獣人の女

 馬車に乗り込む時、レギナはアーチーに手紙を手渡した。シャライからだった。


 青年はそれを開き、しばらく眺めてから、自分がまだこの世界の文字を読めないことに気が付いた。


 パラティアがアーチーから手紙をひったくり、読んだ。


 そこには面会に行きたかったがヤドヴィガに止められたこと、宰相がアーチー達が街を離れることを許可したので、友人のレギナに頼んで連れ出して貰うこと、自分と子供達は無事なこと、何も出来ない自分の非力さを許して欲しいと書いてあった。


「どうか君達の旅路に、来訪者の加護がありますように。悪しき者を遠ざけ、善き者に満ち溢れていますように。私は常に神に祈っています。また会う日まで、元気で」


 噛み締めるように、パラティアは最後の文章を読み上げた。


「先生、善き信仰を持った人よ。どうか貴方と子供達も元気で。来訪者の加護がありますように」


 ジュードがそう言って眼を瞑り、祈ると、パラティアとロタハも倣った。


 アーチーは悩んだ挙句、自分の信じる神にお願いすることにした。聞こえているかどうかは分からないが。


「で、私がそのレギナよ」


 アーチー達の祈りが終わった瞬間を見計らい、御者台に座った森人フェルドの女が車内を振り返って言った。


「よろしくね」


 レギナの挨拶にキチンと答えたのはロタハだけだった。


 ジュードとパラティアはまだ森人フェルドの女を警戒し、アーチーは女の顔付きに見惚れていた。レギナは三者三様の若者の反応を見回し、言った。


「ま、楽しい旅にはなるだろうね」


 こちらが良いと言うまで、荷台の幌から顔を出さないで。レギナはその訳を早口に説明した。


 今回の件は宰相と財務長官の間で話し合われた、あくまで非公式のことである。来訪教会は沈黙を保っているが、またいつ襲ってくるか分からない。


「要するに、都からの追放って訳ね」


 荷台の硬い木の上で三角座りをしながら、パラティアが呟いた。


 レギナの馬車には既に中身の分からぬ木箱が4個も積まれており、アーチー達は真ん中に陣取る先客を避けるようにして、端に座った。


 なだらかな丘の形状に沿って作られた道を暫く降った後、馬車はようやく平坦な道に出た。


 幌の隙間から外を覗こうという衝動を、アーチーは必死に抑えていた。


 子供の頃、ハックルベリーという飼い猫の髭をピンセットで全部抜きたいという衝動を抑えるのには失敗した。


 (だけど今度は、絶対に我慢しないと)。


 でなければ、皆を危険に晒してしまう。


 馬車が止まった。外からは人の話し声と馬の足音が聞こえ、そこが何処か人の往来する場所らしかった


「ああ、レギナさん!」恐らく往来を見張る兵士の声だった。


「帝都にいらしてたんですね」

「久しぶりね、ショマ。シャザル・カロイに行く途中で寄ったの」


「ヤドヴィガ隊長に会いに?」

「そう。じゃないとあいつ、寂しすぎて死んじゃうから」


「ハハハ」と数人の笑い声がした。


「では、荷台は魔術院に運ぶものですね?」

「そうよ。中を観る?」


 ジュードとパラティアは身構えた。それを観てアーチーもロタハを抱き寄せる。


「いや、構いません。行き先がシャザル・カロイなら、また訳の分からぬ物体でしょう。この前のように壊してしまって、魔術院の院長に叱られたくはありません」


「全くよね。ご苦労様」


 馬車が再び動き出し。アーチー達は安堵した。


 青年はまた外を覗きたい衝動に駆られた。遠ざかっていく街を観たかったのだ。だがもしものことを考え、必死に堪えた。


 アーチーの頑張りは直ぐに報われることになる。


「まだ顔を出さないで」レギナが言った。


「街の外には、獣人アヴァル達の天幕が沢山あるからね」


(獣人達の天幕!)アーチーは必死に自分を抑えた。


 だが理性と言う名の堤は、溢れ返った好奇心の波をこれ以上抑えきれそうも無かった。


 眼を瞑り、汗を流しながら自分と必死に戦う青年をロタハとジュードは心配そうに、パラティアは呆れたように見遣った。


「大した事は無いの。ただ顔馴染みが少しいるだけ。それ以外は大丈夫。今日に限って、その顔馴染みがいるなんてことは…」


 レギナは独り言のように喋っていた。森人の女が何かを酷く心配していることが、アーチー達にも分かった。


 外の様子は分からなかったが、馬車は順調に進んでいる。


 だがやがて「あっ、ヤバい…」というレギナの声がした時、アーチー達は再び身構えた。


 レギナの視線の先には、こちらに向かって来る6頭の馬がいた。皆、背に人間を乗せており、先頭には毛皮の帽子を被った獣人アヴァルの女が乗っている。


 その女は結んだ髪を後ろに長く2本垂らし、右腕には鷹らしき鳥を留めていた。


(ああ、精霊よ)レギナは心の中で呟いた。(今日に限って…)


