第15話・元『剛腕』2
「ずいぶんと余裕だな」
丸腰の鏡夜にノガミが言う。ミサのような武器も身体能力もないのに、一体どうやって勝つつもりなのか。陽太は不安でやかましくなる心臓を撫でた。
「朝倉くんは、ミサのそばにいてあげて」
「あ、ああ」
柔らかな声に従って、陽太が動く。ノガミを警戒しながらぎこちない足取りになってしまうが、ふらふら立っているミサに寄って支えた。申し訳ありません、とミサがつぶやく。その声は常の感情ののらない静かなものだったが、陽太には言葉通りの気持ちが伝わった。なんの薬にもならないかもと思いつつ、大丈夫だ、と言ってやる。ミサはじゅうぶん頑張った。あとは自分たちの上司を信じるだけだ。
「僕はこれを使わせてもらおうかな。持続型で残ってるだけじゃもったいないし」
鏡夜は陽太が閉じ込められていた水の壁を指した。鏡夜が手を横に振ると、壁はざぁっ……と滝の如く流れ、ただの液体に変わる。が、なぜか地面に落ちることなく、水は無重力状態のように宙を漂っていた。
「なるほど。お前は水を操るのか」
無表情に言ったかと思えば、ノガミと鏡夜の間にあった空白が消えた。
瞬間移動と錯覚するほど素早く、ノガミは鏡夜の目の前にいた。ぐっと右の拳を鏡夜へ振り下ろす。躊躇いなく頭部を狙う一撃。
と思うや、拳は鏡夜の眼前で止まった。否、止められた。宙に浮いていた水が強固な壁となってノガミの拳を防いでいた。
「訂正。……少しはやるようだ」
ノガミの口元だけが微かに笑む。右手の甲の目玉は、標的をミサから鏡夜に変えた。
鏡夜がぱちんと指を鳴らす。瞬間、彼を守っていた水の盾が液体に戻る。ノガミの顔や腕に大量の水がかかるが、意にも介さず次の攻撃にうつる。
今度は左の拳。下から上に突き上げるように放たれた拳を、再び水の盾が防ぐ。攻撃の勢いで周囲には凄まじい空気の揺れが伝わった。陽太はミサを支えながら身震いする。
その後も同じような攻防が続いた。拳や蹴りで鏡夜を追いつめるノガミ。それを水の盾で防いだり、華麗に避けたりする鏡夜。苛烈なダンスのような光景に陽太は唾をのんだ。ただの空き地が、気付けば恐ろしい怪物の戦場になっている。胃液が逆流しそうなプレッシャーに呼吸も忘れて目を見張った。
だが、これでは勝てない。
陽太は、鏡夜が次第に攻撃を避けきれなくなっているのを感じた。
水の盾も、おそらく有限だ。耐久度が下がっているのか、強い一撃には使わず回避を優先している。その躱し方もギリギリに見えた。よく見れば、頬や腕をノガミの拳がかすめて浅い切り傷ができている。
「いつまでやせ我慢しているつもりだ?」
ノガミもそれを見抜いている。
蹴りの次に間髪いれず拳がくる。鏡夜は咄嗟に飛び退きながら水を操った。固い盾ではなく、なめらかな液状。激しい飛沫が再びノガミにかかるが、目くらましにもならない。
「ただ守るだけでは勝てんぞ」
拳が空を切る。一歩下がった鏡夜が額の汗を拭った。表情からは何も読み取れない。が、少なくとも余裕ではないはずだ。長い三つ編みは乱れ、頬から地面に血が滴る。
「いい加減逃げるのはやめたらどうだ!」
ノガミが踏み込んだとき、彼の視界の端で何かが跳ねた。
ガラス瓶。中には液体。
罠だ。瞬時に判断して拳を引こうとした。が、もう遅い。すでに攻撃態勢に入っていたノガミの右拳がそれを破壊する。
液体が飛び散り、ノガミの頭からつま先まで全身に降り注ぐ。勢いを殺し、その場に踏みとどまろうとしたノガミの足が滑った。ぬめる左手と片膝をつく。
「これは」
油のにおい。先ほどの瓶の中身は油か。ノガミは無言で鏡夜を睨んだ。踏ん張りがきかない。無様だ、と己を笑いながら、しかしノガミは攻撃の手を緩めない。
右腕ならまだ残っている。
右腕の目玉が、ノガミの殺意に応えるように怪しく光った。薙ぎ払え。すべて消してしまえ――義手全体が濃い紫色の光に包まれ、その力を放出する……!
