19.疑惑
涼しい風が頬に気持ちのよい朝。
いつもどおりの時刻に大理寺の門をくぐり、整然と敷き詰められた石畳を小走りで進む。
すれ違う人にあいさつし、一番大きな建物、正殿に上がる。
「おはようございます」
これもいつもどおり、入口横の壁に出勤の名札をかけて、書類を受け取りに広間へ向かう。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよう」
天井高い広間に足を踏み入れたら、まずはあいさつ。
こだまみたいに返ってくる、いくつもの声に軽く会釈して、箱に入った書類を手に取って、一礼する。
―と、なんだろう。
下げた頭に、たくさんの視線が、ぶつかってる気が…?
すっと頭を上げると、間違いじゃない。
こちらを見ていた十人以上が、バッと一斉に顔を背け、机に向き直った。
「…」
気のせいじゃ、ない。
素知らぬ顔して平静を装う彼らに、私は確信を持った。
これ、なんかある。
とは思うも、心当たりはない…。
もしかして、髪型、変だったか…な…?
今日は、あの宴の詫びだと穎くんにもらった、
…部屋に行ったら、鏡を借りよう。
だって、気になっちゃうもん。
微々たる違和感を胸にしまって、広間を出た。
少し早足で板張りの廊下を、タカタカと進む。
「…」
気のせいじゃない。
やっぱりここでも、通り過ぎる柱の横や戸の間から、ちらっとこちらをうかがう、いくつもの視線―。
なんか、私、やらかしたのかな…?
一昨日の自分の行動を思い返してみるけど、思い当たることもない。
強いて言えば、あの宴席くらい…。
仕事でやらかした覚えは、無いんだけどねぇ。
あ、あれかしら。
昨日、予定外に休んだせい、かな?
二日酔いで休んだって、思われてる?
でも、実際は潁くんが休めって言ったからで、ずる休みじゃないんだけど…。
う〜ん。
どうやって、誤解を解こうか。
変に言い訳も良くないよねぇ。
あれこれ考えながら、書類を抱えて廊下を歩いていると、遠くの曲がり角から王録事が現れた。
彼なら何か、知ってるかも。
書類を腕で押さえながら、手のひらを揺らして、合図を送る。
私に気づくと、彼はハッとした顔をして、こちら目がけてタタッと走り寄ってきた。
「王録事、おはようございますっ」
立ち止まって、ペコッと頭を下げる。
顔を上げると彼はもう、目の前に立っていた。
「陸殿、ちょっといいか」
「はい」
手招きされて、ふたりで柱の陰に回り込むと、彼は袖を口元に寄せて、小声で耳打ちした。
「…大変だったんだよ、ほんと」
「え、どうしたんですか?」
「昨日、陸殿、休みだっただろう?」
「はい。小卿が休め、とのことだったので」
「小卿が、そのように」
「はい。ちょっと足をひねって」
「足を…」
「そんなことより、昨日、何かあったんです?」
「あぁ。袁
袁さまは、穎くんの部屋によく来る、国士学の同期よね。
今は門下省だって、言ってたっけ。
「袁さまが何を?まさか、小卿の弱みでも握ったとか?」
「…うん。そう」
「えっ!?ほんとに?それ、私も聞きたいですっ!」
「―」
興奮した私に、王録事は困った顔をすると、袖を口元に寄せて黙りこくってしまった。
…ちょっと、前のめり過ぎたかしら。
でもね、あの人の弱み、私も押さえておきたいじゃない?
いざという時の切り札は、キチンと用意しておかないと。
これは弱者なりの、『生存戦略』。
ほら、なんたって、アレな上司でしょう?
日々を心安く過ごすには、ちょっとした武装も必要。戦わなくていいように、うまく牽制する技を身に着けておかないとね。
これも、この数週間の宮廷生活で得た、生きる知恵みたいなものよ。
「言いずらいのは承知の上です。どうか、教えて下さい。このとおりです、王録事」
拝むように頼み込み、期待の眼差しで見上げると、王録事は左右を一度見渡してから、私に居直った。
「…あのだな。これ、君にも関係ある話なんだよ」
「え?」
「心当たりない?」
「全くございません」
「ほんとに?」
「はい」
「…」
え。
なになに?なんて?
どういうこと?
