18.夜空
「ちょっっ!」
「お掛けください。地上の美酒も捨てたものではありませんよ、ほら」
「あっ、えっ…」
彼は私を長椅子に座らせると、机に用意されていた葡萄酒を慣れた手つきで
あまりに自然な流れで、つい、受け取っちゃった。
「市中では出回らない品です。美味ですよ」
そう言って男は自分でも杯を傾けると、私の向かいの窓に面した椅子に腰を下ろした。
「…あちらを見て下さい。燭光に色づく白い花と、紺瑠璃の夜空を」
詠うように
その先に広がるのは、絵画のような幻想的な光景。
ほの暗い部屋から望む宵の庭は、優しく静かな色で満ちている。
宴席とは打って変わって、穏やかな時間が流れる空間。
ただれた心を鎮めるように水面を走る夜風が、開け放たれた窓から吹き込んで、頬に心地よい。
「本当…、きれい…」
「でしょう。しかし―」
いつの間にか隣に座った男が私の顔を覗き込んできて、茶色い瞳と目が合った。
「貴女の美しさには、到底かないません」
歯の浮くようなセリフに呆れつつも、妙に納得しちゃった。
その目の奥にただようねっとりした気配に、私は今になって穎くんが言ってたことを理解した。
『男女の出会いの場』って、こういう事だったのね。
あーあ。やんなっちゃう。
なんでこうも、災難ばっかり続くのかな。
それもこれも、場違いなところに来ちゃったせいよ。
自業自得か。
「そうやって人を、からかうのですね。たちが悪うございます…」
言葉は選んだつもり。
すると男は、いかにも芝居がかった仕草で、眉をひそめてみせた。
「心外です…。この唇は嘘など吐きません。この葡萄酒に誓って」
そう言って、手にした杯をクッと飲み干すと、またとびっきりの営業スマイルをしてみせた。
もぅ…。
ため息が出そうになるのを、グッと飲み込む。
あのさ。
需要と供給って言うじゃない?
生憎ですが、求めて無いのよ。そっちは。
狙う相手を間違えたことに、どうしたらこの人は気づくんだろう?
怪訝な顔で彼を見返しても、いっこうに気づく気配はない。
たぶん今、私、かなりブサイクな顔してるのに。
「そんな怖い顔をなさらないで。…初めて貴女をお見かけして、どうしても声を掛けずにはいられなかったんです。私は門下の録事で宋と申します。どうぞ、貴女のお名前をお聞かせ下さい」
「…」
こういうお遊びを、大人の
ついていけないわ。
私を見る彼の、これっぽちも悪気のない笑顔に、返す言葉も出てこない。
かといって、何も答えないのも居心地悪い。
しぶしぶと、手の中の杯を口元に寄せた。
「―」
濃厚な葡萄の香りの裏にひそむ甘ったるい香りに、鼻先がぴんと反応した。
この香り、知ってる―。
笑顔に隠された下心に、一気に背中が寒くなる。
私のカンが、知識が、正しいなら。
人目につかないこんな場所で、こんな人間と二人きりはマズい。
そう。この香りが、あの紫の小さな野草なら―。
「私、戻らなきゃ―」
言い訳と同時に席を立つと、彼が両手を広げて立ちはだかった。
「どちらへ?」
「人を、待たせてます。もう行かなくては」
「なぜそんな嘘を。おひとりでしたよ?」
「…失礼っ」
こんなところにいちゃダメ。今すぐにでも、穎くんのとこに戻らなきゃ。
サッと彼の横をすり抜け、戸に手を伸ばす。
「待って!」
「痛っ…!」
後ろから強い力で腕を掴まれ、思わず声が出た。
そのまま腕ごと引き戻され、バランスを崩した私は床に倒れ込んだ。
「!」
左足に走った、ズキンとした鈍い痛み。
しまった―。
かかとを床に立てると、また響くような痛みが足首に広がった。
ひねった足首は、動かすだけでジンと痛む。
走るどころか、歩くのも厳しい。
ウソでしょ。なんでこんな時に…。
「ほら、こちらで休みましょう」
「やだっ!」
座り込んだままの私に、男が気持ちの悪い笑顔で迫ってくる。
今まさに、乙女の純情、絶体絶命のピンチ。
ムダな抵抗でも、思いっきり顔を背けて両手で拒絶してやる。
部屋の外、遠くに聞こえる、賑やかなざわめき。
こんな誰も通らない、片隅の部屋に人なんか来ない。
頼みの綱は、どこかにいるはずの、彼ひとりだけ。
「さぁ、こちらへ…」
彼の左手が、背中から腰にまわる。
このまま奥に連れ込まれたりしたら、もう逃げられない。
「無理っ」
相手の肩に手を伸ばして、精一杯の抵抗。
お願い、気づいて。
穎くん―っ!!
