第2話・ある七月の午前2
肩で息をする不知火に、陽太はひとまず座るようすすめた。鏡夜は特に反対しない。不知火がふらふらと左右に揺れながらソファに座る。顔は真っ赤、髪は汗で頬にはりついている。よほど急いで来たらしい。
ミサが冷えた緑茶を持ってくると、不知火は「ありがとうございます」と一気に飲み干してしまった。置かれたカップにミサが二杯目を注ぐ。
「……はーっ。すみません。急に来たのに、気を遣っていただいて!」
「ミサは仕事をしているだけです。こちら、タオルです」
「わ、わ、ありがとうございます!……ひえーっ、冷たい!」
冷えたタオルを首にあてる不知火が、パッと思いだしたように真面目な表情になった。
「って、すみません、こんなおもてなし! 依頼の話をしないといけないのにっ」
「お急ぎのようですね」
鏡夜が向かいのソファに腰掛けて言った。
「大丈夫。僕らは逃げませんから、落ち着いて話してください」
微笑んでそう言うと、不知火はようやく呼吸を落ち着かせた。二杯目の緑茶を少し飲む。ミサが定位置である鏡夜の隣に立ったところで、不知火が改めて口を開いた。
「……家が、大変なんです」
「家? というのは、ご自宅でしょうか」
「自宅というか、実家です。わたしの家族が大変なんです! すぐになんとかしないと!」
「お、落ち着いてください。まずは話を!」
またも取り乱し始めた不知火を陽太がなだめる。すみません、と頭を下げる彼女はタオルで額を拭って続けた。
「ええと……なんと説明したらいいのか。とにかく、家がおかしくなってしまったんです」
「おかしくなったとは、具体的にどのように?」
「そのままの意味です。物理的に、おかしくなってしまって。えと、廊下が迷路に変わったり、床が動いたりするんです!」
「動く?」
「わたしも直接見たわけじゃなくて、聞いた話なんですけど……家具が生き物みたいに動くんです。引き出しが勝手に開いて、そこから包丁が飛びだしたり! もう、変なんてもんじゃないです!」
陽太は上手く想像できずに首をかしげた。迷路になったり、床が動いたり。自分の意思で生き物のように動く。そんなことがあり得るのだろうか?
なんにせよ、こんな滅茶苦茶な話は魔法絡みで間違いない。
不知火は少しずつ落ち着きを取り戻し始めたのか、口調がゆっくりになっていった。また緑茶を含んで一息つく。
「……家は、最近引っ越したばかりなんです。七星市の郊外にあって、立派なお屋敷みたいな見た目で素敵だねって、気に入って購入して。でもこれまでは家がおかしいなんて話、聞いたこともなかったし。まさかこんなことになるなんて」
鏡夜は涼しい顔でうなずく。
「なるほど。家のことは、誰かの魔法で?」
不知火はぶんぶんと首を横に振った。
「少なくとも家族じゃありません。うちの家族は魔法族ですが、わたし含めてみんな基礎魔法しかろくに使えないんです」
では、外部の誰かがやったのか。そう聞いても、不知火は「心当たりはない」と答えた。周囲に怪しい人物はいないという。しかし魔法は絶賛発動中。
「わたしは離れて暮らしていて、今朝家族から連絡を受けて向かったんですが……外から見ると、特におかしいところはないんです。ただ両親が言うには、変だと」
「家の中が勝手に動いたり、構造が変わっていたりする?」
「そう! そうなんです!」
不知火が何度も、首がとれそうなほど強くうなずく。
「でもいちばん大変なのは――妹がひとり、中に取り残されているんですっ!」
不知火が前のめりになって訴える。彼女は今にも泣きそうな声で叫ぶように言った。陽太と鏡夜の顔が強張る。
「家じゅうがおかしくなって、両親は慌てて外に出たんです。そのあと、部屋で遊んでいた妹を置いてきたことに気がついて、急いで戻ろうとしたら……扉も窓も、どこも開かなくなってしまったと。窓を覗いても、ぜんぶ真っ暗で中の様子もわからないみたいで」
「閉じ込められた? ご両親のように自力では出られないということですか」
