22.恋心

白奎は出された茶碗を手に取ると、立ち上がる湯気に鼻を寄せた。


「―馥郁ふくいくとした香り。これぞまさに一級品。良い見立てです」

「自画自賛、か…。相変わらず自己評価の高いことよ」


書類が積み上げられた机に寄りかかるようにして立つ薛潁は、呆れた様子少しも隠そうともせずに言う。


「事実でしょう?潁くんは他人に厳し過ぎるんですよ」

「よく言うわ」


花が咲いたように微笑む彼に、薛潁は「はぁぁぁ」っとわざとらしく大きなため息をついて見せた。

茶問屋で買ってきた茶葉は、彼が「これを選べ」と指定してきた銘柄だ。

それを自分で「良い見立て」とは、なんと厚かましい。


「本当に白爺は、いい性格してるよな」

「見た目もいいです」

「知ってるわ。色白のくせに肚の中だけは黒いってこともな」


今更、心の中にあるものを隠そうとも思わない。

この男の前では、何を隠しても無駄だ。

堂々とお返しした嫌味に、爺は茶碗に視線を落とすと、ふっと口角を上げた。


「可愛いですよねぇ…」

「は?なんだ、突然。気持ち悪い」

「貴方じゃない。彼女、ですよ」


唐突に振られた話題に彼を見遣ると、その顔は意味深な微笑を湛えていた。

一見、俗世を捨てた優美な風流人に見えて、稀代の策士であるこの爺。

この顔はきっと、何か企んでいるに違いない。

そうだ、絶対にそうだ。


「…ふうん」


触らぬ神に、祟りなし。

こういう時は我関せず、が最善の策。

否定も肯定もせず、ただ相槌を打って、茶を口元に運ぶ。


「惚れちゃいました?」

「ブッ」


盛大に噴き出た茶が、緑色の弧を描いた。

なんてこと言うんだ。このジジイは。


「…馬鹿なのか、爺は」

「あら、図星」


フフフと口元に袖を寄せて微笑む性悪男を、ギロッとにらみつける。


「知ってるだろう。何をそんな世迷い事を」

「いいんですよ。元より心など制御出来るものではないんですから。それが恋心であれば尚更」

「…勘違いしないでくれ。娘にしては仕事が出来る。だから置いてるだけだ」

「まぁ、見た目より賢い子ですよね。しかも胆力もあるし、思いやりもある」

「爺が拾ってきたんだろう。だから自画自賛だというんだ」

「今回の件は部外者でないと務まらない。そう意見したのは貴方―。それに見合うものを私は用意しただけ。それをここまで手元に置くとは…。どういった心境の変化かしら」

「…任務遂行に必要な人材、それだけだ」

「にしては、あの夜の立ち回りは意外でしたよ―。まるで横恋慕された恋人を奪い返しに行く男のようで」

「…」


花見の宴の最中、不意に耳の奥に響いた我が名を呼ぶ声に、身体が無条件に反応した。

咄嗟に歓談の輪から飛び出し、裾を振り乱して声の元に駆け寄った。

目の裏によぎった光景に、理性など働かなかった。

その身体に、自分ではない他の誰かが触れている。

それだけで、例えようのない炎が腹の底から沸き上がった。


「…少々、狼藉が過ぎたと、反省はしている」

「おかげであの後、宴は貴方の話題で持ちきりでしたよ。政の場では決して感情を見せない冷血漢の大理寺小卿が、あんな立ち回りを演じるんですから」

「扉一枚壊しただけで、大袈裟な」


ちなみに扉の修理費の弁償はした。大理寺の裏経費で。

私費でも良かったが、あくまで任務遂行中での出来事。業務の一環であれば、経費とするのが当然だ。


「惚れた弱みですかねぇ。可哀想に、門下の袁起居郎は涙目でしたよ。とんだとばっちりで罵倒されて」

「部下の指導は上官の務め。指摘されて当然だろう」

「なにも恋路まで指導する義務はないでしょうに…。あぁ、潁くん。貴方は上官として、彼女を魔の手から守ったとでも?」

「それ以外のなんだと」

「潁くん。言動と行動が一致していないですよ。好きでもない娘を、懸想する男から奪った挙句、酒を飲ませて朝まで寝床を共にして」

「…何故、それを」

「紅晃が嫉妬してね、大変だったんですよ。ちゃっかり結界まで張って、何者をも寄せ付けないなんてね」

「傷心の人間を、煩わせない配慮だ」


あの夜。

すっかり気落ちした彼女を、白爺の屋敷に連れ帰った。

いつも溌剌とした人間が見せた頼りない憂い顔に、心臓が掴まれたような感覚を覚えたからだ。

せめて、どこかで気晴らしを。

美味い酒と肴と、綺麗な夜空。

それくらいしか、自分には思いつかなかった。

でも、間違ってはいなかったらしい。

酔いが回るにつれ、彼女は良く笑った。

色んな話をした。

沢山笑った。

久々に楽しくて、つい、夜が更けるまで話し込んでしまった。


「ごめん、潁くん。眠くなっちゃった…」


そういって肩にもたれた彼女の、柔らかい感触。

視線を落とすと、もう、すうすうと寝息を立てていた。


「子供か」


仕方なく、ぬくい身体を抱え上げて自分の使っている寝室まで運んだ。


「今晩はここで休むがいい」


答える様子もない彼女に、人知れず肩を落とす。


「なんともつれないものだな」


自嘲めいた笑いをこぼしながら、その顔を見下ろす。

幼子のように、安らかな寝顔。

どうやら、少しは落ち着いたらしい。

安堵のため息をもらし、横たえた身体の脇に腰を下ろす。

