10.仕事
見上げた天井に、反射した庭の水路の影がゆらゆらと白く波打っている。
姿をとどめることのない三日月形の光が「ご愁傷様」と笑っているようで、打ちのめされた気がした。
―そうよ。えぇ、そういうこと。
胸に溜まった重い澱みを、鼻から大きく吐きだして、気持ちを落ち着かせる。
何を言ったところで、なにも変わりはしない。
だって、これだけ仕事が出来る人だもん。私ごときが抗議しても、はぐらかされるに決まってる。
だから今、私に出来る事は、ただひとつ。
退散、よ。
「―失礼しましたっ」
クルッと踵を返して、一直線に戸に向かう。
「おいっ、何処へ行くっ!」
声を荒げた穎くんが慌てた様子で走り寄ってきて、私の腕をガシッと掴んだ。
「ちょっと離して。私、帰るの」
「馬鹿言うな」
「バカですみませんねっ。御免あそばせっ」
手を払おうとブンブン腕を振り回したけど、彼の指はびくともしない。
「ねぇ、ちょっと離してくれません?荒くれ者と一緒に仕事とかムリなんで」
ねじってみたり、ひっぱってみたけど、全然ダメ。
まったく、どんだけ握力強いの?すぐ剣を抜くし、この人、ホントに文官なのかな。
「あのな、逃亡しようと奴をみすみす見逃すか?」
「逃亡じゃございません。辞退です」
「なにが辞退だ!好き嫌いで仕事を選ぶのか!」
「分別のない
「お前は知らないだろうが、オレは
「あのね、人は中身が大事なんです。立派な衣を着てても、素行の悪い人はお断りです」
「この前は状況が悪かったんだ。仕方ないだろう」
「だからって、か弱い女子に剣を向けるなんて、どうかしてるわ」
勘違いで命の危機にさらされた、こっちの気持ちになって欲しいわ。
今どき
「悪かったって言ってるだろう。根に持つとは、狭量な奴だな」
「き、狭量って、自分の事は棚に上げてなんてことっ」
「そもそもお前、自分から白爺に啖呵きったんだろ?帰るならその前に、ちゃんと結果出して見せろよ」
「う」
「一度受けた仕事を、そんな簡単に投げ出すのか?」
「む…」
痛い所をつかれて、思わず口をつぐむ。
確かに私、「やってみせます」って、言いました。
だって、病の床にある人を目の前にして、何もしないなんてあり得ないもの。
言葉に詰まった私に、彼はここぞとばかりにイヤミたらしく追い打ちをかけてくる。
「それとも、ただ自信がないのか?」
煽る台詞は、なかなかに私の
この人に言われると、いつも以上にイラッとするから不思議よね。
「…誰、が?」
言われっぱなしで黙っている私じゃないの。
腕の力を抜いて振り返ると、私を見下ろす顔がニヤッと笑った。
「なんだ。てっきり逃げ出すのかと」
「侮らないでくださいます?」
生意気なクソガキそのまんまの表情に、さっきとは違う炎がお腹の奥に灯る。
「オレの勘違いでよかったわ」
そう言って、彼はフフンと鼻で笑って見せた。
あー、可愛くない。
ほんとこの人、性格悪いわ。
いいわ。そのうちに、きっちり見返してやりますよ。
何事も臥薪嘗胆。
気を取り直し、衣の裾を払って彼に向き直る。
「…で、白奎さまからの指示は?」
「あぁ。準備は整ってる」
クッと口角を上げた頴くんは、積み上げられた書簡の山に手を伸ばすと、そこから一本の巻物を取り出し、バサッと勢いよく広げた。
「さぁ、仕事をはじめよう―」
自信に満ちた表情の彼に、私も丹田に力を込めて、ゆっくりと頷いた。
◇
「熱はなし、脈は微弱―。先日よりも血色は良いですね」
相変わらず昏々と眠る翠英さまに布団をかけ直して、後ろに立つ人に声をかける。
「よろしゅうございました…」
胸の前で両手を握りしめながら様子を伺っていた瑶玉が、ため息と共に心の底から安心した、という風情で呟いた。
「とはいえ、油断は禁物です。このままだと衰弱は止まりません」
「…」
「毎日薄粥を飲ませて、体温を上げましょう。出来る事からやってみましょうね」
涙をうっすら目にためて、瑶玉がコクッと小さく頷いた。
彼女の少しこけた頬は上気して、紅を差した唇が小さく震えている。
―こういう儚げな感じ、「男心をくすぐる」ってやつだろうけど。
こちらに来る前、あちこちで宮女に聞き込みをして回った。
