4.桃源郷
都の北東。
ここは名立たる官僚の邸宅が並ぶ、都城随一の高級住宅街。
門をふたつくぐった先に現れたのは、花咲き乱れる庭を通る、長い渡り廊下だった。
「…すごい…」
張り巡らされた水路が何重にも渡る、満開の花で彩られた庭は、この世のものとは思えない美しさ。
口から落ちた語彙力の欠片もない感想に、前を歩く彼が銀色の髪を波打たせて振り返った。
「一人で住むには広すぎる―。そう思うでしょう?」
「そ、そうですね…」
ひきつった笑顔で相槌を打ってみたけど、なんともよ。
確かに、通り抜ける風に水面が輝く池は、
その周りを巡る渡り廊下に沿って植えられた、満開の花たちの清楚な香りが廊下にあふれ、庭先に敷き詰められた白い石は、陽の光を浴びてキラキラとひかり、ため息が出るほど美しい。
こんな、極楽みたいな場所なのに、この人は、たった一人でここに住んでると…?
気になるけど、深掘りするほどの勇気を、今の私は持ち合わせてない。
そりゃあ、そうよ。
桃源郷と見紛う光景と、前を歩くどこか浮世離れした天女のような美貌の彼。そんなあり得ない状況に、さっきから生きた心地がしないもん。
…実はここ、この世の彼岸、だったりして―。
なんて、恐ろしいこと、考えたら負けよ。
頭をブンブンと振って、不吉な予感を頭から追い出す。
ほら、考えた事が現実になるっていうじゃない?
気をしっかり持って、現実を踏みしめて生きていくのよ。
なんて、ひとり内心で小芝居してるうちに、迷路みたいに長い廊下を抜け、主室から一番遠い離れの部屋までやって来た。
「どうぞ、こちらへ」
「は、はい…」
促されるまま部屋に入ると、私の乙女心は一瞬にして目の前の光景に奪われた。
「すてき…」
部屋中に満ちる、清々しい香り。
螺鈿がひかる家具が整然と並び、柔らかな色の綾が揺れる窓辺。
三方に開かれた窓の外には、色とりどりに咲くの花が紅から白へと淡いグラデーションを織りなし、遠く先まで庭を埋め尽くしている。
部屋にいながら、まるで花畑の中にいるみたいな景色に取り囲まれて、言葉も出ない。
「この屋敷で一番、眺めの良い部屋なんです。清花のお気に召せばよいのですが」
「いや、もう…、素敵すぎて、なんと申したら良いのか…」
ありふれた褒め言葉が、安っぽく思えるほどの絶景。
感動のあまり、言葉も出ないことって本当にあるんだね。
まさに、極楽の花畑、そのもの。
こんな素敵な場所、女子なら誰だってひと目で虜になっちゃうよ。
「よかった。さぁ、どうぞ、おかけになって」
「あっ、し、失礼致します」
椅子をすすめられ、私は豪華な長椅子の真ん中にちょこんと腰を下ろした。
「そう、自己紹介が遅くなりました―。私はこの屋敷の主で、宮廷では
「ふぇっ!?」
思わず変な声が、喉から飛び出しちゃった。
だって、寺卿といえば、省庁の長官。つまり、役人の中でもダントツのお偉いさんじゃない。
「この度は、うちの子が世話になりました。心より御礼申し上げます」
口をパクパクさせる私に、腰まで届く銀色の髪をゆるく纏め、浅葱色の衣をまとった人はそう言うと、天女のような仕草で優雅に頭を下げた。
「い、いえ…、そ、そんなっ。お、畏れ多いっ…!どうか、頭をお上げ下さいませっ!」
中央集権国家のこの国では、官僚はまさに雲の上の存在。
身分絶対主義のこの世の中、当然ながら私なんか庶民が言葉を交わすことのできる相手じゃない。
小さい頃から朱家に出入りして、そういった話を沢山見聞きして、上下関係が骨身に沁みこんだ人間からすれば、心臓が飛び出るほどの一大事。
思わず椅子から飛び上がった私に、彼はやんわりと手で座るように示した。
「落ち着いて、清花。この屋敷の客人に、身分は関係ありません」
「で、ですが…」
「いいから座って」
