桜夜道

あしわらん

第1話 

「そんな処で何してやがる」


 男の声が背中を刺し、ビクついて手を滑らせた。

 下駄が脱げ、膝小僧を打ち、顔面が湿った板にぶち当たる。薄い着物の破ける音がした。と、ほぼ同時に固い黒土に尻もちをつき、背骨がズンと直に腰を突き刺す。悶絶して息もできない。


 塀を乗り越えてお歯黒どぶに掛かる橋を渡ろうとしたのだが、見事に失敗。


「おいおい、勘弁してくれや。今のは俺のせいじゃねえぞ。そんなとこ登ろうとしていた御前が悪い」


 男の言うことも聞かず、よわい十六の娘は片方の手を細い腰に当て、もう片方は地面につき這う這うの体で逃げようとする。が、それを阻止するかのように、ザッと樺の下駄が踏み下ろされた。少し違えば指を踏み付けられていたかもしれない。


「ひぃ……っ!」


 娘は飛びのきまた尻もちをつく。

 上等な下駄が再び詰め寄り、上から粗暴な声が降る。


「ひぃってなんだ、ああ? 俺は化け物か?」


 黒い番傘が舞い飛んで、娘は男に顎をつかまれ、クイと上を向かされる。


「あ、ああ、あ……」


 舌を抜かれたように言葉を失いながら、自分を覗き込む顔に不意に吸い込まれそうになる。


 乱暴な口調の似合わぬ、漆黒の瞳と柳眉の優しいかんばせ。立派な着物、腰に大小二本の刀。何処ぞの御偉い御侍さんか。


 娘は一瞬この男に見惚れた自分にぞわりと悪寒を覚えた。それを武者震いで振り払う。


 おれは姐さんたちとは違う――。


 奥歯をギリッと噛みしめる。


 今更何をびびっとんのや。死ぬ覚悟で見世を抜け出し、お歯黒どぶまで来たんちゃうん。ここで切られたところで、その方が楽ってもんやないの。


「ん? 御前、どっかで見たことがある顔だな」


 と、男は見世の通りから連れに呼ばれ、そちらを向く。

桜士郎おうしろう、はよう来い、置いて行くぞ」

「すまん、悪いが用が出来た。先に行っててくれ」


 侍の右手が動く。


  切られる――!


 反射的にギュッと頭を抱え、膝を縮めて身を固くした。


  ポン。


 降ってきたのは刀ではなかった。

 拳を己の平手に打つ音。


「その着物、天音あまね屋の禿かむろか。なんだ、こんな真夜中に脱走か?」


「なんや、御侍さん、可笑しなことを。真夜中なんて何処にあるん?」


 恐る恐る体を開きながら、精いっぱい虚勢を張る。


「成程、言われてみれば、何処だろうな」


 深夜だというのにこの街は昼よりも明るい――。見世先の赤い提灯、格子の奥に灯る明かり、絢爛な着物を纏った遊女。そして小判と金糸の刺繡で飾られた布団。煌びやかなものすべてが、この街に巣くう闇を掻き消してしまう。


 おれは嫌だ。こんな処にはいたくない。おれは嫌だ。


 桜士郎はあたりを見回して夜を探すような素振りをする。そしてかぶりを振ると、娘に着物が触れ合う程近付き、黒目がちな瞳を覗き込む。


「この街にはなさそうだ。しかし、この中にはありそうだな」

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