「――何」
……ことはなく、右腕の光は瞬く間にしぼんでいった。
義手は力が抜けたように肩からがくりと落ちる。
「どういうことだ?」
「やっと効いたみたいだね」
鏡夜が頬の血を雑に拭った。初めて動揺をみせたノガミを見下ろしながらニヤリと笑う。
「盾のなかに、まじない祓いの雫を混ぜておいた。呪いを弾く魔法のかかった雫だ。あなたの呪具はもう使い物にならないよ」
雫――ノガミの目が見開かれる。陽太はあっと声をあげた。最初の一撃で、鏡夜が水の盾を液体に戻したとき。あの時点ですでに、鏡夜は『剛腕』攻略の計算をしていたのか。
「まじない祓い……魔女め、それほどの使い手を隠していたか」
がしゃん、と大きな音をたてて、ノガミの義手が地面に転がり落ちる。白い煙を上げて力なく倒れると、手の甲の目玉は静かに閉じられた。
「今度こそ終わりだ。聞かせてもらおうかな。あなたはなぜ――」
「う……あぁ」
ノガミが突然呻き声をあげた。
何かおぞましいものでも見たかのように、がくがくと震えだす。残った左手で頭を抱えながらうずくまる姿は尋常でない。鏡夜が眉をひそめると、ノガミの体に異変が起こった。
しぼんでいく。
ノガミの屈強な体が、みるみる痩せ細っていく。頬はこけ、たくましい腕や足は枯れ枝のように頼りなくなる。
「……なんだ、これは」
愕然とする陽太たちの前で、ノガミはみすぼらしい老人へと変貌した。
「一体どうなっている?」
ミサを連れて、陽太が鏡夜の隣へ来る。正面から見てもやはり、ノガミは弱々しい姿に変わり果てていた。先ほどまでの威圧感はどこにもない。寂しくうなだれるだけの老体が座り込んでいる。
「説明してもらえますか」
鏡夜が問うと、ノガミは深く長いため息を吐いた。
「……あの呪具は、俺の生命線だった」
「というと?」
「あれに魔力を流し込むことで、俺はあの姿を保っていられた。本物の俺の体は、とっくに限界なんだよ」
すっかり威厳をなくしたノガミが力なく言う。皺だらけの手を虚しく見下ろすノガミが嘘を言っているようには見えない。
が、鏡夜は首を振った。
「それは妙だ。記録なら、あなたはまだ五十代そこらのはずでしょう。何か病気にかかったとしても、今ほど年を取った姿というのは違和感がある」
鏡夜の言葉に、脱力していたノガミの目が血走った。
「……すべては、あの女が原因だ……!」
心臓から絞り出すような深い声。その一瞬だけ、陽太は剛腕の迫力が戻ったように感じて震えた。
「あの女、とは?」
「俺からすべてを奪った女だ。呪いをかけ、俺の体をこんなふうにしやがった」
ノガミが語ったのは、数年前に現れたという謎の女の話だった。
彼がいつもの仕事――盗みや傷害、詐欺を働いていたときのことだ。依頼主を装って現れたその女は、ノガミにある呪いをかけた。
「やつは俺に老化の呪いをかけた。それからみるみる老けていったよ。体もろくに動かせなくなってから、この呪具を頼るまでは引きこもるしかなかった」
「あなたの名前を聞かなくなったのはそういうことか」
「腐り落ちた腕を新しい呪具に変えてからは、呪いを解くために女を探し回る日々だ。その先でこんな小僧に捕まっちまうとは思わなかったがな」
自嘲的に笑うと、ノガミは限界だというように静かに倒れた。夜空を仰ぐ目にはうっすら涙が浮かんでみえる。
「潮時だ。呪具の代償として固有魔法も手放した。魔法使いとしても、俺はもう死んでいる」
「……待って。部下があなたと同じ固有魔法を使えたのはどういう理屈です」
鏡夜が問いただそうとしたとき、空き地に新たな人物が入り込んだ。
「お疲れ様です」
そう言って現れたのは、陽太が以前見たのと同じ――魔法側の警察三人組だった。
「通報があった『剛腕』ノガミ……です、よね? えーと、彼はこちらで引き取ります」
手持ちのタブレット端末とノガミ本人を交互に見ながら、戸惑った様子で女性が言う。黒いスーツ姿で統一された三人のうち、男二人が無言でノガミを拘束した。地面に転がる義手の呪具もささっと回収してしまう。
「まだ話は終わってないんだけど」
「そう言われましても、本部からすぐ連れてくるようにとお達しが」
鏡夜が詰め寄ると、女性は困ったように眉を下げた。男二人は有無を言わさぬ様子でノガミを立ち上がらせる。見ると、ノガミ自身、これ以上は語らぬというように口をかたく結んでいた。
「ご協力、感謝いたします。お礼はまた後日、改めて連絡させていただきますので!」
女性がびしっと敬礼する。濃いくまが目立つ顔にいっぱいの笑みを浮かべるが、それに笑い返す者は誰もいなかった。鏡夜はまだ諦めきれないようでノガミを見る。
「話を聞かせてください。まだ何も終わっていない」
「……不和」
ノガミが不気味な、それこそ呪いそのもののような低い声でつぶやいた。
「
それきり、ノガミは再び口をつぐんだ。聞き返そうにも、ノガミと彼を拘束した男二人は煙のようにかき消え、空き地からいなくなってしまった。
「詳しいことはこちらでも調査を行いますので。……えーと、ところで」
女性がちらりと陽太を見る。
「そちらの方、以前お会いしましたよね?」
「え? あ、はい」
「いやぁ、なんというか、いい趣味をお持ちで……ああ、すみません。プライベートなことなのに」
「は?」
目を丸くする陽太に、女性はぎこちなく笑う。何か妙だ。首をかしげると、鏡夜が優しく肩に触れてきた。
「言い忘れてたけど。君にかけた魔法、もう解けてるから」
「…………つまり?」
「今の君は、ただの女装癖のある男ってこと」
……最悪だ。
陽太は緊張から解放されたと同時に激しい眩暈と苦痛に襲われ、その場にぱたっと倒れ込んだ。
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