第6話・屋敷3

 体がどこかへと落下していく感覚がした。激流にのみ込まれ、水底へ沈んでいくように深く、深く。いつのまにか、鏡夜の腕を掴んでいた鏡の中の彼はいなくなっていた。

 上から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。二人分。それが誰なのかは、はっきりしない。

 背中に強い衝撃を受けて、全身の力が抜けた。そのまま意識が薄れていく。

 ――鏡夜!

 悲鳴に似た叫び声がもう一度、意識を手放す前に聞こえた気がした。



     *



 ざあぁ……と、細い雨の降る音が遠くで聞こえた。


(雨、なんて……降ってるはずがないのに)


 雨は、あまり好きじゃない。嫌なことを思いだすから。

 しかし窓は塞がれたように真っ暗で、外の様子を感じることなどできない、そういう場所にいたはずだ。ならこの音はどこから聞こえる?

 確かめようと、鏡夜は体を起こそうとした。起きたばかりなせいか、まだ感覚が鈍い。が、背中の感触からして、仰向けに倒れているのは確か。頭がズキズキと痛む。足に力が入らないし、腕の感覚もぼんやりしてる。高い所から落ちたらしい。気絶してろくに受け身もとれず、背中を強打したか。


(頭は痛む。けど、打撲の痛みじゃない。とりあえずは動けるか)


 腕をゆっくり動かして、周囲を探る。滑らかな布の手触り。押すとほどよい弾力がある。足も同様。横を向くと、頭は真っ白な枕の上。ご丁寧に、ベッドの上に落下させてもらえたらしい。幸運か意図的かは鏡夜の知るところではない。

 身を起こして、次は居場所の確認。痛みには気づかないふりをする。

 小さめの客間のような空間だ。淡い緑と青で統一された壁と家具。黒で塗りつぶされた窓から陽が射していれば、開放的で爽やかな部屋のはず。

 雨の降る音はいつのまにか止んでいた。意識が曖昧だったから気のせいかもしれない。


「悪い朝倉くんは、いないか」


 見回しても、誰もいないし気配もない。鏡があったので覗いてみたが、特におかしなところはなさそうだ。一応、触れてみる。……さすがに通れないか。

 さて、ここはどこだろう。


(鏡の中の世界? なんてね。今までのケースから考えて、単純に別の部屋に飛ばされただけか。あまり時間がたってなければいいけど)


 鏡の前で手持ちの品を確認する。革のベルトポーチには、雫の入った小瓶が五本。全部割れてない、無事だ。一番大きなポケットには護身刀。なくなったものはない。

 体はあちこち痛いが、それ以外はいたって正常。先へ進めそうだ。


(朝倉くんとキーランは、ミサがいるから大丈夫か。早く合流しないとまずいのは僕のほう)


 体のあちこちが鈍い痛みを訴えている。この状態で鎧の大群に出会うのはさすがに困る。

 鏡から離れて、鏡夜は入口のドアを開けた。

 普通の廊下だ。真っ暗でもなければ上下逆さまでもない。壁に掛けられた燭台のあかりが不規則に揺れている。

 鏡夜は慎重に出た。一応、いつでも抜けるように護身刀に手をやる。古い扉がキィ、と音をたてて閉まった。

 と――扉で死角だった場所にぬいぐるみが立っていた。

 ただのぬいぐるみではない。鏡夜の背より高い、天井ぎりぎりまでめいっぱい耳を伸ばした、巨大なうさぎのぬいぐるみ。白くてもふもふとした柔らかそうな巨体。抱きついたらさぞ心地良さそうだが、今は全然嬉しくない出会い。

 鏡夜は咄嗟に床を蹴って飛び退いた。

 さっき立っていた場所に、うさぎの鈍い一撃が加えられる。ドン、と激しい音がして床に大穴があいた。うさぎの腕が床にめり込んでいる。外したと気づいた真っ赤なボタンの両目が燃えるように光り、鏡夜を見た。


