第9話・夢の中

 自宅アパートに戻ると、シンとした静かな空気が陽太を迎えた。靴を脱いでのろのろと廊下を進み、キッチンを横目に洋室へ向かう。万年床の脇に鞄を放ると、息を吐きながら床に腰を下ろした。

 謎の魔法使い男二人を倒したあと――ミサの連絡で三人の男女がやってきた。いずれも三十過ぎくらいで、どこか疲れたような目元が印象的な三人組だ。男二人が倒れたキャップ男と痩せた男を運んだ。

 残った女性に話を聞くと、自分たちは魔法使い側の警察のようなものだと語った。彼らは片腕のないミサに特に驚きもせず、少し事情を話したあと、お疲れ様ですと早足で去っていった。といっても、陽太の目では、彼らの姿は途中で透明になったように消えてしまったので、どこへ行ったのかはわからないが。これで初仕事が終わりかと思うとずいぶんあっけない。陽太はほとんど足手まといだった。


 なんにせよ、陽太が一番驚いたのは、ミサが人間でないという事実だった。

 人形だと彼女は言った。子供の頃に遊んだゲームを思いだす。ゲームに登場するゴーレムは敵キャラクターで、人間にしかみえないミサとは似ても似つかない、ごつごつとした岩のようないかつい姿をしていた。あれが彼女と同じとは思えない。

 しかし、感情のない冷えた表情といい、陽太を軽々と抱えた腕力といい、確かにどこか人間離れした印象はあった。人形のようだと思ったこともある。


(雫の魔法使いに、人形の少女か)


 自分でも、わけのわからない連中とよく手を組んだものだと思う。だが陽太にとって彼らが何者かなど二の次だった。

 人を助ける。

 善人である満島を助ける。

 陽太にはそのことが重要だった。


(もう二度と、失ってたまるものか。せめて、目の届く範囲だけでも、助けなければ……)


 あの日を繰り返すことなどあってはならない。

 なんの罪もない善人が、目の前で悲劇にのまれるなど。

 机に肘をつくと、陽太のまぶたが重くなっていく。こくりこくりと舟をこぎ、段々と遠のいていく意識の向こうに、見慣れた赤い色と、激しく燃える怒りの感情があった。


     *


 胃液が逆流しかける不快感を、陽太は必死に耐え忍んでいた。

 もう何度目かわからない。あの日、あの燃える建物の前に自分が立っている。大量の野次馬も、警察や救急隊もいない。陽太ひとりだ。だからこれは、またいつもの夢なのだと理解した。


「――じゃあ君は、たまたまコンビニに寄っていた、と」


 今度は警官のため息まじりの声。うつむき、唇を噛む陽太に露骨に疑いの目を向けていた。


「たまたま家族と喧嘩して、たまたま家を飛びだしたと。その帰りに偶然? 本当に?」


 粘っこい警官の声が陽太を苛立たせる。何も嘘は言っていない。

 ちらちらと、視界の端で炎が揺れる。赤い色。怒りの色。絶望の色。


「一応、目撃証言もあるんだよ。炎が上がる少し前に、君くらいの少年が家の周りをうろついていたって」

「俺は、コンビニにいました。監視カメラでもなんでも、確認してもらえば、わかります」


 警官の目が澱んでいるのがわかる。彼はさっさとこの一件を解決したいのだ。だからいちばん『らしい』ものを探して、それにあてはめようとしている。


「俺は犯人じゃありません。放火なんて、していません」


 場面が切り替わる。

 真っ暗な教室。陽太を遠巻きに見つめるクラスメイトたち。


「……本当に? 犯人じゃないの?」

「疑ってやるなよ……被害者なんだ……」

「……かわいそう……」


 疑いの目。同情の目。あのときの陽太にはどれもがうっとうしかった。

 俺を見るな。

 同情するな。

 犯人であってたまるものか。

 怒りが渦巻く。腹の中でうねる怒りが、徐々に全身に広がり、炎に包まれたような錯覚に陥る。視界が真っ赤に染まる。凄まじい熱にたまらず叫んだ。

 かき集められた記憶の残骸が陽太を支配しようとする。あの日からずっと消えない、怒り。

 理不尽に大切なものを奪われたからなのか。自分を疑う目に対するものなのか。その両方かもしれない。陽太にはいまだにはっきりとはわからない。

 ただ一つわかるのは、もうずっとこの夢を見ること。消えない怒りにのみ込まれる夢。最後は決まって、煮えたぎる闇の中に放り込まれる。あの日からずっと。解けることない呪いのように。

 怒りが脳を埋め尽くす。どうやっても満たされない怒り。炎の形をとったそれが、陽太のすべてをのみ込んでいく。完全に取り込まれたらどうなるだろう。恐ろしい想像に抗う陽太にできるのは、意味もなくもがくことだけ。

 息を吸うこともできない暗い世界。今日はそれが、少しだけ違っていた。

 闇に放られるまでは同じだった。見えない炎に体が焼かれる。もう叫ぶことすらできない。怒りが身体中を巡って、嵐の如く吹き荒れるだけ。


 そこに――ぽつんと、小さな光が現れた。

 傘を開いて差しかけるように、光が陽太の頭上を照らす。その瞬間、陽太は自分のすべてが許されたような気分になった。怒りが消え、炎に包まれていたはずの体がもとの形を取り戻す。

 どれだけ呆然としていただろう。いつのまにか闇が晴れ、陽太は真っ白な世界にひとり立っていた。ほんのりと残る透明な香りを感じながら。


     *


 ……瞼をこすると、すっかり日が暮れていた。真っ黒に塗りつぶされた窓の外を見て、陽太はのろのろとカーテンを閉める。部屋の灯りをつけると、じんわりと残る夢の感触が取り除かれていった。不思議といつもの吐き気はない。それどころか、適度な昼寝をとったように頭がすっきりしていた。


(……夢の中で、誰かに呼ばれた気がした)


 それは、あの香りをまとった誰か。激しい感情に塗りつぶされそうになる陽太を落ち着かせる、透明な香りの持ち主。

 彼についていけば、自分の中の恐ろしい衝動から解放されるのだろうか……。

 ――同日、再び行方不明事件が起きていたと知ったのは、翌日、陽太が雫師の店に出勤してからだった。

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