「妹はまだ八歳なんです。小さいから魔法も扱えないし、自力で出るのは、たぶん無理です。だからいてもたってもいられなくて」
それで、七星市にいて、すぐに助けを求められる人物――鏡夜の店を訪れたらしい。
「最初は『議会』に助けてもらおうと思ったんですが、一応わたしも議会の人間ですし、自分でなんとかしろと。うちは万年人手不足で、すぐには動いてもらえません。頼れるのは夏目さんだけなんです! 家を元に戻せなんて言いません。せめて、妹だけでも助けてください!」
お願いします、と不知火が深く頭を下げた。
八歳の女の子が、魔法で暴走した家の中にひとり閉じ込められている。陽太もようやく事の重大さを理解してきた。今すぐ対処しなければ、女の子がどうなるかわからない。
恐怖で泣いて動けないとしたら? パニック状態で家の中を彷徨っていたら?……最悪の場合、すでになんらかのトラブルが起きている可能性もある。
助けなければ――陽太の奥にある赤い記憶が低くささやいた。脳内で、取り残されたひとりぼっちの少女と、かつての自分の家族が重なる。悪夢のような赤色。闇夜に噴き出す大量の黒い煙。あの中で、彼らはどんなに苦しんだろうか。陽太には何度も想像しようとしてできなかった痛み。
それが今、八歳の少女に襲いかかろうとしている。
鏡夜を見ると、頭を下げたままの不知火を真正面からじっと見つめていた。
ゆるい三つ編みが肩からこぼれる。遠くでまた、セミの鳴き声が聞こえて止んだ。
常夜色の双眼は、ここではないどこかを見るような遠い眼差しを不知火に向けていた。そっと顔を上げた不知火が怯えたような表情になる。
彼女の恐怖心を察してか否か、鏡夜はふ、と柔らかく微笑んだ。氷をじんわりと溶かすような、おとぎ話の王子様の微笑。
陽太が問う前に、彼は答えを口にした。
「その依頼、お引き受けします。ミサ、出かける準備を」
*
「暴走する家、か。どうにかできるものなのか」
陽太は掃除用具を片付けながら鏡夜に聞いた。不知火は近くまで車を持ってくるからとミサと一緒に先に店を出ていった。鏡夜はエアコンのスイッチを切って振り返る。腰に下げた革のベルトポーチには、魔法の雫が入った瓶が数本並ぶ。陽太には中身は一つもわからない。
「さあ。現場を見てみないとなんとも言えないね」
「保証もないのに引き受けたのか?」
「君は勝てる勝負しか受けないの?」
聞き返されて、陽太がぐっと押し黙る。その聞き方はずるい。卑怯者になった気分で、はい、とは言えないではないか。陽太はただ心配してやっただけだというのに。軽い調子で言ったのだろうが、言葉には穏やかな圧を感じた。
鏡夜はオフィスチェアに掛けてあった薄手のカーディガンを羽織ると、さっさと出入口へ向かう。
「最善を尽くすよ。願いを叶えるのが僕の仕事だ」
「……もし上手くいかなかったらどうする」
「そのときは彼女の代わりに、僕が議会に頭を下げるよ。小さい女の子を見捨てる人でなしって脅しもつけて」
鏡夜は笑顔のまま言ったが、それはなんだかとんでもないことのような気がする。魔法側の秩序を守る存在を脅して使おうなんて。陽太は議会とやらに詳しくないが、鏡夜の言っていることが良くないことなのはわかる。
「それに、君だって受けたかったでしょ、この依頼」
いきなりそう言われて、陽太は目を丸くした。
「俺が?」
「そんな顔してた」
鏡夜がドアを開ける。途端に、外の熱気とセミの声が雪崩のように襲いかかった。
「ご家族のことが浮かんじゃった?」
「……」
どこまでも軽やかな、からかってはいないが、気遣うわけでもない声。
鏡夜はどこかで、陽太に触れていただろうか。
思い返しても心当たりがない。だから鏡夜は適当なことを言ったに違いない。
陽太は無言で外に出る。鏡夜が店に鍵をかけているあいだも、さっきの問いはセミの声で聞こえなかったふりをした。
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