正しいこと

「来訪者様、あらゆる不正を打ち砕く者、天がもたらした光、全ての幸福の源、我が主よ。どうかこの娘をお許し下さい。決して悪気があったのではないのです。慈悲深き主よ、どうか、お願いです。パラティア、お前も何とか言え」


「…申し訳無かったでございましたわ」


 2人は両膝を地面に付き、頭を垂れた。どうやらマフィアでは無かったらしい。パラティアの奇妙な敬語を、アーチーはポカンと口を開けて聞いていた。

 

 何か大きな勘違いがあるらしかった。来訪者とは、一体何のことなのか? 慈悲深き、我が主? そんな事を言う相手なんて、青年には1人しか知らなかった。聖書の主人公である。


「俺はアーチー、アーチー・アダム。何か勘違いしてない? フレズノから来たんだ。分かる? アメリカのカリフォルニアにある街だよ。ねえ、ここって何処なんだい?」


「ここはネゼラの村です。主よ」姿勢を変えずに、ウィルが答える。


「ネゼラ? ネゼラって何処だい?」

「王都テル・イェルムより、南西に5日程です。主よ」


「ええと、テル・イェルムっていうのは、メキシコの何処なんだい?」

「ここはラヴァンテの国です。主よ」


 アーチーの皺一つない綺麗な脳はフリーズ寸前だった。ラヴァンテとは? メキシコの別名だろうか。王都とは? メキシコが王政だったとは。


(英王室の親戚かなんかだろうか)ようやく青年の脳が導き出した結論は、それだけだった。


「あのねえ、ここはあんたにとって異世界なのよ。アメリカとかメキシコなんて、おかしな響きの国はこの世界にないの。ここはラヴァンテのネゼラ。それ以外の何物でもない。良い加減、現状を理解して」


 メキシコ娘の余りの口の悪さに、アーチーは思わず眼を白黒させた。異世界、異世界とは一体何なのか。


 アメリカやメキシコが存在しないとは? 少女の言っている意味が分からず、遂に青年の脳はガーと音を立てて、思考するのをやめてしまった。


「口に気をつけろ、パラティア。お前は来訪者の前に立っているのだぞ!」


「だって余りに間抜けじゃない。異世界って聞いてもただポカンと口を開けているだけ。聖書にはこう書いてあったのに。『来訪者、この地が異世界である事を知り、喜びの涙で足元を濡らす』って。全然違うじゃない」


「ねえ、さっきから訳が分からないよ。君たちの言う、異世界って何なのさ」業を煮やしたアーチーがそう言おうとした時だった。


 2人の小さな子供達が息を切らしながら走ってきて、ウィルの腰を叩いた。


「ジュード、ジュード。兵隊が来るよ、3人!」

 

 ウィルはキッと、丘の向こうを見遣った。微かに、こちらに走ってくる馬の足音が聞こえるような気がした。


「皆に隠れるよう伝えてくれ」ウィルはそう言って子供達を走らせると、パラティナに向き直った。


「我々も隠れよう。村長の家の屋上なら場所もあるだろう」


 村の家は全て、外から階段で屋上に登れるようになっていた。一体何から隠れるのか、何故隠れるのか、説明もないままに、アーチーは屋上に連れて行かれ、そこで寝そべるように言われた。


 そのままでも十分に熱いのに関わらず、ウィルは上から大きな布を被せた。まるでサウナ状態だ。


「一体何事? 警察でも来たの?」

「近くに駐屯している軍です。まだ分からないが、貴方がここにいることがバレたのかもしれない」


「軍が俺を探しに来た!」思わず叫んだアーチーの肘を、隣にいたパラティアが小突いた。


 (一体俺が何をしたって言うんだ。しかも、軍だって? メキシコ人がそんなにアメリカ人を恨んでいるとは知らなかった)


 丘の稜線から3人の騎兵が現れた。


(知らなかった、メキシコ軍って十字軍みたいな服を着ているのか)


 彼らは村の真ん中まで降りて来ると、馬に乗ったまま、集落の中を見回した。


「村長はいるか!」その内の1人が怒鳴ると、恐る恐る、あの老人が前に歩み出た。


「はい、私でございます」

「怪しい者がこの辺りを彷徨いているという報告があった」


「はい」

「何か知らぬか? よもや匿ってはいないだろうな? 隠し立てをすると、容赦はせんぞ」


「私共は、そのような者は見ておりません」

 