(鎧と同じ……傀儡か)


 鎧の次はぬいぐるみ。部屋の位置移動といい逆さまの部屋といい、この家にかかっている魔法は家の中ならなんでも自由自在らしい。

 避けた鏡夜を追いかけに、うさぎがドスドスと大股で走ってくる。床にあれだけの穴をあける一撃だ。くらえば鏡夜の体など文字通りぺしゃんこになる。

 とはいえ逃げ道はない。両脇が壁に挟まれた、奇妙なほど真っ直ぐ続く狭い廊下。曲がり角も隠れられそうな部屋も見当たらない。危険だが、逃げられないなら戦うほかないだろう。正面から。


「こういうのは僕の分野じゃないんだけど」


 ため息まじりにそう言って、鏡夜はうさぎに背を向けた。走り出す鏡夜を逃がすまいとしてか、うさぎが低く吠える。うさぎってあんな鳴き声だったかな。どうでもいいことを思い浮かべながら、鏡夜はポーチから小瓶を一つ取り出した。

 迫るうさぎとじゅうぶんな距離をとって、思いきり投げつける。


「ウゥ、ガ……!?」


 ぎょっとしたようにうさぎが立ち止まる。それでいい。蓋の空いた瓶からこぼれる雫を操作する。液体は糸のように伸びて、うさぎを取り囲もうとぐるぐる螺旋を描き、その巨体を縛り上げる。

 液体が完全にぬいぐるみを拘束したときだった。

 鏡夜が人差し指をふと下におろす。

 液体がボッ……と音をたてて揺らめく。


「燃えろ」


 瞬きするあいだに、うさぎの全身が突如発火した。

 火つけの雫。当たればたちまち炎が広がり、対象を燃やし尽くすか鏡夜が止めるまで燃え続ける。火だるまになったうさぎは廊下にゴロンと転がった。苦しむようにごろごろと転がるが、黒焦げになるまで火は消えない。やがてぐったりと動かなくなったところで、鏡夜は指を鳴らして火を止めた。さすがに屋敷にまで燃え広がってはまずい。

 炭になったぬいぐるみを廊下の端に蹴り寄せながら、玄関でのやりとりを思いだす。キーランの爆弾のことで言い合っていた陽太たち。あのとき、乱暴な道具は持ってないと言ったが、それは嘘。危険物なら持ち歩いている。


「朝倉くんの前じゃ、絶対使えないな」


 鏡夜が小さく笑うと、廊下の先で物音がした。

 何もなかったはずの壁に扉が現れた。鏡夜を誘うようにひとりでに扉が開く。


(頼まれなくても行くけどね。ほかに選択肢なんてないし)


 廊下を進み、扉の向こうへ行く。

 部屋は大きく、やはり薄暗かった。

 赤い絨毯の敷かれた豪華なつくり。アンティークの家具やガラス細工の壁灯。重苦しく垂れるシャンデリアの光が青白く揺らめいている。

 しかし異様なのは、壁のいたるところに掛けられた鏡の数々だ。

 大小さまざまな種類の鏡が、四方の壁、猫足のサイドテーブルやマホガニーの書斎机の上など……あらゆる場所に余すところなく置かれている。

 鏡の中に引きずり込まれたばかりだ。苦い気持ちでそれらを見回す。あらゆる角度で映される無数の自分。


「――」


 そのなかの一つと目が合って、どきりとした。

 ミルクティー色の髪。常夜色の目。間違いなく自分。でも、ずいぶんと幼い。

 柔らかく波打つ髪は短く、常夜色の目はどこか不安そう。フォーマルな紺色のベストを着た体は石のように固まっている。


(魔法……なぜ、子供の僕が?)


