温泉神殿

 ジュードにそれと言われるまで、アーチーはそこが温泉であることが分からなかった。石造りの巨大で堅牢な柱に支えられた玄関など、どう見ても、ギリシアの神殿とかニューヨークの公共図書館にしか見えなかった。


「ここは元々異教の神を崇める神殿だったので」困惑する青年に、ジュードは言う。


 この街の始まりは、帝国軍とやらの駐屯地にあるらしい。軍隊が居るところには良からぬ店や商売をする人間が集まるので、荒野の人々は背徳の街と忌み嫌っていた。


 背徳の街と言われて、アーチーはベガスを思い浮かべた。リュウノスケという来訪者がこの街を陥落させた時、そうした悪習は取り払われた。


 荒野の民は当然、帝国人の神々を祀るこの神殿(何せ街のど真ん中にあるのだから、さぞ鬱陶しかったに違いない)も壊そうとした。


 だがこの神殿の地下から温泉が湧き出ることを知ったリュウノスケは荒野の民達を説得し、異教的なモチーフを全て取払い、若干の改造を施して建物を残したのだと言う。


 (そりゃあそうだ)アーチーは納得した。(日本人は温泉好きだ。連中車で走っている時も、近くに温泉があると知れば車を止め、服を脱いでそれに飛び込むんだ。よくは知らないけど)


「この神殿は、王国に遺された数少ない異教的な建築物の一つです。王都の連中、特に教団は面白くないでしょうが、建物に来訪者の手が加えられていため、容易に手は出せません。それは最早、信仰の対象であるからです。自分で言うのも何ですが、王国の民は勤勉で禁欲的です。ですが、これぐらいの快楽があっても良い筈。神は生きることをこそ称賛しているのですから。おっ、なかなかどうして…、うーん…」


 入浴後、寝台の上で横になり、背中の垢を擦られながら、そうやってジュードは青年に街の歴史を教えてくれた。


(なにが、なかなかどうして、だよ)


 腑抜けていた。折角のジェイミー・フォックス似のハンサムが台無しだった。だがその余りにも気持ちよさそうな顔に、青年は唾を飲み込んだ。


 暫くして、垢も精根も快感の内に削ぎ落とされたアーチーは、ふらふらと千鳥足で中庭に向かった。


 抜き抜けの中庭は休憩所になっていて、入浴を終えた半裸の男達が、それぞれの場所に集まり、談義に花を咲かせていた。


「アーチー、どうでした?」


 長椅子に1人座っていたジュードは青年に気が付くと、にっこりと微笑んだ。その濃い褐色の肌は、汗で黄金色に光っていた。


「凄かった…」

 

 男から見ても、ジュードの鍛え抜かれた鋼のような体は、見惚れるだけの価値があった。青年がぼんやりとそれを見つめていると、困ったように相手が言う。


「少しのぼせたのですね、ここでお待ちを。飲み物と、軽い食事を持って来させます。そうして休んでから、宿に戻りましょう。いいですね?」


「す、好きにしてくれ」火照った顔で、アーチーは答えた…。


    ◇

 

 アーチー達が宿に戻った時、パラティアはもう帰っていて、レダおばさんの手伝いをしていた。「今夜はご馳走よ」そう言って、おばさんは自分の肩幅よりも大きい魚を尻尾から持ち上げた。


 その日の夕食は、この世界に来て一番の美味だった。何より、きちんとした屋根の下で食べられることが嬉しかった。


 青年は破顔しながら、次から次へと食べ物を口に運んでいた。(ああ、美味しい。生きていて良かった)


「何よ、ニヤニヤして。気が緩んでる。温泉なんて行かせなければ良かった」


 案の定、歩く小言吐きのパラティアが突っかかって来た。


(何だよ、君だって肌と髪はツヤツヤで、血色は良いし、より魅力的になったじゃないか)


 今度こそ、そう言い返してやる。青年が身構えた時だった。


「良いじゃないか。アーチー様はこの世界に来てまだ日が浅い上、慣れぬ魔術を使い、目に見えてお疲れのようだった。このぐらいの休息は必要だ。人は厳しさだけでは生きていけない。パラティア、お前だって随分と疲れが取れたように見えるぞ。ご機嫌だな」

 

 (え、これでご機嫌なのか…)アーチーはまだまだ、観察眼が足りないようだった。だが、どうして見分ける事が出来るのだろう。眼か、それとも口元。仕草…?


「人前に素肌を晒して、疲れが取れる訳ないでしょう。あーあ、くたびれちゃった」


 やはり分からなかった。これの何処がご機嫌なのか。だが兎にも角にも、アーチーはこの世界に来て、初めてぐっすり眠れそうな予感に心が躍っていた。


 アメリカ合衆国カリフォルニア州フレズノ市、Y通り1129番地の我が家のオンボロベットには流石に敵わないが、それでもレダおばさんの用意しくれた寝床は心地が良かった。


 だが中々寝付けない。それは眼を瞑るたび、あの見事なジュードの肉体美が瞼の裏に映るからだった。取り払おうとする度、より鮮明になって戻ってきた。


 (よせ、アーチー。お前にはカレンという立派な彼女がいるじゃないか。お前は必ずカリフォルニアの片田舎に生きて帰り、あの娘と添い遂げるんだぞ!)


 しかし、カレンはジュードみたいに筋骨隆々ではないかも知れない。だが、だからと言って。しかし、うーん…。


    ◇


「早く起きなさい。いつまで寝てるのよ、この馬鹿」


 聞き馴染みのある罵倒に、アーチーは薄目を開けた。辺りは文字通り真っ暗だった。まだ夜中なのだ。


「何だい。おしっこに行きたいのかい?」

 

 青年は寝ぼけて、末の妹のガブリエラにするような口の聞き方をしてしまった。バチン! 当然返ってきたのは平手打ちだった。


(オーケー、オーケー。今のは完全に俺が悪かったよ。本当にごめん…)


「アーチー、お休みの所申し訳ありません。ですが急いで下さい。敵が街に入ったとの知らせがありました。今すぐに、ここを出なければなりません」


 暗闇の中から、ジュードの声がした。


「灯りをつけないのかい?」

「外に漏れれば怪しまれます。さあ、急いで」


「敵? またあの騎士達かい?」

「いえ、魔術使いのようです。数は多くは無いようですが」


「魔術使い? 魔術なら俺が盾になって防げば良いじゃないか。来訪者に魔術は効かないんだろう?」


 アーチーは温泉に入り、美味しいものを食べたせいか、気を大きくしていた。ビビる事は無かった。自分が盾になっている間に、ジュードとパラティアが敵を倒せばいい。無敵の3人だ。


「良い? よく聞くのよ」語気強く、パラティアが言う。


「ただの魔術使いじゃない、護教騎士団よ。奴らは魔術を使えるだけじゃない。騎士のように甲冑を身にまとい、剣を振るうことも出来るのよ。気力も体力も桁違い。魔術を弾いたとして、次の瞬間、あんたの首は身体を離れて、宙を舞ってるわ。だから、さっさと逃げるのよこの間抜け!」


 

「ワオ、へえ」青年は感嘆の声を上げた。(魔術を弾いても、次には剣が飛んで来るのか。そりゃあ駄目だ、逃げよう)



 

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