異端の少女

 帆を張れば、小舟でも中々立派なものだった。小さな身体で、ロタハは懸命に帆を操っている。


「ええから、お客様は休んでて」手伝おうとするジュードを制止し、少女は専ら1人で操船を行った。


 人は乗せるが、船を他人に任せるつもりはなかった。何故ならこの船は、ロタハの両親が自分に残した形見の品だったからである。


 騎士団と軍の船が追ってくることは無かった。連中は恐らく、魔物の出没を恐れていた。浜を離れて幾らか経ち、ジュードとパラティアはその事を思い出して冷静になったが、幸運にも、魔物と遭遇することは無かった。


「ええ風や、昼頃には着けるかも」


 ロタハの一言に、疲れた2人を少しだけ元気づけられた。既に太陽は姿を現していた。このまま行けば、順調に東側に着く。後は…。


 パラティアは船尾で縮こまっている青年の背中を見遣った。アーチーは何時間もそうしていたのだ。


 これまで、自分のせいで他人が危険な目に遭うことは多々あった。だがその都度、自分は何とかそれを助けることが出来たの。


 自分のせいで他人に迷惑を掛けている。だが自分の力があれば、他人を救うことも出来る。この2つは絶妙なバランスで持って青年の精神を保っていた。


 だが数時間前、あの真夜中の浜で観た燃える十字架は、そんなアーチーにとてつもないショックを与えた。


(救えなかった)


 そんなコミックやアニメ、映画やドラマでしか観ないような悩みに、青年も苛まれていたのだ。


 青年にどんな声をかけてやるべきか、ジュードとパラティアには分からなかった。努力を怠った訳ではない。ただ何を言っても、今の彼には無意味なのだと分かっていたからだ。


 2人には負い目があった。それは彼を、無理やり自分達の理想に付き合わせている、ということだった。


「もう、疲れたよ」もしアーチーがそう言ったら、自分はどうする。ジュードはずっと、そのことばかり考えていた。


 だがもしそうなったら、自分はこう言うしかない。「主よ、どうか諦めないで下さい」なんて自分勝手な奴なのだ。ジュードはそう思った。


「元気出してや」そんなどんよりとした空気に、ロタハがメスを入れた。


「来訪者様、大丈夫や。神はあんた様を見捨てたりはせえへん。今は大変やけど、耐えればきっと良いことがある。ウチが証人や。大丈夫、大丈夫や。神様が付いてる。ウチ達もおる」


 アーチーは少女の顔を振り返った。若く健康的な小麦色の肌に、汗が光っていた。青年はそれを観て、少しばかりいつもの調子を思い出した。


「神様? 俺の神様はいないよ。少なくとも、この世界にはね」


「なに言うてんねん。あんた様をこの世界に送って下さったんは、神様やで。そりゃあ、あんた様のとは形がちゃうのと知らんけど、それでも神様や。私はずっと、その神様に祈っとった。どうか、貴方の使徒たる来訪者様に合わせて下さいって。で、会えた。神様のお陰や」


「神様、ですって?」パラティアが口を挟んだ。


「ロタハ。もしかしてあんた、グミル派なの…?」

「そうや。教団が言うところの、異端のグミルや」


 少女はそう言うと、目をわざとらしく細めて、魔女のように手の指をひらひらと動かした。


「何だい、グミル派って?」アーチーが聞く。


「教派の1つです」とジュード。


「来訪教の教義には、来訪者は神そのもであると書かれています。神であり、全ての力の根源であり、救世主である、と。ですがグミル派は違う。グミル派の教義では、来訪者はあくまで神の福音を人に知らせる使者であり、神そのものではありません」


「普遍的な教団にとって、彼らは異端よ」今度はパラティア。


「ケサル・マルタはグミル派の中心地だった。それで3年前、教団は街とその周辺に軍を送った。全てを燃やすために…」


 パラティアは痛みや悲しみに耐えるように眼を瞑ると、何かを呟いた。祈りの言葉だった。


「ご両親は、その時に?」

「うん」と元気よくロタハ。「絶対に信仰を捨てなかった。だから殺されたんや」


「そう、そう。よく頑張ったわね。偉いわ」


 ロタハは得意げに、その顔に笑みを浮かべた。心の痛みを精一杯隠すため、少女はそうした。


「だから大丈夫や、来訪者様。バカで怠け者で、悪人のウチでも神様は見捨てたりしなかった。だから、来訪者様も大丈夫や。辛いことも悲しいことにもきっと理由がある。あとでそれが分かる。それまでの辛抱や」


 いつの間にやら、アーチーは少女に魅せられていた。これではどちらが救世主か分からない。青年は縋るように言った。


「でも、良いのかい? 俺はきっと、聖書にあるような立派な奴にはなれないよ」

「構わへんやん。聖書に書いてるようには生きられへんよ。でも大丈夫。ウチが証人や」


「人を1人救えもしないような奴が、世界を救えるかな?」

「あの人達は残念やった。でも、あの人達は自分でその道を選んだんや。そういう道もある。大丈夫や、大丈夫。少しずつ、ウチ達と一緒に立派になろうや。な、来訪者様?」


 アーチーは不思議と、自分の心の波が静かになっていくのを感じた。十字架は今でも頭の中で燃えている。だが少しずつ、痛みは確かに柔らかくなったようだった。


「ありがとう。ロタハ」

「こっちの台詞やわ、来訪者様」


「その、来訪者様ってのはよしてくれないかい? アーチーで良いよ」

「良いんですか? 失礼やない?」


「全然良いよ。俺を助けると思ってさ、そうしてよ」


「良いのか?」ジュードがパラティアに耳打ちをした。


「アーチーは異端の教えを吹き込まれているようだ。お前の理想から、また一歩離れたようだが」その声色には、明らかに可笑しさが含まれていた。


「しょうがないじゃない。私達は、あいつを元通りにする術を知らなかったんだもの」


 不服そうに少女はそう言ったが、内実ホッとしていた。アーチーはバカで軽薄な小心者だったが、それでも深い絶望の淵にいるよりは遥かに良かった。


 それは確かにパラティアが小さい頃より憧れていた理想の来訪者像とは程遠かったが、これも悪くはないと、少女は思い始めていたのである。


 風は以前強く吹いていた。ロタハが帆を器用に操ると、船はさらに速さを増した。アーチーはようやく顔を上げ、舳先を見遣った。


 船は聳え立つ山を左手に、滑るように進んでいた。山が次第に階段のように小さくなって行くと、今度は緑溢れる大地が姿を現した。それは荒野に囲まれたラヴァンテとは正反対の光景だった。


「あれがカルパティアの大地」ロタハが言う。


「ウチらの敵さんの皇帝が治める、帝国や」



 

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