暗闇におりる声
第1話・ある七月の午前
急がなければ。あの人に会わなければ。
彼女は汗を拭うのも忘れて早足でそこを目指した。
X県七星市。ひと気の多い賑やかな繁華街を避けるように北へ進むと、右手に細い路地が見えてくる。
大通りとは真逆の薄暗い、真夏でもひんやりとした空間。路地に入った途端、人の気配は消えて、自分ひとり世界に取り残された錯覚に陥る。周囲はシャッターの閉じられた店跡や人がいなくなって久しい廃ビルばかり。
本当にこの先にあるのだろうか。
不安になった彼女は辺りを見回すが、話を聞けそうな人どころか野良猫一匹いない。スマートフォンを開いたところで、地図にも載っていないその場所を見つけるのは無理だった。諦めてスマートフォンをしまうと、彼女は人に聞いたとおり、狭い通りをまっすぐ進んだ。大人ひとりすれ違うのがやっとの狭い道。
しばらく歩くと、左手に小さな雑居ビルが見えてきた。見た目は何の変哲もない普通のビル。よく見ると、二階の一角だけ室外機が動いている。一般的なビルには違和感のある大きなフランス窓。あそこだ。覚悟を決めて入っていく。
二階に上がると、アンティーク調のドアが彼女を出迎えた。ステンドグラスが入った、エメラルドグリーンの可愛らしい扉。殺風景なビルからは少々浮いてみえる。看板等はとくにないが、彼女はここだと直感した。
あの人から聞いたのは、この店のはず。
そこで彼女は初めてハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。迷っている場合じゃない。彼を信じて頼まなくちゃ……。
ドアノブに手をかけて、彼女はすっと息を吸い込んだ。
*
朝倉陽太には大きな悩みが二つある。
一つは赤い夢。ここ数年、陽太は怒りと炎に支配される恐ろしい夢に悩まされている。というのも、学生時代、自分の家族が家ごと全員焼死してしまったからだ。あれ以来、陽太は頻繁に赤い夢を見て苦悩していた。それは今も変わらず続いている。
のだが……最近はなぜか、見る頻度が減っているような気がする。以前はほとんど毎日見ていた夢が、このふた月ほどで三日に一回くらいには。いい傾向だと思いたいが、単にもう一つの悩みに圧されているだけの気がする。
そのもう一つというのが、
「……暇だな」
思わずつぶやいたこの店の現況。
陽太は今年の五月から、ある事件をきっかけに『雫師』の店で働いている。
雫師とはなんだと聞かれても、陽太は上手く答える自信がない。ただ友人に聞いた噂と雫師本人の言によれば、「誰かの願いを叶えることを仕事にしている」らしい。なんだか怪しいと疑われると返す言葉がなくなる。
しかし、オフィスはまともな見た目をしている。やや狭いがシンプルな空間。入ってすぐに応接用のガラステーブルとソファ。窓際には花瓶に活けられた季節の花々もある。花は飾ってあるというより、生えていたからとりあえず水につけているといったほうが正しい有り様だが、それはまあいい。
左右の壁には本棚がずらりと並び、陽太には半分もわからない専門書や図鑑の数々が置かれている。この膨大な図書を整理するのも陽太の仕事の一つだ。ちなみに一つだけ薬品棚があるが、それには触れてはならないと同僚――正しくは先輩だろうか――から注意されている。頼まれても触れたいとは思わないが。
部屋の奥は木製の間仕切りで仕切られている。奥の壁にも本棚がある。本の上下も種類も雑に突っ込んであるこの全部を店主が本当に把握しているかは謎だ。角にはよく掃除されたミニキッチンがあり、雫師の助手はここでコーヒーを淹れている。陽太が勝手に入れるのはなぜか禁止されている。コーヒー以外の飲み物なら特に何も言われないのでこだわりがあるのだろう。店主と同じで、その助手も時々よくわからないところがある。
ミニキッチンの反対側にあるのが、雫師のオフィスデスク。今日はいないが、たまにふらりと奥の部屋から出てきては、ここで何かしらの本を読んでいる。デスクの上は陽太が置いた卓上カレンダーがあるのみ。引き出しにもこれといった事務用品は見当たらなかったりする。本を読むためだけに置かれたようなデスクだ。
ともあれ、問題はオフィスの見た目ではなく、仕事だ。願いを叶えるのが仕事というが、肝心の依頼人というのを、陽太は働き始めて以来、一人しか見たことがない。それも、陽太自身が連れてきた一人だ。つまり新規の客というのは目にしていない。これは店としてかなり重大な問題ではなかろうか。
(だというのに、この落ち着きようはなんだ)
アーチ状のフランス窓から午前のやわらかな日差しが届く。
室内は静かで、いつもの甘くも辛くもない、草花に似ているような、清々しい透明な匂いがした。この店で陽太が気に入っている唯一のものだ。この匂いに包まれていると、それだけで赤い夢の悩みが一時的にでも忘れられる気がする。
「朝倉様。掃除が終わりましたら、コーヒーをお淹れ致しますのでご準備ください」
ため息を吐いていると、背後からの淡々とした声にハッとさせられた。
振り返った先に、クラシカルなメイド服姿の少女が立っている。年齢は十代後半くらいにみえるが、本当のところは知らない。
もう七月だというのに、肌の露出を一切許さない黒い手袋と黒いブーツ。髪も目も黒いモノクロの少女は、無表情に箒を持って陽太を見上げていた。
