミちゃんを探さないと」
「助けに行く側が満身創痍では困るだろう。本当に、少し座って休むだけだ」
言って、陽太は近くの本の山に腰掛けた。こんな状況だ、行儀が悪いのは勘弁してほしい。
「ミサは疲労を感じません。鏡夜様を探します」
「単独行動は危険だ。お前まで行方不明になられては困る」
「ですが……」
ミサは納得していない様子で入口に目をやった。本当は早く鏡夜を見つけたくてたまらないのだろう。鏡夜とはぐれてからのミサはあからさまに様子が変だ。
彼女のことを思うと、すぐに出発したい気持ちはやまやまだが、陽太たちの体がついていけない。陽太はミサに向かって頭を下げる。
「すまん、ミサ。こうなった原因をつくった俺が言うべきではないが、少しでいい、休ませてくれないか。俺もキーランも限界が近い」
「……」
「繰り返すが、今ミサにまでいなくなられても困る。どうしても落ち着かないなら、せめて入口を見張っているくらいにしてほしい。あいつが近づいたらすぐわかるように」
「……了解しました」
ミサはそう言って、とぼとぼと――陽太にはそう見えた――入口の扉まで歩いていった。横で見ていたキーランが、糸が切れたようにその場にへたり込む。
「ミサちゃん、申し訳ないっす。おれが頼りないばかりに……」
「お前のせいじゃないだろう。気にするな」
適当に励ましながら、陽太は高く積み上げられた本の山にもたれかかった。本は重くてびくともしない。これでもう少し柔らかければ、心地よさについ眠ってしまいそう。
もちろん、そんなわけにはいかない。眠気を追いだそうと、陽太はキーランに話を振った。
「そういえば、お前は夏目の友人らしいが。いつから知り合いなんだ?」
「おれっすか? 鏡夜くんがお店を始めた頃からなんで……二、三年くらいっすかね」
キーランがなぜか自慢げに笑う。別に、嫉妬するつもりは微塵もないが。あまり強調されるのも面白くはない。
陽太の複雑な表情に気づくことなく、キーランはとにかくよく喋る。
「雫師の鏡夜くんと、魔道具職人で素材集めもする仕事をしてるおれなので、出会いはまあ、自然と。あの頃はおれも鏡夜くんも、職人として、魔法使いとして、まだまだペーペーでしたからね、お互い苦労もありましたけど。色々あって仲良くなって、今では大親友っすよ!」
その、色々あって、の部分が気になるのだが、キーランは「ミサちゃんと運命の出会いを果たしたのも、同じ頃だったっすね……」などと浸り始めたので機会を逃した。ぶつぶつとひとりで喋り続けるキーランの言葉は右から左へすり抜けていく。
「――とにかく、ああ見えて鏡夜くんは寂しがり屋っすからね。早いとこおれたちが見つけてあげないと」
「寂しがり屋、か。そうは見えないが。以前、あいつの師匠も同じことを言っていたな」
陽太の言葉にキーランが若干顔をしかめる。
「あー、エラさんっすか。大きな声じゃ言えませんけど、おれはあの人苦手っす。もとはと言えば、鏡夜くんはあの人のせいで――」
言いかけて、しまった、という様子でキーランは口元を手で覆った。
「なんだ、どうした」
「いや、その……鏡夜くんから、何も聞いてないんすか?」
胸がざわつく。胸の奥に、あと少しでちょうど手の届かないところがあって、そこが疼くような落ち着かない感覚。陽太は努めて冷静に返す。
「何って、なんの話だ」
「うーんと」
キーランは腕を組んでうんうん唸ったあと、「やっぱりだめっす」と首を振った。
「鏡夜くんが話してないなら、おれが言うべきじゃないんで。今のは聞かなかったことにしてほしいっす」
なんだそれは。問い詰めたいが、陽太は黙るほかなかった。これ以上何か言っても、キーランを困らせるだけだ。友人の、おそらくはプライベートな話を、口の軽そうなキーランとはいえ語ることはないだろう。
しかし――陽太はざわざわと落ち着かない胸に手をあてた。陽太は鏡夜について、何も知らないのだと思い知らされた気分だった。陽太にとっての鏡夜は、常に落ち着いた笑みを浮かべている、どこか胡散臭い魔法使い。それ以上のことは何も知らない。
今さらになって自覚する。ミサやキーランと過ごす彼の顔。どこか溝があるように見える師弟の謎。自分は夏目鏡夜という人間について、あまりに無知だということ……。