(ムカつく連中だ)馬から降りようともせず、人を見下したような態度を取る兵士達に、アーチーは毒付いた。


 だが、困った。奴らの目的はやはり自分のことらしい。そしてどうやら、ここの人達は自分の事を庇ってくれているらしい。


 何が起こっているのかはさっぱり分からなかったが、彼らは悪い人々では無いことが何となく分かってきた。マフィアなんかでは無かったのだ。


 だが同時に、ここの人達に迷惑をかけることを考えると、アーチーの心が痛んだ。大事にならなければ良いが。


「本当か?」


「はい、など見てはおりません」


 兵士はジッと、老人の顔を見つめた。だが結局はそれを信じたようで、踵を返そうとした。アーチーがホッと胸を撫で下ろそうとした、その時だった。


「こいつは嘘をついている」別の兵士が言った。


「村長は見ていないと言っているぞ」とさっきの兵士。


「馬鹿が。見ろ、足が震えている。嘘をついている証拠だ。このジジイは、何か隠している」


 その兵士は下馬すると、村長に近づいた。


「貴様、俺を舐めているな」

「め、滅相もない。神に誓って、私は嘘を申しません」


 兵士が相手の顔をぶつと、老人はあっけなく地面に倒れた。倒れた者に、兵士は蹴りまで入れた。


「よせ。そんな事をして何になる!」


「見せしめだ、馬鹿が。農民なんぞに騎士が舐められてどうする」


 仲間の制止も聞かず暴力を続ける兵士の足元で、老人はただ「主よ、主よ…」呻いた。


 不意に、アーチーは立ちあがろうとした。何ができるわけも無かった。が、何かをしなければならないと思ったのだ。


『正しいことをしろ』


 それは数少ない(少なくともアーチーはそう思っていた)アメリカ人の長所だった。血気にはやる青年の肩を、ウィルの褐色の手が掴んだ。


「大丈夫です。心配ない」


(そうだ、落ち着け)青年は自分に言い聞かせた。(落ち着くんだ。お前に何が出来る。お前なんかに、一体何が出来るんだ…)


 そんな時だった。ある家の扉が勢いよく開くと、小さな子供が風のように飛び出して来た。家の中からは、母親らしき女の悲鳴が聞こえる。


「クソ野郎、村長をいじめるな!」


 子供は村長を嬲る兵士に飛び掛かった。兵士は面倒くさそうに振り向くと、今度はその子に標的を変えたのだった。


「生意気なガキめ」

 

 いとも簡単に兵士は子供の首を掴み、中空に持ち上げた。(どうしよう、どうすれば良い。ああ神様!)アーチーはウィルの顔を見た。


 ウィルは頭を横に振り、無言で言った。(ダメです。行ってはいけない)


 アーチーは唾を飲み込み、目の前の光景を見守った。(大丈夫、相手は子供だ。子供に手荒な真似をする筈がない…)


 だがあろうことか、兵士はゴミを捨てるかのように、子供を井戸に向かって投げたのである。


 その子は井戸の中には落ちなかった。代わりに、縁に頭を強打したのである。ゴンという鈍い音がした後、子供はだらんと手足を伸ばして、動かなくなった。


 一体、これ以上の何が必要だろう? アーチーは布を吹き飛ばして立ち上がると、階段を駆け下りた。そして集落の中心に立つと、目の前にいる連中に震える声で言った。


「なんてことしやがるんだ! お前達の標的は俺だろう?」


 兵士達は呆けて、珍妙な青年の事を見ていた。だが何が起きたのかを理解すると、3人共剣を抜いた。


 (ああ、死ぬな。でも子供を見殺しにして生きるよりはマシだ。死ぬのは死ぬほど怖い。けど、一瞬だ。そうでしょ、神様…?)


「こ、殺してみろ。でも簡単にはやられないぞ! 舐めるなよ、アメリカ人を舐めるなよ!」


 怒りとアドレナリンで、青年の体が熱くなった。比喩ではなく、本当に熱かった。当然だった。何故なら、指の先から火を吹き出しているからだ。


「ワーオ、ライターみたいだ。凄いなあ」


 


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