意味が分からず、ポカンとして王録事が次の言葉を口にするのを待っていると、彼はしばらく眉を寄せて考えたのち、大きく息を吸うと、一段声を落とした。
「単刀直入に聞く。陸殿、小卿とそなたは、その…、恋仲なのか?」
「……………は、はぁぁぁ~あ?」
一瞬の間を置いて、素っ頓狂な声を出した私の口を、王録事の手が塞いた。
「しっ!声が大きいっ!殿中だからっ」
「ンンンー」
「落ち着いて。ほら、息を吸って、全部吐いて」
は―――っと肺の空気を出しきった私は、ガバっと顔を上げて、そのままの勢いで彼に詰め寄る。
「んなわけ無いじゃないですかっ!誰があんな、エラソーな人と!」
「…そう、か?」
「そうですよ。それでなくとも、こっちは逆ギレみたいな説教されてんですからっ。不本意にもほどがありますよっ!」
冗談じゃない。
なんで私が。
そんな意味不明な誤解、絶対に解かなくっちゃ。
息巻いた私に、ちょっと気圧された様子の王録事は、眉をひそめつつも私を見返した。
「…でもな、董司郞中が言うには、小卿は尋常じゃないほど、お怒りだったそうだぞ?」
「何をです?」
「君にちょっかいを出した男だよ、門下の。宴で絡まれたんだろ?」
「…あぁ。あのスケベ男」
「それは事実、なんだな」
「えぇ。思い出すだけ、忌々しいですが」
「…やはり、そうだったのか」
「ほんと最悪でしたよ。もう頼まれても絶対に、あんなとこ行きませんから。で、それが何で、そんな突飛な話に?」
「…いや、陸殿の危機に、小卿が激怒したんだろう?あのノーテンキな袁司郞中が、あまりの怒気に、命の危険を感じたと仰るくらいに」
「一応、私の上司なんですから、それくらいは」
自称・『下等じゃない上司』なんだから、部下に対する無礼を相手方に抗議しても、バチは当たらないよね。
袁さまも怒られたって、普段の行いが悪いせいも多々あると思うけどね。
「…陸殿、本当に君は、なんとも思ってないのか…?」
「なんともって、何をです?」
「『あの小卿が女子ひとりに、あそこまでするとは』って、董司郞中が目の色を変えて、やって来てだな。君の事をアレコレ聞きまわって、『もうこれは確定だ』と」
「何がです?」
「ふたりの関係だよ」
「一体、何を根拠に…。ほんと袁さまもテキトーなんだから」
「そうは言ってもだな。大理寺の人間も、色々思い当たる節があると言う者もいて、みな、そういう雰囲気になって」
「いやいや、なにが雰囲気ですか。袁さまもみんなも、勝手に決めつけて…」
何が確定よ。
いつどこで何をどうしたら、そういう発想になるのかね?
ほんとみんな、ノーテンキなんだから。
「…違う、のか?」
「間違いです。私は全くもって、関係ありませんから」
「ん…」
断言した私に、王録事はあごに手を添えて、考え込んでしまった。
「王録事。だから、勘違いですって」
「…じゃあ、陸殿。君は今、好きな男はいるのか?」
「…いませんよ、そんなの」
思わず口をついて出た、不貞腐れた言いっぷりに、自分で気まずくなっちゃった。
悲しいかな、昨日の今日で、まだ、立ち直れてないのよ。
でも、王録事は気がつかなかったみたい。我が意を得たりとばかりに一人でうなずいて、満面の笑みをみせた。
「よかった。なら、まだ可能性はあるな」
「何がです?」
「いや、いいんだ。陸殿に下手なしがらみがなければ」
「はい?」
首を傾げて聞き返しても、王録事は独り合点して、勝手にスッキリした顔してる。
ちょっと待て。
何も解決してないよ。
「あの、王録事―」
「陸殿。君は、そのままでいいんだ」
「は」
「何も気にせず、これまで通り出仕して、いつも通りの明るさをみせておくれ」
「は、はぁ…」
「君がいるだけで、我らの安寧は保たれるんだから」
「安寧って、なんの…」
「陸殿。ありがとう。では、これで私は失礼するよ」
「え、ちょっと、王録事…」
にこっと笑うと、彼はサッと袖を払って、行ってしまった。
「もう…」
みんなみんな、揃いもそろって勝手なんだから…。
ひとり置き去りにされた私は、大きなため息とともに肩を落とした。
なんか、朝からドッと疲れちゃった。
まぁ、人の噂も七十五日っていうし。
視線の原因はわかったし、私は関係ないんだし。
今は放っておこう。
気を取り直して、またひとり、広い廊下を歩きはじめる。
正殿を通り抜け、小卿の部屋がある奥殿に上がる。
部屋の前で立ち止まり、一度服を整えて、咳払いをひとつ。
戸を開けようと伸ばした指が、取手の前でピタッと止まった。
「…」
不意に心臓がドキドキと音を立てはじめて、指先が小さくふるえる。
ふっと脳裏にわきあがる、王録事が発したあの言葉。
―潁くんと、私が?