動揺を超えて挙動不審な私に、白奎さまはニコッと微笑むと、それは優雅な仕草でお茶を淹れた。
「―南都の逸品と言われる茶葉です。お口に合うといいのですが」
「い、頂きます…」
「あ、美味しい―」
お茶がこんなに、甘いだなんて。
鼻から抜ける芳香に、思わずため息が漏れる。
こんな上品なお茶、初めて。
あまりにも美味しくて、ため息しか出ない。
人って驚くと、語彙力が吹っ飛ぶのね。
まじまじと水面を見つめる私に、白奎さまはふふっと笑むと、自分も碗を手に取った。
「お口にあって良かった。そう、実は、清花に我が邸までご足労頂いたのは、あなたに会わせたい者がいるからなんです」
「わ、私に?」
どうしてだろう…。
予想もして無かった展開に、冷や汗が背中を伝い落ちる。
「ふふ。心配しないで。―おいで、
彼が柔らかに袖を揺らすと、その後ろからスッと大きな影が現れた。
その虎は白奎さまの前に進み出てると、その場に静かに腰を下ろした。
「まさか…」
音に聞く威厳に満ちたその存在に、私は息を飲んだ。
「白虎…」
神々しい、という表現がぴったりのその姿。
この国で最も高貴な聖獣、四神。
普通ならお目にかかるはずもない、この国の守護神が、何故か今、私の目の前にいる―。
あ然とする私の前で、白奎さまがゆったりと白い毛を撫でて言う。
「ほら
白虎は椅子に座った私の前まで歩を進めるとストンと腰を下ろし、手のひらに頭を潜り込ませて、鼻でクンクンと匂いをかいだ。
「やだ、くすぐったいよ」
手のひらを行き来する毛がこそばゆくて笑ったら、今度はぺろっと手のひらをなめられた。
「だから、くすぐったいってば」
ちょっとドキドキしながら頭をなでると、私の足元に身体を寄せ、猫みたいに頭をすりつけた。
「可愛いなぁ」
どうやら懐いてくれたみたい。
目が合うとジッと見つめかえす白虎に、なんだか嬉しくなって、椅子を降りてその雄々しい首に両手を広げて抱きついた。
「あなたの身体、あったかくて、気持ちいいね…」
流れるような白い毛を撫でながら言うと、宝石をはめ込んだ瞳が細くなって、グルルルルと喉を鳴らした。
「友達になってくれるの?いいの?」
なんだかそう言ってる気がする。
紅晃はうなづくように頭を二回、私のお腹にこすりつけた。
これは「そうだよ」って、言ってるはず。
「嬉しい。私は清花。よろしくね、紅晃」
返事をするように、ぺろんと頬を撫でられた。
「こらこら、お茶が飲めないでしょう。紅晃、そろそろ離れなさい」
聞こえてるはずなのに、紅晃は私の膝に頭をのせたまま動かない。
意外。主人の言葉を知らんぷりするなんて、絶対服従じゃないんだ。
「すみませんね、そんな体勢にさせて」
「いいえ、大丈夫です。びっくりしたけど、とっても可愛いくて、安心しました」
「そう言ってもらえると嬉しいです。―主人に似て、気難しい子なのでね」
白奎さまの言葉に、紅晃がぱちっとウインクした。
全部わかってるのね。
もう、ほんとカワイイ。
「私は紅晃、好きです。仲良くなりたいですもん」
「愛らしい方に好かれて。お前は幸運だね、紅晃」
紅晃は床に座った私を取り囲むような体勢で寝転ぶと、膝の上に頭を乗せた。
頭をなでると、目をつむって気持ちよさそうな顔をして、お腹を膨らませた。
「すっかり懐いて…。清花。よかったら、夕餉をご一緒できませんか。折角なので、ゆっくりと話をしたいのですが」
「いいんですか?」
「もちろん」
「光栄です。ありがとうございます!」
「では、用意させますね。―紅晃、来なさい」
そう言って彼は紅晃を連れて、部屋を出て行った。
「ふぅ…」
あー、びっくりした。
ひとりになった途端、大きなため息が出てきた。
人生、こんな日もあるんだねぇ…。
全てが想定外で、まだ実感もないけど。
まさか夢、じゃないよね?
