21.動揺
店を出た私たちは、東市の街並みの中を黙々と歩いていた。
「…」
さっきから、頭の中のグルグルが止まらない。
もし、彼の話が本当で。
その相手が、瑶玉なら。
だからって、腹心の侍女が…。
にわかには信じがたい話だけど、疑いの目は自ずと彼女に向かってしまう。
私の思い過ごし、だろうか。
彼女は付き合いの長い
そこに、彼が現れて。
外の世界の幸せを、見つけてしまって。
自由な未来を、望んでしまったとしたら―。
まさか、そんなこと。
思わずかぶりを振って、不吉な予感を払い落とす。
でも、考えれば考えるほど、思考も気持ちも混乱するばかり。
ダメだ。
私ひとりの頭じゃ、整理できない―。
「ねぇ、潁くん」
私が思いつくことくらい、彼ならとっくに気づいているはず。
彼の袖を引くと、潁くんはパタっと足を止めた。
そして静かに視線を私の顔に下ろし、ふっと小さく肩を落とした。
「ひと休みするか」
「うん…」
向かったのは、彼の馴染みだという飯店。
青々とした竹が伸びる庭に面した部屋で、机を挟んで向かい合って座る。
「適当に頼むぞ」
「うん」
慣れた様子で穎くんが店員に注文をする。
そのやり取りを横目に、私は時折風に揺られてサワサワと音を立てる竹林を、ただ眺めていた。
しばらくすると、数人の店員が大きな盆を手に部屋にやって来た。
運ばれてきた小皿の上には品良く切り揃えられた野菜や、手の込んだ点心。
ひと口大のフルーツや焼き菓子。
あっという間に、机の上が料理で埋め尽くされた。
「ほれ」
「ありがとう」
穎くんが私の前に置かれた玻璃の器に、葡萄酒をコポコポと注いだ。
「好きに食べるといい」
「うん…」
答えたものの、目の前に並べられた美味しそうな肴に、どうしても食指が動かない。
かたや潁くんは、椅子の背に肘をかけて横向きに座り、足を伸ばすという、大層リラックスした(というか、お行儀の悪い)姿勢で手酌を重ねている。
「ねぇ」
「考えるだけ、ムダなこと。今は食べたらいい」
私の頭の中でも覗いたのか。
全てを察したような口ぶりで、穎くんは胡瓜の酢漬けに箸を伸ばした。
「でも…」
「これ、好きだろう」
ボヤキを遮るように、彼は私に胡桃餡の餅がのった皿を差し出した。
「ありがとう…」
好物を渡されて、ガマン出来るほと大人じゃない。
素直に受け取って、箸で餅を挟むとムニッっとした感触が指に伝わった。つまんで持ち上げ、口に運ぶと、ずっしりとした甘みが口の中にいっぱいに広がった。
「あ、おいしい…」
「それは何より」
軽く流すような言い草に、彼を見る。
無愛想な横顔は視線を遠くに遊ばせたまま、何も語らない。
ただいつものように、淡々と盃を傾けるだけ。
私に構うことなく、ただ飄々と、外を眺めながら寛いでいる。
これが大人の余裕、なのかな。
動揺する自分とは、正反対の彼。
その姿はまだ平らな胸にチクッとトゲを刺す。
…何を期待したんだろう、私は。
視線を落として、机に並んだ品々を眺める。
ここに並ぶのは全部、私の、好きなもの。
時々、頭の中全部見られてるのかなって思うくらい、穎くんは私の考えを察して、先手を打つ。
私が単純なだけ、かもしれないけど。
その先回りがなんだか、モヤモヤして。
今だって気遣ってくれてるはずなのに、どこか素直に喜べない。
どうしてなんだろう。
わかんない。
あれも、これも。
何でこんなに、私、混乱してるんだろ…。
「…そんな眉間にシワをよせてたら、味も分からんだろうに」
おもむろに顔を上げると、眉尻を下げた穎くんがこっちを見ていた。
「うん…」
「何が引っかかってるんだ?」
「まさか、揺玉が…って。信じられなくて…」
「まだ決まったわけじゃない」
穎くんは桃を模った饅頭に手を伸ばすと、半分に割った。
「足りてないぞ、糖分が。ほれ」
差し出されたその半分を、私は無言で受け取った。
ふんわりした皮に包まれた、白い豆をすり潰した餡。うっすらと立つ湯気からは蜂蜜の香りがした。
「甘いね」
「そうだな」
「ねぇ。穎くんは、何とも思わないの?」
「なにがだ?」
「驚いたり、しないの?」
「宮中にいると、この手の話は別に珍しくもないからな」
「そうなのね…。私、混乱しちゃって。悔しいけど、あなたが言うように、私、まだ子供なのかも」
「それが真っ当な反応だろう。動揺するのも無理はない」
意外にも、穏やかに微笑んだ穎くん。
その顔には、いつもの人を小馬鹿にした様子はない。
「さすがね、穎くんは。微塵も動揺しないなんて」
「…不本意ながら、オレも
「役人って、みんなそうなの?」
