第2話・雫師

 翌日。陽太はひとりで七星市の中心部にある繁華街に来ていた。満島楓の依頼は受けるにしても、まず雫師とやらの実態を確かめてやろうと思ったのだ。明星は濁していたが、雫師なんて怪しい職業は聞いたことがない。もしただの詐欺師であるなら満島に近づかせるわけにはいかない。

 平日の昼間、ひと気の多い賑やかな大通りを避けるように、陽太は細い路地へ入っていく。大通りの賑わいとは真逆の薄暗いひんやりとした空間。路地に入った途端、人の気配は消えて、世界に自分だけとり残されたような錯覚に陥る。

 明星が言っていた雫師の店というのは、この辺りにあるはずだ――大人ひとりすれ違うのがやっとの細い路地を進むと、左手に白い小さな雑居ビルが見えた。陽太は明星に渡された地図を確認し、ビルの中へ入る。やはり誰の気配も感じない。不気味に思いながら、陽太は店があるはずの二階へと歩を進めた。


「……ここ、か?」


 二階に着くと、ステンドグラスの入ったアンティークドアが陽太を出迎えた。看板も、これといった案内も張り紙もない。殺風景なビルからは少々浮いてみえるエメラルドグリーンのドアをしばらく睨んでいると、


「何か御用でしょうか」


 背後から声をかけられ、陽太はびくりと肩を震わせた。

 驚いて振り向くと、メイド服を着た少女が音もなく立っていた。

 メイド服といっても、陽太の知識にあるメイド喫茶のような浮かれた感じではない。もっと伝統的な雰囲気のある格好だ。足首まであるスカート丈。肌の露出を許さない手袋と真っ黒なブーツ。それを髪も目も黒い、無表情な人形のような少女が着こなしているものだから、陽太はただならぬ気配を感じて後ずさった。


「お客様でしたら、ミサがご案内いたしますが」


 首をかしげると、真っ直ぐに切り揃えられた少女の黒髪がさらりと揺れる。その仕草もどこか人形じみていて、陽太は内心不気味に思った。自分より年下の、おそらく十代後半と思わしきか弱そうな少女を恐れるなんて初めてのことだ。

 陽太は本心を悟られぬように、なるべく落ち着いた声で尋ねた。


「ここに、雫師という人がいると聞いたのだけど」

「では、お客様なのですね。どうぞこちらへ」


 少女は淡々と話すと、あっさりドアを開けた。先に入っていく少女を陽太が慌てて追いかける。

 中に入ると、甘くも辛くもない、草花に似ているような、清々しい透明な匂いがした。今までに嗅いだどれとも違う不思議な香りに、なぜか緊張がほぐれるような感覚がする。

 戸惑いながらも室内を見回すと、そこはやや狭いがシンプルな応接室だった。陽太が想像していた詐欺師や占い師のような怪しい雰囲気や謎の小道具もない。ごく一般的なガラステーブルとソファが置かれている、すっきりとした空間だ。入り口に置かれた花瓶には、濃い青色のスターチスが生けてある。こちらは来客用にというよりは、ただ花があったから飾っているというような雑な置かれ方だ。


鏡夜きょうや様。お客様がお見えになりました」


 ミサ、と名乗った少女が奥のほうへ呼びかける。部屋の奥にはまたアンティーク調のドアがあり、ガラスの向こうで人影が動くのが見えた。陽太の拳に自然と力がこもる。

 気怠そうに奥から現れたのは、細身の青年だった。歳は陽太よりやや上のようだが、身長は陽太のほうが高い。青年がゆっくりと顔を上げ、目が合った瞬間、陽太の口が勝手に「綺麗だ」とつぶやいていた。

 陶器のような白い肌。長く伸びた柔らかそうなミルクティー色の髪はゆるく三つ編みにしてある。冷たい、けれどどこか優しさの残る光を帯びたアーモンド形の目は無感情に陽太を見ていた。常夜のような静かな煌めきを放つ瞳の色に息をのむ。

 整った見た目といえば、陽太の知り合いでは明星が思い浮かぶ。が、目の前の青年のそれはおとぎ話の世界から出てきたような――非現実的な空気を持つ美しさだ。


「男に褒められても、意外にちゃんと嬉しいものだね」


 見た目通りの落ち着きのある声で青年が言った。陽太はハッとなり口を手で覆う。


「……申し訳ない。失言だったか」

「嬉しいって言っただろう。気にしないで、かけて」


 青年は薄く微笑みながらソファを指した。何気ない仕草ひとつとっても優雅で、陽太はすっかりペースを乱されたと頭を掻いた。おとなしくソファに腰掛けると、青年も正面に座る。


「どうぞ。ごゆっくり」


 いつのまにかコーヒーを淹れていたミサが二人分テーブルに置く。トレイを持ったまま、彼女は青年の横にピタリと直立した。


「ありがとう」


 陽太は礼を言うと、すぐにコーヒーを口にした。しかし味がよくわからない。青年が目の前に来たことで動揺しているのか、正面を向くことすら難しい。何を考えているんだ、と脳内で己を叱責する。ここに来た目的を思いだせ。得体の知れない男に見とれるためではないはずだ。


「雫師というのは、あなたですか?」


 二口目を飲んでようやく、陽太は調子を取り戻した。青年はコーヒーには手をつけず、膝の上で指を組んだ。


「そうだよ、僕が雫師。名前は夏目鏡夜」

「夏目さん。願いをなんでも叶えてくれるとお聞きしましたが」

「なんでもかどうかは知らないけど、誰かの願いを叶えることを仕事にしてる」


 すらすらと答える鏡夜に、今のところ不審な点は見られない。とはいえ、陽太の中で雫師という謎の職業が胡散臭いことに変わりない。


「雫師という言葉は初めて聞きました。願いを叶えるとおっしゃいましたが、具体的にはどのような職業なんです?」

「そうだね……」


 鏡夜が初めて言葉に詰まる。やはり何か詐欺めいたことをしているのか。陽太の表情が険しくなる。男の陽太ですら、鏡夜の見た目や雰囲気に圧し負けそうになったのだ。満島のような若い女性ならもっと簡単に騙されてしまうだろう。

 疑い深い視線を送る陽太に、鏡夜は予想外の言葉を発した。


「細かい話はあと。まずは君の体液をくれない?」

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