「清花―っ!」
まるで声に答えるかのように、バタンと蹴破られる勢いで戸が開いて、飛び込んできた紅い影が私をすくい上げた。
「馬鹿者…っ」
頭上でちいさく響いた声に顔を上げたら、私を抱える腕にぐいっと力がこめられて、紅い絹に顔面を押しつけれた。
「―これは我が貰い受ける。異存ないな」
「は、は…い…」
動揺のあまり声が裏返る男に刺すように言うと、潁くんはくるっと踵を返し、傾いた戸を足で蹴り上げて、部屋を出た。
「しょ、小卿…」
「小卿じゃないぞ。こんなところで油なんぞ売って」
「ご、ごめんなさい…」
潁くんは鼻を鳴らすと、それ以上は何も言われなかった。
彼は私を抱えたままズンズン庭を奥に進み、
青々と繁る大きな
「大丈夫か」
「大丈夫なんかじゃないですよ…」
あんな目に遭うなんて、誰が予想したよ。
いまだ放心状態の私に、潁くんは困った顔して首の後ろに手をあてると、ふうっと息を吐いた。
「…アイツは門下で顔を見た事がある。袁公に言って灸をすえとくから」
「…ん」
「足、くじいたのか」
「うん…」
「見せてみろ」
彼はしゃがむと私の足首に手を添えて、骨ばった部分に親指を滑らせた。
熱を持った足首は、少し腫れていた。
「今日は無理しないほうがいいな。で、他には何もされてないよな?」
掴まれた腕が、まだ痛むけど。
もっと痛いのは、見えないところ。
そんなこと言いたくないから、コクンとうなづくと、潁くんはワザとらしく「はぁぁーっ」と大きなため息をついた。
「お前も年頃なんだから、自重しないと」
「…面目、ございません…」
「下心見え透いた男に、易々と引っかかるとは情けない―。前々から言ってるだろう。軽々しく近づいて来る人間なんて、ロクなもんじゃない。警戒心が足りないにもほどがあるぞ」
「…」
気遣ってくれたと思ったら、一転、お説教モードに突入したらしい。
しょげる私に、仁王立ちした穎くんの教育的指導が始まった。
「だいだい、お前は普段から隙が多すぎるんだ。甘い言葉にのせられて、簡単に気を許すな。遊び好きな宮中の男の恰好の餌食だぞ」
「そういう、つもりじゃ…」
「じゃあなんで、男と二人きりだったんだ。今回は間に合ったからいいが、オレがいなかったらどうするつもりだ。まったく、世話が焼ける」
「…」
たしかに、私が軽率だったよ。
注意してたら、避けられたかもしれないよ。
でも、何をしたわけじゃないのに、どうしてこんなに、責められなきゃいけないの。
それでなくても、心が割れそうなのに。
本当に、今日は厄日だよ。
それもこれも全部―。
「もう、こんな
最初から、私には分不相応な場所なんだ。
だから、それを思い知らせるために、こんな目に遭って―。
目元が熱くなって、また、視界がぼやけてきた。
来なければ、よかったの。
そしたら、あんな諧さまを見なくて済んだのに。
思い出しただけで、胸がひどく痛くて、ひざの上の手をぎゅっと握りしめた。
「…そこまで落ち込む事でもないだろう」
うつむいたまま黙り込んでたら、上からすこし呆れた声が落ちてきた。
「まぁ、今日は無事だったんだから、あの男の事はもう忘れろ。次から気を付ければいい」
「ちがう、よ…。そんなことで落ち込んでるんじゃ、ないもん…」
「じゃあ、なにか?恋人の浮気現場でも見たのか?」
「…恋人なんか、いないし」
「ふうん」
興味なさそうな声で言うと、彼は私と背中あわせの位置にトスンと腰を下ろした。
「なら、助けなければよかったな」
「…なんでよ」
「いないんだろ、好きな男。あれでも、いい出会いになったかもしれないだろう?」
「…信じらんない、サイテ―。あなたもあのスケベ男と変わんないわ」
ささくれた気持ちが、言葉にトゲをつける。
こんな自分、ほんと可愛くない。
「最低だろうが、上司だからな」
「…上司を選べない、部下の悲劇よ」
「残念だったな」
「もう、馬鹿な部下なんて放っておいて、あっちでお酒でも飲んでくればいいじゃない」
「
「余計なお世話よ…」
「まったく、憎まれ口叩くクセに、色恋には妙に初心なヤツを部下に持つと、苦労が絶えんわ」
穎くんはそう言うと、フフンッと鼻で笑った。
事あるごとに、人を小馬鹿にするんだから。
ほんと腹立たしい。
そこまで言われちゃ、私だって、言い返さずにはいられないわよ。
「ウブなんかじゃないです。年相応ですから」
「恋人のひとりもいないくせに、見栄を張るな」
「別にいなくていいもん」
「強がるな。まぁ、まだ若いんだし、そのうち好きな男くらい出来るだろ。着飾るくらいしてれば、な」
偉そうな彼の言葉は、よどんでいた私の心を思いっきり逆撫でる。
こんな人の気持ちが分からないヤツに、気軽に言われたくない。
「…好きなんて、絶対、言わない」