まさか、そんなこと、あるわけないじゃない…。
一昨日の夜。
足をくじいた私を、彼は白奎さまの屋敷に連れ帰った。
見晴らしのよい庭先で、夜空を眺めながら、ふたりで夕餉を食べて、少しお酒を飲んで、他愛もない話で笑って。
眠くなって、寝台まで抱えて運んでもらって、気づいたら寝落ちして―。
それだけよ。それだけのこと。
潁くんと私の間に、特別な感情なんか、あるわけが無い。
気にしない。気にしない。
頭に浮かんだ妙なものを振り払って、戸を開ける。
「おはようございます」
声をはって部屋に入ったけど、いつもの無愛想な声はない。
中には誰も、いなかった。
「…なぁんだ」
ひとりで意識しちゃって、恥ずかしいわ。
熱くなった頬を両手で冷やして、浮き足立った心を落ち着かせる。
「さてと」
気を取り直して、仕事しよ。
山のような書簡を整理して、窓を開けて。
片づけを済ませたら、お茶を淹れて。
今日は、熱めのお湯。
白い湯けむりを上げる湯呑を片手に、机に向かい、巻物を広げる。
前々から、翠英さまの資料をイチから読み直さなきゃって、思ってたの。
早速、文字の波に視線を泳がせる。
黙々と読み進めていると、しばらくして、カタンと戸が開く音がした。
「あ、お帰りなさい」
「ん」
現れた潁くんはいつもどおりの仏頂面で、部屋に入って来た。
声を掛けた私をちらっと目の端に映しただけで、眉ひとつ動かさずに、また視線を戻した。
いつものこと、だけどね。
ウワサ好きな大理寺の人たちだから、彼もきっと色んな人に騒がれたはずなのに、気に留める様子もない。
今日も変わらず、無愛想な穎くん。
彼はいつでも、彼のまま。
そうよね。そうだわ。
やっぱり、この人と恋仲なんて、天と地がひっくり返ってもないわ。
ちょっとでも動揺して、損したわ。
ここはいつもどおりの通常運転。
私も切り替えて、やることやらなくちゃ。
「あ。穎くん。一昨日と、昨日は、ありがとうございました」
「足はもういいのか」
深々と頭を下げた私に、潁くんはこちらを見ることもなく、脇に抱えていた書簡を書架に戻しながら聞いてきた。
「うん。お蔭様で」
「白爺から報告書が届いた。これを」
潁くんは書架の一番上の棚に置かれた折本を取ると、私に差し出した。
「読むね」
受け取って近くの長椅子に腰掛け、表紙を開くと、ほわんと青々とした茶葉の香りが立ち上がった。
そのまま一頁目から読み進め、全てに目を通したところで、顔を上げて潁くんを見た。
「どうだ?」
「…うん。ちょっと気が重くなった。潁くんはこれ、もう読んだの?」
「昨夜届いて、その場で」
「そう。薄々感じてたけど、結構、複雑な経緯のお育ちなのね。お二人とも…」
報告書には、知りたい事が全て記されていた。
翠英さまと瑶玉は
幼い頃は見間違えるくらい瓜二つで、着ている服でどちらかを判別したという。
そんな小さな頃からの付き合いのふたりだが、立場はずいぶん違うものだった。
瑶玉は翠英さまの叔父がよそで産ませた娘で、母親は不明。母の死後、一度は父親に引き取られたが、十を過ぎた頃、道教の寺に養子に出された。
片や翠英さま自身も妾腹の子で、実母亡き後は正妻から不憫な扱いを受けていた。
居場所が無かった翠英さまと瑶玉は、見かねた家人に連れられ、時折、馴染みの茶問屋に出かけては、そこで歳の近い子供たちと、一緒に遊んで過ごしていたらしい。
地方豪族とはいえ、官僚と商人では同じ世界に住むことは出来ない。
子供同士でも、一緒に遊ぶなんて、もってのほか。
それを誰も咎めないなんて、それだけ孤立していたという事で…。
考えただけで、胸が痛む。
しかも、長じて見目麗しく育った翠英さまを、野心深い継母が主人をそそのかし、後宮に送り込んだなんて―。
「帰る家もないって白奎さまがおっしゃってたの、こういう事だったのね…」
瑶玉は翠英さまが入内するのをきっかけに、引き取られて侍女として一緒に上京した。
味方のいない後宮で、ひっそりと暮らすふたり。
どんなに心細かったことだろう。
「官僚の家系は、どこもそんなもんだ。子供でさえ、権力の道具。珍しいことじゃない」
「それにしてもひどいよ…。実家から支援もなくて、可哀想じゃない」
「同情なら好きにすればいい。だがな、今は感傷に浸ってる場合じゃない。ほら、出かけるぞ」
「え?」
「そこに書いてある茶問屋の子供、侍女の相手かも知れんだろ」
「あっ…」
言われてみれば、確かにそう。
大人になってから、とあるきっかけで幼馴染に再会したとしたら。
きっと、昔話に花を咲かせるわ。
楽しかったことだけが、記憶になるっていうし。
子供の頃の記憶って、何故かとてもキラキラしてるもの。
だから、再会した男女が、そこから絆を深めたとしても、なんの不思議もない。
それこそ、よくある話だもん。
「可能性があるものは、全て確かめる。調査の基本だ」
「そうね」
もし、二人が一緒に遊んだ子供が、この珀都にいて。
それが男の子で、たまたまお忍びの時に見かけて、声をかけて。
綺麗になった彼女に、大人になった男の子はいつしか恋心を抱いて―。
「行こう、潁くん」
私は折本を胸元にしまい、すっくと立ち上がった。
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