第2話

 そう言って瞳を覗き込む桜士郎。


 なんて酔狂な。


「馬鹿にするな!」


「それは無理だ。逃げたところで必ず捕まる。見世に戻れば鎗手やりての折檻が待っている。なのにこんな無茶な事を」


「御侍さんには関係ない」


「知ってるとは思うが、この塀を越えて降りれば釘を踏み抜く。橋は跳ね上げられている。越えるのは無理だ。御前、どうせやけっぱちで死んでも構わないと思っているんだろう。それを馬鹿だと言わずして何と言えばいい?」


「死んで何が悪い」

「それもわからんのか、阿呆」

 言われてキッと睨む。


「御前、ただの禿じゃないだろ?」

「どうしてそう思う」

「歳はいくつだ」

「明日で十六」


「やっぱりな。普通十五にもなれば客を引いてるもんだ。しかし俺は御前が客を引いているのを見たことがない。何故か。それは御前が、ありったけの教育を受けて、ゆくゆくは太夫たゆうになることを見込まれた引き込み禿だからだろうが。今でこそ、そんなナリをしているが、普段見世では振袖に身を包み、太夫の傍で仕事を教わっているんだろう? よく見れば、千羅せんら太夫だゆう付きの振袖新造に似ているな。名は生乃しょうのと言ったか」


「……正体を、知っていて言っているんじゃないのか」


「バレたか」


「姐さんに言いつけるのか?」

「そんなことはしない」

「なんで」

「女には傷を作らせたくないからだ」


 よう言うわ。


 布団で散々女を傷物にしているくせに。


「それで、御前は何が不満なんだ。振袖新造なら最高の教育が受けられる。水揚げだって上客だろう。それがどれだけ恵まれていることか、同朋を見てわからんのか? 普通の禿はろくな教育も受けず男にむさぼられるだけ、ウ……ッ!」


 侍の顔が土で汚れた。生乃の目には涙がたまっている。今度こそ首に刃が飛んでくると思い、目をつむった。ほろりと涙がこぼれ落ちる。


「おーこわ。天音屋の振袖新造はとんだじゃじゃ馬だな」


 恐る恐る目を開くと、桜士郎はイキって刀を抜くどころか、ぷっぷっと口に入った土を吐きながら呆れた声を漏らす。


「だが、気分を害したなら済まない」


 不意に謝られて生乃は怯んだ。

 人に謝られるのは初めてだった。

 これまで一生に一度も、誰かに謝られたことなどなかった。


「いや、おれも、ここまでするつもりじゃなかった……」


 ふと、桜士郎が微笑む。


「なあ、生乃。どうせ見世に連れ戻されるのなら、俺に送らせてもらえないか。さっきの詫びだ」


 詫び?

 今のはおれが悪かったのに。

 いくら腹が立ったからって、顔に泥を投げつけることあらへんかったのに。


「俺が適当な言い訳をすれば、少しは折檻も和らぐだろう」


 そやろか。何を言っても無駄や。この身形を見れば、何をしようとしていたのかは一目瞭然。


「そう思い詰めた顔をするな。俺に任せておけ」







 桜士郎様


 あのとき桜士郎様は、わっちに綺麗な着物を買い与え、見世に着くなり鎗手やりてを呼ぶ楼主ろうしゅを止めて、こう言ってくださいましたね。


『勝手に連れ出して悪かった。生乃と真夜中の散歩を楽しませてもらったよ。代金は払おう』


 結局、あとで白状させられ、酷い目に遭いました。

 でも、ちっとも不幸とは思いませんでした。


 帰り道に貴方様と見た夜桜が、とても美しかったから。

 楽しかったと、偽りでも、そう言ってくださったから。



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桜夜道 あしわらん @ashiwaran

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