別に、キーランに嫉妬しているわけではない。ただ、すぐ近くにある純粋な疑問に、どうして触れなかったのか。いや、触れられなかったのか……考えると、なぜか真っ暗闇の中、ひとり傘もささずに立ち尽くしているような気分になる。
この先を知ってしまうのは、怖いような……悪いことの、ような……。
「さあ、休憩終わりっすよ!」
頭にかかる霧を、キーランの明るい声が瞬時に晴らす。ハッとなる陽太の腕を引っ張り、彼が無理に笑ってみせた。
「いつまでも休んでいられないっす。アサクラ、でしたっけ? あんたもさっさと立つっすよ!」
「……陽太だ。朝倉陽太」
「うっす。ヒナタももうちょっとその筋肉役立てて鏡夜くん見つけてほしいっす」
「どういう意味だ、それは……」
呆れながら立ち上がると、二人の間に本が落下してきた。ひいっ、と声をあげてキーランが飛び退く。地面に落ちた本が衝撃でぱらぱらと捲られた。先ほどまで鳥のように飛んでいた本が急に落ちてきたらしい。開かれたページには写真のような紙がいくつも貼ってある。
どうやらアルバムのようだ。自然と拾い上げた陽太は、すぐに本の違和感に気づいた。
何も映っていない。
写真は確かに貼ってあるが、そこには何も映っていない。真っ白だ。ページを捲っても、ただの白い写真が何枚も貼ってあるだけ。
と、その一枚が突然、煙を吐くように像を映し出した。
子供の写真だ。
漆黒の髪。真っ直ぐな眼差し。ともすれば睨んでいると言われそうなほど。実際、何度かそう言われたことがあった。腕や足にはあちこち擦り傷がみえる。子供の頃は、よく外で飽きることなく走り回って遊んでいたから。
「――俺?」
写真には幼い陽太の姿が映っていた。
歳は十一、二歳くらい。背はキーランより頭半分ほど低い。動きやすさを重視したシャツとズボン、汚れたスニーカー。着た覚えも、履いた覚えもある。
「えっ、この子ヒナタすか? なんで?」
キーランが背伸びしてアルバムを覗く。心当たりなどあるはずもない。
なぜ幼い自分がこの屋敷のアルバムに?
疑問符で頭がいっぱいになる陽太に、聞き覚えのある声が響いた。
――くすくすくす……
まただ。また、例の子供の声が聞こえる。今度は陽太以外にも聞こえるのか、隣にいたキーランがしがみついてきた。ミサが入口からすぐさま引き返してくる。
「朝倉様、キーラン様。今の声は」
「ま、またっすか? 今度はなんすか!?」
困惑する陽太たちを声が嘲る。
――ちょうだい。
「なんだと?」
笑い声に混じって、別の言葉が響いた。
――そのこ、ちょうだい。
――そのこがほしい。
「な、な、なんすか。なんの話っすか?」
「まさか……写真の俺のことか?」
陽太に答えるように声がくすくすと笑い返す。
――ちょうだい。
「何――」
声が響いたときには、陽太の視界が歪んでいた。
目の前がぐにゃりとたわむ。激しい悪寒と吐き気によろけた。ぐっと血の気が引いて、視界が点滅し始める。まともに前が見られない。陽太を呼ぶキーランの声が遠く感じた。意識が遠のきかける。
「ヒナタ! ちょっと、どうなってるんすか!?」
「これは……朝倉様、なのですか?」
戸惑う二人の台詞に違和感を覚える。なのですか、とは一体どういうことか。
ゆっくり目を開いた。心配そうに自分を見下ろすキーランとミサ。……見下ろす?
(なぜ、俺は二人に見下ろされている? 俺はちゃんと立って、二人を見ているはずなのに)
二人のほうへ手を伸ばして、違和感の正体に気づいた。
手のひらが小さいのだ。明らかに。おまけに腕も細い。太さがぱっくり半分になったかと思うほど。
「どうなってるんだ?」
声も高い。声変り前の少年のよう。どう考えても、『今の』陽太の声ではない。驚く陽太より驚いているのはキーランだった。陽太を見てあわあわ口を動かしたあと、慌てて床に落ちた本を拾い上げて指さす。
「ひ、ヒナタ、写真っす! さっきここにのってた写真と、同じになってるっすよ!」
陽太は目を見開いて思わず両手を見た。小さい手のひら。低い目線。高い声。それに、シャツとズボン、汚れたスニーカー。
間違いなく、写真に写っていた陽太と同じ姿だ。
「子供に戻っている? なぜ……」
言いながらハッとした。さっきの笑い声。……そのこがほしい。
――あはははははは!
