第3話・雫師2

「たっ……体液!?」


 声が裏返った陽太とは反対に、鏡夜は落ち着き払った様子でうなずいた。思わず立ち上がった陽太のことなど気にせずよどみなく続ける。


「そう、体液。汗でも涙でも血液でもなんでもいい。君の体から採取できる液体が必要なんだ」

「そっ、そんなことをして、どうするんだ」

「君が聞いたんでしょう。雫師とはどういうものか。言葉で説明するより、実際に見せたほうが早いと思って」


 動揺する陽太をからかっているのか、本気なのか。鏡夜は淡く微笑むと、立ち上がって陽太の手をとった。突然のことに反応が遅れる。払いのけるべきか迷っているうちに、握った拳を優しく解かれた。


「少し汗をかいてるね。緊張しているの?」


 じわりと汗が滲んだ手のひらを、鏡夜の細い指がそっと撫でる。陽太の心臓の鼓動が速くなった。触れられただけなのに、恐れと不安感が増していく。この手に触れたままではまずい気がする。

 力任せに押しのけるのは簡単に思えたが、


「おとなしくしていてください。鏡夜様が集中されますので」


 トレイを握るミサの忠告に、再び陽太は体を硬直させた。あの少女が持つ不思議な圧力はなんなのだろう。そんな疑問を挟む余地もなく、陽太の手のひらに鏡夜の手が重ねられる。ひんやりとした手の持ち主を見ると、まるで神聖な儀式をしているような神秘的な空気を感じた。また見とれそうになって唾をのむ。

 雰囲気に気圧される陽太に、鏡夜がゆっくりと口を開いた。


「……朝倉陽太くんっていうのか。怖い見た目のわりに優しそうな名前だね」

「は……」

「年齢は二十歳。高校を卒業して以来、色んな職を転々としている。……自分の意思じゃないのにつらい思いをしてきたんだね。つい最近、喫茶店のバイトを辞めたばかりなのか。できればもう少し続けていたかった。それにどうやら、僕に依頼があって来たのとは少し違うらしい。本当の依頼人のための用心か」


 次々と陽太のことを言い当てる鏡夜に、陽太は驚きと恐怖のあまり手を振りほどいた。ミサが一瞬目をつり上げるが、それを鏡夜が片手で制す。


「なっ……なんだあんたは? 俺に何をした?」

「何も。雫師がどういうものか教えただけ」


 鏡夜は何事もなかったようにソファに戻り、足を組んだ。


「僕は人の体液から、その人のあらゆる情報を読み取ることができる。好きな食べ物や好みの女性、今何を考えているか。基本的な情報はだいたいなんでも。ここに来る前に、お年寄りに道案内をしているね。君は真面目で親切ないい子だ」

「体液……? 読み取る?」


 道案内はした。が、ついさっきのことだ。ここから見えていたはずもない。

 占い師などがやるテクニックの一つにホットリーディングというものがあるが、あれは事前に調査した内容をさもその場で読んだように見せる技術だ。陽太の心を本当に読めるわけではない。

 なのに鏡夜は、事前調査だけではわからない陽太の思考すら言い当てた。

 確かに陽太は依頼をしに来たのとは違う。だが誰にも言っていない。……いや、それすら調査されている? まさか。明星にここを教えられたのは昨日の晩だ。一日と経たずにここまで個人の内面までわかるとは思えないし、思いたくない。


「まあ、疑われても仕方ないとは思ってるよ」


 陽太の険しい表情に鏡夜が肩をすくめる。


「詐欺師だなんだと疑われるのには慣れてるし。君みたいに最初から疑ってかかる人のほうが多いくらいだ」

「……それは」


 そうだろう、と言いかけて言葉をのみ込む。涼し気な顔をして語る鏡夜は胡散臭い。何かトリックの種があるんじゃないのか、そう疑ってかかる自分がいる。

 なのになぜだか、この男を信じたい気持ちが強くなっていた。理由など聞かれてもピンとこないが、あの目……深い常夜の輝きを持つあの目が、嘘を語っているように見えない。


「ただ一つだけ確かなのは――ここは本当に叶えたい願いを持つ人しかたどり着けない。そういう場所だということ」


 鏡夜は動揺する陽太を真っ直ぐに見つめた。体に震えが走る。この感覚はなんだ。鏡夜の何かが陽太の心の奥を揺さぶっている。


「つまり、君自身にも叶えたい願いがあるってことさ。君の雫に触れたときに見えた、揺らめく激しい赤色……あれは君の願いと関係しているのかな?」

「……!」


 赤。

 激しく揺らめくおぞましい色。

 質量を伴って、陽太の体にまとわりついてくる、あの色。

 あのこと・・・・、まで、わかるのか。

 この男には本当に見えている……。

 言葉を失った陽太をよそに、鏡夜は自分のコーヒーを飲んだ。


「ミサ。お客様はお帰りになるようだ」

「承知しました」


 ミサは呆然とする陽太の肩を無遠慮に掴んだ。細い腕から出ているとは思えない力で陽太の体をぐるりと回れ右させる。


「お出口はこちらです」

「まっ……待ってくれ!」


 我に返り、陽太はミサの手を振りほどこうとする。が、びくともしない。ほどくのは諦めて、首をかしげる鏡夜に言葉を投げた。


「あんたは本当に願いを叶えられるのか? 俺の叶えたい願いもわかるなら、俺は」

「次に来るときは、本当の依頼主を連れておいで。君の願いはまた別の機会に聞くとしよう」


 その時が来たらね。

 何もかも見通すような眼差しで鏡夜が言う。結局、陽太はミサに半ば追い出される形で雫師の店をあとにした。

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