「そうだなぁ。宮中は皆、腹に一物を抱えてる奴ばかりだからな。感情を露にしないのが、生き抜く知恵でもあるな」
「それにしても、どうしたらそんなに落ち着き払っていられるの?」
「仕事だからな。大理寺の人間は、
「うん…」
「官吏たるもの、常に冷静沈着にありて役割を全うすべし―。ウチの上司の口癖だ」
そう言うと、穎くんはまた、手にした盃を仰いだ。
まさに大人の余裕。
鷹揚に構える姿からは、自信が滲み出てる。
きっと今この瞬間も、私とは違う景色を見てるんだろう。
その横顔は手を伸ばせば届く距離にあるのに、なんだか別世界に居る人みたいに感じて、なぜだか胸の奥がキンと痛んだ。
「ねぇ」
「ん」
「穎くんは、今、何を考えてるの?」
「んん?」
「教えてほしいの。穎くんに見えていて、私には見えてないものを」
私の言葉に、穎くんの顔色がスッと変わった。
一瞬にして、周囲の空気がピンッと張り詰めたのが分かった。
名状し難い、威厳にも似た気迫に身体が勝手に強張る。
やっぱり、この人は、タダモノじゃない。
圧倒されそうになるのを、グッと腹に力を入れてこらえる。
「言えることはひとつ。大理寺は必ず、真実を見つ出す―。誰が何を画策していても、我等の目は欺けない」
「自信、あるのね」
「当然。俺を誰だと思ってる?」
「大理寺の、偉そうな小卿サマ」
「左様」
穎くんはゆったりとした仕草で盃を置いて、顔を上げた。
彼の炯々とした眼差しに射抜かれ、私は固唾を飲んだ。
「今必要なものは、論より証拠―。瑶玉が鍵を握っているのは間違いない。疑わしきものは徹底的に調べる。結論を出すはその次だ」
「うん…」
「憶測を排除し、事実だけを追う。事実を積み上げて、到達するのが真実。その為に、やるべきことは唯ひとつ。今は余計な事は考えなくていい」
「ただ、事実を追う…」
「動機は重要じゃない。人の心なんて、そもそも他人には分からないものだ」
「ん…」
そうだよね。
人間は思ってるより複雑だもん。
自分でも自分のこと、分からないこともあるんだし。
他人が理解できる範囲なんて、たかが知れてる。
時々、穎くんは的確な指摘をするんだよね。
頷く私に彼はふっと頬を緩めると、また自分の盃に葡萄酒を注いだ。
「なかなか良い漢だったな」
「あ…、茶問屋の彼?」
予想外の言葉に、穎くんの顔を見た。
すると彼は目を細め、頬杖をつくと私にゆるく視線を流した。
「心ある主ならば、祝うと思うぞ」
「ん。そうだね…」
「心無ければ、引き裂くかもな」
「…」
その言葉に、背中をひんやりとしたものが伝った。
それって、もしかして―。
「ほら、思い込むな。偏るな。言っただろうに」
「う…」
図星過ぎて、頬がカッと熱くなる。
変なこと言うから、想像しちゃったじゃない。
「穎くんがコワイこと言うから」
「可能性を示しただけだ」
ははっと笑うと、穎くんは伸ばしていた足を戻して、私に向き直った。
「心配しなくていい。妃に動きはない」
「…ほんとに?」
「大理寺を舐めてもらっちゃ困る」
含みのある表情で饅頭を食む穎くんの、紫がかった左目がキラッと光った。
今まで気づかなかったけど、よく見ると左右の瞳の色が違う。
「…穎くん、目の色が左右で違うのね」
「らしいな。自分じゃ見えないが」
「そっか。光の角度によってだけど、こっちの目が紫色に見えるよ」
椅子から腰を上げて、じっと瞳の奥を覗き込んでみる。
「紫水晶みたいね。綺麗」
澄んだ紫色の水面に、私の顔が揺れた。
「で、動揺は収まったか?」
「…あ」
「糖分が頭に届いたみたいだな」
「ん。また人のことバカにしたの?」
「そんなことは」
目を細めて私を見上げる穎くんの、口元を緩めて薄く笑う表情がやたらと蠱惑的で、一気に鼓動が早くなった。
「いっ、いいよもう…っ。それより、穎くんはそれだけ強気なんだから、なんかいい案があるんだよね?」
「まずは物的証拠を押さえる。瑶玉の部屋に忍び込むんだ。必ずそこに場違いなものがあるはず」
「―え。私?」
「他に誰がいる?」
「む…」
「妃の体調不良が故意ならば、どこかに必ず原因となる物があるはず。まずは彼女の身辺を徹底的に洗い出すんだ」
「ん」
「物さえ手に入れば、後はウチの精鋭部隊が徹底的に調べ上げる。そこには弁解の余地はない。誰が、本当の策士か―。大理寺の矜持にかけて、奸佞の輩を白日の下に晒してみせる」
私を映す紫の瞳の奥に、金色の灯が揺らめいた。
その表情は王のように、自信と風格に満ちていた。
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