途端に、室内に甲高い笑い声が反響した。それがいくつも重なり合う。ほとんど叫びに近い笑い声。びりびりと部屋を揺らす大声に、本棚からいくつもの本が倒れてきた。
――そのこ! そのこがほしかったの!
――ちょうだい! ちょうだい!
狂ったように笑う声のあと、本棚から雪崩のように次々本が倒れていった。空になった棚から本の代わりに出てきたのは、無数の白い腕。ぎょっとするまもなく、白い手が陽太を狙い迫ってくる。
「ヒナタ――!?」
「朝倉様!」
ミサが飛びだして陽太を脇に抱えた。近くの白い手を蹴り払うと、すぐに出口へと走り出す。キーランも慌ててそれに続いた。白い手は陽太めがけてどこまでも伸びてくる。
部屋を出た三人はすぐさま扉を閉めた。キーランが全身を使って扉を押さえる。たくさんの何かがぶつかる音。無数の手が扉を叩いているのだろう。すり抜けてまでは追ってこれないようだが、それでも子供の陽太を探そうと激しく扉を叩いていた。キーランが押し返されそうになり、それをミサが加勢してなんとか押さえ込む。あまりの衝撃に、薄っぺらい扉など壊されてしまうのではないかとすら思えた。陽太はぺたんと座り込んだままあっけにとられる。
やがて、音と迫力が弱まっていき、なんの気配もしなくなる。音がしなくなってしばらくしても、キーランは扉にはりついたままだった。額には汗がどっと噴き出している。
「……さ、さすがに諦めたっすかね?」
「気配を感じません。先ほどの手は消えたかと思われます」
ミサの冷静な一言に安心したのか、キーランがへなへなと床に突っ伏した。
「なんだったんすか、さっきのは~!?」
「俺にもわからん。というか、どうすればいいんだ、この状況は」
無数の手は去ったが、陽太の体は子供のままだ。キーランとミサが顔を見合わせる。
「どうって言われても。どうしようもないっすよ。鏡夜くんはいないし、おれも魔道具持ってないし。屋敷をどうにかするしかないんじゃないすか」
「申し訳ありませんが、ミサにも何もできません」
返ってきたのは、予想はしていたが納得いかない返事。とはいえ仕方ない。陽太の体どうこうより、まずは屋敷をどうにかするのが最優先だ。それと、鏡夜と合流することも。
陽太は起き上がり、再び屋敷内を進もうとした。
そのとき……。
振り向いた廊下のほうから、何かがこちらへ迫っているのがみえた。
どろどろとうごめく何か。それらは小さかったが、みるみるうちにかたまって大きくなり、やがて廊下を埋め尽くすほど巨大な何かになる。
陽太は直感した。本能がすぐ、逃げろ、と警告した。唇が震え、激しい耳鳴りがする。ミサとキーランは震える陽太をぽかんと見ていた。彼らは気づかないのか。陽太の恐怖に。
それは、火だった。
真っ赤な生き物のようにうごめく炎が、廊下の向こうからこちらへ迫ってきていた。
「火だ……!」
「え、火?」
場違いなほどのん気なキーランの声がする。同じ方向を向いているはずなのに、彼には危機感が全くない。
不吉な赤い色。夢と現実が交互に脳裏に押し寄せる。あの日の赤と、目の前の赤色。何度も何度も切り替わりながら押し寄せる炎に陽太は立ち尽くした。全身が心臓になったようにうるさい。ガチガチと歯を鳴らしながら、陽太はかろうじて声をあげた。
「か、火事、だ……! 逃げないとっ」
「ヒナタ、しっかりするっす。火なんてどこにもないっすよ!」
「違うっ! あるんだ、目の前にっ」
震える指で廊下を指さす。火は今にもこちらへやってきて、陽太たちをのみ込みそうだ。
うごめく炎。それは陽太の大切な宝物、すべてをあっけなくのみ込んで、消し去ってしまうほど恐ろしい、揺らめく不吉な赤……!
陽太は無意識に、床を蹴って飛びだした。炎と反対方向に。
キーランの驚きの叫び声を背後に聞きながら、陽太は脱兎の如く逃げ出した。
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