ほっぺをつねってみると、やっぱり痛いから、間違いなく現実だわ。
それに白奎さまは悪い人ではなさそう。…根拠のないカンだけど。
四神を使役できるのは『四賢臣』と決まってるし、逆らう方が死活問題だし。
これも、何かの縁よね。
大人しく、お誘いを受けましょう。うん。
こうして自問自答を終えた私はひとり、この楽園をしばし眺めることにしたのだった。
◇
窓の外の景色に心溶かされ、すっかり夢見ごこちの気分でいたところ、突然バタンという大きな音と共に、戸が開かれた。
「おい、爺、いるか!」
「!!」
びっくりして振り返ると、髪も結わない、いかにも荒くれ者といった風貌の青年がズカズカと部屋に入ってきた。
「白爺、て…、え?」
突然のことに驚いて言葉を無くした私と目が合うと、彼もまた目を丸くした。
「娘…?」
呆然と立ちすくむ私に、彼も一瞬あっけにとられた顔をしたけど、すぐにその表情が厳しいものに変わった。
「―お前は何者だ。ここで何をしている」
仁王立ちの男は鋭い眼差しで、私を射貫くように見る。
ってこれ、私、明らかに不審者と思われてるよね…。
「えっと、あの…」
話せば長くなる。
傷ついた子猫を拾って看ていたら、市の池の広場で出会った白奎さまに連れてこられた、ただの客人で、何も悪いことはしていないです―。
と言いたかったけど、口から出てきたのは「あ、あの……」という声だけ。
「白状しろ。この邸に何をしに来た」
「何を、と言われましても…」
口ごもる私を見て、彼はますます疑心暗鬼になったらしい。
おもむろに腰に佩いた剣を抜き、一歩一歩、距離を詰めはじめた。
「―間者か。それならタダでは帰せない」
「いや、そ、そんなハズないでしょう。どう見たって、私、普通の女子で…」
「嘘をつくな。普通の人間がこの邸に入れるハズがない」
「だから、本当にちがうって…」
もう、どうしてこうなる?
白刃をちらつかせ迫りくる勘違い男に、まともに話なんか出来るわけないじゃん。
どうしろって言うのよ。
白奎さま、どこに行っちゃったのよぉ。
緊張と混乱で半泣きの私に、彼は容赦なく間をつめてくる。
「はんっ。オレが涙でほだされるとでも?そんな色仕掛けが効くと思うか?」
「い、色仕掛けなんて…」
じりじりと引き下がる私を、彼は鬼神のごとく金色に光る瞳で見下ろす。
白奎さま、お願いはやく、戻って来て―っ‼
「弱々しいフリをして、どうせその衣の下に暗器でも隠しているんだろう」
「そんなぁ…」
この人には、心の声は聞こえないらしい。
一方的に責め立てられて、疑われて。この状況、どうやって打開したらいいのよ。
背中にぶつかった漆塗りの柱の冷たさが、冷えた心に余計に沁みる。
この状況、どうしたらいいのよぉ〜っ。
気が動転して、良い策のひとつも浮かばない。
口をパクパクさせる私を勝ち誇った顔で見下ろした男はフッと暗い顔を見せるたと思ったら、とんでもない事を口にした。
「脱いでもいいんだぞ」
「は…」
「お前の裸を見たところで、たぶらかされるオレではない」
失礼極まりない発言に、緊張のあまりバグってた脳みそが、一瞬で限界突破した。
「じょ、女性に向かって、は、裸とか、信じられないっ!この変態っ!」
「笑止千万。何を純真ぶるか。この家に忍び込むような女の手札は決まり切ってる」
「どこぞのアバズレと一緒にしないでっ!」
「なんだ、コソ泥の類か」
「失礼ね。れっきとした医者よ!」
「ふん。まだ口を割らんか。では、医者がこの邸で何をしている」
「連れてこられたんだから、知ってるハズないでしょ!」
「説明できないなら、斬り捨てるだけさ」
理屈をぶっ飛ばして、結論かいっ!
男はニヤリと嫌味たらしく口角を上げると、一歩、また距離を詰めてきた。
目の前に剣を握りしめる、明らかに殺気立った武闘派の男。
「ちょっと、待っ…」
迫りくる剣先に、口で強がっても声が震える。
その恐怖とやら、当事者にしか分からないでしょうよ。
「さぁ、正体を現せ」
上下する胸元に向かう、銀色の煌めき。
あぁ、絶対絶命―。
追い詰められた私はごくっとつばを飲み込み、覚悟を決した。
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