 無視してこのまま進むわけにも行かず、レギナは馬車を停めた。何故なら相手は顔馴染みであり、帝国に駐屯する獣人アヴァル軍の総指揮官、マチカその人だったからだ。


「レギナ!」


 マチカは猫のように大きな眼を輝かせながら、レギナの馬車の近くに馬を停めた。


「久しぶりじゃない。聞いたわよ、獣人アヴァルの国に行ってきたんでしょう?」マチカは獣人語でレギナに話しかけた。


「お久しぶりです、マチカ様。ようやく依頼された品を見つけたので、それを届けに行く所なんです」


「寄って行きなさいよ」


「申し訳ありません。そうしたいのですが、早く行かないと。魔術院の院長に殺されます」


「残念ね」マチカはあからさまに落胆したようだった。


「貴方、獣人アヴァル語が上手くなったわね」


「ありがとうございます」


「私も大分帝国語が話せるようになったのよ。観て!」マチカはわざとらしく咳払いをすると、言った。


「それは帝国の法に反していル。帝国の法とは、即ち皇帝であル。何故なら皇帝が定めた法だからであル。法、法、法。法を守れ、豚共。空は青く、大地は緑であル。ル、ル、ル。豚よりも、羊の肉を食うべきであル。人参と、玉ねぎと、米。美味イ。羊の肉を食べる法を作るべきであル。羊!」


「それは、誰の真似です?」


「雑務長官の、フェレンツ!」


 レギナは思わず吹き出し、手綱を話して笑い転げてしまった。


 マチカがそれに満足し、「ふん」と鼻息を漏らすと、それに合わせて頭上に生えている狐のような耳が動いた。


「マチカ様も上達されましたね」

「ジョルトに教えてもらっタ」


「ああ。その旦那様はいらっしゃらないのですか?」

「街。大事な会議らしイ」


「お子さんは?」

「天幕で寝てル。ここ2、3日風邪気味だったけど、よくなったワ」


「それはそれは。傍にいてあげなくても良いのですか?」

「ずっといてあげたワ。でも良くなったから、今度は別の子供の面倒を見ないト」


「他にお子さんがいらしたんですか!」

「そうヨ。この子でしょ、それにこの子…」


 そう言って、マチカは自分の腕に乗せている鷹と、股の下の馬を指差した。マチカの言っていることを直ぐに理解し、レギナは付け足した。


「ああ。それと、ジエリンスキ将軍ですね」


 マチカは自分の夫の名前を出されて怒るどころか、嬉しそうに狐のような耳を動かした。


「そうそウ。一番手がかかるのよネ!」


 2人の女は笑い合った。マチカのお付きの獣人アヴァル達は、何とも言えぬ表情でそれを観ている。


 マチカの機嫌が良い内にこの場を去ろうと、レギナは手綱を握り直した。


「じゃあ、私はこれで…」馬を進めようとした時、マチカは言った。


「ところで、さっきからするこの匂いはなニ?」


 レギナの動きが止まった。不審に思われることがないよう、森人フェルドの女は表情を崩さず、答えた。


「匂い。なんのことです?」

「荷台から乾いた石と土の匂いがすル。帝国の匂いじゃなイ」


「ああ、獣人アヴァルの国に長くいたから」

「故郷の匂いでもなイ。これは、そウ。王国の荒野の匂イ。王国の製品に付いてた匂いとおんなジ」


 獣人アヴァルは鼻が効くことを、レギナはすっかり失念していた。


 マチカはまだ笑っている。だがどうみても、先程までの打ち解けた笑みではなかった。


「汗の匂いもすル。ああ、王国人ネ」


 マチカがそう言うと、護衛の獣人アヴァル達が剣を抜いた。マチカは別にそれを制止するでもなく、レギナの返答を待っている。


 森人フェルドの女は観念し、全てを白状した。聞き終わった後、マチカは表情そのままに、言った。


「なあんダ、宰相の命令カ」


 獣人アヴァルの女はそこでようやく、部下達に武器をしまうよう命じた。


「貴方も苦労しているネ」

「ええ、まあ」


 レギナは何とか笑みを浮かべた。代金は受け取ってはいるが、割に合わないと思った。


 馬車が再び進み始め、車内のアーチー達は胸を撫で下ろした。


「もう顔を出しても良いわよ。マチカ様にはバレちゃったし」


 言いながら、レギナは溜息を吐いた。


 アーチーは堪えきれず、恐る恐る、後ろの幌の隙間から外を覗いた。


 去り行く馬車を、6人の馬に乗った獣人アヴァルが見つめていた。その先頭には片手に鷹を乗せた髪の長い女が乗っている。


 青年は眼を凝らし、女の顔を見ようとした。眼がベティ・デイヴィスのように大きい。


 遠目でよくは見えなかったが、女の顔は無表情に観える。


(ヤバい、なんてこった)アーチーは驚き、眼を見張った。


(メチャクチャ美人だ…!)




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