白奎さまからの情報どおり、翠英さまは宮廷内では影の薄い存在らしい。
これにはちゃんとした理由があった。
宮中では、全てにおいて序列が決められていて、『官位』がそれに先立つ。
それは官吏に限った事ではなく、後宮も同じ。
親が宰相であれば、その娘の後宮での影響力も大きくなる。
実家が地方長官の家柄という、後ろ盾の弱い翠英さまは肩身の狭い思いをしたのだろう。
それもあってか、彼女は他の妃と交流することなく、行事にもあまり参加せず、宮殿の隅でひっそりと暮らしていたらしい。
生まれ持った性格で、華やかな世界に馴染めない人もいる。
彼女もそうだったんだろう。
まだ確証は無いけれど、後宮の生活が徐々に彼女の精神を追い詰めていったという推測に違和感はない。
だから、瑶玉からも話を聞きたくて、どうにかそのきっかけを探してたところ、ひとつの案が思い浮かんだ。
「今日は天気がいいですね―。風が通るように、ここの幕を上げませんか?」
天蓋から下りた幕に囲われた翠英さまの寝室は、日中でもかなり薄暗い。
こんなところでずっと寝ていたら、誰だって気落ちしちゃう。
瑶玉は小さく頷くと、さらさらと幕を寄せ始めた。
私も立ち上がって部屋の奥に進み、庭に面する大きな窓を押し開けた。
「―ほら、気持ちいいでしょう?」
「えぇ…」
部屋の中にぶわっと風が吹きこみ、寝台の支柱に寄せた幕がふわりと膨らんだ。
広がる華やかな花の香りと共に、眠る翠英さまの前髪が風になびいた。
「咲き乱れる花の英気が、翠英さまに届くといいのですが」
この庭の濃い香りには、人の心を酔わせる力がある。
沢山の花がひとつに溶け合った、例えようのない不思議な香り。
もともと私、こういう甘くて強い香りは好きじゃないんだけど、独特な芳香に、つい鼻が動いちゃう。
それは瑶玉も同じみたいで、ふたりとも立ち止まリ、流れる風を全身に浴びた。
「…清花さま。ごめんなさい。私、ぼっとしてしまって。今、お茶を淹れますね」
しばらくすると、瑶玉がはっとした顔をして、私に頭を下げた。
「あぁ、ありがとうございます」
私も、くらりとする香りに、つい気持ちが遠くに行ってしまった。
あぶない。こんな所でボケてる暇は無いんだった。
「どうぞ、こちらで」
「瑶玉さまも、よろしければご一緒に」
「…は、はい…」
私の誘いに、少しの戸惑いを見せたけど、彼女はうなづいた。
庭に面した窓の前の机を挟んで、向かい合う。
出されたお茶を手に取ると、ぼんやりと白い玻璃の器に注がれた新緑の色をした水面が、目に鮮やかだ。
ひとくち頂いた私は、喉に広がる甘い旨みに衝撃を受けた。
「―とっても美味しいお茶ですね」
「私どもの故郷は茶の名産地ですの。お口に合えば嬉しいですわ」
両手で茶器を支え、ゆっくりと茶を注ぐ揺玉が珍しくしっかりとした声で答えた。
「こんなに香りの良いお茶は久しぶりです。買って帰りたいくらいです」
「我らの自慢の品でございます。お褒め頂いて、自分の事のように嬉しいです」
「本当に、驚くほどの美味しさで。市でも手に入りますか?」
「はい。故郷の商家が東市に店を出しております」
「取り寄せてみます。ほんと感動的です」
お世辞抜きで、美味しい。
私が鼻を大きくして湯気を味わっていると、瑶玉がゆるやかに目を細めた。
「まだまだこざいます。どうぞ、お楽しみくださいませ」
彼女はニコッと笑うと、私の器をまた新緑に染めた。
「では、お言葉に甘えて」
また器を口元にはこび、ゆっくりと喉に流しながら、様子をうかがう。
彼女はお茶を口にすると、ほうっと柔らかな息を漏らした。
お茶の効果か、固く閉じていた警戒感みたいなものが、薄れてるのがわかる。
同じコトを共有するって大事ね。
心理的距離を縮めるには、相手をリラックスさせるのが一番の近道。目論み通りの反応に、すこし安心した。
この前は茶を淹れるのも、こぼすんじゃないかってくらいに手が震えていたから。
まぁ、今日も相変わらず、お茶を呈する手元はどこか
それはさておき。
さて、ここからが本番よ―。
私は悟られないように細心の注意を払いながら、言葉を並べていった。
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