すこし、無理をさせてしまった。

痛めた足に手を当てる。

数刻前の出来事を思い返すと、胸の奥がひきつるように傷んだ。


「疲れただろう。ゆっくりお休み」


相変わらず答えることのない、ちいさく色づいた唇からは、規則正しい寝息が小さく漏れている。

枕元にひじをついて顔を覗き込むと、ふんわりと甘い香りが鼻先をかすめた。

瞬間、胸に走った、白い衝動。

ふくらんだ柔らかな紅に、熱を重ねた。

静寂の闇夜に、自分の心臓の音だけが大きく響き渡る。

誰にも、見せたくない。

この眠りを邪魔させたくない。

不躾ぶしつけものが眠りを妨げないように、指先を伸ばして宙に印を描いた。


「結界を張っておいて正解だったな。聖獣の分際で、人様の寝床に押し入ろうなんて」

「友人と認めた子ですから。寝食を共にしたいんでしょう」

我儘わがままなところは飼い主に似たんだろうな」

「そうですね」


否定もしない、この主。

ほんと、いい性格してるわ(本日二回目)。


「貴方に奪われて、気の毒にね」


その言葉にドキッとして、つい顔を反らす。

落ち着け。

知るはずもない。

気にしすぎだ。

素知らぬ顔で外を眺めていると、白爺はおもむろに立ち上がって、自らの手で茶器を手にし碗に注いだ。


「早く伝えないと、誰かに盗られてしまいますよ」

「なんのことだ」

「人に好かれる子です。今頃、誰かに口説かれてるかも」

「仕事中に後宮の宮女を口説く奴なんておらんわ」

「そうですかねぇ?」


からからと笑い声をあげる男に、眉をひそめる。


「…ついに白爺もボケたか?」

「いいえ。あの庭の主は、見た目と違って狡猾ですよ」

「おのれが言うか?」

「いやいや、私など、比に及びませんよ。涼しげな玉顔に、悪だくみを山ほど隠しておられる。狙われたら彼女なんて、ひとたまりもないでしょう」

「白昼堂々とそこらへんの宮女を口説く陛下なんぞ、臣下は見たくないがな」

「まぁ、あのお姿・・・・を軽々しく人目にさらすとも考えられないですから、過度な心配は不要でしょうけどね」


花帝は代々、大変見目麗しいお姿をしていらっしゃる。

今上帝も御多分に漏れず、一度拝謁したらその御姿に惚れない者はいない、とまで言われている。

まぁ、普通の官吏にはそうそう玉顔を拝見する機会などないが。

近距離で拝謁出来るのは、五品以上の限られた人間。

幸い、自分もその一人ではある。

だからそれが過分なお世辞でないことは理解できる。

確かに主上は、他の追随を寄せ付けない圧倒的な神威と、輝く程の美貌をお持ちだ。

多分に御出ましをお避けになるきらいがあるのは、ご自身の魅力をよくご存じな為だ。

それだけではなく、聡明な御方であるのは、高位の人間なら誰しも知ること。

先代と異なり、今の御代が安定しているのは、ひとえに主上が賢帝であるが故―。


「…だから早く、潁くんに本来の立場に戻って欲しいのです。押しも押されぬ、東方の衛人として」

「まだ時機じゃない」


変わった話題に、声を落とす。

肩を寄せた白爺に、薄い視線を流す。


「いずれ時がそうさせるとはいえ、準備は必要です―。願い叶ったその暁に、貴方の隣に居るべき人物を、みすみす逃してはなりません」

「オレは誰も必要としない。今までも、これからも」

「失ってからでは遅いのです。私のように後悔し続けるハメになりますよ」

「役目はきちんと果たす。それだけだ」

「意地を張らないで。このままでは、亡きお父上に顔向けできませんから」

「…陸は今頃、後宮で証拠を見つけてるだろうな」

「そうやって、話を逸らす…」


呆れ顔する白爺を無視して、席に戻る。

彼女が戻ってくるまでに、ひと仕事終えなければ。

いつまでも年寄りの無駄話に付き合うほど、暇じゃない。


「白爺もそろそろお帰り遊ばされよ。あまり若手の仕事の邪魔をしてると、老害って呼ばれるぞ」

「はいはい。戻りますわ」


そう言って白爺は茶を一気に流しこむと、立ち上がった。

優雅に袖を揺らしながら戸の前まで進むと、ふと振り返った。


「潁くん」

「なんだ」

「片想いもよろしい。ですが、想い通じた朝ほど清々しく満ち足りたものは無い」

「―そういう話を仕事中にするな。これだから恥のない年寄りは困る」

「無理しちゃって。恋の病に無理は禁物ですよ」

「誰が病だ」

「人気あるんですよ、彼女。知らぬは本人ばかり、ですが」

「…皆、何しをに出仕してるんだ。ここは職場だぞ」

「恋に落ちる瞬間は、いつも突然で、あっけなくて、しかも不可抗力です。あの可愛らしい瞳に見つめられたら、勘違いしてしまうのも無理はない」

「すぐに惚れたのはれたのと、これだから宮廷人は嫌だわ。大人しく仕事してろっていうんだ」

「いつでも手が届くと思って油断してると、痛い目に遭うというもの。潁くんもつまらない見栄を張っていないで、早く自分のモノにしておしまいなさい」

「なっ…!」


この下世話ジジイが―っ。

立ち上がると、白爺はホホホと嫌味な声を上げて、サッと戸の後ろに消えた。

パタンとしまった扉に、オレは思いっきり手にした筆を投げつけた。



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