「わかった。ミサは外の掃除か?」
「それは先ほど終了いたしました。ミサは今から、鏡夜様宛てのお手紙をお届けに」
箒を持っているのとは逆の手に、何通かの手紙が握られていた。少女――ミサは軽くお辞儀をすると、さっさと用具入れに箒を持っていく。その動作はコンピュータがプログラム通りに動いているかのように機械的。彼女の正体が人形であるとしても、もう少し少女らしさというか、感情みたいなものを見せてくれてもいいのではないかと、ちょっと気になる。
と、奥の扉がゆっくりと開いた。気怠そうにひとりの青年が出てくる。
すらりとした細い体躯。長い手足。陶器のような白い肌。柔らかそうなミルクティー色の髪はゆるく三つ編みにしてある。おとぎ話の世界から出てきた王子様か、はたまた受肉した天使か――非現実的な雰囲気のある美貌がそこにあった。窓から差す光に包まれる姿は、儚さと美が一体になった絵画のよう。男の陽太でもいまだにどきりとするくらい、この男の独特の雰囲気には慣れない。
その、つんと取り澄ました顔が陽太を軽く見上げた。
「おはよう、朝倉くん。仕事は順調?」
見た目を裏切らない、透き通った落ち着きある声で、店主の夏目鏡夜が言う。陽太は呆れて肩をすくめた。
「何がおはようだ。もうすぐ昼前だぞ。午前のぶんの掃除は終わりそうだし、ミサのコーヒーで一息ついたら、あんたがバラバラに置いた本の整理もすぐに済ませる。だが今日も客は来ない。おまけに店主は引きこもってなかなか出てこないし、順調なものか」
「順調じゃないか。外と違って部屋の中は涼しくて気持ちがいいし、静かで清潔で心地いい」
常夜のような、静かな煌めきを放つ不思議な色の目が細められる。出会ったときから、陽太はこの常夜色の目が苦手だ。すべてを見透かされているようで落ち着かない。背筋がぞわりとする感じがする。
陽太が眉間をつまんで嘆息すると、鏡夜は小さな容器を投げてよこした。
「なんだ、これは」
受け取ると、手の中に目薬の容器らしきものがあった。中には透明な液体が入っている。
「これも『ナントカの雫』とかいうやつか」
鏡夜は雫師――液体を操る魔法使いだ。水の形や質感を自在に操ったり、さまざまな効果を持つ液体を生み出したりする。人間相手なら、その人物の体液に触れるだけで相手の心までわかってしまう。
現代に魔法使い、と言われてもピンとこなかったが、鏡夜をはじめとした何人かの人物に披露されるうち、陽太も信じざるを得なくなった。目の前で鏡夜に礼をするミサすら魔法で生み出されたというから、その規模は陽太の想像を超えているのだろう。
今回もまた、妙な魔法のかかった雫を渡されたのか。そう思って鏡夜に聞いたが、本人はあっさり否定した。
「いや、ただの目薬」
「……」
よく見ると、陽太もよく知る有名な製薬会社の名前が書かれていた。貼りつけられたシールには、『日々のつらい目の疲れに!』。本当に、ただの市販薬。
「なんだか疲れてそうだったから。余計だった?」
微笑む鏡夜に、なぜか「あんたのせいだ」とは言えず押し黙る。単に気を遣ったのか、わざとなのかわからない。こういう本音の読めないところも苦手だ。どこかからセミの鳴き声が聞こえて、次第に細くなっていく。
「そんなことより、この店は大丈夫なのか? 俺が働き始めてからというもの、まともに客を見たことがないぞ」
「まあ、大々的に宣伝してるような店じゃないからね」
涼しい顔で鏡夜が言う。陽太の心配など気にも留めていない様子だ。
「店には
「余計に人が寄り付かないじゃないか。そんな調子で本当にいいのか?」
「大丈夫だよ。叶えたい願いのない人間はいない。そういう人は自然と、こういう場所に引き寄せられるようになってるんだ。君もそうでしょう?」
そう言われると陽太は黙るしかない。陽太自身もまた、叶えたい願いを持ってここに引き寄せられたひとりでもある。赤い夢から解放されること。できるなら、まだ捕まっていない放火の犯人が見つかることも。
陽太は気まずさに頭を掻いた。そして、ふと思いつく。これだけ暇なら、自分の願いを叶えてくれてもいいのではないか?
思いついたことを早速口にしようとしたときだった。
入口のエメラルドグリーンの扉が遠慮がちに開かれた。
「あのぅ、すみません……!」
声の主は控えめに、しかしどこか焦った様子で顔をのぞかせた。
「夏目鏡夜さんのお店はこちらでしょうか?」
「そうですが。――あなたは」
陽太はその顔に見覚えがあった。
眉より短くぱっつんと切られた印象的な前髪。生真面目そうなこげ茶色の目の下には濃いクマが目立つ。以前見たときは乱れのない黒いスーツ姿だったが、今は半袖のシャツに少し曲がったネクタイを身につけている。
「あ、その節はどうも。申し遅れました、わたし
不知火と名乗った女性は、少し前――陽太の元同級生が被害に遭った行方不明事件で出会った、魔法側の警察の立場にある人間だった。
「突然で申し訳ないのですが、大至急お仕事依頼させていただいてもよろしいでしょうか……!?」
不知火は額の汗をハンカチで拭きながら早口に言った。
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