「は?」
「好き、なんて、どうしてそんな」
「だから、初心だって言って―」
「言えないもん」
「ん?なにが、だ?」
「だから、そんな、好きだなんて、言えるわけないでしょ!」
だって。
身分も、立場も、外見も、何ひとつ、見合わないから。
私には、何もないから。
「私に、そんな権利なんて、無いんだから…っ」
言いながら、涙があふれてきた。
そうだよ。
はじめから、私には、不相応な思いなんだから。
喉からあふれる声を押し殺そうとすると、身体が震える。
どうしようもない感情があとから溢れてきて、涙が止まらない。
「…好きになるのは、自由だろうに」
「…潁くんには、わかんないよ。何でも持ってる人にはっ」
潁くんに八つ当たりしても、しょうがないのに。
大人げなさすぎて、情けなくて、吐きそうになる。
「…オレが持ってなくて、清花が持ってるものだってある。無い物をうらやんでも、仕方ないだろうに」
だからって、正論なんて、聞きたくないの。
どんなにあがいても、住む世界は越えられないんだから。
この想いに、先はないから。
「…なんで、そういう偉そうな事ばっか言うのよ」
「言い訳に聞こえるから。本当は、逃げてるだけじゃないのか」
「逃げてなんて、ないもん…」
鼻の奥がジンとして、また目頭が熱くなる。
わかってるけど、どうしようもない、この気持ち。
気づかれたくないの。
知られたくないの。
だから奥にしまいこんで、心にフタをして、無かったフリをして…。
「自分に嘘をつくと、自分が一番辛い思いをする。どうしてそう、自分で自分を傷つけるんだ」
何でも持っている人には、絶対に、わからない。
想いを隠してるのは、誰だってツライんだよ。
「私だって、堂々とあの人が好きって、言える人になりた…っ」
最後の言葉は、喉から出てこなかった。
胸の奥から、感情が一気にあふれ出す。
声が出そうになるのを、歯を食いしばって必死に耐える。
そうやって、大きなうねりが通り過ぎるのを、ただただ待った。
「清花」
どれくらいの間か、もう分からない。
槐の葉が風に大きく揺れて、穎くんが口を開いた。
「…なに」
「いいんだ」
「は…」
「今のままでいい。だから、そんな顔して泣くな」
「泣いてなんかない」
「認めたくないならいい」
静かに言うと、穎くんはおもむろに空を見上げた。
「月が、綺麗だな」
「なによ、突然…」
「綺麗だから、見ていたくなる」
「そう」
「だから、もう泣くな」
「…」
「そなたには笑顔が一番似合うから」
「―」
月を見上げたまま、穎くんは動かない。
背を向けて座る彼の、表情は見えない。
ほんの少しだけ、触れてる背中。
伝わる気配は、かすかに温かい。
「上司の言葉は、絶対だから」
「そ…」
「一字一句、聞き漏らすべからず、だ」
どうしてこう、この人はいつも偉そうなんだろ。
でもそれが、今は、不思議と嫌じゃない。
見上げれば、濃紺の空に、静かに微笑む月。
遠くの管弦の音が湖面を優しく揺らし、花たちは息をひそめ、星の瞬きに心を傾けている。
「…ありがと」
誰にも聞こえないような小声でポツリ言うと、夜風がおくれ毛をゆらして、通り過ぎた。
「さあ、帰るぞ。腹減っただろう」
「うん」
潁くんが立ち上がると、ふたたび紅い絹が私を包んだ。
「白爺の邸で、いい酒でも飲むか―」
独り言のようにつぶやいて、穎くんは歩きだした。
恋なんて、まだ美味しくないから。
今は、気負いなく話せる誰か、が側にいてくれるだけで、充分。
肩越しに夜空の星を見ながら、そう思った。
*************************
こんにちは。こんばんは。作者です。
『天使の休息』という歌を、みなさまはご存知でしょうか。
元は90年代の歌ですが、数年前にご本人のセルフカバーがYouTubeに上がってるのを見つけ、久しぶりに聴いて、すっかりはまってしまいました。
ちょっと社会に疲れた大人になって聴くと、歌詞がグッと刺さるんです。
「いいよね、今夜は」
そんな気分の日が、大人にはある。
社会人になって、たくさん失敗もして、だからこそ、心から笑える友達との時間がほんとに貴重なんだと、ようやく実感出来るようになりました。
「誰にも言えない恥ずかしい話も
ひとつ残らず 笑って言えそうよ」
「とりあえず飲んで」
そう言える相手がいること。
それだけで、もう十分なんです。
そんな雰囲気が、今回の話で出せたらいいなと思って書いていました。
どこかの誰かに共感してもらえたら、とても嬉しいです。
また、次回、近いうちにお会いしましょう☆
作者でした♪
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます