第5話・屋敷2

 陽太たちは薄暗い廊下を黙々と歩いた。これがどこに繋がっているかもわからない。不知火の道案内が必要だったか、と思ってすぐ、無駄だとかぶりを振った。扉の先が入れ替わったり大量の鎧が押し寄せたりする家の中など、家主でもどこに行けば正解かわかるまい。

 手探りで壁に触れつつ、前へ進む。あれからおかしなことは起きていない。暗闇の中を道なりに歩いていく。時々聞こえるキーランの怯えた独り言に、かえって落ち着いた。


「結構歩いたと思うんだが」


 陽太は壁伝いに歩きながら言う。


「みんな、何かあったか? こっちは何もないぞ」


 さっきから壁に触れているが、扉らしき感触はまだない。反対側を歩く鏡夜も同じらしく、「何もないよ」と横から声が返ってきた。真ん中のキーランがため息を吐く。


「今はいつで、ここはどこなんすかね……おれ、お腹空いてきたっす」

「今食べてるだろ、チョコレート。のん気なやつだな」

「ど、どうしてわかったんすか」

「見えなくても、音と匂いでわかる」


 緊張感があるのかないのか。キーランが焦ったようにぼりぼりとチョコレートを噛み砕く音がした。


「行き止まりです」


 先頭のミサが言う。急に立ち止まったせいか、陽太の背にキーランの顔がぶつかった。ふぎゃ、と小さく呻く彼を無視して、陽太は正面の壁に触れる。


「本当だ。何もない」

「えーっ。引き返さなきゃだめっすか? ここまで来て?」


 キーランが抗議の声をあげる。何も見えない暗闇をそれなりの距離歩いてきたのだ。彼でなくとも、文句のひとつも言いたくなる。

 何かないか、と探していると、

 ――くすくすくす……


「……またか」


 幼い笑い声が闇に響いた。困惑する陽太たちを嘲笑うかのよう。月光に似た青白い光が天井から降り注ぎ、それと一緒に声も降ってくる。不気味に重なる笑い声は、次第に空間を揺らすほど大きくなった。


「一体なんなんだ、この声は」

「……ねえ、朝倉くん」


 鏡夜が天井を仰ぐ陽太に言う。


「声って何? 僕には何も聞こえないけど」

「は……?」

「おれにも聞こえないっす。てか、なんか揺れてるっすよ、ここ。地震?」


 キーランが身を低くして言った。陽太は天井を指さす。


「何って、聞こえるだろう。玄関ホールで聞こえたのと同じ声だ。それに、揺れだけじゃなくて光も」

「ミサは何も感じません。地面が揺れているだけかと」


 ――くすくすくす……

 これだけ大音量で響いているというのに、陽太以外誰も気づいていないのか。

笑い声が反響し、頭蓋の中まで侵食してきそうだ。陽太は頭を抱えてうずくまる。


「ちょっと、大丈夫っすか?……うわ、汗やばいっすよ」


 キーランの手が額に触れ、ぎょっとした声がする。まだ揺れも声もおさまらない。強烈な光によろめいて、誰かの腕に抱きとめられた。細い腕。たぶん、鏡夜かミサ。


「朝倉くん、どうしたの」


 上から声がする。受け止めてくれたのは鏡夜か。鏡夜にもたれる格好になった陽太は、忌々しげに天井を見上げて――


「うわっ、何!?」


 その天井に、体が叩きつけられた。

 一瞬、何が起きたかわからなかった。体が宙に投げ出されたかと思うと、次にまばたきしたときには世界が反転していた。何もなかったはずの壁に逆さまの燭台が現れ、蝋燭のぼんやりした明かりがつく。床が天井に、天井が床に。陽太は打った背中の痛みを感じながら辺りを見た。いつのまにか声は消え、揺れも青白い光もなくなっている。


「な、何が起きたんすか……あれっ?」


 起き上がると、そこは四角く狭い空間に変わっていた。先ほどまで歩いてきた廊下もない。


「また、構造が変わったのか」


 陽太もよろよろと立ち上がった。まだ若干の頭痛が残る。キーランのように愚痴でも吐きたい気持ちに駆られたが、そうも言ってられない。

 四人がやっと立っていられる程度の大きさの空間で、ミサが正面を指した。


「扉があります」


 逆さまの燭台に照らされた先に、モスグリーンの扉があった。三方はただの壁。ここが唯一の出入り口。何が待っているかわからなくとも、ここを進まないわけにはいかない。

 誰が合図するでもなく、ミサが静かに扉を開けた。

 その先に広がる部屋に陽太は目を見開いた。

 逆さまだ。

 部屋の中身が何もかも逆さまになっている。ベッドや机に椅子、収納棚、高級そうな壺、カーペットにいたるまで、すべて天井にくっついていた。中に入ったキーランがシャンデリアにつまずきそうになる。陽太たちが入ってきた以外の窓やドアの位置も上下逆さまだ。


「あ、頭がおかしくなりそうっす」


 キーランが頭上の観葉植物を見上げて言った。今にも落ちてきそうなのに、不思議と微動だにしない。

 陽太は壁に飾られた絵画を見る。金髪の小さな女の子がブランコを漕ぐ絵。もちろん逆さま。頭痛とともに残る吐き気のせいで眩暈がしそうだった。

 と、頭痛のせいか絵画の少女がふらふらと左右に揺れてみえた。逆さまにされたときに頭でも打っただろうか。でも、他の景色は揺れていないことに気がついた。

 揺れているのは、絵だけだ。絵画の少女だけが動いている。風が吹き、髪とスカートをなびかせ、ブランコが行ったり来たりする。無邪気に笑う女の子は声が聞こえてきそうなほど生き生きとした表情をみせる。背景の草原が爽やかに緑を輝かせていた。

 絵画が映像作品のように動いている。

 冗談のような光景に陽太が後ずさる。絵画の横にあった鏡に自分の青白い顔が映った。

 はずが――鏡の陽太には強烈な違和感があった。

 鏡に映る陽太が、真っ直ぐにこちらを向いている。おかしい。なぜなら陽太は鏡を正面から見ていない。映るのは彼の横顔のはずなのに。


「……っ!」


 驚いて鏡に体を向ける。もう一人の陽太はその通りに動かない。能面のような顔でじっとこちらを見ているだけ。


「どうしたの」


 ようやく鏡夜が不審そうに振り返った。現実の陽太と鏡の陽太を見比べて目を見張る。


「これは……」


 鏡夜が何か言いかけたとき。

 鏡の陽太がこちらへ手を伸ばした。

 前触れもなく、突然。陽太は我に返ってぞっとした。腕は鏡と現実の境を越えて、音もなく陽太へと伸びていく。直感した。引きずり込まれる……!

 瞬間、視界が揺れた。細い体がぶつかってきて、陽太はめいっぱい突き飛ばされた。床――正確には天井につんのめり、無様にがくんと膝をつく。その陽太がいた場所に鏡夜が立っていた。鏡から伸びる腕は陽太を諦めて、代わりに鏡夜の細腕を掴む。

 気づいたときには、鏡夜の体が斜めに傾いていた。踏ん張ろうとしても、引っ張る腕の力が強すぎて無理だった。よろけて鏡へ引きずり込まれる。


「なっ――鏡夜!」

「鏡夜様!」


 陽太とミサが同時に鏡夜の名を叫ぶ。ミサが全速力で駆け寄り、鏡夜の手をとろうと腕を伸ばす。

 が、届かない。

 伸ばした手は虚しく空を掴み、鏡夜は鏡の中へのみ込まれる。鏡の陽太が不気味に笑んだ。

 愕然とする陽太の前で、鏡の表面に水のような波紋が浮かび、鏡は黒々しい毒を垂らしたように深い闇色に染まった。


「そ、そんな……鏡夜くん」


 青ざめた顔でキーランがつぶやく。彼や陽太のことなど忘れたように、ミサが一心不乱に鏡を叩いた。


「鏡夜様! 鏡夜様っ」

「ミサ、落ち着け!」

「鏡夜様を追わなくては。ミサが鏡夜様をお守りしないと」


 陽太はそこで初めて、ミサの感情のようなものをみた。焦りと不安。愛情と痛み。鏡を叩く手は震えていた。いつもの無表情は消え失せ、目の前には親を見失った幼い子供のような頼りない顔がある。


「鏡夜様の、おそばにいないと……!」

「無理だ、ミサ! 落ち着くんだ!」


 震える手が力なく下ろされる。あれほど叩いても鏡は割れることなく真っ黒なままそこにあった。


「すまない、ミサ」


 陽太はうなだれるミサに頭を下げた。


「俺のせいだ。俺を庇ったせいで、あいつは……」

「朝倉様が謝る必要はありません。これは鏡夜様のご判断による結果です」


 答えるミサの声は心なしか弱々しい。彼女を支えていた大事な柱が失われたよう。立ちすくむミサに、陽太はそれ以上かける言葉が見つからなかった。


「先回りするっすよ!」


 キーランがいきなり、場違いなほど明るい声で言った。


「……先回り?」

「鏡夜くんがいないうちに、おれたちで先にカスミちゃんを見つけるんす。そうすれば屋敷も元通りになるかもしれないし、元通りになれば、鏡夜くんも戻ってくるっすよ!」


 腰に両手をあてたキーランが鼻息荒くまくしたてた。言っていることはめちゃくちゃだし、確証もないが――励まそうとしていることは伝わった。

 口元から自然と笑みがこぼれる。のん気だなんて言って悪かった。


「……そうだな。それに、ただでおとなしく捕まっているような男じゃないだろう、あいつも」


 陽太はうつむくミサの肩をぽんと叩いた。


「俺たちも急ごう。案外、あいつのほうが先に子供を見つけているかもしれん」

「……了解しました」


 ――くすくすくす……

 幾度目かの笑い声。陽太は舌打ちしそうになる。声の主を見つけて、今すぐぶん殴ってやりたい。陽太が天を睨んでも、声は陽太を嘲笑し続けた。

 ミサとキーランは逆さまのドアへと近づいていく。二人の様子からして、また陽太にしか声は聞こえていないらしい。鏡といい声といい、なぜ陽太ばかりを狙うのか。

 考えても意味ないことだ。陽太は二人のあとに続き、本棚をよじ登ってドアへ向かった。

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