 驚く鏡夜の頭上に、子供らしい声が降ってくる。

 ――ほしいの。

 ニヤニヤした声。陽太が聞いたというのはこの声のことだろうか? 玄関ホールで聞いた、ただの笑い声とは違う。明確な意思を持った台詞。

 ――このこ、ほしいの。

 ――ちょうだい。

 ――このこ、ちょうだい。

 鏡の中の鏡夜は、怯えたようにこちらを見ている。この子。誰かの手に縋りたくて、ひとりでは不安で仕方ないという顔の、この子を?


(子供の僕が欲しいってこと?)


 ――くすくすくす。かわいい。

 ――かわいいね。ちょうだい。ちょうだい……

 声が反響する。他の鏡から、ずず……と這い出るように真っ白な手が伸びてきた。生気を一切感じない小さな子供の白い手が、数えきれないほどたくさん、笑いながら生えてくる。それらが目指すのは、鏡夜自身ではなく、鏡の向こうにいる幼い鏡夜。

 幼い鏡夜は動かない。否、動けない。彼には困難に立ち向かう勇気も、誰かに助けを求める信頼もない。あの日・・・の鏡夜は、何もできなかった。

 鏡夜の罪が、彼にかかった呪いそのものが、幼い顔をして立っている。

 白い手が鏡夜をすり抜ける。背筋がぞっとする冷気が通った。

 ――ちょうだい。このこ、ちょうだい。


「あげないよ」


 鏡夜は目の前に映る幼い自分を、怒りのままに蹴りつけた。

 派手な音をたてて鏡が割れる。粉々になった鏡には何も映っておらず、ただキラキラと輝きながら宙を舞った。その一部が頬を切ったことは、どうでもよかった。

 頭上の声が悲鳴をあげた。無数の手はするすると他の鏡へ引っ込んでいき、深い憎しみを持った呻きが聞こえてくる。

 ――ひどい。ひどい……

 ――あとすこしだったのに……

 ――あなたはいらない。いらない……

 ――あのこがほしかったのに……


「だから、あげないってば」


 鏡夜が天井を見上げた。かたく冷ややかで、表情の一切をなくした顔。冷たく淡々と言うさまは、怪異も裸足で逃げ出すほどの迫力がある。

 実際、声は何か呻いたあとすぐ消えてしまった。あれだけ伸びていた手もすべていなくなり――すべての鏡が一斉に砕け散った。シャンデリアの輝きを反射しながら、バラバラになった鏡が雨のように床に降り注ぐ。

 鏡夜の双眸は怒りに染まっていた。頬の血を拭って、鏡の破片を忌々しげに見下ろす。


(久しぶりに嫌なものを見た)


 できればあまり思いだしたくないもの。けれど忘れてはならないもの。忌々しいあの日の自分。

 破片の一つを踏みつけた。パリン、と二つに割れた破片を、もう一度踏む。今度はもっと細かく割れた。いっそ粉々にしてしまいたい衝動に駆られたが、馬鹿らしい、と足を離す。そんなことをしても無意味だ。あの日はなかったことにならない。

 踵を返すと、新たな扉が目の前に浮かんでいた。次はここに行け、ということだろうか。


「早くみんなに会えるといいけど」


 独り言を言う鏡夜は、いつもの優雅で軽やかな笑みを浮かべていた。

 チョコレート色の扉をくぐりながら、鏡夜は深く息を吸い込んだ。

 陽太のことを、密かに「呪われている」と感じたことがある。赤い夢、過去の事件のトラウマに呪われていると。

 でも、自分も同じだ。彼のことをどうこう言えない。

 鏡に映った幼い自分が、不安そうにこちらを見ていたのを思いだす。不安と後悔。自分への怒りと、どうしようもない悲しみ。深い絶望を味わう彼は、不遜な魔女と真っ黒な少女に出会う。

 あの日は雨が降っていた。細かく降り続ける重たい雨。

 魔女に差し伸べられた手を握り返した瞬間から、鏡夜はずっと呪われている。

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