第20話 愛

 七、八発殴った頃には人混みが周囲にできざわめきが広がり始めていた。淑枝としえが九発目の拳を凪沙なぎさに打ち込もうとした時、その腕の動きが止まる。淑枝の腕を誰かが掴んでいるのだ。淑枝よりはるかに背が高く筋肉質のその青年は黒いシャツを着たやせ細った青年を従え不敵に笑った。


「どんなご事情かは分かりませんが衆人環視の下で暴力はいけません。立派な暴行罪と傷害罪ですよ」


 淑枝が血走った眼でその男、桐吾とうごを睨む。


「われらには関係ない」


「いえ、実はちょっとした知り合いなんです。袖触れあったも何かの縁。初めは事の成り行きを見守ろうと思っていただけなのですが、さすがに見ていられませんでね」


 その時愛玲奈あれな凪沙なぎさの胸に飛び込んでくる。


「凪沙っ、凪沙凪沙凪沙っ!」


 凪沙も愛玲奈あれなを硬く抱き締める。周囲が更にどよめく。


「ここでは人目があります。人のこないところへ案内しましょう」


 桐吾たちは三人を寒風吹きすさぶ送迎デッキへ連れて行った。曇天模様を突いて旅客機が轟音を立て離着陸を繰り返している。


 この寒さでは送迎デッキにほとんど人などいない。この空港の屋上の隅で愛玲奈あれなを抱き締める凪沙は母と対した。


「見ての通りわたし達は愛し合っている。だから鷺宮さぎみやとの縁談には乗れない」


 愛玲奈あれなはまだ泣いてうわ言のように誰へともなく謝るばかりだった。


「ごめんなさい。ごめんなさい私…… やっぱり私、ごめんなさい……」


 桐吾たちは三人からはるか遠く離れた場所で飛行機の離発着を眺めているばかりだった。


「それでこれからわれらは何をするつもりやか」


 憮然とした表情の淑枝に青あざだらけの凪沙が答える。


「ここで二人で暮らす。死ぬまで」


「死ぬまで…… またそがなんを言うがかえ……」


 死という言葉に反応した淑枝は自然と愛玲奈を見る。藤峯ふじみね家にようやく授かったひとり娘の愛玲奈あれなは病弱で幾度となく死線を彷徨っていたことは村中の誰でも知っていることだった。

 淑枝は凪沙をひと睨みする。


「どいてこがなんになったがかえ」


「初めて会ったのが中一で、最初わたしは愛玲奈のことが嫌いだった。散々悪態もついた。だけど何度も面倒を見ているうちに……」


「情が移ったがか」


「うん…… そう……」


 寒さに震えすすり泣く愛玲奈あれなを抱き締め直して凪沙はぼそぼそと答える。


「元から女のことが好きやったがか」


「女も男も好きになったことはない。愛玲奈あれなだけが好きだった。中一の頃からずっと……」


 愛玲奈あれなを抱き寄せる凪沙の長くてつやのある髪が風に流される。


「てことはもう七、八年になるがか……」


 淑枝は深い溜息を吐いた。顔に疲労の色が浮かぶ。


「あんな学校、高い金払うて行かせんとよかったわ」


 二人の通った中高一貫校は地元の名門で、金持ちの藤峯家ならいざ知らず、凪沙のような貧しい家庭では学費の捻出に相当の苦労があった。


 淑枝は凪沙に言葉を投げつけた。


「愛し合うちゅうがかえ」


 凪沙は力強く即答した。


「愛してる」


 続いて愛玲奈あれなも鼻をすすりながら答えた。


「愛してます。心から」


 疲れ切った表情の淑枝は二人にくるりと背を向ける。そして誰に聞かせるでも無く呟いた。


「われの言う事も判る。われが言う通り藤峯の旦那さんの人となりは必ずしもえい言えるもんじゃない。しかも肝心な時に大事な山林に盛り土をしたり、田んぼに要らん客土をしてわやにもしたりした。あの頃から藤峯は傾き始めとった。その責は確かにお嬢さんでのうて旦那さんの取るべきものだ言うがは言いようによちゃあ確かに理屈は通る」


 淑枝は俯く。


◆次回 最終話 死

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